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(1-4)狙われた拳



 アンジェリカはテーブルに片肘を置き、頬杖をついている。

 空いている方の手で磨り減って光沢を放っているテーブルの木目をなぞりながら、深く深く溜息を吐いた。


「お腹ってのは……そりゃまあ、減るものだけど……」

 アンジェリカの目の前には、スープと肉を片付けた皿が幾重にも積み重ねられている。

 その数はすでに数十枚と重なり、今やテーブルの一角は塔のようになってしまっていた。


「それにしても……本当、よく食べるわね……あなた“達”」


 溜息を吐きながらも、アンジェリカは何度目か分からない感嘆の言葉を溢す。

 次々と出される料理を片っ端から征服し、皿で出来た塔の建設をしているのはヴァルトだけではなかった。ヴァルトとテーブルを挟んで向かい側──アンジェリカの隣に座っている、幼い姉妹がヴァルトに負けじと必死で口に食べ物を運び続けていた。

 最初の頃は面白がってアンジェリカも微笑みながら様子を眺めていたのだが……皿が重ねられてゆくにつれ、その表情は驚きと呆れの気持ちへと変化していった。



 朝の街で出会ったマリエラとソフィアと名乗った幼い姉妹を連れて、アンジェリカが娼館へと戻ったのは今から一鐘(二時間)程前の事だった。


 湯を沸かし二人を風呂に入れた後、服を着せて身なりを整えてやった姉妹の姿は見違える程に可愛らしいものだった。腹を空かせているという事もあり、そのまま二人は食堂へと案内された。先程外から昼の初鐘を告げる鐘の音が聞こえたので、昼食には丁度の時間だろう。

 丁度火含石の準備を終えていた事もあり、食事はすんなりと出てきたのだが……先程からそれは物凄い勢いで消化され、まさに“戦場”と呼ぶに相応しいものとなっていた。



「ちょ……おめぇ! その肉は俺のだろう!?」

「そんなの誰が決めたの? これは私の!」

「俺が決めた! 今決めた!」

「……大人げない……」

 肉が乗った大皿をフォークで指し示し、腰を浮かせて抗議するヴァルトを見てアンジェリカがボソリと呟いた。マリエラとソフィアも無言でヴァルトを眺め──女三人の冷たい視線が突き刺さる。これには流石のヴァルトも、浮かしかけていた腰を萎らしく降ろす他無かった。


「まあまあ、食えるに越した事は無いさ!」

 反論する言葉も見当たらず、バツの悪そうな顔を浮かべたヴァルトに代わり弁明の言葉が出たのはその時だった。その人物は食堂の扉を勢い良く開けると同時に現れ、威勢のいい声と共に香辛料のよく効いた香ばしい匂いも雪崩れ込んできた。


「アンジェもアンジェだよ、そう責めてやりなさんな! これだけ図体でかいんだ、それ相応に大飯喰らいなのも合点がいくだろ? ほらよ、旦那。追加をやるから、コイツで手を打ちな!」

 部屋に入ってきたのは啖呵に劣らず、恰幅のいい中年女性だった。豪快に笑いながら、盆に載せた厚切りの焼いた肉をヴァルトの前へとドンと置く。

「助かった……俺の味方は姐さんだけだぜ」

 心底安心した様な口調でヴァルトが呟くと、その言葉を聞いた女性は満足気に頷く。目尻の皺が目立つ笑顔を浮かべ、返事代わりに大柄なヴァルトの肩を盆で遠慮する事無く叩いた。


 ヴァルトが薹も立つこの女性──娼館の台所を預かる人物を“姐さん”と呼ぶのには、理由があった。この女性は見掛け通り、気も相当強く……仮にも“おばちゃん”などと呼ぶと鉄のお盆か、刃物を容赦無く飛ばしてくる物騒な人物であったのだ。

