(1-6)目的定まらぬ拳
先の出来事から結局──気を失ったマリエラがヴァルトにしがみついたまま、離れる事は無かった。さらには妹のソフィアも先程ゴーディと対峙していた時に漂っていたヴァルトの尋常成らぬ気配に当てられて、いつの間にか気を失い床へ横たえられていた。
その所為で出て行く気が削がれたヴァルトは、アンジェリカに指示されるがまま渋々マリエラを抱きかかえて、二階にある宿の一室へと連れて行かれる羽目となったのだが……
──パンッ!
姉妹を一つのベッドへ寝かせた直後。
ヴァルトが溜息を吐く間も無く、アンジェリカから平手打ちが飛んできた。
突然軽い音と共にヴァルトの頬に衝撃が走り、アンジェリカの手で容赦無く打たれた頬が赤く染まる。
躱すのも億劫でされるがままに打たれたヴァルトは、その事に対しては何の感慨も浮かばない。ただ、“何故自分が打たれたのか”という疑問だけがヴァルトの頭に浮かんでいた。
「……何故か、聞いてもいいか?」
「ヴァルト……貴方、さっきマリエラちゃんに何を言おうとしていたの……?」
昨夜行われたばかりの情事が嘘の様に、アンジェリカの視線は冷たい。黒い大きな瞳は怒りの余り細められ、まるでヴァルトを蔑んでいるかのようだった。
ヴァルトは小さく息を吐くと、アンジェリカが想像していた通りの言葉を告げる。
「こいつらの親父は……俺が殺した。それを言おうとしただけだが」
「やっぱり……ねえ、一体どういうつもりでそれを言おうとしたか聞いてもいいかしら?」
「“どういうつもり”もあるか、事実を言うに理由などいるのか?」
「──ッ! ヴァルト、貴方……その“事実”を言う時に、一瞬でもこの子達の事を考えた?」
アンジェリカはヴァルトが平然と告げたあまりの言い草に、思わず声を荒げそうになる。だが、すぐ脇のベッドで寝息を立てている二人を起こさぬように息を吐いて心を落ち着かせた。
「……この子達の、唯一のお父さんなのよ?」
「だったら何だっていうんだ? 俺が殺したのは事実だ。俺がこいつらの親父を殺した。……それとも何か? お前は殺した俺が悪いとでも言うのか? このガキ達から父親を奪った俺が悪いのか?」
「ちょっと、何も私はそんな事言って……」
「お前が言っているのはそういう事だ! 闘技場に上がればそこは殺し合いの場だ。こいつらの親父は自ら望んでそこに上がり、結果負けた。そして死んだ。弱かったから死んだ! 生きるか死ぬかしか選択の無い馬鹿げた場所に立ったから……俺に殺される羽目になったんだよ!」
なるべく小声を心掛けるアンジェリカとは対照的に、ヴァルトは徐々に声を荒げ感情任せに言葉を吐く。胸の内に抱いていた感情を声に出して紡いでゆくうちに先程の鈍痛がまた蘇るが、今度は関係無いとばかりに捲し立てた。
「……うっ……うぅん……」
声を抑えず早口で喋るヴァルトを慌ててアンジェリカが制止した時だった。
ベッドに寝ていたマリエルの口から小さな呻きが漏れ、僅かに寝返りを打つ。その声が耳に入った時には自然と、アンジェリカとヴァルトはベッドに視線を向けていた。
ベッド脇で行われた言い争いで目覚めるかと思ったマリエルだったが、幸いにも目覚める気配は見られない。二三言口を動かした後は心地よさそうな寝息へと戻り、再び深い眠りの底へと落ちていった。
目が覚めかけた不快感からか、少し眉を潜めた寝顔で眠るマリエルの頭をアンジェリカはそっと優しく撫でる。眠っていても頭を撫でられ、多少は安心したのだろう。マリエルの寝顔が安らかなものになったのを確認すると、ジェリカはドアへと歩み廊下へと足を踏み出した。
此処で話をしていたら、そのうち目を覚まさせてしまうに違いない。
何も言わず“場所を移そう”と視線のみで意図を伝えてきたアンジェリカに対し、ヴァルトも無言で廊下へと足を向けた。
廊下へと出てドアを閉める間際、僅かに見えた隙間からは姉妹仲良く眠る姿を確認したアンジェリカは目を細める。
「あの子達はもう……二人っきりになっちゃったのね……」
寂しげにアンジェリカは呟くと音を立てない様にそっと扉を閉ざし、ヴァルトがいた方へと振り返る。てっきりそこにヴァルトの姿があるものだと思っていたのだが、下へと続く階段を降りる大きな背中が目に入りアンジェリカは目を見開いた。
