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(1-8)拳より零れた過去



 大通りから特別区に続く中通りに一軒の屋台があった。

 店を立ち上げた当初、場所代の安い特別区付近に屋台を構えて商売をしたのが始まりである。稼ぎも年数と共に僅かばかりだが増え、今では中央付近へと屋台は移動していた。だが、場所を変えども昔から馴染みのある顔は時々顔を見せてくれ……いつの間にかそれが、店主にとっていつの間にか最大の生き甲斐となっていた。


 ──色んな人々に美味い串焼きを食わせたい。


 ただそれだけを思い、屋台の店主は意地も手伝って十数年間頑張ってきたのだ。

 しかしその屋台は無残にも破壊され、店主の生き甲斐は屑物と成り果てた。



 ──筈だった──



「馬鹿野郎っ! 石の並びが全然なってねぇと、さっきから何度も言ってるだろうが!」


 大通り程の広さはないが、路地程の狭さでも無い。そんな中通りに空気を震わさんばかりの怒声が響き渡っていた。

 怒声の主は地面に置かれた木箱に腰を下ろし、折れた左腕を首から提げた布で吊っている。先程から遅々と進まぬ作業に苛立ちながら、串焼き屋の店主は鉄箱に敷き詰められる火含石を指差して指示を飛ばす。

 火含石の順序など味にどう関係するかも分からない、経験の無い者に取ってはどれも一緒に見える。店主に指示をされている少年の表情にも、その疑問がありありと浮かび上がっていた。


「……並べ方なんてどれでも一緒だろ! 父ちゃ……」

「ふざけた言葉を垂れるな! 串焼きの美味さはなぁ! 石の並べ方一つで変わっちまうんだよ! そんな雑な並べ方じゃあ焼きむらが出来ちまって肉汁が逃げちまうんだよ! こん馬鹿垂……いっ……」


 一際大きな怒声を上げた時に骨の折れた胸が痛み、苦痛の声と共に言葉が止まった。胸を押さえ、前屈みに蹲る店主に向けて傍にいた女性が気遣いの声を掛ける。


「あんた、療士様からも“暫くは大人しくしてるように”って言われてるだろう……それにまた、あいつらが来たら……今度こそ死んじまうよ……」

「……っ……そん時は……そん時だ。俺はな……ノスフェ、ヴァルトと約束してんだ。おちおち休んでられるかってんだっ!」


 ついには木箱から膝を落とし地面へと蹲りながらも、顔だけは上げて心配顔を浮かべている女将さんを強く睨み付ける。頑固な亭主の姿を見て、女将さんは石を並べ続ける息子と顔を見合わせた。結局二人共『何を言っても無駄』だという結論を得て、顔に諦めの表情を浮かながらも小さく溜息を吐く。

 いつだってそうだったのだ。

 この頑固者は言い出したら、誰の言葉も聞きはしない。


 女将さんと息子を見上げた状態で顔を苦痛に歪ませる店主だったが、突然驚いた様にその目が見開かれた。年月と共に刻まれた口と目尻の深い皺がより一層深くなり、顔が笑みへと変化してゆく。

 先程まで苦痛に顔を歪めながらも怒声を放っていた店主が見せた表情の変化に、女将さんと息子が再び顔を見合わせた時だった。



「あんまり無理すんじゃねぇよ……ったく、怪我人はいいから大人しくしてろっての」

「無理無茶はアンタの特権だろう? 聞いたぜ? 派手にやり合ったってよ!」

「おいおい、もうこんな所まで話が広がってんのかよ? 物騒な事を言わんでくれ、俺は単に“話し合い”に行っただけだぜ?」


 店主が向ける視線の先──驚きで目をぱちくりさせている女将さんの後から低い声が聞こえた後、豪快な笑い声が降り注いできた。

 女将さんは突然の声に大きく目を見開くと、慌てて振り返る。

 いつの間に現れたのか、一抱えもある革袋の紐を持って背負ったヴァルトの姿があった。もう片方の手をポケットに突っ込んだまま、店主の言葉にヴァルトは肩を竦めて豪快に笑い声を響かせた。