 昨夜アンジェリカと共に宿へと宿泊した際、部屋に食事を持って来たのが彼女だったが、その際、口の悪いヴァルトがうっかり“おばちゃん”と呼んでしまい……有無も言わさず包丁を投げつけられる羽目となったのだ。

 それ以来、ヴァルトも彼女を“姐さん”と呼ぶ様に心掛けている。



「駄目よ、マゼンダさん。男は甘やかすと図に乗るんだから!」

「ちょっと待て……俺は駄目亭主か何かか?」

「何よ、私は本当の事を言ってるだけじゃない」

「……駄目亭主なんだ」

「だめていしゅ~!」



 ソフィアが気に入った単語を繰り返す様子は素直に可愛らしいが、内容が内容である。先程ヴァルトが『唯一の味方』だと言っていたマゼンダですら、ソフィアが叫ぶ言葉に対し大笑いを響かせていた。


 幼子にさえ馬鹿にされた様な錯覚を受け、ヴァルトはがっくりと肩を落とす。それでも、無言の抗議とばかりに、目の前に置かれた肉へと齧り付くのだった。




「ねぇ、貴女達。聞きたい事があるんだけど……いいかしら?」



 若干聞き辛そうな表情でアンジェリカが話を切り出したのは──ようやく食欲が満たされたマリエラとソフィアが、満足気な笑顔を浮かべて互いの顔を見合わせていた時の事だった。


「その……貴方たちの御両親はどうしたの?」



 浮浪児になった理由は大凡の検討はついているのだろうが、アンジェリカは敢えて聞いたのだろう。彼女達に両親の影が感じられないのは、最初に出会った時からヴァルトも薄々感じ取っていた。

 肉を奪い合う相手が脱落した事により、ヴァルトは口に料理を運ぶ手を若干緩めながらも事の成り行きを静かに見守ることにする。




 浮浪児になる理由など、少しばかり年齢を重ねてきた人間ならば誰もが容易に想像出来ることだ。


 恐らく、この姉妹も親に『捨てられた』類なのだろう──多少の語弊があるが、『親が捨てた』と表すよりも、村が『捨てた』と言った方が相応しいかもしれない。

 飢饉などで口減らしが必要な際や、両親が死んで孤児となった場合、村にとっての不利益になる者を村から街へと捨てに来る場合があった。そういう経過を経た浮浪児の大半は、住居も無く街へと住み着く結果となる。勿論、市民権などは無いので長期に渡る不法滞は違法行為なのだが……広い都市でこれらに該当する人間を取り締まるには、膨大な人手と費用が必要となる。結果として、何処の国でも同じ様に実質黙認されている状態だった。




 アンジェリカの言葉は重く、先程までの明るい喧噪の余韻すら消し飛ばすものだった。

 室内は気まずく、重い沈黙に支配される。

 二人の姉妹──妹のソフィアは何を聞かれているのか解らず、きょとんとした表情を浮かべているが、姉のマリエラは口をキュッと強く結び、黙り込んで俯く。一方のアンジェリカも、マリエラの態度を見て言葉が告げない事が伺えた。



「言いたくねぇなら、別に言わなくていいんじゃねぇか?」



 部屋に漂う沈黙を一蹴したのは、ヴァルトが放った言葉だった。

 さして興味が無い素振りを取っていたが、気まずい空気の中で食事など進むわけが無い。なによりヴァルトは──俯いて眼を伏せているマリエラを前にして、無関心を決め込む気にはなれなかった。だからこそ、思わず口走った一言でもあった。


