(1-1)歓声を招く拳
速めるわけでも、遅らせるわけでも無く──。
男は大通りに入った後も、闘技場を出た時と同じ速度を保ったまま堂々たる足取りで闊歩していた。
きょろきょろと見回すような無粋な真似をしなくとも、様々な情景は目に入る。
王都・アリュテーマの中心に位置する闘技場は、古来からの建築様式で用いられていた石造りだった。だが、一歩踏み出すと周囲は煉瓦造りの建物が連なっている。
舗装がなされ、馬車や荷車が行き来し易いように石畳の凹凸も少ない。これが一筋裏道へと入れば状況も違うのだろうが、良い道にはより多くの人々が集まる。男が足を踏み入れたばかりの大通りも例外では無く、道端に所狭しと露店が並び活気が満ち溢れていた。
闘技場から開放されたばかりの男は知る由も無かったが、今日は月に一度の市が立つ日であったことも原因だった。
近隣の村からもこの日ばかりは街へと赴き、商人を介さず売買を行う事が許されている特別な日である。従ってその賑やかさは、普段以上のものであった。
必死に値引き交渉をしていた者。
いい品を求め露店をうろつく者。
客の懐から出来る限りの金を搾り出そうとする商人。
隙だらけの田舎者から財布を掏ろうとしていたスリ。
酔って機嫌良く歌う酔っ払い。
それぞれが市の喧騒に取り込まれ、各々の成す役割をこなす者達ばかりであったが──大通りに突如現れた大柄な男が目に入ると、彼らは無意識のうちに言葉を噤む。そして、自然と視線で男の姿を追ってしまっていた。
伸ばし放題の赤毛に、これもまた伸びきった髭を蓄えた巨体はかなり目立つ風体だとは男自身も思うが、彼らの関心は風体では無く別のものにあったらしい。
最初は一人、次に二人、さらには三人……
様々な声に混じり、ぽつりぽつりと数人が男に関する言葉を口にする。
「おい、あれ……拳帝だよな?」
「拳帝が何故ここに……」
「……まさか、今日抜け出たのか?」
「陛下から恩赦を頂いたというのは、本当だったのか?」
「くっそ、アイツの所為で幾ら損をしたと……」
「あいつを殺せば、俺の名前も……」
様々な声が賑やかに飛び交う大通りを進むにつれ、男の顔がみるみるうちに不機嫌な表情へと歪められる。ついには道の往来で、歩みを止め苛立ちを露にした。
雑踏の中、自分へと向けられる視線と言葉を捕らえ、男は顔を顰めて人混みを見つめる。
最初のうちは、男も気には留めなかった。だが……こうも多くの視線と言葉を向けられれば、それだけ不快感が顕著に現れる。
──チッ、うざってぇ……
心の中で悪態を吐き、男が威圧を込めた眼で人々を一瞥する。
元々男の顔は人受けが良い方では無い。眼付きは悪く体格も人一倍大きい為、黙っていたら機嫌悪く、怒っている様な印象を昔から受ける様な容姿だった。
一度は皆閉口し、それぞれの行うべき行動へと戻る。だが、結局はそれすらも短い間でしかなかった。皆が皆、威圧感にたじろきながらも男に視線を注ぎ続ける。
人々の視線に込められたものは多種多様であった。
興味、畏怖、憧憬、嫉妬。
様々な感情が入り混じっていたが、それぞれが抱いている根源は同じである。
至って単純で、人が人であるが故の感情。──闘技場にて豪腕を振るい、今まで最強を誇っていた男“拳帝”に対する好奇の眼差しであった。
男が立ち止まった為、それまで興味を引かなかった者ですらも男へと視線を向ける。結果、老若男女問わず、無数の視線を浴びる羽目になった。市の勢いも相まって男を中心に気勢溢る、いかんともしがたい空気が漂う。
