(1-2)女を抱く拳
少しすえた匂いが狭い部屋一帯に漂う。
野性的な匂いの原因は、火が落とされたランタンから漏れる獣脂の臭いだけでは無かった。
薄暗い部屋の中で男女が睦み合う声と、ベッドの軋む音だけが響く。
木製の窓は開け放たれており、月明かりが室内に居る男女を照らし出す。抑えもしない互いの嬌声は外へと漏れ響いている筈だが、付近に住む人々が気にすることは無い。
何故なら──、この地区一帯が“そういう場所”だからだ。この地区では悲鳴ですら、耳に入っても人々は見向きもしないだろう。
月の光が照らす女の裸体は小刻みに揺れ続け、白い肌は熱でほんのりと赤く染まり、玉の様に浮いた汗が身体の線に沿って流れ落ちる。腰程まである長い髪は少し乱れ、身体の動きに合わせてフワリと揺れる。仰向けとなった身体の上に女を跨らせていた男が激しく腰を突き上げる度、女の幾度目かになる艶やかな嬌声が荒い息と相成って部屋に響き渡った。
「く、出すぞ……ッ!」
「駄目……そんなに激しくしたら、私もまた……」
最後の言葉代わりに、女は一度だけ大きく跳ね上がると男の肩に爪を食い込ませる。そのまま果てて身体を支えきれなくなったのか、汗が滲む男の胸にぐったりと身を預けた。
筋肉質な身体の上に柔らかい女の肌を押し付けられた赤毛の男──ヴァルトは無言のまま口端を上げた笑みを浮かべ、女の髪を愛しそうに優しく撫でた。
ヴァルトが娼館へと赴き──アンジェリカと名乗る娼婦と共に、娼館の二階にある宿へと入ったのは陽が落ちてから暫くしてだった。
娼館に到着するまでにヴァルトの姿を見て商売も忘れて興奮する油売りの小僧や、仕事を終え娼館や賭場のある特別地区へと赴く労働人達から浴びる注目は相変わらずだった。そんな視線を鬱陶しく感じていたヴァルトを気遣い……アンジェリカが部屋で食事を取れる様に取り計らってくれたのには、素直に感謝を覚えた。
宿に入るなり湯場を借りたヴァルトは身体を洗い丹念に髭を剃ると髪に油を塗り、身なりを整える。数年振りに身なりを整えたヴァルトの見た目は先程までの薄汚い粗野な風貌から一転、歴戦の戦士や熟練の傭兵を連想させるまでの変貌を遂げていた。
渡されていた上質なローブを身に纏った後で食事が到着したのも、おそらく頃合を見計らっていたのだろう。口数少なく食事を頬張るヴァルトを、アンジェリカは妖艶な笑みを浮かべて楽しそうに眺めていた。
陶器のような白い肌と長い黒髪が神秘的な魅力となっており、対照的に大きくぱっちりとした黒い瞳は少女の面影を色濃く残している。その美貌は娼婦らしい化粧の匂いも薄く造られた美しさでは無く、天然がつくりだした美貌を讃えていた。
大人びた妖艶さと少女の様な愛くるしさ。アンジェリカは相反するその両方の魅力を兼ね備えた、不思議な女だった。
容姿もそうだが、立ち振る舞いや雰囲気を見ている限り……娼館の主人が『ウチで一番の娘』と、薦めてきたのも頷ける。
昼間食べた串肉とはまた違う、手間を掛けられた料理と自由になってから初めて呑む酒に舌鼓を打っていたヴァルトだったが……突然アンジェリカに唇を塞がれ、ベッドへと押し倒された後に──店主の言っていたアンジェリカの評価を、再度違う角度から思い知らされる羽目となった。
もはや何度目かも分からない情事を終えて、ようやくヴァルトは人心地つく。
ベッド脇に備え付けられたサイドテーブルに置かれている葡萄酒の封を切った。瓶に口をつけ、直接それを流し込んで喉を潤す。葡萄酒はとうに生暖かくなっていたが、上質なそれはいささかも味は落ちていなかった。
身体を起こしたヴァルトの脇では、未だにアンジェリカはベッドに身体を投げ出し荒い息を吐いていた。アンジェリカは力の入らなくなった体を捻り、喉を鳴らして葡萄酒を飲むヴァルトを見上げる。