「まぁ、穏やかにとはいかなかったがな」

「くっははははっ! アンタらしいな。何にせよコイツは祝わなきゃならねぇな! おい、ダン坊! 今から酒屋に行ってありったけの酒買ってこい!」

「ちょっと! あんたっ!」


 店主が満面の笑みで息子に使いを頼む姿を見て、女将さんが顔を顰め声を荒げて諫めようとする。だが、陽気に笑う店主がその程度で怯むはずも無かった。


「いいじゃねぇーか! こんなめでたい日に祝い酒を飲まずに生きて、楽しい事なんざあるものか! ダン坊も今日は飲ませてやっから早くひとっ走りしてこい!」

「はぁ……。本当、あんたって人は言い出したら聞きゃしないんだから……」


 父親の言う事に従うべきか迷っていた息子のダンも、母親の呆れと諦めの籠もった溜息を聞くと薄暗くなり始めた路地を駆けだす。

 成人の儀をまだ済ませていないダンにとっては酒を口にする機会などは滅多に無く、祝い事でも無い日に飲めると分かれば足取りは軽い。全速力で駆け出し、あっという間に路地から酒屋のある大通りへと消えていった。



「今日は潰れるまで返さねぇから、覚悟しやがれ! ヴァルト」

 まだ傷が痛むだろうに笑顔でそう言い放つ店主の言葉は、まるで十年来の友人の様にも感じる。ヴァルトは胸の奥にこそばゆいものを感じて苦笑を浮かべると、自慢の胸板を叩いて答えを返した。


「……望む所だ!」





 暑い陽節も終わりを迎える今頃は、昼間は暑く感じるが明け方はやはりまだ冷える。

 明け方の風に肌を撫でられ、ヴァルトの身体は朝冷えによって目が覚めた。震えた身体をゆっくりと起こした後、周囲を見回した。


「……随分、派手になったもんだ」

 目の前に広がる光景に、思わず独り言がヴァルトの口から漏れた。一晩を外で過ごした所為か、その声は僅かに掠れている。


 大人が縦に並んで二人寝ても少しばかり余裕がある広さの中通りは、酔い潰れた大人達で一杯になってしまっていた。ある者は酒樽を抱えて幸せそうに眠りこけ、またある者はナイフを握りしめて苦悶の表情で気絶している。



 陽も落ち、夜が訪れた頃。

 店主の息子であるダンが酒の入った樽を満載した荷車を引っ張ってきてから、狂乱の宴は幕を開けた。


 最初、ヴァルトは呆れ顔を浮かべながらも店主と差し向かいに飲んでいた。だが暫くして酔った店主が道行く者を次々と誘って捕まえ、一人、また一人と……次第に酒を酌み交わす人数が増えていった結果が今の目前に広がる惨状である。

 中には隙有りとばかりにヴァルトの命を狙う馬鹿もいたが、ヴァルトが手を下すまでも無く。周囲の酔っ払い達に殴り蹴飛ばされて、酒も飲めずに夢の世界へと旅立つ結果を迎えただけだった。


 そして気がつけば、夜を徹した宴会も今では酔い潰れた者がそのまま路上で寝ている有様と化していた。



 ヴァルトはもう一度、寒さに身を震わせる。一瞬だけここにいる者達を片っ端から叩き起こしてやろうかとも考えたが……この季節なら凍死する事もないし、精々が風邪を引く程度だろうと思い留まった。


 ──まぁ、馬鹿は病も避けて通るって言うしな……


 気持ちが良い程の馬鹿騒ぎに付き合ってくれた、気のいい馬鹿共を眺めながらヴァルトは苦笑を浮かべる。朝の新鮮な空気を肺一杯に吸い込み大きく伸びをしていると、少し離れた所から走ってくる気配に気付いた。