──結局、何処に行っても……貴様等が俺を見る目は同じかよ。
熱気の篭もった視線を浴びるにつれ、無意識のうちに現実と過去との去来を繰り返す。
感情を激しく揺さ振られ、男はつい先程まで自分が居た場所──闘技場に立っているかの様な錯覚に襲われた。
命を賭けたやり取りを毎日繰り返すだけの虚しい場所は、五年も過ごしたにも関わらず愛着など抱ける筈も無かった。
既に自由を勝ち取った身としても、好き好んで回想に浸る様な場所では無い。
湧き上がる記憶を持っている自分自身ですら、忌々しく感じてしまう。あれは愚劣の居城たる場所であり、命を科して過ごした不快な日々だった。
闘技場で男が出場する度、誰もが“その時”を待っていた。
掛け金などは足を向ける些細な要因にしか過ぎない。例え男に賭けていようとも、人々が最後に辿り着く想いは一貫したものだった。
理不尽な暴力と殺戮を道楽として求める者達の願いは、ただ一つ。
最強と謳われた【拳帝】が敗北する、劇的な瞬間。
それは──男が世に与えられた、生を喪失する瞬間の他無かった。
“その時”を待ち望み、人々は血走った目を輝かせる。中央に位置する闘技空間を囲む形で設けられた観客席は、溢れんばかりの熱気で毎日が噎せ返っていた。
訪れる者達にとっては日々の労働に明け暮れ、死んだも同然の目を唯一輝かせる場が闘技場のみなのだろう。
人々は口から汚い言葉を吐きかけ、各々の想いを思うがままに飛ばす。
掛札を握り締め、一発逆転を狙う者などは……中でもとびきり手に負えなかった。
賭けるのは個人の意思にも関わらず、予想が外れれば理不尽な言葉を喚き散らす。挙句、男が生き残った事に恨みを乗せ、言葉と共に食い掛けの食べ物を投げつけてきた事も毎日のようにあった。
決まってそういう輩を黙らせるのは、衛兵でも周囲の人間でも無い。唯一、彼等が黙り込むものと言えば──侮蔑の思いを込めて睨んだ、男の視線だけだった。
救いの手を差し伸べる相手もいなければ、心の底から自分を認めてくれる相手も居ない。
檻に囚われる事も無く、他人に枷を嵌められて足掻く事も無く。
男にとってあの場に居た人間の全てが、反吐が出る程にまで忌み嫌う存在だった。
一体、どれ程の時間を過去に縛られていたのだろうか?
つい今しがたまで向けられていた、訝しげな言葉から恨み節話。更には剣呑な雰囲気を放つ言葉などが次第に収縮していった。
男が訝しげに辺りを見回す。その動作の後に続いたのは……男が全く予期せぬ賛辞の数々だった。
「拳帝! 拳帝! おめでとー!」
「くっそ! よかったな、拳帝! まんまと生きて抜け出やがって……俺の金を返せっ!」
「おい! 俺と勝負しろ! 俺と!」
中には賛辞とも言えない言動も含まれていたが、言葉の調子は共通して明るいものだ。
【拳帝】の自由を祝う言葉がみるみると周囲の人間へと伝染してゆき──、気付けば割れんばかりの歓声が、公共市場となっている大通りを揺らしていた。
闘技場の中で受けたものとは異なる歓声に包まれ、男は細い目をさらに細める。表情こそ変えないものの、男には思考が追いつくまでの時間が暫く必要となっていた。
──成る程、これが“自由”ってやつか。
五年間もの歳月の中、憧れては憎んだ形の無いモノを遂に得た。という実感が今更ながら胸中に湧き上がる。
そうだ、俺は自由になったのだ。
奴隷身分から解放されて、今日から立派な一市民だ。
最下級の下等市民権だろうが、知ったことか。
誰に憚る必要があるというのだ?