「人には聞かれたくねぇ事の一つや二つあるもんだ」

「……ヴァルトの言う通りね」

 ヴァルトが漂う雰囲気に耐えかねて放った一言を、自分への叱責と感じたのだろう。アンジェリカもヴァルトの言葉にすんなりと同意して謝罪を述べた。

「……ごめんなさいね、答えたくないのなら答えなくてもいいわ。ただ、今から言う言葉だけはちゃんと答えて欲しいの。いいかしら?」

 そう言ってアンジェリカは、幼い姉妹の顔を一人ずつゆっくりと見た後に笑顔を浮かべる。


「今日から、貴女達二人に此処で暮らして欲しいのだけど……どう?」

「……えっ?」

 アンジェリカの言葉が余程意外だったのか、マリエラは俯かせていた顔を上げて驚きの表情を浮かべる。


「何を驚いてる?」

 満面の笑顔で頷いて承諾するソフィアとは異なり、驚いて言葉を失っているマリエラに対して、ヴァルトは口に料理を運びながらも平然と言い放った。

「何処の世界に親切心だけでお前等みたいな浮浪児に風呂を与え、食事を与える物好きがいるんだ? いいか、お前達は拾われた。そして風呂に入れられ、飯も与えられた。その代価は支払うべきだろ? “働かざる者食うべからず”ってやつだ」

「ちょっとヴァルト! こんな小さい子に向かって……他にも言い方ってものがあるでしょ!」

 歯に衣着せぬ物言いで告げるヴァルトの言葉に、アンジェリカが慌てて訂正を付け加える。


「えっと……御免なさいね。このおじちゃん馬鹿だから、余り気にしないでね」

「……おい」

「マリエラちゃんとソフィアちゃん。貴女達にどんな事情があるにせよ、貴女達だけだとこの街では生きていけないわ。でも勘違いしないでね、私は貴女達に強制するつもりも無いから質問させてもらったの。だから……よく考えて選んで。私は貴女達に毎日食事を与える事も出来る、お風呂だって毎日入って貰っても構わない。勿論、此処に住むのなら掃除とか洗濯とか……色々と仕事もしてもらうけれども」

「掃除とか洗濯……ねえ」

「……余計な事、言わないで」

 年齢的には余りにも無理があるとは思いつつ……てっきり彼女の職業柄、アンジェリカの示唆する“仕事”の内容をあれこれと推測していたヴァルトが思わず感嘆の声を漏らす。だがそれも、立ち上がって隣の席へと腰掛けたアンジェリカに脚を思い切り踏まれた挙句、睨まれてしまったので続く事は無い。今度こそ、ヴァルトは肩を竦めて黙った。



「急に色々言って混乱したかもしれないけれど、選ぶのは貴女達よ。此処に住んで働くか……それとも、拒否をして今まで通りの見窄らしい浮浪児に戻るか。今日は泊まってもらって、答えはそれからでもいいから……ね?」

 アンジェリカは、マリエラ達の瞳を正面から見据えて問い掛けた。

 傍から聞けば、厳しい言葉に聞こえるかもしれないが……言っている事は曲げられない事実のみである。



 浮浪児達には市民権はおろか、人権ですら存在していない。

 マリエラやソフィアの様な子供が路上生活を続けてゆけば、当然の如く欲に塗れた汚い大人達の手によって餌食となるのは目に見えていた。

 この国では市民が奴隷を持つ事を禁じているものの、何事にも抜け穴というものが存在している。養うと甘い言葉で子供達を誘惑して、後は奴隷同様に扱う者なども世に掃いて捨てる程いることだろう。

 大きな街に行けばよくある話だ。二束三文の金さえ与えれば、奴隷とは認められず雇用しているものと見なされ、国も手出しは出来無い。

 手元に置かなくとも、貴族に“奉公に出す”という手段を取り、幾ばくかの金を得る者も無論いることだろう。実の親でもその様な者は少なくは無い。“奉公”と云えば響きはいいだろうが──大概は、貴族に性奴隷として娘を売り飛ばす事を示している。


 マリエラとソフィアの幼い浮浪児……しかも女の子が今まで無事であったのですら、ヴァルトは奇跡的だとも思えた。

 勿論、それらの事情を解っていてもアンジェリカは、二人の意思を問わずにはいられなかったのだろう。何をするにしても、自ら選ばずに一方的に選択をさせるというのは奴隷と同じだ。本来ならば、有無も言わさず選択権さえも奪うところだが、そこはアンジェリカという女性の優しさが充分に感じられた。



