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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

空切りトンボ

主人公は一匹のトンボ。


 ようやく空を飛べるようになった。

 今までは見上げることしかできなかった空が、今はこの手の中にあった。

 僕は、成長したのだ。

 ヤゴからトンボへ。

 水中という閉じた世界から飛び出した解放感。

 大空を縦横無尽に飛翔する爽快感。

 今ならなんでもできる気がする。

 全能感。

 僕は今、幸福で満たされていた。

 それは抑圧されていた反動なのかもしれない。

 長かった幼虫時代。

 あの頃は辛かった。

 何度も危険な目にあった。

 けれどもそのたび、いつの日かトンボになることを夢見て頑張ってきたんだ。

 晴れてトンボになった今、僕は何者からも解き放たれてようやく自分を手に入れた気がした。



 ある時、メスのトンボに出会った。

「あなたのはばたき、とっても素敵よ」

 熱っぽい瞳で言われた。

 面映ゆくはあったが、嬉しかった。

 そしてまたある時、別のメスにこう言われた。

「あなたすごく速いのね。それに狩りも上手だわ」

 妙に接近して言う。

 そのメスの目には恋の色が見てとれた。

 そんなことが幾度かあった。

 やがて思い至る。

 どうやら僕はモテるらしい。

 それからというもの、日に日に僕のまわりにはメスのトンボが寄ってくるようになり、そのつど僕を褒めちぎっていくのだった。

 当然、悪い気はしない。というより、純粋に嬉しかった。

 羽は僕の自慢になった。

 僕に速さを与えてくれる宝物。

 自慢の羽が衰えないよう、毎日鍛えた。

 もっと速く。さらに速く。どのオスにだって負けないように。

 いつしか僕は誰もが憧れるトンボになっていた。

 一番になったのだ。

 トンボの中で誰よりも速く飛べる。

 その事実は多くのメスを虜にするのに十分なものだった。

 他のオスより優れているという優越感。その優越感が胸にもたらす愉悦は、日々僕をみなぎらせ、明日へと進む糧となった。

 それから、もっともっと羽を鍛えた。

 その時から、 僕の頭にはある考えが住み着くようになっていた。

 僕は他の虫達とは違う。

 地を這うアリやバッタやダンゴムシ。

 あんなのは低俗で矮小で醜悪な虫達だ。

 空も飛べないような、価値のない連中。

 だが僕は違う。

 特別で優秀で有能。

 空を自由に飛翔できるこの僕はそういう存在なんだ、と。

 鍛え上げ、速さを会得するたび、この世界からそう認められていくような気がして、僕はますます鍛錬に励んだ。

 そんなある日。

 背の低い雑草のひとつに止まり、軽い休息をとっていた時のこと。

 僕の視界が、突如として闇に覆われた。

 一瞬、夜になったのかと錯覚する。

 しかし体の自由が利かないことに気づき、そうではないことを悟った。

 自分の身に一体何が起こったのか。

 体全体を闇によって圧迫されているかのような窮屈さ。

 その窮屈さに、身動きができないという状況が上乗せされている。

 今まで経験したことのない未知の状況が不安を呼び、僕は焦った。

 だが焦るのは良くない。それは僕がこの危険だらけの世界から学んだこと。

 その焦りを少しでも紛らわそうと、窮屈な暗闇の中、無我夢中でもがく。

 するとにわかに光が差し込み、視界が開けた。

 目に飛び込んできたのは見慣れた地上の光景。

 安堵する。

 だが。

 直後に激痛を感じた。

 背。自慢の羽が生えている場所。

 そこに、まるで雷に打たれたかのような鋭い痛みが走った。

 そのあまりの痛さに呻き、苦悶する。

 苦痛は焔のようにうねりをあげて僕を苛烈に責め立てた。

 やがて痛みは意識を凌駕し、僕は気絶した。

 


 目が覚めた。僕は地上の平べったい小さな石の上にいた。

 寝起きの胡乱な頭をゆっくりと整頓していく。

 そうだ。突然夜になったかと思ったら、急に明るくなって、ほっとしたのも束の間、背中に激痛を感じたんだ。

 あの痛みは何だったんだろう。

 そう思い、背中に目を向けて――愕然とした。

 ない。

 おかしい。絶対にあるはずなのに。

 目をこすり、もう一度確認した。

 ない。

 羽が、ない。

 僕の自慢の四枚羽。

 それがひとつ残らず綺麗さっぱりなくなっていた。

 どうして。

 僕はパニックに陥った。錯乱することはこの自然界を生きていく上で絶対に犯してはならないタブーのひとつ。だがそんな鉄則すら吹き飛ぶほど僕は混乱していた。

 どうして。なぜ。意味が分からない。なんで僕の羽が。

 随分と長いこと動転していた気がする。

 ようやく落ち着きを取り戻した頃には、空に星が瞬いていた。

 幸い、鳥に狙われることもなかったようだ。

 現状を認識するとともに、僕は悲嘆に暮れて、途方に暮れた。

 僕の自慢の羽が、なくなってしまった。

 まるで心に大きな穴が空いてしまったかのよう。

 悲しみはとめどなく溢れ、喪失感は強い絶望をもたらした。

 どこまでも悲しみの海に沈んでいたかった。

 悲嘆の海に沈んだまま、二度と浮上しない。

 たぶんそれは、とても気持ちが良いことだろう。

 立ち直るのには気力がいるから。立ち直るという選択を放棄すれば、永遠に楽なままだろう。

 だが僕は生きているのだ。こんなナリになってしまったが、まだ生きているのだ。悲しんでばかりなどいられない。

 それはこの世界を生きるものすべてに天が押しつけたルールだった。

 これからどうしよう。

 羽がなくなってしまったら獲物を狩ることもままならない。

 食糧調達をどうするかが当面の課題だった。

 ふいに腹の虫がなる。

 何か口にしなくては。

 このままでは餓死してしまう。

 食糧を求め、僕はこの地表という未知の世界に一歩踏み出した。

 


