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(1-5)悲涙を生み出す拳



 鉄球の一撃を食らったヴァルトを、壁へと叩き付けた後──。



 ゴーディはすぐさま壁へとめり込んだ鉄球を引き寄せ、悠長に勢いをつける事無く再びそれを勢い良く振り下ろした。

 砕け散った木材と埃が舞う壁穴に、再び大きな鉄球が吸い込まれてゆく。

 鉄球が繰り成す鈍い衝撃は、二階建ての娼館そのものを揺るがした。

 その振動が収まる前に再度、衝撃が走る。


 娼館を破壊するかの如く、ゴーディは鉄球を振るい続ける。

 誰も何も……言葉を告げる事が出来ないまま繰り返された凶暴な破壊行為は、十を数えた頃にようやく終わりを迎えた。



 ゴーディは手元に引き寄せた鉄球を地面へと降ろした後、荒い息を吐く。

 鉄球の大きさだけならば恐怖で身を寄せ合う姉妹の姉──マリエラ程度だが、その重さは呆然と壁の穴を凝視したまま固まっているアンジェリカの体重をも遙かに凌駕する。そんなものを先程までずっと振り回し続けていたのだから、呼吸が酷く乱れるのも当然だった。


 肩で大きく息をしながらも、ゴーディは娼館の壁に開いた大穴から視線を外さない。

 追撃に追撃を重ねた甲斐があったのか、壁の大穴からはヴァルトの気配が完全に消えていた。

 あれほどにまで強烈な、まるで砲弾と見紛うばかりの攻撃を幾度も喰らったのだ。さしもの拳帝といえども、今では息も絶え単なる肉の塊になっている事は想像に難くない。



「…………」

 息を整えながらも、ゴーディは無言で内心から湧き上がる快哉に酔い浸る。

 あの無敵無敗と恐れられ、“不死者”や“拳帝”と呼ばれた男を今まさに自らの力で殺したのだ。これから自分が歩くだろう栄光の道程を思い浮かべるだけで、顔がにやける事など我慢できる筈も無かった。



「へ……へっへへへへっ!」

「……ゴーディ……あんた……っ!」

 いち早く我へと返ったアンジェリカは、殺気にも似た怒気をゴーディへと放つ。しかし、当のゴーディは禿げた頭を満足気に一撫でして、にやける面を隠そうともしない。


「おうおう、怒ってるのかアンジェ? 獲物はこの“鉄球のゴーディ様”が頂いちまって悪かったなぁぁ! まっ、壊しちまった壁はきちんと弁償してやるから安心……」

 だが、ゴーディの言葉は続かない。

 今しがた浮かべていた笑みも次の瞬間には凍り付き、真っ赤になるほど血の巡りが良かった頭からは血の気が一気に失せる。“茹で蛸”と嘲笑われていたその顔は一瞬で氷蛸へと変化した。


「な……なっ……!?」

 アンジェリカもゴーディ同様──声は抑えるも全身から血の気が失せ、突然膝が震えだす。

 唐突にゴーディが開けた穴の奥から溢れ出した濃密な気配が、百戦錬磨の賞金稼ぎと一流の暗殺者をも恐れさせた。




 それは殺気でも無く。

 怒気でも無く。

 ましてや……闘気でも無い。


 ──だが、それらの“全て”を含んだ気配だった。




 云うならば──“歓喜”

 それは、狂おしいまでの喜び。

 狂喜、とでも云うべきものが漂っていた。


 戦いの場にある事自体、似つかわしく無い喜び。

 逆に……戦いの場であるからこそ、ぴったりと納まる狂気である。




 その混沌とした気配が『見える』と錯覚できる程に濃密さを漂わせ、穴の中から霧の様に溢れ出す。食堂とその場にいる者は、混沌に犯され誰も言葉を発する事など出来なかった。