「……ヴァルト!」
慌てて名を呼びながら後を追って階段を下りるも、ヴァルトは振り返る気配すら見せない。背負い袋を肩に掛けたヴァルトは大股で半壊した食堂を通り過ぎ、アンジェリカの制止も聞かず外へと続く扉を押し開いていた。
「ちょ……ちょっと! 話をするなら食堂で十分でしょう?」
「話? なんの事だ? 話す事は……もう無い」
ヴァルトは扉を押し開いたまま、振り返らずに答えた。あくまでも対話を拒否するその姿勢を前にアンジェリカは呆れ半分、憤慨半分に足音荒く外へ出ようとするヴァルトへと近付く。
「ヴァルト。貴方、さっきから少しおかしいわよ」
「……あのガキには“お前が”“好きに”言えばいい。優しい暗殺者様は、あいつらに偽りの希望を与えてやりたいんだろ?」
「私の事は別に何と言ってもらっても構わない。だけども……相手はまだ、子供なのよ!? 希望を持たせてあげて何が悪いって言うのよ!」
「いいか悪いかは、真実を知った時にあいつらが判断する事だ。違うか? ……それは兎も角、お前から話せばいいだろ? お前は事実を既に知った、後の事は知らん……元々、ガキは好かねぇんだ」
それだけを言い捨てるように吐くと、ヴァルトは開いた扉から外へ出ようとする。
幾ら制止しても聞かないヴァルトをアンジェリカは強引に押し止めようと手を伸ばすが、ごく自然な動作でアンジェリカの手をするりと躱して、ヴァルトは娼館から足を踏み出した。
腕を躱されたアンジェリカはヴァルトを呼び止めようと口を開く。だが、一瞬だけ後ろを振り返ったヴァルトと目が合い、その動きは完全に凍り付いた。
「ヴァルト、一体何が貴方を……そこまで意固地にさせているのよ?」
憮然と手を伸ばしたままの姿勢で固まったアンジェリカは、呆然と呟く。
だが、答えなど到底返ってくる筈も無く──ただ立ち尽くしたまま、通りの人混みに紛れてゆくヴァルトを見失うまで眺める事しか出来無かった。
ヴァルトは人通りの少ない中通りを、あても無く歩き続ける。
今歩いている特別地区は娼婦や男娼などを扱う店と、賭場が設けられている下層地区である。他にも傭兵の様に余り品がいいとはいえない連中が集う酒場や店が多い為、まだ陽も高い今からでも店を開けている所の方が多い。それに伴って、大通り以外は必然的に道行く人の数も少なかった。
道のあちこちにある吐瀉物の残骸や汚物の所為で空気が淀み、一言では表現し難い臭いが鼻を不快にさせる。奴隷の時は日常的に嗅いでいた悪臭も、今のヴァルトにとっては不機嫌さがさらに増すばかりだ。
さらに──先程から、いくつもの気配や視線を感じていた。無論、好意的なものでは無い。いずれも、ヴァルトの隙を窺うような不快なものばかりである。
「……死ねやぁぁ!」
突然、路地にいた男が洗練さの欠片も無い殺気と共に白刃を煌めかせて躍りかかって来る。ヴァルトはその男に一瞥もくれず……相手が振りかざした長剣を躱して、焦点の定まらない目をした顔面に無言で裏拳を食らわせた。
「……ゲブゥッ!」
間抜けな声を出して地面へと倒れ込む男に視線を向ける事無く、ヴァルトは握った拳をさらに強く握り締める。
──畜生、苛々する……
通りにいる者達を怯えさせるヴァルトの舌打ちと眼光の鋭さは、何もこの場所が不快に感じるからだけでは無い。先程まで居た娼館でのやり取りが、いつまで経っても脳裏から離れなかったのだ。
『……この子達の、唯一のお父さんなのよ?』
『俺にはな……俺には待ってる娘達がいるんだッッ! なのに、こんな所で……こんな所で……っ!』
頬を叩いた後で告げられたアンジェリカの言葉と、悲痛な表情。
さらには過去に戦った男の言葉が頭に反芻し、こびり付いてヴァルトの脳裏から離れない。
八つ当たりと解っていながらも、裏拳を食らい脳震盪を起こして倒れている男の襟首を掴んで持ち上げると、その男を路地の一つへと放り投げた。男が飛んでいった路地の奥から何かが潰れる音と別の短い悲鳴が聞こえ、ヴァルトを窺っていた気配が一つ消え失せる。
それでもヴァルトの気は少しも晴れず、それどころか逆に苛立ちが募るばかりだった。
──もういいだろう。もう……過ぎた事じゃねぇか!