 あれから数日が経った。

 奇跡的に幾度かは獲物の死骸を見つけられはしたが、それもあともう何度続くか。

 それに、天敵の問題もある。

 飛べない今、鳥に狙われた日には間違いなく命を落とすだろう。

 未知なる敵だっているだろう。

 水中と空中なら既知だ。だが地表について僕は知識を持たない。

 この体で、果たして生きていけるのだろうか。

 不安が胸に去来する。

 だめだ。ネガティブになるな。ネガティブな思考は死期を早める。

 即座に頭を振って、食糧探しを再開した。

 ややすると、小さな木の枝に、かつて僕に付きまとうようにして擦り寄ってきていたメスのトンボを発見した。

 声をかけてみる。

 おーい。

「…………」

 聞こえなかったのかな。

 もう一度声をかけてみる。

 おーい。

「…………」

 あ。

 飛び去ってしまった。

 残念。

 もしかしたら食糧を分けてくれるかもしれないと期待していたのに。

 だがそんな僕の考えはほどなくして冷たい現実によって断ち切られることになる。

 半刻ほど経って、今度は別のメスを見つけた。

 見覚えのあるトンボだ。

 あのトンボとはよく会話をしていた。

 といっても、一方的に褒められることがほとんどだったけど。

 背の高い野草の上で羽を休めている彼女。

 その背中に声をかけた。

 おーい。

 僕の声を憶えていたのか、彼女は喜びを滲ませた顔で振り向いた。

 だが僕の姿を見た途端、彼女の顔からは温度が消え失せ、まるでゴミでも見るような顔つきになった。

「誰、あんた?」

 冷たい声。

 そのあまりの冷たさに一瞬たじろいだが、何かの間違いだと思い、再度話しかける。

 僕だよ。飛ぶのが一番速かった僕さ。

 期待を込めて、彼女を見つめた。

 しかし。

 彼女はちらと僕の背に視線をやって。

「悪いけど、私あんたみたいなのを相手にしてる暇ないから」

 吐き捨てるようにそう言って、彼女は飛び去った。

 思考が停止する。

 心が、体が、彼女の態度を拒絶していた。

 受け入れたくない現実が、僕の前に厳然と横たわっていた。

 僕の心は停滞した。

 やがて放心状態から回帰した時、さきほどの出来事を頭の中で整理して、確信に至った。

 ああ、僕は見捨てられたのか。

 彼女たちにとって、僕の価値はあの羽にしかなかったんだ。

 そう悟ると同時に、急速に体が冷えていくのを感じた。

 巨大な虚無感。

 足に力が入らず、立っていられなくなり、無様に尻もちをついた。

 やおら目じりが熱くなった。

 せきを切ったようにあふれだす感情。それは水滴となって地面に落ちる。

 滑稽だった。

 自分が皆にとって必要な存在であると思っていたことが。

 惨めだった。

 自分が今や何の役にも立たないただの不出来なトンボもどきであることが。

 何度も背中に目をやる。

 やはりそこに羽はない。

 羽。美しい四枚羽。それはトンボの存在証明。

 それを失ってしまったのだ。

 それが意味するところはただひとつ。


 僕はもう、トンボじゃない。


 涙の水たまりに夕日が映りこむ。

 今日も何一つ変わらぬ夕焼けが、なぜだかやたらと目に痛かった。



 歩く。食糧を求めて。

 ひたすら歩き続ける。

 しかしそれももう限界が近づいてきていた。

 心身ともに疲弊しているのだ。

 当たり前だ。

 羽を失い、同族にも見捨てられ、胃の中は空っぽ。

 疲弊する原因がいやというほど揃っていた。

 一歩、また一歩と歩くたび、体は軋みをあげ、意識が飛びそうになる。

 やがて僕は限界を迎えた。

 頭から地面に伏せった。

 もう指先ひとつまともに動かせない。

 僕はこのまま死んでしまうのだろうか。

 考えるまでもない。

 間もなく僕は死ぬだろう。それがこの世界の掟。弱者は例外なく淘汰される。

 自分の死を悟った瞬間、猛烈に悔しくなった。

 僕の一生はこんな惨めな死を迎えるためにあったのか?

 もしそうだとしたら、そんな人生ってあるか?

 胸の奥からふつふつと煉獄のような怒りが湧いてくる。

 それは不条理への怒り。

 許せない。納得などできるはずがない。

 命が、こんなに軽んじられていいはずがない。

 いつか必ず、復讐してやる。

 これは世界に対する僕の怨嗟。

 不条理に殺されるこの身を憂いて吐きだされた呪詛。

 僕の恨みは際限なく膨張していくかのように思えた。

 だが。

 肉体は精神とは違い、時間に縛られていた。

 僕の体は死を受け入れ始めていた。

 視界が本格的に霞んでくる。

 意識が朦朧とする。

 くそ。こんなところで僕は終わるのか。

 憎悪に身を焦がしながら、僕の視界はゆっくりと暗転していった。



 物音を感じて、目が覚めた。

 暗い。

 首をぐるりとめぐらす。

 やはり暗くてよく見えない。

 だがここがどうやらほら穴のような空間であることは把握できた。

 向こうの方から光が漏れてきていることからもそれがわかる。

 いったい、ここはどこだろう。

 いや、そんなことよりも。

 僕は、生きているのか?

 試しに手を動かしてみる。動く。特に問題はないようだ。

 立ちあがろうとして、失敗した。

 やはり肉体は弱ったままのようだ。

 不意に物音がした。ついで向こうの方にある光が揺ぐ。

 何かがこちらにやってくる。

 敵?

 身構えようとしたが、満身創痍の肉体ではそれすらままならなかった。

 心だけ警戒態勢にして、やってくるその何かを待った。

「あら、目が覚めたのね」

 現れたのは一匹のバッタだった。

「あなたトンボでしょ? はじめ見た時はびっくりしたわ。羽がないんですもの」

 親しげな笑顔を浮かべてそんなことをいう。

 その邪気のない笑顔に毒気を抜かれた。

 どうやら敵ではなさそうだ。そう思い、警戒を解く。

 もしかして、僕をここに連れてきたのはあなたですか。

 そう尋ねると、

「その通りよ。はいこれ、少ないけど食糧。お腹すいてるでしょ?」

 そう言って小さな虫の死骸を渡された。

 ど、どうも。

 状況が飲み込めない。だがそんな心とは裏腹に、肉体は眼前の食糧を欲していた。

 おずおずと口をつける。味はイマイチだったが、久しぶりの食事は涙が出るほど体に染みた。

 咀嚼しながら目前のバッタを眺める。

 メスのバッタ。痩せぎすで、頬がこけている。見たところ成虫のようだ。

 それにしても彼女はどうして僕を助けるような真似を?

 不可解だった。トンボはバッタの天敵だ。

 そのトンボを助けるなんて。

 疑問がそのまま顔に出ていたのか、彼女はこう言った。

「どうして助けたのかって、不思議に思われるのも無理ないわよね。私にも正直理由はよくわからないの。強いてあげるなら……同じだったからかしら」

 同じ?

「そう。私の右の後ろ足、無くなってるのわかる?」

 言われて視線をやる。たしかにそこには右足がなかった。

「ニンゲンにやられたの。あなたもそう?」

 ニンゲン? はじめて聞く言葉だ。

「あなた、ニンゲンを知らないの?」

 頷く。

「ニンゲンっていうのはね、鳥なんかと同じで私たち昆虫の天敵なの。まあ鳥なんかとは比べ物にならないほど巨大で凶悪なんだけどね」

 ニンゲン。そんな恐ろしい存在が世界にはいたのか。

「ニンゲンの恐ろしいところはね、その行動に予測がつかないことなの」

 予測がつかない?

「そう。無軌道な暴力性を有した生き物。それがニンゲン」

 無軌道な暴力性。その言葉の意味は良く理解できなかったけれど、恐ろしさの片鱗みたいなものはひしひしと伝わってきた。

「でもニンゲンのもっとも恐ろしいところはね」

 物々しい雰囲気の彼女。

 彼女の顔には恐怖が映っていた。

 ゴクリと唾を飲み込み、彼女の言葉を待つ。

 やがて彼女は口を開いた。

「私たちを、命あるものとして見てくれないところなの」

 え? 命あるものとして見てくれない?

 彼女の言っていることが良く理解できなかった。

「わかるわ。いまあなたはこう思ったでしょう? ニンゲンだって命ある生き物じゃないの? って」

 頷く。彼女の言うとおりだった。命あるものなら、他の命あるものの存在を知覚できるはずだ。同じ命あるものなのに、ニンゲンにはそれがわからない?

「どうやらそうらしいの。彼らは命というものは理解できているようだけど、それが自分以外のもの、つまり他人の命となると途端に理解が遠くなる。そして数字に頼りはじめる」

 数字? 一とかニとかの数字?