男は自分自身へと数度言い聞かせ、大きく息を吸う。肺一杯に新鮮な“外”の空気を満たした後には、立ち止まっていることですら馬鹿らしく思えてきた。
知らず知らずのうちに口端が上がり、不敵な笑みが浮かぶ。
男は粗末な麻布で織られた服の上からでも判るほどの、鍛え抜かれ盛り上がった胸板を張る。腕に馴染んだ鋼鉄製の籠手ごと大きく腕を揺らし、再び道の真ん中を堂々と歩き出した。
歩き始めてすぐさま、押し寄せる波の如く集まった群衆に男は取り囲まれた。それでも関係無いとばかりに、男は足を動かし続ける。
各種色とりどりの歓声は既に爆音と化し、男の鼓膜を激しく刺激する。
男は負けじと声を張り上げ、足を止める事無く大声で叫んだ。
「うるせえぞ! この馬鹿野郎どもがッ! 寄って集って人様の鼓膜を破る気か!
おい、よく聞けクソ野郎共! 今日は俺が自由を勝ち取った素晴らしき日よ! 俺に言葉を向ける位なら、もっと盛大に馬鹿をやれ! 商人は破格で売れ! 客はケチらず、そいつらから気持ち良く買え! 他の集った連中は飲んで歌え! 俺の解放記念日だ! 俺が認めてやる!
売って買って……何でもいいから騒ぎやがれッ!」
先程の歓声に負けない音量で、男が叫び終える。その頃には、その場に居合わせた全ての人間が男の言葉に聞き惚れ、静寂の時が漂った。しかし、それも僅かな間だけだった。
次の瞬間には──市場全体の熱気が、一瞬にして最高潮にまで沸き上がる。
一瞬にして沸点へと達した市場は、大混乱へと見舞われた。
商人は商品とは全く関係無い拳帝の名前を出し、売りの声を張り上げる。
客は値段も聞かずに即買いの一言を叫ぶ。
市場に居る全員が同じ様に、訳がわからない熱に浮かされたかのように暴走を始めた。
群集を擦り抜ける様にして、男は人混みから離れた場所を目指す。
彼等を嗾けたのは他ならぬ男自身なのだが──、まるで熱狂したかのように騒ぎ立てる観衆の存在は素直に鬱陶しかった。
叩かれたり、身体を触られたり、服を引っ張られたり……
声だけならばまだしも、まるで『触ると御利益がある』と巷で噂される石像の様な扱いをされている事が何よりも気に食わなかったのだ。
余程自分の名を挙げたいのか、中には人混みに紛れナイフで刺し殺そうとしてきた者までいた。ある程度の腕は避けてかわしてゆくも、暴力を向けてくる相手には容赦する必要など無い。男は自分に危害を加えようとする者の手を折ってやる。三人目までは妙な関心を覚えたものの、四人目以降からは何も感じず痛めつけた。
そんな事を暫く繰り返しつつも進むんでいるうち、市の立っている大通りから道を二本ほど外れてしまっていた。相変わらず注目は受けるが、それでも人並みもまばらになっている。
ようやく閑静な場所へと出たと確認した後に、男は短く息と共に悪態を吐いた。
「ったく……うざってぇんだよ!」
朝からまだ何も食べておらず、空腹も相まって苛立ちがより一層募る。
適当に大通りを歩いて目に入った定食屋にでも入ろうと思っていた矢先の出来事だったので、仕方が無いといえば仕方が無いのだが……後悔はしない性分の男も、群集を自ら煽ってしまった今回の件に関しては、流石に少しばかりの反省を覚える結果となった。
──構わず二、三人殴り飛ばして強引に食いに行った方がよかったか……
少々物騒な後悔をしながらも、何か食べる物が売ってそうな場所を求めて男は歩き続ける。
暫く歩いていると、道端の一角で行われていた興味深い光景を捕らえた。男にとって馴染み深い雰囲気が放たれており、同時に食欲をそそる匂いも嗅覚が捕らえる。