「……ぁ、……ああ。フォ……ィ…………全、く……」



 未だに埃が舞う穴の中から、くぐもった低い声が聞こえる。

 乱暴に破壊された──木の繊維が剥き出しとなり、ささくれだっている穴の縁を大きく無骨な手が掴む。皮膚に木が刺さり、手から血が滴り落ちた。

 だが傷付く事すら構わず身体を起こし、姿を現したのは──“拳帝”と呼ばれ“不死者”とも呼ばれ、闘技場で畏怖された者では無い。

 それは、世間で呼ばれた名からは余りにも掛け離れた……男の姿だった。


「楽しいなぁ……あぁ、全く楽しい! なぁ、そうだろう? フォルトナ? ルシィ? こんなに楽しいのは……そうだ。花節の祭で、湖へ遠出に行った時以来だ……」

「ヴァル……ト?」

「なんだ? ……アンジェ、俺は今楽しいんだ。邪魔しないでくれ」


 震える声でアンジェリカが無意識の問いかけに対し、これまでヴァルトと呼ばれていた男は軽く一瞥しただけだった。

 口調とは裏腹にヴァルトの細い瞳に濃く漂う、憂いの色に気付いたアンジェリカが再び口を開くも──興味が無いとばかりに視界から姿を追い出され、喉元まで出掛かった言葉を噤む。


 アンジェリカは大きく二度三度と瞬きを繰り返し、穴から這い出てきたヴァルトを見つめる。なおも押さえようのない震えと奥歯が恐怖で鳴っていたが、それすらも忘れて凝視を続けた。

 穴から這い出てきた男は、昨夜ベッドで幾度も肌を重ねたヴァルトに間違い無い。

 断言も出来る。

 だが──暗殺者と娼婦の二つの勘が違うモノだと訴えかけてくる。

 そして、先程から“逃げろ!”と本能に警鐘を鳴らし続けていた。



 アンジェリカは、まるで底の見えない井戸の闇を覗いてるかの様な錯覚を受ける。

 “あれ”は恐らく、本来ならば人間風情が直視してはいけないモノだ。深淵とも、闇にも感じられる気配に引き摺り込まれては……二度と陽の当たる場所へと戻れないかもしれない。



「──っくっそおおおおおお!」



 突如、雄叫びと共に鎖が伸びる鈍い音がアンジェリカの耳へと届く。見るとゴーディが体の震えを押さえて、絶叫に似た叫びを挙げながらも鉄球を振り回し始めていた。

 アンジェリカはなおも定まらぬ思考で、ゴーディを内心賞賛する。これほどにまで異質な気配を感じて、まともに行動……しかも、敵対行動をとれる者などそうはいない。もしいるとするのならば、超一流の戦士か……もしくは底が抜けた大馬鹿者ぐらいだ。


 アンジェリカが感心したのも一瞬だけ、ゴーディが後者だということはすぐに知れた。

 鉄球を振り回すゴーディの瞳からは、正気の色が全く伺えない。



 ──恐怖に心が飲み込まれてる……


 アンジェリカが抱いた思いを裏付けるかの如く、ゴーディが振り回す鉄球にも怯えが表れ、先程まで流れるような鉄球捌きの色彩がなくなっている。今のゴーディの鉄球を見る限り、力任せにただ振り回しているだけなのは明白だった。


「フォルトナ、ルシィ……大丈夫だよ。心配しなくていい。もうすぐだ……もうすぐ、きっと……」

「なん……何だよ! 何だ!? お前は……! 一体何なんだよぉぉ!」


 完全に穴から姿を現したヴァルトの姿は、思わず眼を背けたくなる程に凄惨なものだった。着ていた服は擦り切れ、上半身は殆どの箇所から肌が露出している。さらに至る所からは血が流れ出ており、立っているのが信じられない程だった。

 だが、問題はそこでは無い。

 アンジェリカやゴーディの見ている目の前で、身体中に刻まれたヴァルトの傷がはっきりと塞がってゆく様子が、何よりの“異常”だった。

 その目の前で行われている異常な光景が、ゴーディの恐怖感をさらに加速させる。



「なぁ、お前……もっと強いんだろう? もっと隠した力があるんだろう? それを見せてくれよ、俺を殺せる力を……この、忌まわしい生を終わらせる力を……」


 ゆっくりと……一歩ずつ床の感触を確かめる様に、ヴァルトはゴーディへと歩み寄る。顔は満面の笑みを形作り、両手も相手のすべてを抱き留めようとするかの如く大きく広げていた。