「そう。なぜか彼らは命と数字を同列に扱いたがるの。命は常に一でしかないのに、彼らは命を数えたがる」

 恐ろしい、と思った。それは自分達とはかけ離れた価値観を持つ存在に出会ったときに生じる、底冷えするような恐怖。

「私の足を奪ったのもそのニンゲンなの……そして、私から足よりも大事なものを奪ったのもニンゲン……! ニンゲンだけは死んでも許せないわ……!」

 彼女の顔が憎しみに染まり、醜く歪んだ。

 ふと、彼女のセリフにおかしな部分があったことに気づく。

 足よりも大事なもの? それはいったい……。

「……と、ごめんなさい。あなたにこんなことをいってもしょうがないわよね」

 顔から憎悪を消した彼女が気まずそうにいう。

「ねえ、昔話、聞いてくれる?」

 彼女の表情が柔らかいものへと変化する。まるで昔を懐かしんでいるかのような、遠い表情だ。

 唐突ではあったが、さっきのニンゲンにまつわる話なのだろうと察して、僕は頷いた。

「私には姉妹がいたの。妹が一人。私はその妹ととても仲が良くてね。妹のことは大好きだったわ。妹も私をよく慕ってくれていた。どこへ行くのも一緒で、何をするのも一緒。成虫になってからもそれは変わらなかったわ」

 穏やかな口調と柔らかい表情から、彼女が本当に妹を愛していたことが窺える。

「でもね、ある日、私たちは捕まってしまったの。ニンゲンに」

 捕まった? 彼らはクモのように獲物を捕らえる習性があるのか?

「わからない。彼らの行動は本当に不可解なものが多いのよ。とにかく私たちは捕まった。そして次に気がついた時、私たちは奇妙な空間に閉じ込められていた」

 奇妙な空間?

「そう。見えない壁に四方を囲まれた小さな空間。そこには私と妹の他にも多くのバッタがいたわ」

 他にもバッタが?

「ええ。私たちが捕まるよりもずっと以前に捕まったバッタたち。彼らもいきなり捕まったそうなの。そして彼らがいうにはこれらはすべてニンゲンの仕業だっていうの。当時ニンゲンについて何も知らなかった私たちは彼らにニンゲンについていろいろと教えてもらったわ」

 彼女は続ける。

「ニンゲンが私たちをここに閉じ込めていること。ニンゲンが私たちを数で認識していること。そして恐ろしいことに、時折ニンゲンがこの中の何匹かをまたどこかへ連れ去ってしまうこと。連れ去られたバッタはニ度と戻ってこなかったということ。そういった話を聞いて、私たちは怯えたわ。妹と身を寄せ合って毎日のように震えていた」

 彼女は続ける。

「それでもしばらくは平穏だったのよ。状況の不透明さや狭い場所に閉じ込められたことからくるストレスは確かにあった。けれど食糧はいずこからか定期的に供給されていたし、私たちバッタはもともとの性質もあって特に仲間内で争うこともなかった。やがて妹からも怯えが消えていき、私たちはそこでの生活に慣れていった。窮屈ではあったけれど、妹も一緒だったし、それなりに楽しい日々を過ごせていたわ。けれどそんなある日、事件は起きた」

 事件?

「妹が、殺されたの」

 何だって?

 殺された? 誰に? まさか……!

「そう、ニンゲンによ」

 ニンゲン……。

「一瞬の出来事だったわ。私たちに大きな影が覆いかぶさって、何か大きなもの……たぶん、あれがニンゲンなんだろうけど……それが近づいてきたと思ったら、次の瞬間には妹の体はバラバラになっていた。それからはよく憶えていないわ。怒り狂った私は無我夢中でニンゲンに噛みつき、暴れた。気がついた時には私は足を一本失っていて、地上にいた」

 そんなことが……。

「昔話はこれでお終い。つまんない話に付き合ってくれてありがとう」

 いや、そんなこと。

 全力で首を横に降った。

「うふふ。トンボさん、優しいのね」

 そういって彼女は微笑んだ。

 儚げな彼女。

 触れたら、それだけで折れてしまいそうな。

 隻脚であることがその印象に拍車をかけている。

 その細くていびつな体は、いびつであるがゆえに不思議な色香を放っていた。

「なに?」

 僕の視線に気づいた彼女が微笑みを湛えたまま問いかけてくる。

 いや、なんとなく、親近感のようなものを感じてしまって。

 彼女はその言葉の意味を瞬時に理解し、

「あなたも? 私もそう。まだ自分でもよくわからないけれど、あなたを介抱しようと思ったのはたぶん、あなたに親近感を感じたからだわ」

 親近感。

 失われた羽。

 失われた足。

 本来存在するはずのものが、存在しないがゆえに結ばれた縁。

 おかしな話だ。

 でもそのおかしな結果は、僕に笑顔を与えてくれた。

 僕の笑顔を見た彼女がつられて笑う。

「うふふ。どうしたのいきなり。でもまあいっか。あなたの笑顔が見れたんだもの」

 とっても素敵よ、と。

 そういってくれた。

 僕はこの時ようやく気づいた。

 羽を失ってから一度も笑っていなかったことに。

 その日、その小さな空洞にはふたつの笑い声が夜遅くまで響いていた。



 それから僕と彼女の奇妙な共同生活がはじまった。

 どちらから言い出したことではない。

 なんとなくそうなった。

 僕は当初すぐに出ていくつもりだったのだが、彼女の好意に甘えているうちに、気がつけばこの殺風景なほら穴に寝泊まりするようになっていた。

 なにより、彼女の存在が大きかった。

 傷だらけの心に、彼女の好意はよく沁み込んだ。

 そうして彼女のことを好きになるまで、さほど時間はかからなかった。

 お互い欠けた者同士、通じる部分もあったのかもしれない。

 僕たちはあっという間に愛し合うようになった。

 種族を越えた愛。

 体の造りからして違う僕らは肉体で愛し合うことはできない。

 そのかわりに、僕らは心で愛し合った。

 何度も何度も心を触れ合わせて、満たされた。

 だが現実とは往々にしてままならないものだ。

 僕らが愛し合うようになってから一か月が過ぎようとしていたころ、食糧が尽きた。

 お互いこんな体だ。まともに食糧をさがすことなんてできない。

 ましてやそれがニ匹分ともなると大変だ。

 僕たちは日に日に衰えていった。

「私、食糧をさがしにいくわ」

 唐突に発せられた言葉。彼女の顔を見る。そこには強い決意が見て取れた。

 食糧探索。その作業はいうまでもなくいままでに何度も試みていた。

 だがそうしてわかったのは、成果に比べてリスクの方が大きいということだけだった。

 天敵と遭遇する確率と、食糧を発見できる確率はほぼ同等。その上、探索のたびに僕らは消耗する。

 ジリ貧、というやつだった。

 僕は言った。

 だめだ。君ひとりでなんて、危険すぎる。

「じゃあ代案でもあるの?」

 問われて、答えに窮した。そんなものはもちろんない。

「私はあなたと出会えて本当に良かったと思ってる。だからこそ、私はこれ以上弱っていくあなたを見ていられないの」

 彼女の真剣な瞳が僕を見つめる。

「確かに今探索に行くのは危険だわ。でも、可能性があるのならそれに賭けてみたい。ここで動かないと私、あとできっと後悔するもの」

 彼女は本気だった。

 もしこのまま彼女が出て行って戻ってこなかったら?

 不安に胸が押しつぶされそうになる。

 強引にでも彼女を制止させられないかと考えてみたが、衰弱しきった体がそれを許さなかった。

「じゃあ、行ってくるわ」

 今にも倒れそうな体を引きずりながら出て行く彼女。

 僕は結局、何もできないまま彼女を見送ることになった。



 一人残された僕は、何をするでもなく彼女が帰ってくるのを待っていた。

 彼女が出て行ってからもうどれだけ経っただろうか。

 一日は経過していないはずだ。

 だが時間の感覚がひどく曖昧になっている。

 もう何日も経過したような気もすれば、まだ一時間も経っていないような気もする。

 ひとりとはこんなにも心もとないものなのか。

 ふと、ヤゴだった頃の自分を思い出す。

 何者とも交わらずただ黙々と生きていたヤゴの時代。

 ひとりで生きることになんの疑問も抱かず、ただ生きるために生きていた。

 ひとりであること。孤独であること。

 あのころは平気だった。

 かつて平気だったものが、平気でなくなるとはどういうことなのだろう。

 劣化なのか。だとすればそれは精神の劣化だ。

 精神の劣化。心の弱化。ならばその原因は?