「あっ! ヴァルトさん、おはようございます!」

「おう、おはようさん。お前は……えっと、ダンだったか?」


 生意気な盛りを迎える店主の息子──ダンは有名人であるヴァルトに名前を覚えてもらえた嬉しさからか、足取り軽くヴァルトの方へと駆け寄ってくる。

 まるで犬みたいだな……と思いながらヴァルトは軽く手を振った後、足下に置いてあった革袋を持ち上げた。袋の口がしっかり皮紐で閉じられているのを確認すると、それをダンの方へと放り投げた。


「え? うわっ!」


 かなりの重量がある革袋は、まだ子供の容姿が抜けきらぬダンには重過ぎたようだ。受け止めるまではよかったのだが、受け取った体制で後へとよろけ、尻餅を付く形になった。

 地面に当たった衝撃で、受け止めた革袋から重い金の音が鳴る。鈍いその音が耳に入り、袋の中身が何であるか大よその検討が付いたダンは、驚いた様にヴァルトを見上げた。


「ヴァルトさん、これって……!」

「悪ぃ……すまんが、そいつをお前のオヤジが起きたら渡しといてくれないか? それと“達者でな”と伝えておいてくれ……」

「へっ? ヴァルトさん、これからどこかに行かれるんですか?」

「まあ、そんなところだ。オヤジさんと仲良くしろよ。……じゃあな」


 ヴァルトは口だけで笑い、そう言って軽く手を振ると踵を返して大通りに向かって歩き出した。ダンが驚いてヴァルトを引き留める言葉を掛けるも、それを聞こえないふりをして無視する。酔っ払い共を踏まぬ様に避けて、ヴァルトは中通りを抜けていった。





 ヴァルトは商人達が朝の準備で忙しく走り回る大通りを一人で進んでいた。

 足取りは迷う事無く真っ直ぐと、ある場所へと向けられている。やがて周囲の風景も少しずつ変化してゆき、気付けば大きな建物が均等に並んだ閑静な場所へと変わっていた。

 そのまま暫く歩き続けると、目的の場所へと到着する。この街で昔から変わらず、そして──唯一、ヴァルトが忘れられない記憶として残っている場所へと足を踏み入れた。



 そこは街の中心から少し離れてはいるが、充分整備が行き届いている広場だった。石畳が敷き詰められ、その中央には剣を天高く掲げる剣士の石像が建てられている。

 “剣聖の広場”と名付けられているこの広場はアリュテーマの街にある名所の一つで、闘技場と並んで人気がある場所だった。


 広場は市でなくとも毎日露店が並び、食べ物や土産物を売る商人が声を上げている様な賑やかな場所である。

 だが今は朝早い時間とあって、露店商達は開店の準備に追われて走り回っている時間だろう。広場に店を構える者達がこちらに来て準備を行うのは、それらの時間よりもまだ後の事だった。



 人が殆ど居ない広場を見回すと、ヴァルトは広場の端にある石のベンチへと腰を下ろした。少し湿気を含んだ朝の涼しい空気を頬に感じながら、ゆっくりと空を仰ぐ。

 たまに吹く風に固い髪を微かに揺らしながら、ヴァルトは珍しく穏やかな表情を浮かべていた。そのままゆっくりと瞳を閉じて、物思いに耽る。


 ──あの時も、確か今ぐらいの季節だったな……





 その広場は観光を目的とした人間や、出稼ぎに来た者達で溢れ返っていた。

 露店商達は声に匂いに、様々な手段を用いて客を呼び込もうと必死になり、周囲が活気に満ち溢れている。その騒ぎは村から出てきた者にとって、祭りかと勘違いさせる程にまで熱狂的なものだった。