ヴァルトは無言でその顎に手を添えると、アンジェリカの唇を自分の口で塞ぐ。そのまま、含んでいた葡萄酒を口移しで飲ませた。
「……んっ」
愛らしい声が喉の奥から漏れ、アンジェリカは驚いたように黒い目を見開く。
口の中に流し込まれた葡萄酒を飲み終えた後で妖艶な表情を浮かべ、お返しとばかりにヴァルトの舌を絡め取った。アンジェリカの可愛い悪戯に、ヴァルトは柔らかく暖かな舌に導かれるように、舌を深く絡めていった。
「……まさか、もう一回?」
「いや……」
絡め合った舌を戻し、離れたヴァルトの口から引く糸をアンジェリカは名残惜しそうに細い指で拭った。拭った指で自らの唇をなぞりながら、アンジェリカは呟く。
ヴァルトは短く否定した後、深い溜息を吐いた。
「久し振りとはいえ、少し張り切りすぎたな」
「そうね、拳帝様ったら……激し過ぎて私、壊されちゃうと思ったもの。闘技場だけじゃなくて、ベッドの上でも本当凄いのね」
「……まあな」
多少なれども水分を取ったことで、体力もかなり回復したのだろう。アンジェリカはまるで猫の様に素早く、しなやかな肢体を引き起こして微笑む。そのまま上半身を起こしているヴァルトの厚い胸板に自身の豊満な胸を押し付け、甘えるように凭れ掛かった。
筋肉質なヴァルトの胸から次第に軽く這わせる指をおろし、最終的に下半身へと手を添える。先程までの濃厚な口付けの所為で起こったヴァルトの僅かな変化を確認した後は──アンジェリカは少女の様に目を輝かせ、胸元へと鼻を摺り寄せた。
「本当、凄いのね。さっきから何度もしてるのに、まだ元気なんだから……」
「それだけ、女の身体に飢えていただけさ。いや……違うな。“お前の身体が素晴らしいからだ”とでも言った方が気分がいいか?」
「あら、嬉しい。でも……それを言っちゃったら、効果は半減しちゃうわよ?」
「なに、口での失態は体と態度で取り戻すのが俺の流儀だ。まぁ……コイツは全くの嘘では無いから、失態では無いと思うがな」
ヴァルトは苦笑混じりにそう言うと、艶やかなアンジェリカの黒髪を撫で下ろす。心地良さそうに目を閉じて、されるがままになっているアンジェリカを、優しく自分の顔へと引き寄せた。
一方アンジェリカも抵抗するどころか待ってましたとばかりに、少し荒れたヴァルトの口に紅く湿った唇を合わせる。
その口付けは先程の様に深い接吻とは異なり、互いが軽く触れる程度で終わった。
「あら?」
期待外れだったのか、アンジェリカが疑問の言葉と共に形のいい唇を尖らせる。その可愛らしい拗ねた素振りを見て、ヴァルトは思わず苦笑を漏らした。
「……残念ながら、今夜は打ち止めだ。今日は色々とありすぎて、疲れちまった」
「なあに? 拳帝様が降参だなんて。私、不戦勝で勝っても嬉しく無いわ」
「そう言うな、一時休戦なだけだ。……少しだけ、眠らせてもらっても構わないか? それからならば、アンジェが失神するまで犯ってやる」
「んもう……何よ、思わせぶりな素振りだけ取って放置するなんて、酷いわ……」
「すまんな。だが本当に……眠気が限界でな。自由になったからといって、少々浮かれていたのかもしれん」
ヴァルトは目頭を揉みながら睡魔と格闘するも、とうに限界を迎えた眠気は抑えようが無い。その様子は傍から見ていても充分なものであり、アンジェリカも諦めがついたらしい。
「分かったわ、寝かせてあげる。けど……、次に目が覚めた時は覚えてらっしゃい」
「は……ははっ、お手……柔らかに頼……」
言葉を最後まで言い終わらぬうちに、ヴァルトは瞼を閉ざした。アンジェリカの柔肌を滑り、ベッドへと巨体を倒れ込ませる。
静寂の中、規則正しいヴァルトの寝息と外から聞こえる夜虫の鳴き声を耳に──。アンジェリカは暗い部屋で微笑みを浮かべていた。
「おやすみなさい、拳帝様……」