 その答えを探すうちに、ある心当たりが浮かんだ。

 それは他者との接触。自分と他者が触れ合うことで生じる、心の交流だ。

 誰かと言葉を交わすたび、僕はどんどん弱くなっていったのかもしれない。

 では、バッタの彼女と出会わなければ良かったのか。

 いや、それはなんだか違う気がする。なぜなら。


 羽を失った僕には彼女が必要だから。


 ごく自然に、そう思った。

 なんだって……!?

 自分で考えておきながら、その考えにひどく驚いた。

 彼女は、僕にとって羽の代わりだったのか?

 僕の自慢の四枚羽。

 僕は無意識のうちに彼女をその代用品としていたのか?

 羽を失った悲しみを彼女で埋めようとしていたのか?

 彼女を愛することでその喪失感を誤魔化そうとしていたのか?

 彼女に語りかけていた愛の言葉は、自身の失われた羽に向けられたものだったのか?

 僕は自問する。

 だが、いくら考えても納得のいく答えは得られなかった。



 濁った意識。ぼやけた視界。

 彼女を待つうちに、気がつけば眠ってしまっていたようだ。

 傍らから声がした。

「おはよう。よく眠っていたみたいね」

 彼女だった。どうやら無事に帰ってこられたみたいだ。

「ねえ見て、ほら、こんなにたくさん手に入っちゃった」

 嬉々として掲げられた腕の中には大きな虫の死骸があった。

 彼女の背後にもたくさんの食糧が置いてあるのが目に入った。

 これだけあれば当分は食うのに困らないはずだ。

 その事実は喜ぶべきものだ。

 だというのに、僕は素直に喜べなかった。

 なぜなら不可解な点が多かったからだ。

 彼女はどうやってこれだけの虫を手に入れたのか。

 これだけの数、この短時間にどうやってここに運び入れたのか。

 他にも疑問点はあった。彼女の前足についた擦り傷、横腹に見えるあざ。そして、彼女の体から香ってくる、この不快な臭気。

 それらが気になったから、僕は喜べなかった。笑顔を浮かべることができなかった。

 本当にそうだろうか。

 不可解だから素直に喜べない?

 いや、それは嘘だ。僕が僕自身の本音を直視したくなくて、都合のいい建前を用意しただけだ。

 本当の喜べない理由。それは。

『僕は彼女を失った羽の代わりとして見ているのかもしれない』

 今もなお脳裏にこびりついて離れない、この恐るべき可能性。

 その可能性に惑わされ、彼女が無事に帰って来てくれたというのに、それを笑顔で迎えることすらできない。

 そんな自分に嫌悪してのことだっだ。

「あら、なんだか浮かない顔ね。もしかして、私だけに食糧探索をさせたことで負い目でも感じているの? そんなの気にしなくていいのよ。私が好きでやったことだもの。それに結果的にはこんなにたくさん食糧が手に入ったんだし」

 彼女はそういって手に入った食糧のひとつに口をつけはじめた。

「うん、美味しい。私、あなたが起きるまで食べるのを我慢してたのよ。一緒に食べようと思って。さ、あなたも食べましょう。今夜はパーティーよ」

 彼女が微笑む。僕も慌てて笑みを返した。はたして僕はうまく笑えていただろうか。

 結局、僕の心は日付がかわるころになっても迷いを抱えたままだった。


 

 それからの日々は平穏そのものだった。

 彼女を心の底で僕がどう思っているかの答えは相変わらず出ないままだったが、それでも僕は彼女に対し命を救ってもらった恩以上のものを感じていたし、彼女もまた僕にたくさん愛情を注いでくれた。

 ある日、僕はなんとなく気になって彼女の亡くなった妹のことを尋ねてみた。

「私の妹? 急にそんなことを聞くなんて珍しいわね」

 なんとなく気になって。だめかな?

「いいわよ。話してあげる」

 そう言うと彼女は、どこか遠くを見るように目を細めて語り始めた。

「私の妹は……そうね、ドジな子だったわ。おっちょこちょいで、よくジャンプに失敗して盛大に転んだりするような子だった。でも、それ以上にとても優しい子だったわ」

 優しげな彼女の瞳。妹との暖かい日々を思い出しているのだろう。

「私たちがケンカするたびにね、絶対にあの子が先に仲直りしようって言って謝ってくるの。本当に申し訳なさそうに謝ってくる妹を見てたら、私もなんだか怒ってたのが馬鹿らしくなってきちゃってね。私の方こそごめんっていって、それで仲直り。そんなことを何度も繰り返していたわ。今思えば、あれは本来私の役目だったのよね。大人げなくいつまでもぷりぷり怒って、妹に謝られるのを待ってる私。かたや先に自分の非を認め、素直に謝り関係修復をはかる妹……どう考えても妹と姉の役割が逆よね。でも、そんな私たちだったからこそ、とても仲良しでいられたのかもしれない……」

 妹。それは彼女にとっての羽だったのではないだろうか。

 彼女は片足を失っている。肉体的欠損という意味であれば僕にとっての羽が彼女の足に当たるのだろう。しかし、心の拠り所という意味での欠損であればそれに当たるのはおそらく、妹の方なのではないだろうか。

 彼女の話を聞いて、そんなことを思った。

「それにしても、どうしていきなり妹のことを?」

 その問いに答えようとして、言葉に詰まった。

 最初はただなんとなく聞いてみただけだった。けれど彼女の話を聞いているうちに気がついてしまった。僕は彼女にヒントを求めているんだと。無意識下にあったそんな気持ちが僕に今の質問を投げかけさせたんだ。羽の代わりに彼女を愛しているのかもしれない。僕の愛情は彼女に向けられたものではなく、自分自身に向けられた、醜く歪んだ自己愛なのかもしれない。その恐ろしい可能性を否定したくて彼女に質問したんだ。大切なものを失った彼女。そんな彼女なら、僕が今抱えている気持ちの正体を知るヒントを与えてくれる気がして。

「ねえ、どうしたの?」

 彼女が訝しげに顔を覗きこんでくる。

 言えるわけがない。そんな理由で彼女の思い出をのぞき見たなんて。

 だから嘘をつく。

 いや、なんとなく気になっただけなんだよ。うん。別に何かあったわけじゃないだ。

「そう。ならいいのだけれど」

 彼女の顔から懐疑の色が消える。

 どうやら上手く誤魔化せたようだ。

 そうだ。言えるわけがない。彼女は僕を愛してくれているのに、僕の方は彼女を羽の代替品として愛しているかもしれないなんて。彼女に対して不誠実にもほどがある。

 ぐい、と背中に重みを感じた。

 肩越しに背後を見ると、すぐ間近に彼女の顔があった。

 僕は後ろから彼女に抱きすくめられていた。

「まったく……あなたって嘘が下手ね。そんな顔してなんでもないだなんて、あなた私をバカにしているのかしら?」

 驚いた。僕の嘘はあっさりと看破されていたのだ。

「ねえ、何を悩んでいるの? 私に話してみてくれないかしら?」

 柔らかな声色。献身的な瞳。決して興味本位などではない、心配や情愛からくる優しい提案。

 本当のことを話すべきだろうか。

 しかし、もしもその結果、彼女を傷つけてしまったら?