「あ……アンジェ、さん」

 椅子から立ち上がったマリエラが顔を上げ、正面へと座ったアンジェリカを見据える。幾分大きめな服の裾を握る手は震え、結んでいる口と表情も硬い。だが意を決したのか、その蒼い瞳には強い意志が宿っている事が伺えた。


「私は、お父さんが帰ってくるまで待たなきゃいけないから……でも、ソフィアだけは……」

「お父さんを待ってる? マリエラ、一体貴女……」


 マリエラの言葉を聞いて、アンジェリカの目が驚きに見開かれる。続けて理由を問うべく口を開くが、それは最後まで言い終わらぬうちに閉ざされた。




 酒場と食堂を兼ねた娼館の一階──外の通りに面した扉越しに、突然強い殺気が放たれ察知したアンジェリカが言葉を止めたのだ。無論、ヴァルトもそれを察知していたのだが……皿に残された料理を片付ける作業を淡々と行うだけで、アンジェリカの様に表立って警戒する事は無かった。


「邪魔するぜ?」


 凄まじいまでの殺気が放たれた直後、扉が粗野な大声を伴って乱暴に開け放たれる。

 扉の向こうから現れたのは声と同様、粗野な外見の大男だった。体格もさることながら、頭を綺麗に剃り上げジャラジャラと音が鳴る背嚢を背負って現れたその姿は、見るからに荒事専門の雰囲気を身に纏っていた。


「……“鉄球のゴーディ”……何の用かしら?」

「おうおう。俺様の名前をご存じたぁ、嬉しいねぇ。あんたがアンジェって女か? それとも俺様の名前が有名になっただけか?」

「自惚れが過ぎるわね。それと私を呼ぶ時は“アンジェリカ”と呼びなさい」


 嫌悪の色を滲ませた視線で大男──ゴーディとを睨み付けながら、アンジェリカは静かに立ち上がると自然な動作で二人の少女を庇うように立ち位置を変えた。

 一見すると、娼館に入ってきた客を出迎えただけの接客にも見える。ヴァルトはその気配さえ感じさせない、自然なンジェリカの動作に内心感嘆を覚えた。

 それでもヴァルトは自ら動く事をしなかった。食後の茶を啜り、我関せずとばかりにどっかりと椅子に座ったまま傍観を決め込む。


「……悪いけど、用が無いならお引取り願うわ。ここは私の縄張りよ? それとも……貴方はそんな事も知らないお上りさんなの?」

「がっはっははっ! 気の強い女は嫌いじゃねぇぜ、なあアンジェ?」

 氷の様に冷めた視線と言葉をアンジェリカから受けてもなお、ゴーディは愉快だとばかりに大声で笑い飛ばした。


「なに、そう邪険にすんなよ、今日は客として来てんだ。それとも……何だ、あんたが俺様のお相手でもしてくれるのか?」

「生憎と、私は特別な客専門なの。それに今はお昼だからそっちの商売は開店前よ」

「それは残念だ。じゃあ飯だけでも食わせてもらうか……勿論、嫌とは言わねぇよな? 俺様は客なんだ」

 アンジェリカが放つ嫌悪の意図を汲み、ゴーディはなおかつそれを逆手に取った発言を行う。アンジェリカが無言で肯定を渋々示した後、ゴーディは醜悪な顔に笑みを浮かべさらに言葉を続けた。