殺伐とした雰囲気には興味が無かったものの、匂いにつられて自然にそちらの方へと男の足は赴いていた。
「いい加減にしろよ! このクソジジイ!」
最初に耳へと入ってきた言葉は、余り上品なものでは無かった。
遠目で眺めていた時には既に分かっていたのだが、露店と思わしき場所を挟んで二人の男性と店主らしき初老の男が向き合っている。
簡単な木の枠組みで縁取られた店は、これもまた簡単な布で屋根を形成していた。夜になるとこれらを畳み、手間をなるべく省いて移動できる様に造られたものである。
四つ程小さな椅子が置かれており、店主と客を隔てる台の上には何種類かの串に刺さった焼かれる前の肉がそれぞれ皿に盛られている。
見る限りそれは何処にでもある、ごくありふれた軽食を出す露店だった。
闘技場で男が毎日のように聞いていた下品な罵声の類は、どうやら二人組の方が一方的に飛ばしているらしい。素行も当然の事ながら、揃って汚れが目立たない黒地の服を身に纏っているのと、これ見よがしに腰に差している短剣を見る限りは……どう見繕っても、真っ当な職の人間からはかけ離れていた。
「だからよ、誰に断ってココで商売してるんだ? って言ってるんだよ! え?」
「“誰に断わる”もあるか! こっちはキチンと筋を通して商業ギルドで許可貰って、ここで商売しとるんだ。お前達みたいな、ワケの分からん奴等の許可など必要無いわ!」
「何だと? おいこらジジイ! もう一回言ってみろ! お前こそ、何の肉だか分からないゴミ肉売ってんじゃ……」
店主に絡んでいた二人組のうち、大声で怒鳴っていた方が唐突に言葉を止めた。脅しめいた文句を最後まで続けることは出来ず、代わりにその身体が僅かに揺れる。
「吼えるな、胃に響く」
短く低い声で、【拳帝】と呼ばれる男は吐き捨てる様に呟いた。
拳帝が男にしたことは至極単純な行動である。
叫ぶ男の肩を左手で強く掴み、飛ばないよう固定する。直後に籠手を嵌めた拳の甲で、間抜けな顔を殴り飛ばしただけのこと。身体を固定されていた為、男はその場で気絶したに過ぎない。簡単に説明してしまえばそれだけのことだが、単純ゆえにその技は脅威に値する。何故なら全ての動作を一動作で、更には殴られた張本人ですら何が起こったのか気付かせず気を失わせる程の早業だったのだ。
そして殴った張本人が手を離すと……男はまるで糸が切れた操り人形のように、地面へと倒れ付した。
店主も二人組の片割れも、一瞬何が起こったのか理解出来ずに呆然とする。そんな彼等の様子などは関係無いとばかりに──拳帝と呼ばれる男は、露店に置かれた椅子へと勢い良く腰を降ろした。
「こいつは美味そうだ。オヤジ、適当に三本程焼いてくれないか?」
腰掛けた椅子の横で倒れている男を踏みつけながら、呆然と立ち尽くしたままの店主へと注文をする。
「け、けっ……け……」
店主は口を開閉しながら言葉を告げようとするものの、余程驚いているのか満足に喋れない。
「け……拳帝、だよな? あんた」
「おうよ」
驚きで目を見開きつつも、やっと口から飛び出した店主の問い掛けに対し、拳帝は軽く肩を竦め一度だけ返事をした。
「儂はあんたが拳帝って呼ばれる前から、ずっとあんたに賭け続けてたんだ……しかし、他ならぬあんたが食いに来てくれるなんて……待ってろ、今焼くから三本と言わず好きなだけ食べていってくれ!」
「いいのか?」
「勿論だとも!」
拳帝の返事を待つ前から、店主は嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。網の上に何本か並べていた串を裏返し、調理台に敷き詰めていた火含石 (かがんせき)に水を掛けた。保温も兼ねて温まっていた火含石は水に反応し、さらに熱を発して赤く染まる。