 僕たちの今の関係が壊れてしまうかもしれない。

 それは……それだけは嫌だった。

「私に、言えないことなの?」

 僕を抱きしめる力が少しだけ強まる。

 背中越しに伝わってくる、彼女の想い。

「……どうしても言えないの? そう。だったら――」

 私、死ぬわ。

 唐突に、まるで今朝食べた昆虫の名前を口にするような平坦な口調で、彼女は告げた。

 そして勢いよく立ち上がると、洞穴の出入り口の方へと歩きだした。

 僕は慌てて追いすがり、彼女を肩を掴んだ。

「なに?」

 僕ははじめ、彼女が何かの冗談を言っているものだと思っていた。

 けれど、彼女の眼を見てそれが誤りであったとすぐに気がついた。

 彼女は本気だ。唐突に、僕のために死のうとしている。

 問いかける。

 なぜ? 僕が答えなかったから?

「そうよ。あなたにとって私が悩みを分かち合えない程度の存在でしかないのなら、生きていたって意味がないもの。私、あなたのこと本気で好きなのよ」

 その告白は僕の心を大きく揺さぶった。

 彼女を傷つけるかもしれないと悩んでいた自分が馬鹿らしい。

 沈黙すること、それ自体が彼女を深く傷つけていたのだ。

 やにわに僕は決心し、口を開いた。

 言えなかった理由、打ち明けるよ。

 もしかしたら、僕は君を……羽の代わりとして愛しているかもしれないんだ。

「…………」

 告白してしまった。だが彼女の顔には変化が見られず平然としていて、その表情から感情を読むことはできない。やはり傷つけてしまったのだろうか。告白などするべきではなかったのだろうか。

 だが彼女から返ってきたのは意外な答えだった。

「何かの代わりに誰かを好きになることはいけないことなの?」

 え?

 予想外の返答。

 僕が反応を返す間もなく、彼女はさらに口を開く。

「私はそうは思わないわ。何かの代わりでも、誰かを愛することができたなら、それはきっととても素晴らしいことだもの」

 ようやく僕も口を開いた。

 でも、それはなんだか、誠実でないような気がして。

「……誠実って、なに?」

 またもや予想外の返答。

 誠実とはなにか。彼女が誠実という言葉の意味を知らないというわけではないだろう。

 だとしたら今の問いの意味はひとつに絞られる。

 そしてその答えは、きっと。

「ここには私とあなたのニ匹しかいないのよ? 私はあなたに愛してほしい。私もあなたを愛したい。それが満たされるのなら、その背後にある事情なんて瑣末なものでしょう?」

 やはりそうだった。

 彼女のいう誠実とは、自身がイメージしている誠実さではなく、相手にとってそれが誠実に映るかどうかなのだろう。

 僕は今まで自分の道徳観念において誠実とされる態度をとるべきだと考えていた。しかし、彼女の考えでは、誠実とは自分ではなく相手が納得のいく態度をとるべきものなのだ。つまり、彼女からすれば今までの僕は言い訳のしようもないくらい不誠実に映っていたのだろう。

 僕の凝り固まった価値観は彼女の一言によっていともたやすく崩壊した。

 ゆえに、素直な気持ちで謝罪を口にすることができた。

 ごめん。僕はもっと君の気持ちを考えるべきだった。

「いいのよ。だからあなたも気にしなくていいわ。私、羽の代わりだろうとあなたが愛してくれるのならなんだってかまわないのだから」

 僕はこの日、彼女の想いの強さを知った。

 それと同時に、僕らの間には以前にはなかった強い繋がりのようなものが芽生えた。

 それは陳腐な言葉で言うなら『絆』というものなのかもしれない。

 僕と彼女を繋ぐもの。

 それはともすればいびつで、真っ当な愛とはかけ離れたものなのかもしれない。

 けれど僕らにはそれで十分だった。

 それからというもの、僕らは以前にも増してお互いを求めあうようになった。

 片時も離れたくない、という気持ちを真の意味で知った。

 僕らの間から身勝手な思い込みが生み出す壁が取り払われて以来、僕らは一つになったのだと思う。

 飽くことなく繰り返された会話。それがお互いの思考や価値観を限りなく溶け合わせ、ひとつにする。

 ニ匹なのにひとつ。

 極楽というものが存在するのなら、きっとこんな感じなのだろう。

 僕らの今の関係にはそんな夢のような甘美な心地良さがあった。

 けれど、夢とはいつか醒めてしまうもの。

 もしも今の幸福な日々が夢だとして、それがいつか醒める日が来るのなら。

 僕はその時、何を思うのだろう。



 その日は来るべくしてやってきた。

 夢の終わり。痛みを伴う覚醒の日。

 食糧が底をついたのである。

 いつまでも浸っていられると思っていた、夢の日々。

 外敵の恐怖におびえることなく、愛を語り、愛を享受する。

 その生活がついに破綻したのだ。

 僕らはうろたえた。

 もっと早く気がついてしかるべきであるのに、僕らはいびつな愛に耽溺していた。

 そのせいで、気づくのに遅れたのだ。

 僕らはまたしても死の恐怖と闘うことになった。

 じりじりと強まる飢餓感。

 例によって例のごとく、彼女は今回も食糧を探索しに行くと言いだした。

「私が食糧を探索しに行くわ」

 しかし僕はある確信に基づいてそれを止めた。

 だめだ。君の体を餌にして食糧を集めるのはもうだめだ。

 彼女は顔をこわばらせて固まった。

「な、なんのことかしら?」

 見え透いた嘘。その嘘に容赦なく言葉をかぶせた。

 君のほうこそ嘘が下手だね。とぼけたって無駄だよ、僕はとっくに気づいていたんだから。

「…………」

 押し黙る彼女。その表情はいつかと同じで読めない。僕は続ける。

 僕は疑問に思っていたんだ。以前、僕たちが食糧危機に見舞われた時、君はいずこかより大量の食糧を入手してきた。でも、冷静に考えたらそんなことはありえないんだ。不可能なんだよ。片足しかない君が短時間にあれだけの食糧をここへ運びこむことだってそうだし、何より今まで散々探したのに見つからなかった食糧がああも簡単に、それも大量に発見できたということが不自然だった。そうなると考えられる線はひとつだ。君は何者かからの援助を受けている。主に食糧の。しかしこの世界において無償の援助など存在しない。だというのに君が援助を受けているということはつまり、君はその援助に対し何らかの対価を支払っているということになる。

 と、そこで一度彼女のほうを見た。

「…………」

 彼女が口を開く気配はない。

 だから僕は、決定的な言葉を口にした。

 だとしたらもう、これしか考えられない。君はその体を使って、いや、正確にはその体をオスたちに売って、食糧を集めたんだろう?

 その瞬間、彼女の顔がばつの悪そうなものへと変化した。

 気まずい沈黙が一分ほど流れたあと、ようやく彼女は口を開いた。

「……その通りよ。でも、私たちが食糧を手に入れるためには仕方のないことよ。だから、今回もそうするつもり」

 だめだ。そんなことはさせられない。君が喜んで売りをやっているというのなら納得もする。だけど、そうじゃないんだろう?