 そんな騒ぎに沸き立つ人込みの中を……一組の男女が人込みに押され、遅い足取りながらも進んでいた。



「……はぁ、少し来る時期を間違えたなぁ……」


 男の方は二十代半ばで、体格の良い赤毛の青年だった。ヴァルトという名の青年は、額に微かな汗を浮かべて溜息を吐く。

 そして、荷物を持っていない方の手で繋いだ女性へと気遣わしげに振り向き問い掛けた。


「フォルトナ、大丈夫か?」

「ええ、大丈夫……と言いたい所だけど、こんなにも人がいると流石に……ね?」


 フォルトナと呼ばれた女性は笑みを浮かべているが、明らかに人に酔った様で普段は明るい笑顔も弱々しく見える。群集の熱気もさることながら、まだ陽節の暑さも残っており、フォルトナの伸びた長い黒髪が汗で頬へと張り付いていた。


「少しベンチで休もうか?」


 ヴァルトはフォルトナの身を気遣い、丁度目の前で人が立ったベンチへと誘う。

 フォルトナも素直に頷くとベンチへと腰を下ろして、上着のポケットから布を取り出して流れる汗を拭った。


「……こうしていると風が気持ちいいわ……」

「そうだな。でも、上着は脱ぐなよ? 汗で身体を冷やすとお腹の子供に悪いからな?」

「ふふっ……分かっているわ。本当にヴァルは心配性なんだから……それとも、もうパパって呼んだほうがいいかしら?」


 細かく様子を気遣うヴァルトに対し、フォルトナはからかうように身を寄せた。離していたヴァルトの大きな手に自分の細い指を再び絡めると、悪戯っ子の様な笑みを浮かべる。

 ヴァルトはベンチに置いた手に感じたフォルトナの体温と『パパ』という単語に動揺して、慌てて顔を背けた。


「と……ところで……村への土産はもういいのか?」

「あっ、話を逸らしたぁ。うふふ、許してあげる。そうね……村長さんへのお土産も買ったし、産婆のシエラ小母様には糸でしょ、塩は直接馬車に積み込んでくれるようになっているから……うん! 買い忘れはないわ」

「……結構痛い出費だったな……。けど、これから出産とかで何かと世話になるから仕方無いか……」


 引っ手繰られないように土産を包んだ荷物を脇に抱え、ヴァルトは少し目立ち始めて来たフォルトナの腹部へと視線を向けた。フォルトナもヴァルトの視線に気付いて、微笑みながら自分の腹を優しく撫でる。そこにある確かな命の鼓動を感じ、二人は無言で視線だけを交わした。

 二人のそんな姿に、周囲を歩く人々も優しげに見つめて通り過ぎてゆく。


 その時に丁度、昼時を伝える次鐘が広場へと響き渡った。



「もう昼時か……この人の多さだと、昼飯を食うにも少し時間を外した方が無難かもな」

「そうね。……それにしても、今日は何かあるのかしら? こんなにも人が多いなんて……」


 フォルトナは不思議そうな面持ちで、広場を行きかう大勢の人波を見つめて呟く。


「ああ、今日は年に一度の闘技大会がある日らしい。さっき、鎧を着た奴が“勝ちあがれた”とかで盛り上がっていたよ」

「闘技大会?」

「ん? ああ、そうか。フォルトナは知らなかったか? 年に一度、国中の腕自慢が集まって戦い、その力を見せ付け合う試合があるんだよ」


 ヴァルトは視線を遠くに移し、辛うじて見えている闘技場の外壁へと視線を向ける。

 細めたヴァルトの瞳には微かな感情が混じり、まるで遠い昔を懐かしむ様子に伺えた。


「……出た事、あるんだ」

「ああ……昔に一度だけ、な?」

「結果はどうだったの?」


 ポツリと漏らしたフォルトナの言葉を聞いたヴァルトは、突然その場で立ち上がる。ヴァルトが突然起こした行動が“触れられたく無かった過去”なのかと、フォルトナは少し表情を固くするが、それは全くの杞憂だった。