笑みを浮かべ、アンジェリカは僅かに開いているヴァルトの口へと自身の唇を当てる。触れるだけの軽い口付けを交わしても、寝息を立てているヴァルトは何も反応を見せない。
ヴァルトが眠りに落ちている事を確認すると──アンジェリカは座っているベッドの上で、少しだけ身体を折って腕を伸ばす。
慣れた手つきでベッドの隙間から、音も無くそれを引き抜いた。
白く細い手に握られた細身の刃は、月の明かりに反射して冷たい光を放つ。
凶器を手に持ち月に照らされたアンジェリカの表情からは、先程まで浮かべていた女性らしい艶やかな笑みは消え、まるで人形の様な無機質なものとなっていた。
躊躇いすら無く、無駄の無い洗練された動作でアンジェリカは刃を頭上高くに振り上げた。 ヴァルトの首筋に目掛け、切っ先を勢い良く下ろす。
しかし──
アンジェリカが感じたものは、刃が肉へと沈み込む感触でも、命が途絶える前に対象の喉から上がる血に混じった声でも無い。アンジェリカがそれらを感じ取る前に直感が働き、無意識のうちに刃を止めていた。
娼婦としてのものか、暗殺者としてのものかは分からない。いずれにせよ今まで直感に幾度も助けられたアンジェリカにとって、それはどうでもいい事だった。
「ねえ、起きてるんでしょ?」
相手の命を絶とうとしていたにも関わらず、悪びれた素振りなど何一つ見せずに、アンジェリカはヴァルトに問い掛ける。その口調はむしろ嬉しそうで──手に持つ刃さえ除けば、悪戯がバレた子供の様に嬉々としたものだった。
「……ああ」
ヴァルトは閉じていた瞼をゆっくりと上げて短く答えるだけで、自分を殺そうとしているアンジェリカに対して怒る気配など微塵も無い。
「どうして……?」
「何がだ?」
面倒臭そうに顔だけを上げ、ヴァルトはベッド脇で刃を手にしたまま立っているアンジェリカを見上げる。
「さっき貴方が飲んだ葡萄酒には強力な薬を入れておいたのに……まさか、私と同じように解毒剤でも飲んでいたのかしら?」
「いや……闘技場に長く居過ぎるとな、色々と不便な身体になっちまう。余りにも俺が負けないからと、ここ一年程は趣向を変えて様々な魔物だのを相手にさせられていた。勿論、中には毒を持った奴等もいてな、そいつらの毒を喰らっているうちに……毒が効かない身体になっちまっただけさ」
「そう、それじゃあ普通の人間用の薬なんて効きっこ無いわね……全く、貴方ってそんな所まで規格外だったの……誤算だったわ」
「そういう事だ、商売の邪魔をして悪かったな」
「いえいえ、これは私の落ち度だもの」
長い髪を揺らして笑うアンジェリカの表情は、あくまで明るく楽しそうである。だがヴァルトの視線はその美しい顔では無く、僅かに震えている手を静かに見据えていた。
「どうした? それを振り下ろさないのか?」
「気付かれているのに殺すなんて、そんな無様な真似はできないわ」
自分が試されている事に気付いたのか、アンジェリカは手に持っていた細身の刃を後ろに投げ捨てた。溜息交じりに首を横に振ると、つまらなさそうにベッドへ形の良い尻を落ち着かせ脚を投げ出す。
「私はね、これでも一流を自負しているのよ。相手に気持ち良くなって貰って、幸せな気分のまま……自分が殺された事すら気付かない様に、優しく命を刈り取ってあげる。それが私の美学なの」
「そいつは、すげぇ美学だな」
「……それ、本心から思ってる?」
「俺は野郎を騙しても、美女を騙す様な真似はしない。それに……そういう拘りを持ってる奴は嫌いじゃないぜ」
疑う様な眼差しを向けてくるアンジェリカに対し、ヴァルトは肩を竦めて答える。返答が不満だったのか、アンジェリカは頬を膨らませてヴァルトを睨み付けた。
「だから……気付かれた時点で私の負け、ってわけ。そういう事」
「そういう事、か……」
軽い冗談を言い合う様な口調だが、アンジェリカの告げた言葉の真意は重い。