「…………」

 彼女の表情がかげる。

 確かに、彼女がどこの虫とどのようにしてその援助交際とでも呼ぶべき関係を構築しえたのかという点は気になる。彼女の行為の正当性についてもだ。

 実際に、今まで何度も問いただそうとした。

 だが僕はそれをしなかった。

 無意味だと思ったからだ。今更行為の正否について論じたところで彼女の過去が変わるわけじゃない。

 どうあがいたところで彼女が売りをしたという事実は変えられないのだ。

 だから問いただすことはしなかった。

 今はそんなことどうでも良いのだ。

 ただ、次は止める。そう心に決めて、今まで暮らしてきた。

 そして今日、その次にあたる日がやってきた。

 だから僕は全力で彼女を止める。

 これ以上僕のために彼女が傷つかないように。

 口を開いた。

 僕はね、もうこれ以上僕のために君が傷つくを見るのは嫌なんだ。

「……でも、このままじゃ私たち」

 そこで彼女は口をつぐんだ。口にするのが怖いのだろう。

 彼女の言いたいことはわかる。気持ちもわかる。確かにこのままではいずれ僕たちは飢えて死ぬだろう。だが僕はもう気づいてしまったのだ。だから彼女にこう告げた。

 僕はね、気づいたんだ。僕は肉体が君とともに腐りゆくのことになんの恐怖も覚えない。死ぬことは別に怖くないんだ。だけど僕は、君の心が腐るのだけは、どうしても我慢ならないんだ。

「…………」

 彼女は何も言わない。僕は続けた。

 だから、一度命を救ってもらった君にこう言ってしまっては元も子もないのかもしれないんだけど、僕は君にこう言いたい。僕なんかのために自分の心を粗末にしないでくれ。あと、僕のそばにずっといてくれ。この言い方だとなんだかついでみたいに聞こえるかもしれないけどそうじゃない。全部まぎれもない本心だ。そして最後に、これは願わくばなんだけど、もし君が良ければなんだけど、僕とともに……朽ちてはくれないだろうか。

「…………」

 言いたいことはすべて言った。これで彼女を止められなければ、僕にはもうどうすることもできない。つまり、ただ彼女の心が傷つけられるのを指をくわえて眺めているしかない。

 だがそうはならなかった。

「……わかったわ。まったく、あなたがそこまで我儘な虫だとは思わなかったわ」

 彼女はあきれたようにそう言うと、

「でもそのかわり、私が死ぬまでの短い間、たっぷり一生分、いえ、二生分は愛してもらいますからね」

 と、悪戯っぽく笑った。

 その笑顔を見て確信した。

 僕は正しい選択をしたのだと。

 相変わらず飢えは続いている。

 でもその飢えが意識にのぼらないほど僕はその笑顔に満足していた。

 ひょっとすると、今この瞬間に手に入れたのかもしれない。

 死を覚悟したあの日以来、心のうちでひそかに求めていたもの。

 最期の瞬間を迎えても、それがあればこの世を憎悪せずに安らかに逝けるような、そんな、かけがえのないものを。

 それは目には見えず、触れることも嗅ぐことも叶わないものだ。

 けれどそれは僕の胸に確かに生まれた。

 意識を向けると柔らかなぬくもりを感じる、大切なもの。

 この宝物を手に入れるために僕は生まれてきたのかもしれない。

 彼女の顔を見ながら、そんなことを思った。

 それから僕たちは深く深く愛し合った。

 飢えなど全く気にならなかった。

 まるで残りの命の全てを費やすかのような熱い心の交流。

 お互いにお互いの心が満たされていくのが手に取るようにわかった。

 他者の存在がこれほどまでに心地よいとは。

 孤独であった時には決して手に入らないものが、ここにはあった。

 その確かな感触を胸に抱きながら、僕は彼女とともに深い眠りについた。



 真っ白な光。

 僕は白い光の中に浮かんでいた。

 まわりには何もない。頭上から足元に至るまで隙間なく優しい白光が周囲を埋め尽くしている。

 ふと背中に違和感を覚えた。

 目を向けると、失ったはずの羽がそこにはあった。

 プリズムのように光を反射させる美しき四枚の羽根。

 驚きのあまり言葉を失ったが、すぐに悟った。

 ああ、これは夢か。

 体中の感覚がひどく希薄だったためすぐに悟れたのだ。

 それにこの光だけで構成された空間。

 この現実感のなさは夢以外にあり得ない。

 そう理解すると同時に、呆れた。

 羽根があると知って喜んでしまった自分に対してだ。

 僕はまだ羽根に未練があるのか。

 自分ではもうどうにもならないことだと割り切っていたつもりだったのに。

 自分の心の奥底を見せつけられた気がして、なんだか言いようのない気分になった。

 それにしても珍しい。

 確か夢の中で夢を夢だと気付くのは明晰夢というのだったか。

 はじめての体験に不思議な感慨を抱いていると、突如目前の空間に異変が起きた。

 空間を埋め尽くすひだまりのような白光。その合間に、こぶし大ほどの亀裂が走ったのだ。

 亀裂は質量をもっているかのようだった。

 それは身じろぎするように緩慢に揺れ動き、徐々にその大きさを増していく。

 やがて身の丈ほどになるといったん球状になり、球になったかと思えばまたもやその形を変容させる。

 陽炎のようだったそのシルエットが動きを止めたとき、その像をはっきりと目にとらえることができた。

 六つの足と二つの大きな複眼、そしてそれらを覆う土色の甲殻。

 見まがいようもない。僕の目の前に突如として現れたのは、一匹のヤゴだった。

 そいつは口を固く引き結び、触角と複眼をこちらに向けたまま微動だにしない。

 それは古びた彫像のようで、不気味さすら感じさせる。

 物言わぬヤゴを観察していると、はたと気がついた。

 これは、僕だ。そうだ。これはかつてヤゴだったころの僕じゃないか。

 面影があった。何より、僕の記憶がそうだと強く肯定している。

 あの頃、いつかトンボになる日を夢見てしょっちゅう天を仰いでいた。

 その時水面に反射する自分の姿。

 飽きるほど眺めた当時の自分をそのまま鏡にうつしたかのような姿の、昆虫。

 そう、これは過去の僕だ。

 理解すると同時に、目の前のヤゴが口を開いた。

「その通り。僕はかつての君さ。驚いたかい?」

 そいつは見た目に反して流暢に話し始めた。

 驚いたことは驚いた。なにしろ過去の自分が急に現れ、口を利いたのだから。だがここが夢だと頭で理解している以上、突飛な展開に対するある程度の寛容さは持ち合わせていた。

「やっぱりそうでもないって感じだね。君が考えているようにここは夢さ。どんな荒唐無稽な出来事が起きたところで、別段驚きもしないだろう。しかし、だからといって夢を甘く見るのは間違いだ」

 過去の僕がよくわからないことを言う。

 夢を甘く見る? 夢は夢でしかないだろうに。

 それにしても、目の前の僕は本当にかつての僕なのだろうか。その口調や放つ気配はちっとも僕に似ていない。

 これではまるで別人だ。

「夢というのは一見、自分の記憶にあるさまざまな事柄、事象をランダムに抽出し投影する意味のない幻のように思える。だが実際は抑圧された願望、もしくは日常で体験した残滓が寄り集まって夢を構築しているのさ。もちろん夢になる過程で願望や記憶は歪曲されるけどね」

 僕の違和感をよそに、過去の僕は夢について語り続ける。

「その他に興味深いのは、夢の展開に現実が影響を及ぼすことがあるというもの。つまり、現在起きている肉体の異変が夢に影響を及ぼすこともあるということさ。たとえば、排泄にかかわる夢を見たら、実際に目を覚ましてみると夢と同じで排泄器官の限界が近かった、ということがままある」

 そうなのか。たしかに興味深い内容ではある。だが言わんとしていることが見えてこない。

 彼は僕に何を伝えたいのだろうか。

 すると考えていることが相手にも伝わったのだろうか、彼がこんなことを言い出した。

「伝えたいことなんてないさ。僕は君と対話したいだけ。けれど、夢という意味では別なのかもしれないね」

 夢という意味では、別?