「ま、たまたま闘技場上がりの奴隷が臭くて潰すかもしれんがな?」


 今度は明確な殺意が座っているヴァルトへと向けられた。

 ゴーディが放つ大声と殺意はハッキリとしたものであり、険悪な雰囲気を素早く悟った二人の姉妹はアンジェリカの背後へと隠れる。

 ヴァルトも醜悪な笑みを浮かべる賞金稼ぎの矛先が自分へと向けられた事により、渋々と視線を上げた。


「おい……」

「なんだ? 気安く人間様に話しかけるなよ。闘技奴隷の豚が……」

「“鉄球のゴーディ”ってのは、なかなかイカした名前だな。そいつは……頭がツル禿で鉄球みてぇに光ってるから、そんな二つ名になったのか?」

 木製のカップに入れられた茶を一気に飲み干し、それをテーブルに置いてヴァルトは不敵な笑みを浮かべる。ヴァルトがさらりと云ってのけた嘲りの文句を前に、ゴーディは暫くの間言葉を失って立ち尽くした。


「ん……だと! 俺様は禿じゃねぇ! これは剃ってるんだよ!」

「なんだ、剃ってるのか。道理で禿のわりにはカビみてぇなもんがついてるなと思ったんだ。……そうだ、今日から“カビ頭のゴーディ”にしてみちゃどうだ?」

「ぐっ……ぐっ……」

 顔を頭の頂まで真っ赤に染め上げながらも、必死に自分の頭を指差し抗議するゴーディだったが……ヴァルトの毒舌は止まらない。最初は喉の奥で笑っていたヴァルトの声も次第に堪え切れなくなり、大声へと変わっていった。


「ぷっ……ははははははっ! おい、見ろよ! カビ頭が茹で蛸になったぞ……いや、この場合は“茹で蛸が腐ってカビが生えたぞ”がいいか? くっくくく……こいつは傑作だ!」

「ちょっと、もう……やめてよっ! ゴーディ……あなた、プフッ……ここは食堂なんだから腐った物は御法度よ……」

 怒りで顔を染めるゴーディを指差し笑うヴァルトを見て、アンジェリカも嗜虐心が擽られたのだろう。笑いを我慢出来ず、肩を震わせながらもヴァルトの言葉に調子を合わせた。

 そんな二人の様子を見て、興味が沸いたのか──それまでの間、恐怖に身を震わせていたマリエラとソフィア姉妹もアンジェリカの背後からそっと顔を出し、ゴーディの顔をまじまじと眺める。



「……本当だ、タコみたい」

「たこー! たこー!」

「ぐああああっ! やめろぉぉ!」


 子供ながらの残酷な言葉が、容赦無くゴーディの心に突き刺さる。茹で上がった頭は頂点まで赤を通り越し……ドス赤く染め上げて、肩をわなわなと震わせている。

 勿論、可笑しさでは無い。怒りが臨界点を超えているのは、傍から見ても明らかだった。


「ゆゆゆ……許さんぞっ!」

「ほぅ……? どう許さんと言うんだ」

 怒りによってゴーディの巨体から溢れ出す怒気と殺気ですらさして気にせず、ヴァルトは一層からかった口調で問い掛ける。



 問い掛けに答えたのは、言葉では無く──宙を切る音と共に向けられた鉄球の洗礼だった。


 その鉄球は黒々と光っており……ヴァルトが腕を回し、一抱えするのがやっとかと思える程の大きさであった。鉄球には太い鎖が付けられており、伸び切ったその先端をゴーディの手が握っている。

 初撃で仕留め損なった事に対するゴーディの舌打ちも耳に入るが、ヴァルトは無言で床へと視線を移した。そこには、無残な姿を晒しているテーブルと椅子だった物が転がっている。荒くれ者も多く訪れる娼館だけあって、堅いキサの樹で頑丈に作られていたものだろう。だがそれらは、今では粉々に粉砕されていた。


「……やってくれる」

 一気に膨れあがった攻撃の気配を察して、ヴァルトは咄嗟に床を蹴り、椅子を飛び越える形で後方へと飛び退いたのだが……どうやらそれは正解だったようだ。

 何の材質で出来ているかは解らないが、ただの鉄で出来た鉄球程度ならば頑丈な家具がここまで粉々になるとは思えない。いくらヴァルトが頑丈だとしても、不意打ちでこんなものを喰らえば無事で済む筈が無かった。