すぐさま漂う肉の焼ける香ばしい匂いが、拳帝の鼻をくすぐった。
「やはり良い匂いだ。口の中に涎が溜まってくる」
「味は任せてくれ! あんたが“参った”って言うまで焼いてやるよ!」
「ほう、そいつは楽しみだ」
のんびりと世間話でもするかのような口調で店主と会話を交わすが、拳帝の脚は変わらず殴り飛ばした男を踏みつけたままの姿勢である。
踏まれている男と共に店主へと詰め寄っていたもう一人の男はというと……暫くの間は、事の次第を理解出来ず茫然自失となっていた。低く脅す声色で数度声を掛けるも、まるで自分達など眼中に無いとばかりに繰り広げられる拳帝と店主の会話の間には割り込めない。
存在を無視されている事に関して、男の表情には腹立だしさが募る。拳帝の脚に踏まれた連れの口から漏れた呻き声が耳に入り、ついに鬱積された苛立ちは爆発したらしい。男は椅子に腰掛ける拳帝の太い腕を掴んで、大声で捲し立てた。
「さっきから話し掛けてるのに無視とは、いい度胸だてめぇ! よくもバズをっ!」
「……うるさいゴミだと思っていたが、何だ? 貴様等みたいなゴミにもちゃんと名前があったのか?」
「うるせぇ! 奴隷上がりが調子に乗ってんじゃねぇぞ!? ここを誰のシマか知ってモノ言ってるんだろうなぁ!」
「知らん。ゴミの臭い唾が肉に飛ぶとメシが不味くなる、黙れ」
「ゴミとは何だ! もっぺん言ってみろ! ああ!」
顔を真っ赤にして怒鳴り立てる男に対して、拳帝は何も言葉を返さなかった。代わりに店主が差し出した串を三本受け取り、そのうち一本を口へと運ぶ。
無視をされた男が怒って掴んだ腕に力を込めるが、それをいとも簡単に振りほどき、返事代わりに脚へと力を込める。短く潰れた蛙のような惨めな声が、再び足元から漏れた。
「お、美味いな」
予想していたものよりも遥かに上質な味に、拳帝は思わず感嘆の声を漏らしてしまう。
店主を脅していた男達は“何の肉だかわからない”と言っていたが、それは極々ありふれた塩が振りかけられた鶏肉だった。表面の皮はパリッと焼かれ、油が充分にのった鶏肉を噛めば肉汁が口一杯に広がる。
奴隷身分の時に肉を味わえたのは週一回、管理する役人が独断で指定した日のみであった。それですらも、最低限の肉体と栄養を保たなければ『観客に対して見栄えが悪い』という馬鹿げた理由からである。大抵与えられたのは──働けなくなった農耕牛か、駄馬の肉が精々だ。それこそ、何の肉だかわからない代物である。
久しぶりに味わう濃厚な味に、拳帝は目を細めて味を楽しんだ。
一方、再び無視をされた男にはそんな拳帝の気持ちなど到底知る由も無い。相も変わらず無粋な大声を発し続ける。
「俺達を散々コケにしやがって……! いいか、てめぇは奴隷だったから知らないだろうが、ここはなぁ! 俺達アルギニン一家の……」
「おいゴミ、食事の邪魔だ。静かにしろ」
「ゴミじゃねえ!」
最後の警告を含めた拳帝の一言ですら、男は真意に気付かない。ついには腰に吊るしていた短剣に手を伸ばした。だが即座に抜ける位置にへと吊るしていたにも関わらず、男が短剣の柄を手にするよりも速く拳帝が動く。
「怒りっぽくなるのは腹が減っている証拠だな。こいつは俺の奢りだ……食え」
若干楽しそうな色を声に含ませた拳帝は、手に持っていた二本の串肉を目では追えない速度で、かつ的確に男の口へと突っ込んだ。