心の中で言い知れぬ不快感に毒付きながらも、もう少しで特別地区を抜けた大通りへと出る寸前だった。不意に、路地側からヴァルトに向かって声が掛けられた。
「……よぉ……ノスフェラトゥ。今日は……随分とご機嫌斜めじゃ……ないか……」
「……あ?」
突然掛けられたくぐもり掠れた声に、ヴァルトは睨み付けながらそちらへと視線を向ける。決して敵意の無い言葉に対しても、険悪な態度を露にするが……汚物に塗れた路地裏の隅に見た事のある姿を捕らえ、ヴァルトは目を僅かに見開いた。
それが路地裏に転がる酔い潰れた人間や、厄介事に巻き込まれて物言わぬ冷たい肉塊になったモノならば見慣れたものだ。さして驚きもしないし、構う事も無い。
だが……そこで自分へと声を掛けた人物が、奴隷という身分から開放された日に、初めて美味い物を食わせてくれた──気の良い串焼き屋の店主ならば話は別だ。
「あんたは……」
「……よぉ。お互い……一日会わないだけで……散々な、変わり様……だな」
路地裏で座って壁に背を預けながらも、弱々しくヴァルトに向かって手を挙げる串焼き屋の店主は決して酔い潰れていた訳では無い。その姿を見れば、彼の身に何があったかは一目瞭然だった。
衣服は胸元から縦一直線に破れており、辛うじて服の体裁を保っていた。その服でさえも所々が血で滲み、破れた箇所から見える肌には何箇所も内出血で変色している。
暴行を受けてから結構な時間が経っているのか……顔は大きく腫れて内出血を起こしており、ヴァルトも声を聞かねば一瞬誰だか判断に迷った程であった。
「おい、昨日の串焼き屋じゃねぇか! 一体、何があった!?」
ヴァルトは慌てて駆け寄り、壁に背を預けているが今にも倒れこみそうな店主の不安定な身体を起こしてやる。
「……うっ、痛っっ! ……はは……、無骨なのはいいが、こっちは怪我人なんだ。もう……少し、手加減してくれ……ぐっ……」
口に笑みを浮かべ、まだ軽口を叩くだけの余裕はある様にも見える。だが、その身体は予想よりも酷かった。ヴァルトは店主の身体を抱きかかえて初めて、片方の腕が折れ本来なら曲がらない方向を向いている事に気付いた。医術士に見せない限り断言はしかねるが……大凡の見立てですら、胸の骨も折れている事が分かり、生きている事が不思議な程である。
「……何があった?」
言葉に少しばかりの怒りを滲ませて、ヴァルトは静かに問い掛けた。
「へっへへ……。何、ちょっとした商売上の揉め事ってヤツさ。……それより悪いが、こうしてまた再会出来たのも何かのよしみって事で……家まで送ってもらえないか? 昨日から帰って無いもんで……カカァが心配しちまうといけねぇ……」
「分かった、案内してくれ」
ヴァルトは呻きながら半身を起こした店主に手を貸し、立ち上がらせる。幸いにも折れていたのは片方だけだったので、そちらの腕を抱えて歩き始めた。
互いに言葉を交わす事も無く。時折方向を指示する店主の言葉に頷く程度のやり取りで、二人は道をゆっくりと進んでゆく。
やがて、ゆっくりながらも街の中心に近い大通りから一本外れた場所──店主が露店を出していた中通りにまで到着した。
元が店であったかの判別さえしかねる程に、露店も散々な状態になっていた。
店主と同様、無残に破壊された露店の前に、屈み込んで懸命に片付ける年配の女性の姿を捉えた店主が大声で女性の名を呼ぶ。
名を呼ばれた女性は驚いた様に顔を上げ、ヴァルトに肩を借りて歩く店主の元へ慌てて駆け寄る。女性がこちらへと来る様子を見て店主は顔を上げると「うちのカカアだ」と片眉を上げてヴァルトにしか聞こえない声で囁いた。
駆け寄って来た女性に対し、店主はなるべく明るい声で言葉を告げる。
「あっ! あんたぁ……!」
「よお……心配掛けてすまなかったなぁ」
「心配って……あんたっ! 大丈夫なのかい!?」
「……ん? へへっ……少し手酷くやられちまったが……まぁ、何てこたぁねぇよ」
無事な事を表現しようとしたのか、店主はヴァルトの腕から離れると腕に力瘤を作る真似をする。だが当然ながら腕が半分も上がら無いうちに、痛みで顔を顰めて呻いた。
「おいおい、あまり無理するな。あんた、腕だけじゃなく胸の骨も折れてんだぞ……」
心配して顔を覗き込む妻に店主の身体を預けた後、ヴァルトは屋台の様子を見渡し店主へと問い掛けた。
「しかし、あんただけじゃなく店までこの有様とは……一体、何があったんだ?」