 最初はヴァルトが錯乱しているのかとアンジェリカは疑っていたが、先程こちらを見て名をしっかりと呼んだ時点でその可能性は否定されている。

 意識がしっかりとしているからこそ、今ゴーディへと歩み寄っているヴァルトの存在は狂気染みた恐ろしさが秘められていた。

 折れてあらぬ方向へと曲がっていた指は戻り、血が流れ出ていた傷口も既に塞がっている。

 アンジェリカはその光景を、呆然と眺める他無い。まるで夢を──それも、とびきりの悪夢を見ているかの様な気持ちに包まれた。


「ノ……“ノスフェラトゥ”」

 脳裏にふとある名前が思い出され、アンジェリカは知らず知らずのうちに口ずさむ。

 それは、誇張されて伝わったとばかりに思い込んでいた──目の前に立つ、常識から逸脱した存在に授けられた名であった。



 ゴーディの精神が持ったのは、後退りを続け……丁度最初にヴァルトと対峙した時の距離を保った時だった。


 恐怖心からずっと振り回していた鉄球を、遂にヴァルトに向かって投げ放つ。それは攻撃と呼べるほどのものでは無い。恐怖の対象を自分から遠ざけるためだけの行動であり、力任せに投げられた鉄球は、ただ力自慢の素人が投げ放った様に勢いがなかった。

 だがゴーディも、一流と呼ばれているだけあり体が覚えていたのだろう。放たれた鉄球は狙い違わずヴァルトに向かって飛んでゆく。

 先程直投の軌道を見切っていたヴァルトを前に、単に投げただけという直線的な攻撃が当たる訳も無い。アンジェリカはそう判断していたのだが……一方のヴァルトは避ける素振りすら見せず、その場に立ち尽くしていた。


 アンジェリカの後ろへと隠れ、震えていたマリエラとソフィアが小さく悲鳴を上げてアンジェリカの服を一層強く掴む。今は幼い姉妹達の身を第一に考えるべきなのだが、アンジェリカ自身も未だ身体に力が入らない。

 この後起こるであろう惨事に対して、アンジェリカは懸命に瞳を閉じようとする。だが黒い大きな瞳はそれを拒否し、まるで魅入られたかの様に目の前で展開される光景から眼を離す事が出来なかった。



「こ、今度こそ……」

 いくら力任せに投げただけとはいえ、大の大人以上の重量を持つ鉄の塊である。当たれば確実に先程同様、この薄気味悪い相手を壁まで吹き飛ばせるだろう。

 ゴーディの醜い顔が、ようやく覚えた安堵に歪む。

 だがそれは、ほんの一瞬にしか過ぎなかった。


「……何だ、これは?」

 鉄球がヴァルトに襲い掛かり、再び壁際へと叩きつけられる音はいつまで経ってもアンジェリカの耳には入ってこない。代わりに聞こえてきたのは、ゴーディが恐怖の余り引きつらせて出す呼吸音と、静かに問い掛けるヴァルトの声だけだった。

「こんなものじゃないだろう? さっきの勢いはどうした。骨を砕き肉を潰す……あの鉄球の破壊力はどこにいったんだ……?」


 ゴーディに問いかけるヴァルトの声色には、心底不思議に思っている色があった。それと同時に、ただ無邪気に質問しているだけにも聞こえる。

 しかし──、その無邪気な声色とはほど遠い姿は、見ている者に戦慄を与えた。



「……鉄球の中に刻印を仕込んだ刻印魔具で自在に硬度を操っていたのか、成る程。だが、こんなものじゃないんだろ?」

 鉄球は当たる寸前で、ヴァルトが挙げた手によって止められていたのだ。それも片手のみで、一歩も下がること無く止められている。

「どうした? ほら、その程度じゃ……俺は死なないぞ?」

 もう一度問い掛けるヴァルトの声色。そして、自分が絶対の自信を持っていた鉄球をいとも簡単に片手で止められている光景を前に──ゴーディに残されていたなけなしの理性が、今度こそ完全に吹き飛んだ。



「う……うぁ……ああぁ。うわぁあぁぁあぁあぁっ! 化け物。この化け物ぉっっ!」


 半狂乱になりながらも、ゴーディは鉄球を戻そうと繋がっている鎖を力の限りに引っ張る。だが鎖は、引っ張られる度に鈍くジャラリと金属の音を響かせるだけだった。いくらゴーディが力任せに引こうとも、鉄球はヴァルトの手に吸い付いて離れない。