「よくぞ、座った状態からアレを躱せたものだ!」

「お前……馬鹿だろう。こんな狭いところで、そんなにデカい物を振り回せるとでも思っているのか?」

「ふん! この鉄球は俺様の手と同じよ! どんな場所であろうとも振り回せぬ場所があろうものかッ!」


 言うが早いか──、ゴーディは相当な重さがあるだろう鉄球を一気に自分へと引き寄せると、器用にもそれを小さな円運動だけで振り回し始めた。

 大きな鉄球がゴーディの周りで回転し、空を切る不気味な音だけが食堂に響く。


「へえ……器用なもんだ」

「俺様の鉄球は自由自在ッ! 幾ら障害物が多い室内とはいえ、安心せぬ事だな!」


 ゴーディの周囲を羽虫が如く纏わり付き、振り回される鉄球はその勢いをどんどんと増してゆく。ついには常人の目には映らない速度となった時に、一際大きな音を立てるとその硬く重い鉄球が放たれた。



 一抱えもある巨大な鉄球は暴力的なまでの勢いで、空気を押しのけヴァルトへと押し寄せる。遠心力も相成り、破壊的な勢いを保ち迫ってくる鉄球は見た目よりも大きく感じ、ヴァルトの距離感を狂わせた。

 しかし、そこは幾度の死線をくぐり抜けてきたヴァルトである。身体へと当たる寸前に片足を横に素早く踏み出し、その攻撃を躱す。そのまま重心を前方へと傾け、ゴーディとの間合いを詰めようとした次の瞬間だった。


 背後で何かが衝突する鈍い音がした直後、ヴァルトの首筋にチリチリとした嫌な感触が走る。本能が告げている警告に従い、ゴーディへと間合いを詰めていた身体を咄嗟に横へと倒すようにして無理矢理床を転がった。

「……ッ!?」

 倒れる様に床へと這いつくばったヴァルトの上を、黒い物体が音を立てて通り過ぎる。その勢いは振るわれた時と全く変わらず……ヴァルトの上を通り過ぎた鉄球は、またもやゴーディの手元へと収まり周囲に不気味な音を撒き散らした。


──こいつは、一体……


 これまで数多の手練れや魔物達と戦ってきたヴァルトも、初めて味わった違和感を前に思わず眼を細める。どうも腑に落ちず、振るわれた鉄球がぶつかったであろう場所を確認するも……木製の壁は微かにヒビが入っているだけで、不思議な事に砕けていなかった。


 あれほど大きな鉄球が全力で振るわれたのだ。鉄球に掛かる力は必ず何かに当たらなければ、勢いは止まらないだろう。

 油断無く起き上がる寸前に、ヴァルトは床にも視線を走らせる。壁ではなく床へと落ち、鉄球の勢いが殺されたところをゴーディが素早く引き寄せた可能性を考慮しての事だった。だが、床に鉄球が落ちた形跡は何処にも見当たらない。