「そう。なぜなら夢は叫びだからさ。いつだって何かを伝えようと必死なんだ。だけどその叫び声は誰にも理解できない。その叫びが持つ情報が高密度すぎるから。だというのに、夢は叫ぶことをやめない。この世の誰にも、世界にすら理解されないと知りながら、叫ぶことをやめない。夢のありようは、どこまでも健気で、狂っている」

 いよいよ意味がわからなくなってきた。

 いかにも夢らしい支離滅裂な台詞。

 過去の僕はそこでいったん大きく息をつくと、今度は別の話をはじめた。

「本能って何だと思う?」

 本能? 

 目の前の僕が夢の産物である以上、真面目に考える必要などないのだが、他にやることもないので考えてみることにした。

 本能。それは動物が学習や条件反射や経験によらず、生得的に持つ行動様式のことだ。

「本能はね、呪いなんだよ」

 呪い?

「魂を肉体に縛りつける、枷。命ある者はみなその枷のせいで不自由なのさ」

 不自由って、いったい何が?

「そんなもの決まっている」

 ヤゴがこちらを直視した。

「心さ」

 心が、不自由……。

「純粋で自由な心というものは存在しない。生命に宿る心はみな本能という機械的な衝動に支配された奴隷なのさ。つまり、心とは決して自由になることのない籠の鳥なのさ」

 籠の、鳥。

「決して自由になることができないと知った鳥はどうすると思う?」

 普通に考えれば、絶望する、あたりか。

「そう。鳥は絶望し、歪むのさ。それは目には見えないレベルの歪みかもしれない。けれどその歪みは確実に鳥の行動に影響を与える」

 たとえば?

「たとえば、相手を傷つけたくないのに傷つけてしまったり、本心とは反対の行動をとってしまったりする。よく『心にもないことを言ってしまった』という言葉を耳にするだろう? あれは命ある者がみな心に歪みを抱えていることの良い証拠さ。心は生まれた時から穢れているのさ。いびつで醜悪な奴隷。それこそが心の真の姿さ」

 つまり、命ある者で心が歪んでいない者などいないというのか?

「それ以外の意味に聞こえたというのなら、君の頭はどうかしてるね」

 その歪みっていうのは、醜いものなのか。

 苛立ちを隠さず言った。

 なんだかこいつの言い分を聞いていると腹が立ってきたのだ。

 こいつの言うとおり歪みが醜いものなら、心を持った生命体である僕やこいつ、ましてやあのバッタの彼女でさえ醜いということになってしまう。いや、こいつだけは僕の過去でしかないのだから、そのあたりは曖昧か。

 ヤゴは僕の苛立ちを物ともしなかった。そのうえあろうことかこちらの神経を逆なでするようなことまで言い放った。

「ああそうさ。君が危惧しようがしなかろうが、バッタの彼女も同様さ。醜いね。高潔さとは無縁の存在。君は命を救われたかもしれないけど、彼女が醜いという事実は何をしたって不変だよ」

 愛しい者を醜いと言われて腹の立たないやつがいるのだろうか。

 僕の怒りはすでに限界まで達していた。

 しかし、不思議なことに僕は何かを言い返すことができなかった。

「腹が立った? でも、君だって本当は気づいているんじゃないのかい? 彼女が持つ、その度し難いほどの醜さに。生あるものはみな醜いのさ。ただ君はその事実から必死に目をそらしているだけさ。美しく見えるものに耽溺するのは甘美だからね。今何も言い返せなかったのがそのいい証拠だよ」

 ヤゴはそこでいったん区切り、侮蔑たっぷりに言った。

「この、臆病者が」

 その言葉で、限界を超えた。

 僕の全身は怒りに支配され、自然と忘我した。

 次の瞬間にはもう、ヤゴに掴みかかっていた。

 しかし、羽交い絞めにされてもまだ口を閉じるつもりはないのか、過去の僕は続ける。

「図星だったみたいだね。どれだけ理性的であろうとしても本能はそれを駆逐する。今の君みたいにね。暴力衝動の発露。自制の利かない肉体。それこそが本能という牢獄にとらわれた我々の限界さ」

 まだヤゴは何事かをつぶやいている。

 それがひどく耳障りで、黙らせるために首を根元から噛みちぎってやった。

 だがヤゴは首だけになっても平然と喋り続けた。

 だから僕はそれを黙らせるため、口をヤゴの顔へと向けて大きく開いた。

「覚えておくといい。本能はいつだって理性を凌駕する。どれだけ心で大切に思おうとも、本能がそれをぶち壊す。世界は堂々巡りなんだよ。この世界で、命ある者が美しい何かを手に入れることは、決してありえない――」

 その身のすべてが僕の胃の腑に収まる最後の瞬間まで、過去は何か音を発していた。

 耳触りな音が消え、ようやく僕の意識がはっきりしてくる。

 過去の僕は完全に消えた。

 ふたたびこの白い世界で僕は一人きりになった。

 口中にいまだ残っている肉の味が妙に生々しい。

 その生々しさに、愉悦とも戦慄ともつかない感情を抱いたところで、不意に目が覚めた。


 彼女が、死んでいた。


 僕の腕の中で。頭部だけをそこに残して。

 彼女の肉体は周囲に四散していて、穴ぐら中をその血で染めていた。

 絶叫した。

 黒い感情が全身に膨満していくのを感じる。

 頭の中が絶望で埋め尽くされそうになった時、腕の中に気配を感じた。

 よく見ると、もう死んでしまったと思っていた彼女が、かすかに息をしていた。

「……そ、そんな顔、しない、でよ……こうなる、ことは……はぁ、私、わかって、たんだから……」

 彼女が生きていたという事実に一瞬喜びそうになる。しかし、彼女の命の火が今にもかき消えそうだということを悟ると、泣きそうになった。

 でも僕はそれをこらえ、全身全霊で彼女の言葉に耳を傾けることにした。きっと、これが彼女の最後の言葉だから。

「私、は……もう、死んで、しまうけれど……でも……ちっとも、悲しくなん、か、ないのよ……」

 彼女の生命の光が消えていくのを感じ、胸がしめつけられる。

「だって……あなたと、出会えたから……あなたが、欠けてた私、を、はぁ……はぁ……埋めてくれた、から……」

 不意に、こみあげそうになる。けれど必死にこらえた。彼女の言葉を邪魔するわけにはいかない。

「それに……私の代わりに……あなたが少しでも長く生きられるのなら……私は満足なのよ……」

 ごふ、と彼女が吐血した。慌てずぬぐってやる。それから、僕はただ静かに聞いた。弱弱しく紡がれる彼女の言葉を、最後のその瞬間まで。

「今までずっと黙っていたけど……ほんとうのところ……私、あなたを妹の……代わりにしてたのよ」

「……あなたを見てると、安心できた」

「なぜなら……羽根のないあなたは、とても無様だったから」

「私より……惨めな存在が、そばにいる。それは妹を……失った私にとって……とてつもない救い、になった」

「妹が死んでから……ただすり減るようにして、生きてきた私……だったけど……」

「あなたと出会ったことで……私は変われた……それがどんな歪んだ理由であったとしても、変われたのは……救われたのは、ほんとう」

「少なくとも……私はそう思ってる」

「だから……あなたも……見つけて」

「あなただけの……大切な……」

 そこで言葉は途絶えた。彼女のその小さな口が、その続きを紡ぐことは二度となかった。

 光を失った瞳。その瞳が細められることはもうない。

 ほの暗い洞穴に、うらぶれた寂寞が漂う。

 その静寂の中、肉と悔恨で腹を満たしたトンボが一匹。

 僕だ。

 亡骸を抱いて、嗚咽する。

 ねえ。教えてよ。

 誰でもいいから、教えてよ。

 張り裂けそうになるこれの壊しかたを。

 痛んで痛んで仕方がない、これの。

 心の、壊しかたを。



 彼女の死から数日が経過した。

 僕はいまだに未練がましくも彼女と暮らしたこの洞穴に住んでいる。

 なぜ僕はあの日彼女をこの手にかけてしまったのか。

 それは、無意識下における本能の発露。

 僕の命は飢餓から来る死の恐怖に怯えた。そして「死にたくない」と願った。その単純明快な願いが導き出した答えがこれだ。

 散乱した彼女の亡骸はすべて食べた。

 それが死に際に彼女が遺した願いだったと思うから。

 彼女の願い。

 羽根を失った惨めで無価値な僕。そんな僕に、少しでも長く生きてほしいと心の底から願っていた彼女。

 彼女の願いは叶えられた。現に餓死寸前だった僕がこうしてまだ生きている。

 でも。

 彼女が死んでしまった。

 彼女を失ってしまった。

 かけがえのない存在であった彼女が、この世から永遠に失われてしまった。

 それはとりもなおさず僕の生きる理由が失われてしまったということ。

 彼女がいたから僕は幸せだったのに。

 その彼女がいなくなってしまったら、僕はいったいどうすればいいんだ?