 否──吸い付いている様に見えるが、実際は違った。


「どうして……そんな……」

 アンジェリカはその目で見ている光景が現実とは思えず、ただ驚きのばかり目を見開く。

 ヴァルトは鉄球を片手で防いでいた訳では無い。先程大柄なヴァルトをも容易く吹き飛ばした凶悪な塊を片手で“掴んで”止めていたのだ。黒い鉄球に指を食い込ませ、言葉通り“掴んで”いた。


「まさか、この程度なのか? お前も弱いのか? お前も俺を……殺してくれないの、か?」


 いくら引こうが寸分も動かぬ鉄球と、鉄が上げる軋みの振動が鎖を通じてゴーディへと伝わる。

 この時、ゴーディにほんの僅かでも理性が残っていたのならば、直ちに鎖を離して“逃げる”という選択肢を迷わず取れていただろう。だが、恐怖によって完全に凍結された思考は……最も安易であり、最も最悪な選択を取ってしまった。



「ほら、早く……もっと楽しませてくれないか? でないと、フォルトナとルシィが……また、消えちまう……」

「ひぃいぃい……離せっ!? いいから離しやがれっ! こっ、この化け物っ! 死ねシネシネ! 死ぬえぇぇぇぇっ!」


 震える手へとより一層力を込め、恐怖で白くなった唇から短い言葉を呟きながら、ゴーディは鎖の持ち手に刻まれている刻印を撫でる。それが魔具を発動をさせようとしている事にアンジェリカが気付いた時には、鎖から鉄球へ紫電が走っていた。突如走った雷は、容赦無く鉄球を掴むヴァルトの身体へと襲いかかる。


 紫電は青白い火花を散らしながら、ヴァルトの肉を焼き身体の芯である骨を焦がした。当然、ヴァルトが味わっている痛みは普通の人間ならば、一瞬の悲鳴の後に衝撃で息絶える程のものだ。

 但し、“普通の人間”ならばの話である。

 食堂内に食肉を焼く香ばしさとは異なる、人の肉が焦げる不快な臭いが立ち込めた。



「へ……へへっへへへぇへへへ……っ! ひぃぁ! ひぃぃいぃ……」


 誰もが、臭いと人が目前で焦げてゆく異様な光景に唖然と言葉を失う中。ジャリ……と、床を擦る音だけが鳴り響く。それは今も紫電を大きな身体に纏わり付かせ、至る所から煙りとも水蒸気とも分からない揺らぎを立ち上らせている男の方から聞こえてきた。


 ゴーディの目には信じられないものが映り、今度こそ絶句する。

 有り得ない。それは、決して有ってはならない事だ。

 今まさに、ゴーディの抱く“常識”という常識全てが、根本から音を立てて崩れ去っていった瞬間だった。


 今ゴーディが魔具であった鎖を通じ放った雷は、成人男性よりも数倍の身長を持つトロールですら絶命させる事が出来るのだ。人間ならば骨の髄まで焦がし、殺せるだけの力がある筈だった。

 しかし、目の前の男は──“拳帝”と呼ばれた元奴隷闘士は……その雷を闘気の様に纏い、何事も無いかのような素振りで一歩ずつゴーディへと歩み寄っていた。

 ヴァルトが一歩進む度に、床に黒い足跡が焦げ残る。それは……死神の足跡を彷彿させる程、黒く禍々しく感じられた。


「これが、お前の力なのか? こんなものが……?」

「っ……! ひぐぅっ!」

 ゴーディは身体が恐怖で硬直し、指一本満足に動かす事も出来無い。既にゴーディの数歩前にまで歩み寄ってきていた男の雰囲気が言葉と共に一変し、死への恐怖がより身近へと迫る。

 得体の知れない気配は掻き消え、代わりに怒気が──触れるだけで殺されてしまうかの様な殺気へと変わっていた。


 ──殺されるッッ……!