「……へへっ、こんな事はよくある事でさぁ……」
「あんた! いい加減にあいつらと事を構えるのはよしなって、この前言ったばかりじゃないか! ……このままじゃ、いつか本気で死んじまうよ!」
「うるせぇ! こっちにだって商人の意地ってもんがあらぁな! おめぇは黙ってろ」
「“あいつら”……?」
唐突に始まった夫婦喧嘩を眺めながらも、ヴァルトの脳裏に昨日出会った二人の男が蘇った。ヴァルトが屋台へと赴き、店主に言いがかりをつけていた二人組だ。顔は思い出せないが、彼等の言っていた言葉が頭の隅に引っ掛かりを覚える。
「なあ、オヤジ。聞いてもいいか? “あいつら”って、昨日あんたの屋台で難癖つけていた奴等か? 確か、アルギ何とか……一家とか言ってたが」
眉を顰めヴァルトが訝しげに問い掛けると、串焼き屋の店主は伏し目がちにも笑顔を浮かべて言葉を返した。
「ははっ、情けねぇ話でさあ……“ごろつき風情に屈してたまるか”って、突っ張った挙げ句がこの様なんて……笑い話にもなりゃしない。へへへっ……」
「俺の……所為か?」
屋台の破壊に加え、店主への暴行が行われたのが昨日の今日である。
ここまで大胆な狼藉をいきなり働くような輩ならば、店主は当の昔に酷い目に合わされていたことだろう。それが急に行われたとなれば、何かしらきっかけがあっての事に違いない。
ヴァルトはその“きっかけ”が、昨日自分が起こした事件である可能性が高いと考えたのだ。
「……別にアンタの所為じゃないさ。……そろそろ、潮時だっただけなんだよ。奴等に突っ張り続けて此処で売するのも……限界だったって事さ」
「そうか……分かった」
あくまでもヴァルトの所為では無い。と笑って言い放つ店主の横顔を見て、ヴァルトはそれ以上返す言葉が見当たらなかった。奥歯を噛み、夫婦から見えない位置で拳を握り自身の爪を皮膚へと食い込ませる。
「まあここで嫁さんに会えば、後は何とか帰れるだろう? ……俺は少し野暮用が出来たから、ここらで行かせてもらうぜ」
「“野暮用”って、ノスフェラトゥ……まさかお前さん……」
ヴァルトから漂う雰囲気が僅かに変わったのを悟ったのか、店主が顔を上げて驚いた様にヴァルトを見上げる。その視線と言葉の意図に気付いたヴァルトは、小さく肩を竦めて返事を返した。
「勘違いするなよ。俺は昨日アイツ等に言ったんだ、あんたも聞いていただろ? “暴力を飯の種にしたけりゃ俺に断ってやれ”ってな。こっから先は俺の得意分野さ」
「……だけども」
口端を上げて皮肉めいた笑いを向けるヴァルトに対し、店主はさらに言葉を続けようと慌てて口を開く。だがそれより早く、ヴァルトは懐から取り出したモノを指で弾いて店主へと投げ渡した。
「……俺がうっかり渡し忘れる前に、取っといてくれ」
「こ……こりゃぁ!?」
慌てて受け取ろうとして地面に落としてしまったそれを拾った後、落ち着いて手の中にあるモノを見た店主が驚きで素っ頓狂な声を出す。主人の変貌に傍で支えていた女性も店主の手を覗き込み、そこに輝く一枚の貨幣を見て小さな悲鳴を上げた。
「きっ、金貨じゃないか……! ……あんた、この人に一体何をしたんだい?」
「オヤジさんに、昨日の串焼きの代金を払い忘れていたんでな。こいつはその代金だ……取っといてくれ」
「あれは、儂の奢りだと……それに金貨なんて大層なモンは貰えねぇ!」
「借りを作ったまんまってのは、どうも俺の性に合わ無ぇんだよ。それとな……オヤジ、あんたの串焼きは本当に美味かった。またそれで俺が食いに来た時、焼ける様にしといてくれや」
「旦那……」
腫れた顔を歪ませ、目からはボロボロと涙を流して泣き咽ぶ店主の肩をヴァルトはそっと叩く。
人に感謝などされる行為からは何年も遠ざかっていた為、胸の奥にむず痒い気持ちが走る。だがそれを悟られない様に、ヴァルトは悪戯っぽく笑った。
「俺は“ヴァルト”だ。親しい奴にはそう呼ばせてる。オヤジ……あんたとは肩書き抜きで、これからも楽しく付き合おうじゃないか」
そう言ってヴァルトは行き場の無い感情を誤魔化す為、肩からずれていた背負い袋の紐を戻しながら、泣き続ける店主とその妻に対して優しい言葉を掛けるのだった。
寄り添って自分へと感謝の言葉を述べる二人の夫婦を眺めているうちに──不思議と先程までヴァルトが内に抱いていた不快な感情は消え失せていた。