 立ち上がったヴァルトはフォルトナの前で両手を広げて、まるで道化師の様にわざとらしく大きな動作で嘆いてみせる。


「それは……十八の頃。傭兵として漸く一人前になり、ヴァルト青年はそこそこの腕を自負していた無謀な若者だった。しかし、自信に満ちた若かりしヴァルトは……意気揚々と闘技大会へと参戦し、哀れ一回戦で無残にも負けてしまったそうな! 嗚呼、なんたる情けなさ!」


 声の抑揚を強調し、吟遊詩人が物語を語るかの様な口調で一気にヴァルトは語り終えた。続けて蹲り地面を叩きながらも、大げさに涙を流す演技をする。


 突然始まった喜劇の様な夫の振る舞いを見て、フォルトナは目を何度か瞬きさせる。だが、余りにも似合わぬヴァルトの語り口調と流役者以下の演技を前に、その驚きはやがて笑みへと変わり、最後にはクスクスと笑い声を上げていた。

 ヴァルトは笑い声を聞いて顔を上げると、フォルトナと同じように笑い出した。


「ふふふっ、ヴァルったら。もう! ふふ……」

「これ位ふざけてないと……余りの情け無さに、本当の涙が出そうになるからなぁ」

「だからって……ふふふっ。貴方って、本当役者には向かないわね」


 ひとしきり笑って収まったのか。フォルトナは満足気に溜息を吐いた後、再び隣へ腰を下ろしたヴァルトを見上げて話を続けた。


「ねぇ、その闘技大会って優勝したら賞金でも出るの?」

「優勝したらかぁ……まずは間違い無く、国への仕官の道は開けるだろうな。それに何より──傭兵としては“名が売れる”って事に意味があったのさ。まぁ、結果として俺は単に恥を掻いただけだったけどな?」


 フォルトナと向かい合って、ヴァルトはそう言いながらも恥ずかしげに頭を掻いた。


「ふふっ、また闘技大会に出たい?」

「まさか! もう俺なんかが出たところでまた初戦敗退が関の山だし、何より今の俺は傭兵じゃ無く……単なる農夫だからな」

「そうね、剣よりも鍬を握っている方が様になってきたしね。そして何より……今の貴方は私の自慢の旦那様だわ」


 そう言って再びヴァルトの手に指を絡め、フォルトナは満面の笑顔を浮かべてヴァルトの瞳を見つめた。大きな黒い瞳がヴァルトの返答を促すかの様に細められる。

 フォルトナがヴァルトを試すかのような言葉を投げ掛けるのは、これまでにも何度かあった。今回も不意に訪れた甘い言葉を聞いて、ヴァルトは耳まで真っ赤にさせて言葉を濁らせる。


「……ああ……うん。ははっ……こうもハッキリと言われると、その……」

「ああっ! 照れてる! うふふふっ、あはははは……」

「フォルトナ! お前っ! ああ……くそっ!」


 からかうフォルトナの顔も満足に見れず、照れ隠しに拗ねた素振りでヴァルトは横を向く。暫くして、その頬に柔らかく暖かい感触が落とされた。


「あらあら、拗ねちゃった? ごめんなさい。でも、言ったことは全て本当の事よ。これからも私を大切に守ってね。私だけの最高の傭兵さん……」





 ──……フォル……トナ。


 湧き水の如く、記憶の彼方から次々と浮かんでは消えてゆくフォルトナの笑みは、瞳を閉じていても目の奥に焼き付いたまま決して離れない。その笑みが幻視という事位、ヴァルトにも判っている。何度もそう自分に言い聞かせるも、押し寄せる衝動は押さえ切れなかった。


 ヴァルトはゆっくり瞳を開け、視線を空から落とした。

 明け方で殆ど人のいない広場で手を前へと突き出す。記憶の中で消えてゆく笑みを取り戻そうとするかの如く、ゆっくりと指を曲げる。

 だが、握り込まれた掌は何も掴めず──ただ、固い岩の様な拳を形作るのみであった。


 渦巻く思いを堪えるように奥歯を噛み締め、眉根を寄せると、ヴァルトはよく晴れた早朝の青空を再び仰ぎ見た。

 拳と噛み締めた奥歯が、ギシリと鳴る。


 ──何が守るだ……何が最高の傭兵だ……ッ! 結局俺は……俺は何も守れなかったじゃねぇか! フォルトナも……ルシィでさえもッ! ……なのに、なのに。何で……俺はこうも無様にまだ生きてるんだ!