死を覚悟した暗殺者──アンジェリカの潔い態度を前に、ヴァルトは苦笑を浮かべて両腕を頭の後ろへと組んだ。いくら月明かりがあるとはいえ、天井までは見えない。それでも、ぼんやりと何処を見るわけでも無くただ鳶色の目を瞬きさせる。
「ねえ、最後に一つだけ教えて」
「何だ?」
「最初から……気付いていたの?」
真剣なアンジェリカの口調に対し、ヴァルトは暫く言葉を頭で巡らせた。
「いや……気付く気付かないとか、俺は別にどうでもよかった。ただ……この馬鹿な体が、気配に関しては過剰に反応しちまってな」
「気配? 殺気なんて私は……」
自分の手腕を一流だと自負している為か、アンジェリカが怒った様に反論する。
死を覚悟こそすれ、最期の時まで自分が犯した欠点を追及したいのだろう。そんな彼女だからこそ、ヴァルトは飾る事無く素直に言葉を続けた。
「違う。アンジェ、お前は完璧だった。……完璧すぎたのさ」
「何よそれ?」
「完璧だからこそ、気配を完全に消していた。だが……人としての気配まで完全に消す行為は、殺気を出してるのとどう違う?」
「……成る程ね。一流すぎるのも考えものだわ……けど、納得できたわ。有難う」
「話は終わりか?」
「ええ、もう全ては終わり。……一流の最期としては、悪く無い終わり方ね」
「そうか、じゃあ……」
ヴァルトは言葉尻を濁し、頭の後ろで組んでいた腕を解く。脇に座っていたアンジェリカの手を掴み、そのまま細い腰を抱き寄せた。
驚いて息を呑むアンジェリカを無理矢理寝かせて、強引に自分の胸元と背中を密着させる。自分の状況が理解し難いのか、戸惑うアンジェリカの首筋へと何も言わずに顔を埋めた。
香水と女の香りの中に混ざり合った、微かな雄の匂いがヴァルトの鼻腔をくすぐる。腕の中で戸惑うこの魅力的な存在に対し、さらに己の匂いをつけてやろうかとも考えるが──結局、散々満たされた性欲以上に、睡眠に対する欲が勝る結果となった。
「ちょっと、何のつもり?」
「今度こそ俺は寝る。起すなよ? もし、殺したいのなら……今度こそ起さないように頼む」
「私を生かすっていうの? 次こそ本当に殺すかもしれないのに? ねえ、聞いて……」
驚くアンジェリカの抗議は、ヴァルトの手がその豊満な胸を揉みしだく感触によって遮られた。
「構わないさ、女の胸で死ぬのも悪くない。それもお前みたいな、飛びきり上等の女なら尚更だ。そう……男の夢、ってやつだな」
呟きながらも、ヴァルトの無骨な手止まらない。まるで壊れ物に触れるように、優しく力強く柔らかな胸を揉み続ける。しかし、その勢いも少しずつ衰えていき──完全に止まる頃には、アンジェリカの耳元で静かな寝息をたて、眠りについていた。
「呆れた……本当に酷い人ね」
溜息と共に吐かれたアンジェリカの呟きは、諦めの気持ちよりも呆れが色濃く現れていた。
「“起こさずに殺せ”って……貴方相手じゃ無理だって思い知ったばかりなのに……」
身体を起こそうとしても、背後から腕を回されている以上それすらもままならない状態である。
そして何より……眠りに落ちる直前まで身体を触られていた為に、アンジェリカの下腹部が疼きに近い熱を宿し、火照った身体が離れる事を拒んでいた。
「こんな事なら、いっそ殺された方がマシだったわよ……」
今まで出会った事が無い程にまでアンジェリカを魅了する強烈な雄の匂いと、粗暴な外見とは裏腹に自分を大切に扱う男に抱かれ、アンジェリカは毒付く。
だが、文句言ったところで眠っている人間の耳には届く筈も無く。アンジェリカは悶々とする身体と行き場を失った気持ちで、ヴァルトの手の甲を一度だけ叩いた。
「何よ、起きないじゃない……馬鹿」
一瞬寝息が途絶えるが、すぐさま耳元を擽る感触に、アンジェリカは拗ねた様に呟くのだった。