 僕にとって生の指針ともいうべき存在だった彼女。

 彼女がいない今、僕はこの命をどう使えばいい?

 懊悩の中で、ふと気づいた。

 目的がないと、『生きる』ことは難しいのだと。

 かつては夢があった。大空を夢想し生きていた。

 かつては羽根があった。ただひたすらに速さを求めて生きていた。

 かつては彼女がいた。ただそばにいられるだけで生を謳歌できた。

 今は。

 今は、何もない。

 空も、速さも、彼女も。みんな失ってしまった。



 数日が過ぎた。

 僕は空虚さを胸に抱いたまま、ただ緩慢に生きていた。

 幽鬼のような足取りで食糧を探しに出かけ、しばらくしたら帰還する。

 そこには恐怖や喜びといった感慨はない。

 ただ機械的に「生きる」という行為を繰り返しているだけだ。

 何もかもを失い、唯一残ったものは、今もなお痛み続けるこの心だけ。

 理由も目的もなく生き続けるのはつらい。

 本当は、今すぐにでも死んでしまいたい。

 けれどそれを実行せずにいるのは、彼女が遺した願いがあるから。

 自分が今にも死にそうだというのに、僕の心配をした彼女。

 そんな彼女の願いを踏みにじることはできない。

 僕の心が壊れかけであるにもかかわらず、僕の心が僕に対し生きろと命じているのはそういう理由からだった。

 死にたいという衝動と、生きたいという衝動が、奇妙なバランスで保たれていた。

 本来両立しえないものが、僕の小さな胸の中でもつれあいながらも同居している。

 いや、そもそも前提からして間違っているのかもしれない。

 生と死の衝動が今、僕の中で両立しているということは。

 つまり、生と死はごく自然に両立し合うということだ。

 そうか、そうだったのか。

 僕は今まで勘違いをしていたのか。

 生きたいと願うと同時に、死にたいと願うことは、普通のことなのかもしれない。

 そう悟った時、なんだか体が少しだけ軽くなった。

 相変わらず生きる目的も理由もない。だがきっと今夜はいつもより寝付きが良くなる。

 そんな気がした。

 


 胸の痛みが少しだけ和らいだ夜、夢を見た。

 彼女の夢だ。

 遠くのほうに小さく見える彼女。こちらを見ながら優しく微笑んでいる。

 いつもと同じ儚げな笑み。

 それを見て胸が疼いた。さまざまな感情が胸の中でないまぜになって爆発した。

 僕は彼女に近づきたくて必死に走った。

 彼女の匂いを、空気を、声を、心を、また傍で感じたかった。

 けれど、不思議なことに彼女との距離は一向に縮まらない。

 僕は叫んだ。

 自分で何を叫んでいるのかわからなかった。でも、それで構わなかった。彼女に伝えたかった想いや言葉を全力で叫びたかったから。

 叫びながらひたすら走った。途中から涙や嗚咽が混じったけれど、気にしないようにした。

 彼女の口がかすかに動いた。

 どうやら何か喋っているようだ。

 だが、遠くにいる僕には何を話しているのかまでは聞き取れなかった。

 聞きたい。彼女の声を、言葉を、聞きたい。

 そう強く願った。

 その時、何かが耳に届いた。

 かすかではあったが、確かに届いた。

「そばにいるから」

 その声で目が覚めた。

 薄暗い洞穴。周囲には自分以外誰もいない。

 彼女の残り香をほんのわずかに残した、いつもの洞穴だ。

 今の声は……まさか。いや、彼女はあの時死んだはずだ。

 けれど耳に残った声はやけに生々しくて、ともすれば彼女が生きているのではと錯覚してしまいそうなほどだ。

 そう考えて、気分が沈んだ。

 彼女は死んでしまったのだ。他でもないこの僕自身が、本能を抑えきれずに彼女をこの手にかけてしまった。

 思い出すたびに胸が痛む。

 と同時に、いやでも考えてしまう。

 もし今でも彼女が生きていたら、と。

 きっと、今の僕を見たら呆れるだろう。「まったく、あなたは……」なんて言ったりしそうだ。

 だけどそのあとに「でもきっと、あなたは真面目すぎるだけなのよね」と許してくれそうだ。

 あはは。

 彼女を思い出しているうちに、気がつけば頬が緩んでいた。

 そこではたと気がついた。

 そういえば彼女が死んでから、まだ笑ったことなかったな。

 まあ、当たり前といえば当たり前だけど。

 彼女が死んで以来、闇の中をさまようような心地で生きてきた。

 だがそれが今はどうか。あれからなにひとつ状況は変わってなどいないのに、僕は今笑っている。

 刹那、頭をすさまじい速度で駆け巡る、光のようなものがあった。

 それは、理解。

 そう、僕は笑えるんだ。

 僕は一匹しかいないけれど、一匹でも笑える。

 孤独であろうとも、何かを喪失しようとも、笑えるんだ。

 なぜなら。

「ようやく理解したのね」

 耳元で声が聞こえた。

 柔らかい雰囲気の声。彼女の声だ。

 姿は見えない。あたりまえだ。彼女はもう死んでしまったのだから。

 それでも聞こえる、彼女の声。

 不思議に思うかもしれない。奇妙に思うかもしれない。

 けれど、これはとても自然なことなのだ。

 だって、それこそが誰かと関わるということなのだから。

 たしかに命は何も手に入れることなどできないのかもしれない。

 時の流れの中、燃ゆる命がその短い生涯で出来ることなど限られている。

 だから、生命が形あるものを手に入れることは未来永劫不可能なのかもしれない。

 けれど。

 けれど僕の心にはたしかに刻まれていた。彼女との日々が。たしかに。

 それさえあれば、僕は笑えるんだ。

 この荒涼とした世界を、生きていける。

 瞬間、視界に変化が起きた。

 見えている世界が変わった、とでも言えばいいのか。

 薄暗かった洞穴は色鮮やかな草原に変わり、僕の背中には美しい羽根が復活していた。

 体中には活力が漲り、渇いていたはずの心はかつてあった瑞々しさを取り戻していた。

「おめでとう」

 どこからともなく、そんな声が聞こえた気がした。

 僕はある決意をした。

 彼女の亡霊を追う日々に別れを告げる決意だ。

 彼女のことを思うと、まだ胸は痛む。

 けれど、その痛みもまた、彼女がここにいたという証なんだ。

 生きるものにとって、痛みは必要なんだ。

 それを抱えるからこそ、命なんだ。

 さあ、出発しよう。

 いつまでもこの洞穴にはいられない。

 僕は生きるんだ。

 もっとたくさんの、大切な何かを求めて。

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