 ゴーディがそう思った時には、ヴァルトはもう手の届く所まで近付いていた。


「……もう、いい。もう……ルシィもフォルトナも“消え”ちまったよ……。お前じゃ無理だったんだ……だから、お前もこの世から死んで消えろ……」

 諦め、蔑み、失望。

 それらの感情が全て混ざった瞳で、ヴァルトは目の前で震える男へと向かって空いている方の腕を伸ばす。ゆっくりとゴーディの禿げた頭を、血が残るも今では傷が完全に癒えた手でヴァルトは掴んだ。

 未だ魔具から流れヴァルトの身体を走っていた紫電が、腕を通じてゴーディの顔へと流れ込む。


「……アワヴュッ!」


 ゴーディが短く悲鳴を上げると、手から鎖が落ちた。魔具から魔力が途切れ、ヴァルトが握ったままの鉄球は雷を発する事無く単なる鉄の塊へと戻る。だが、ヴァルトは構わず指に力を込め続けた。鉄球にすら穴を開ける力で、ギリギリとゴーディの頭を締め上げていった。


「あが……あがっ……」

 無言で口端を上げ犬歯を見せた笑顔を浮かべているものの、ヴァルトの眼は正反対の色を浮かべたままだ。それでも、命の灯火を握り潰すのを楽しむかのようにゆっくり……ゆっくりとゴーディの頭を締め上げる。

 ヴァルトの指に力が篭る度、小さい悲鳴と骨の軋む音が食堂内に木霊した。



「ヴァルト! ……駄目っ!」


 その時──我に返ったアンジェリカが声を張り上げ、咄嗟に静止の言葉を叫ぶ。

 舌打ち混じりにヴァルトはつまらなそうな表情を浮かべ、そちらを一瞥する。その目に映ったのは美しい顔を蒼白に染めたアンジェリカと、妹を庇うように抱き締めたまま黙ってヴァルトを見据える姉のマリエラの姿だった。


「……邪魔するなよ、アンジェ。お前だって人の命を──」

 吐き捨てる様に言い放つも……唐突に頭の奥が鈍い痛みを訴え、ヴァルトは言葉を止めた。




『俺にはな……俺には待ってる娘達がいるんだッッ! なのに、こんな所で……こんな所で……っ!』

 過去に聞いたある男の声が頭の奥に響き、ヴァルトは半ば無意識に掴んだ頭を握る力を緩めていた。


 ──畜生っ! こんな時に、何なんだ……


 苦々しく頭の中で木霊する声に悪態を吐くと、ゴーディをその手から解放してやる。ヴァルトの手から離れたゴーディは声をあげる事無く、その巨体を倒れ込ませた。

 絶命した可能性も示唆して、アンジェリカがその巨体の胸元を注視する。幸いにもゴーディはただ気絶しているだけの様で、口からは泡を吹いているが呼吸は安定していた。


 一方のヴァルトは深く溜息を吐くと、視界の端でアンジェリカと抱き合う姉妹へと目を向けた。先程まで身体を支配していた震えをようやく制御したアンジェリカと目が合う。震えこそ今では止まっているものの、黒く大きなアンジェリカの瞳に明らかな怯えの色が窺えた。

 アンジェリカと姉妹の様子を見た後、ヴァルトは小さく自嘲の笑みを浮かべる。

 ヴァルトはもう興味は無いとばかりにゴーディの体を跨ぎ、部屋の隅に置いておいた自分の装備一式が入った背負い袋を手に取った。

 無言で背負い袋に入った装備の音だけを鳴らし、食堂の出口へ向かって歩みを進める。



「世話になった……もう二度と会う事も無いだろう」

「あ……ちょっ!」

 大通りに面する扉の前で立ち止まり、ヴァルトは振り返らずにたった一言だけ呟く。状況に思考が追いつかないも、制止の言葉を告げるアンジェリカを無視して扉へと手を掛けた。


 その時、ヴァルトの身体に軽い……本当に軽い、衝撃が走る。

 小さな気配がこちらへと向かって来ていた事は、ヴァルトも気付いていた。だが、敵意の無い薄い気配を避ける必要は無いと思いそのまま放っておいただけだ。



「マリエラちゃんっ!」

「……何だ、チビ」

 ヴァルトは怒る素振りも見せず、感情を殺した瞳を腰の辺りへと降ろす。破れて形を殆ど残していない服の腰辺りに小さな手が添えられて、小柄な人物──マリエラがしっかりと掴んでいた。先程の軽い衝撃は、出て行こうとするヴァルトを慌てて止めようとマリエラが体当たりした結果だった。