 ヴァルトが感じた違和感の原因は、もう一つあった。

 ゴーディの初撃を受けたテーブルと椅子の砕け散った姿、そして先程見た壁のヒビが脳裏を掠め、ヴァルトの思考に疑問として引っ掛かりを覚えている。

 それぞれ二つの事柄が、一つの武器から繰り成されたものとして成り立たない事柄であった。だが事実、その成り立たない事柄が目の前で起きている。


 つまり──ゴーディと呼ばれる目の前にいる男は、家具をも粉砕する鉄球を操れるという事だ。さらには、勢いを付けた二撃目は壁にヒビを入れる程度に抑える事も出来る。

 それは……勢いを失った鉄球が床へと落下する直前で、あり得ない力で自分の手元へと引き寄せた事になる。

 とてもではないが、人間程度の力では出来る芸当では無かった。力に関しては絶対ともいえる自信を持つヴァルトですら、同じ事をしろと言われたら即座に首を横に振るだろう。


 鉄球を振るい、その勢いを殺すまでなら出来る。

 ……だが、振り回された勢いと同様の勢いを保ったまま手元へと引き戻す術など無い。



「おい、カビ蛸頭……てめぇ、どんな手品を使ったんだ?」

「クククッ……さぁてな?」

「ヴァルト、気をつけて! その鉄球は変よ。壁に当たって跳ねた様に見えたわ!」

「跳ねるって……鉄球がか!?」


 アンジェリカの声にヴァルトは思わず、そちらへと視線を向ける。だが自分に忠告を発してくれるアンジェリカの姿が見える前に、視界の端で鉄球を振るうゴーディが映った。



「余所見は頂けねぇな? なあ、拳帝よぉ!」


 声と同時に上段から振り下ろされた鉄球は、再び凄まじい勢いでヴァルトを地面へと叩き潰そうと飛来する。しかし、最初からその軌跡を読んでいたヴァルトにとっては、幾ら常人の目に止まらぬ速度の鉄球とて、躱す事はたやすい。

「……当たるかよッ!」

 その場から大きく一歩だけ、後に跳ぶだけで悠々と鉄球を躱した──筈であった。

 空しく地面へと突き刺さる筈の鉄球は、勢いもそのままにヴァルトの腹へと直撃する。

 またもや首筋に嫌な予感が走るも、余りにも遅過ぎた警鐘を遥かに凌駕する痛みがヴァルトを襲った。


「ぐがっ……!」

「ひゃははっ! 殺ったぁ!」

 予想もしていなかった上、着地した直後で無防備だったヴァルトの腹を硬い鉄球が突き上げた。鉄球はそのままヴァルトの巨体をも易々と持ち上げて、食堂の壁へと叩き付けられる。


──あの鉄球、あいつは……!?


 ヴァルトは鉄球が自分に届く前に確かに見た光景を、薄れてゆく意識の中で思い返す。

 地面へと激突した硬いはずの鉄球がグニャリと形を変えて、確かにアンジェリカの言った通り地面から跳ねていた。

 聞いた限りでは信じられぬ出来事だったが、見えたものは紛れも無く事実である。……それはまるで子供が遊ぶ、荒糸で作った球の如く軽快に跳ねたのだ。



 常識から逸脱した鉄球の不可思議な動きの原因を探る前に、新たな衝撃と激痛がヴァルトに襲い掛かった。失い掛けた意識が衝撃と痛みの為、再び強引にヴァルトを現実へと引き戻す。

 断熱のために作られた木の壁を突き破り、その外側にある本来の石壁までめり込ませられたのだが、そんな事など分かる筈も無い。ただ喉からは声にもならない空気が胃から漏れ、先程平らげたものが込み上がってくる不快感も同時にヴァルトへと襲い掛かった。


 痛みと不快感を押し殺して立ち上がろうにも、どういうわけかヴァルトの身体は全く動かなかった。何度か動かそうと試みるも、頭を強く打ち付けられた所為で身体が命令を受け付けない。他にも、直撃を受けた瞬間に肋骨が数本折れたのか……激しく咳込もうとする度に生暖かい、闘技場に居た間散々味わった鉄の味がヴァルトの口を蹂躙した。



 ヴァルトは視界を確保しようと、埃と痛みで滲んだ鳶色の眼を何度か瞬きさせる。

 だが……その視力が回復する前に、視界が黒い“何か”で一面を覆われた。



「これで……終わりにしてやるぜぇぇぇ!」



 ヴァルトの視界を覆ったもの──、それはゴーディが再度振り下ろした鉄球であるという事にヴァルトが気付いたのは……耳鳴りが収まらない聴覚が辛うじて聞き取った、下卑たゴーディの叫びを聞いてからのことだった。


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