男は短剣を抜く間も無く不意を突かれ、熱々の肉汁垂れる串肉を口どころか喉元深くにまで差し込まれる羽目となった。
「ウゴッフッ!」
「どうだ? 美味いか? 美味いだろう?」
「アガグッ……ウゲッツ! ヴヴェ!」
「ちゃんと話さないか、顔と一緒で行儀の悪い奴だな」
冗談めいた口調で告げる拳帝の問いには、男が今まで感じた事もないような殺気と威圧感が放たれていた。熱で焼ける喉の痛みすらも忘れ、男は恐怖のあまりコクコクと何度も頷き返す事しかできなかった。
男の様子を見た拳帝は満足そうな笑みを浮かべ、一つ大きく頷いて真顔へと戻った。だが、殺気と威圧感は未だに放ったままである。
「よし。返事としては、なっちゃいないが……まあ今回は許してやろう」
拳帝は頭を上下に激しく振り続ける男の髪を掴んで停めると、男の顔を間近で覗き込むように睨み付けた。
「さっきはゴミと言って悪かったな。お前はアルギン一家ってヤツの下っ端なんだな? それなら、一つお前達のお友達に伝えておいてくれないか? “誰に断わって、此処を自分達の縄張りだと名乗ってやがる。ここで暴力を飯の種にしたいのならば、今度からは俺に断りにきやがれアルギン野郎”……ってな。ちゃんと伝えるんだぞ?」
拳帝の細い鳶色の目は、鋭い眼光と共に殺意の光が宿っている。それは時間が経てば経つ程に、男の恐怖心をさらに煽っていった。
心底から恐怖を味わった男は、拘束されていた頭を離され、力無く地面へと膝を落とす。口をだらしなく開け、中に入った串が落ちた後にようやく正気に返ったらしい。熱に麻痺した口から泡にも近い涎を撒き散らしながら、言葉にならない言葉を発するだけだった。
大通り程では無いものの、騒ぎを聞きつけ集まった人垣の中から失笑が漏れる。
嘲りの目と失笑を受け、男の顔はさらに青冷める。
男は死人のような表情のまま──半ば腰が抜けた動作で拳帝が脚を乗せていたもう一人の男を抱え、慌てながらも去ってゆくことしか出来無かった。
「ん、折角貰った二本が台無しになっちまったな。オヤジ、悪いが俺は“遠慮”という言葉が大嫌いでな……また焼いてくれないか?」
「あ、ああ。別にいいが拳帝……アンタ、あんな事を言っちまって構わないのかい?」
「なあに、構わんさ。今日から俺も晴れてこの街での生活だからな。一般市民としての義務ってやつだ」
二人の男が去ってゆき、騒然とする周囲の空気をものともせず……拳帝は歯に挟まった肉を串で剥きながら、店主に向かってのんびりと言い放つのだった。
「ああ、そうだ。オヤジ、あんたにも伝えたい事があったんだ」
「何だい?」
話題を自分へと振られ、店主は串を焼いていた手を思わず止めて拳帝の方へと顔を向ける。座っているにも関わらず、店主よりも背丈が高い拳帝は嬉しそうに目を細めていた。
「あんた、随分と俺を熱心に応援してくれてたんだろ? だったら、俺のもう一つの呼び名を知ってるよな?」
「勿論知ってるとも! 【ノスフェラトゥ(不死者)】だろ!」
「そう、それだ」
店主の返事に満足したのか拳帝は頷き、手にしている串を店主へと向ける。
「俺は【拳帝】よりも、そっちの名前の方が気に入ってるんだ。次からはそう呼んでくれ、俺は【ノスフェラトゥ】のヴァルトってんだ」
言葉の締めとばかりにピン、と指で串を弾く。
それが使用済みの串を入れる容器の中に弧を描いて収まった様子を見て、【拳帝】とも【ノスフェラトゥ】とも呼ばれる男──ヴァルトは可笑しそうに笑う。
そして……ヴァルトは店主が手渡すのを忘れていた新たなる肉串を網から勝手に取り、さも当然の様に口へと放り込むのであった。