 裾を掴むマリエラが浮かべる表情を見て、ヴァルトは思わず足を止める。

 マリエラは震えながらも口を真一文字に結び、蒼い双眸には力強い輝きが見えた。揺るがない強い意志を宿した瞳のまま、マリエラは自分より遥かに大きなヴァルトを見上げて叫ぶ。


「……お父さんっ!」

「……えっ!? ヴァルト貴方……」


 マリエラの放った一言に、アンジェリカは思わず動揺の声をあげる。だが、当のヴァルトは至って冷めた目でマリエラを見つめるだけだった。


「あの……おじさん、闘技場に……いたんですよね? その人が言ってたから……あの、お父さんを……グランと言う人を知りませんか……?」

 ゴーディが現れるまでは大声を放ってヴァルトと料理を取り合っていたマリエラだったが、先程の光景を見て恐る恐る言葉を選んで尋ねている様子が伺える。手こそしっかりとヴァルトの服を掴んでいるが、その足は未だ恐怖の為か僅かに震えていた。


「……名を言われても分からん。何か特徴はねぇのか?」

 冷めた視線を送ったまま、それでも話を聞く気になったヴァルトに対してマリエラは必至に首を捻りながら言葉を選ぶ。

「えっと……えっと、あ! お父さん、首の所に大きな傷があって……それと、指が一本無いんです! 知りませんか? 何でもいいんです、知ってたら教えてくださいっ!」

「……首に傷、指が無い……か」


 ヴァルトは訝しげに呟くも、少女から聞いた特徴に当てはまる男を思い出す素振りは見せない。必至に特徴を挙げるマリエラからの言葉を聞いた瞬間には、既に頭の中で一人の男が浮かび上がっている。

 それは不可思議な事に……今しがた頭の中で響いていた、声の主と完全に特長が一致していた。


 マリエラの顔を見下ろしながらも、ヴァルトは過去に出会った男と交わした会話を思い出す。




『お前……奴隷しては目が生きてやがるな? 面白ぇ……』

『俺は奴隷じゃ無い! 金が……どうしても金がいるんだ!』

『成る程。金に目が眩んだ“志願闘士”……か』

『うるさい! 家族を守るためには……未来を勝ち取るためには金がいるんだ!』



『……どうした? もう終わりか? ……“未来を勝ち取る”んじゃなかったのか?』

『俺にはな……俺には待ってる娘達がいるんだッッ! なのに、こんな所で……こんな所で……っ!』




 鮮明に思い起こされるのは、会話だけでは無い。

 自ら振るった拳と、男の命を終わらせた瞬間の感触まで──全ての事柄が鮮明に記憶として蘇り、ヴァルトの五感を刺激した。


 ──この娘達は……あの男を待っていたんだな。そしてあの男も、この娘達を守る為に……成る程な……これが、俺の罪に対する罰なのか……



 マリエラが必至に見上げる中、ヴァルトは一度だけ瞼を閉じる。一つ大きな溜息を吐いた後、変わらぬ表情でマリエラを見つめ直した。



「知っている……」

「ほん……とう、ですか……?」

「……ああ」

 驚きと喜びに眼を見開くマリエラを無表情で見つめながら、ヴァルトは自然と重くなる口で現実を述べる。


「その男なら、俺が殺し……」

「マリエラちゃんっ!?」

 自分でも知らぬ間に眼を細め、真実を述べようとしたヴァルトだったが……突然自分へと寄り掛かってくる少女の身体と、彼女の名を呼ぶアンジェリカの叫びによって言葉が遮られた。


 咄嗟にヴァルトは手を伸ばし、小さな体が崩れ落ちない様に受け止める。アンジェリカが駆け寄り、白くなった顔色を伺う間もヴァルトはその光景をぼんやりと眺めているだけだった。

 気を失っているだけだと分かり、アンジェリカが安堵の息を吐く様子もヴァルトは眼に入らない。その視線は呆然と、ヴァルトの服の裾を掴み決して離そうとしないマリエラの小さな手だけを見つめ続ける事しか出来無かった。




 気を失っても、しっかりと服を握っているマリエラの小さな手。

 それはまるで──離してしまうと最後、父との繋がりが切れてしまうのでは無いかとばかりに強く、強く握られたままだった。













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