 ヴァルトは空を見上げたまま、身体を小刻みに震わせる。牙を剥いて声無き声で咆哮を上げるその姿は──まるで天にいる神に向かって吼え噛み付こうとするようにも見えた。

 青一色に染まった視界が滲み、瞳から溢れそうになった涙だったが……それが零れ落ちる事は無い。朝の澄んだ空気に声が響き渡り、空を仰ぐヴァルトへと向けて放たれる。


「あーーー! こんなところにいたぁ!」


 場に似合わない声は子供のものだった、ヴァルトは仰いでいた空から声のした方向へと視線を移す。そこには、質素な町娘の服を着たマリエラが立っていた。息を弾ませながらこちらへと走り寄る少女の様子が目に映り、ヴァルトは思わず目を見開く。


「……ルシ……ィ……?」


 一瞬だけ、また過去の幻視かと見紛う。

 髪を後ろに結び、馬の尻尾のように後ろに垂らしたそれを弾ませながらこちらへと来るマリエラの姿を、ヴァルトは暫く遠い過去に失った女の子と重ねてしまっていた。


「もう、ずっと探していたんだからね! アンジェさんは“放っておきなさい”とか言うし、お父さんの事を話してくれるって約束したのに、勝手にどっか行っちゃってさ! このダメオヤジ!」

「……出会って一言目がそれか? 本当、オマエは大人に向かって口の聞き方がなっちゃいねぇな……」

「約束を破る人よりかはマシです! べーっだ!」


 ヴァルトはそう言いながら、こちらを見上げて思い切り舌を出すマリエラを見て苦笑を浮かべる。だがそれは、マリエラへ向けたものではなく……もうこの世には存在しない者の名を思わず口にした、自分に対して放った自嘲の笑みだった。


 ──どこをどう見たら、見間違えるんだ。俺は……



 髪の色も、長さも、歳も……全てがヴァルトの知っていた少女とは異なるにも関わらず、つい見間違えた事に対する自嘲の念は消えない。

 だがマリエラが怒っている仕草を前にすると、何故か脳裏に浮かんだ姿と重なってしまったのは紛れも無い事実であった。


 今は亡き──愛娘の姿と見間違えられた事に、マリエラは到底気付く筈も無い。

 ただ苦笑を浮かべたままヴァルトの口から出てきた言葉と表情が気に食わないのか、再び腰に手を当てて頬を膨らませていた。



「あっ! アンジェさん、こっちこっち! こんなとこにいたよー!」


 マリエラがヴァルトの後ろに視線を走らせると、大きく手を振ってその場で飛び跳ね自分の場所を知らせた。その行動が誰に対してのものかは、振り向いて確認せずとも判る。

 ヴァルトは広場の入り口付近に怒気を孕んだ気配を二つ感じて、大きな手で額を覆うともう一度、天を仰いだ。


「お父さんの事教えてくれるまで、もう何処にも行かないでよね!」


 とどめとばかりに、マリエラがヴァルトの太い腕をしっかりと掴んで強気な一言を放つ。子供程度の力で捕まれた程度ならば簡単に振り払って逃げる事も出来るが……不思議とヴァルトはそれが出来無かった。



 深く長いヴァルトの溜息と、特徴のあるアンジェリカの怒声が閑散とした広場に響き渡ったのは……ヴァルトが諦めを覚悟した時と、ほぼ同時だった。








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