(2-3)戦いを悔やむ拳
ヴァルトは中天より少し傾いた太陽が浮かぶ空を仰ぎ見ながら、欠伸を一つ漏らす。
草原には馬車と複数の人影以外の姿はなく。暖かな陽射しが降り注ぎ、緑の香りを運んでくる心地の良い風が眠気を誘った。
このように晴れた天候と、緑豊かな場所で昼食でも取って寝転がれば、さぞかし気持ちが良い事だろう。
しかし、この長閑な光景を打ち壊す三人の男達が居なければ……の話である。
「やはり、一番手は長兄である俺様が挑むべきだろう!」
「ウェン兄者はいつでもそうだ! それは傲慢というものではないか!? 何とか言ってやってくれ。テリー兄者!」
「……どうでもいいよ順番なんて……一斉にかかればいいじゃないか……」
「なっ!? 何たる卑怯な発言を! テリー恥を知れ! 恥をっ!」
「テリー兄者……相手は一人なのだぞ。三対一はいくら何でも恥ずかしいと思わんのですか!」
あれからヴァルトは場所を移動して、渋々ながらも相手をする事にしたのだが……ヴァルトは闘いが始まる前から既に、相手をする事を決めた過去を早々に後悔していた。
ヴァルトとしては、当然の事ながら三人同時に相手になるものとばかり思っていたのだが、目論見は外れた。三人は場所を変えて、いざやるかという段になってから“戦う順番”を巡って揉め始めたのだ。
「なぁ? 真ん中が言った通り三対一でもいいから、さっさと済ませようじゃねぇか……俺は今日中に隣の村まで行きたいんだよ」
ヴァルトは埒の明かない三人に堪らず声を掛けると、小男と……背中にでかい“何か”を背負った筋肉大男がこちらを睨みつけて口を開いた。
会話を聞いている限り、小男が長兄で大男が三男らしい。
見た目が全然違う兄弟だな、と変な事に感心を覚えたヴァルトへと向けて、二人の男は思いのたけを口にする。
「そんな恥曝しな真似ができるか! 勝負は正々堂々! それで勝ってこそ、“拳帝”を下したという名誉に恥じぬというものだ!」
「我等に卑怯者の謗りを受けよと申すか!? 我等はあの天に輝く太陽に誓って、何一つ恥ずかしい事はせんのだぁ!」
二人同時に吐かれた暑苦しい台詞に、ヴァルトは辟易とした表情を浮かべて肩を竦めた。見ると、二人に挟まれる形で真ん中に立っている次兄──ヴァルトにナイフを投げつけてきた青年も、同様の表情を浮かべている。
もう一度肩を竦めると、ヴァルトは溜息混じりに口を開いた。
「なら順番なんぞ……運に任せて『精霊の御戯』なり、くじ引きなりで早く決めてくれ……」
うんざりとした感じで放ったヴァルトの進言に、三人の兄弟が顔を見合わせる。
「よし! 『精霊の御戯』で決め……」
「ちょっと待ってくれ! ウェン兄者は“御戯”が強いではないか! それでは公平とは言えないであろう!」
「じゃあ……もう、くじ引きでいいじゃないか。そのあたりの草でも引っこ抜いて、長い奴を引いた順でさ……」
テリーと呼ばれた──見た目は特に特徴の無い、普通の次兄は心底面倒臭そうに生えている草を毟ると、草の長さを毟って調節して残りの二人に見せ付けた。
長男の小男は不承不承頷いてみせて、三男の大男は嬉しそうに何度も頷いてみせる。
他の兄弟が申し出を受け入れてくれた事を確認した後は、テリーは三本の草を後ろ手に隠した。草を二人から見えないようにすると、手の中に握り込んで長さを調整する。
三本長さを調整し終えると、再びテリーはその手を二人の前に差し出した。
「では、兄さんからどうぞ」
「あ……ああ……恨みっこ無しだからな……!」
長男は思い切って、テリーの手からはみ出している草の端を摘むと一気に引き抜いた。
しかし印も何も無く長い物順であるために、その草が何番を差しているのかは単独では解るはずも無い。
テリーは次に三男のボーデンと呼ばれた筋肉男へと手を差し出して、引く様に促す。
体躯に似合わず、恐る恐るといった表情でボーデンは草を引っこ抜く。大きな手には明らかに短い草が摘み取られていた。
長さは最初に引いた長男の半分ほどしかない草は、見るからに最下位を示している長さである。それを見たボーデンは、大きな身体でがっくりと肩を落とした。
最後にテリーが自分の手から草を引き抜こうとした瞬間。一瞬だけ草を握り隠している方の手に力が篭もるのを、ヴァルトは見逃さなかった。
「決まりだね」
そう言ったテリーの左手に摘まれた草は、ボーデンの草よりも更に短い草が摘まれていた。
自分が引き当てた草よりも短いテリーの草を見て、三男のボーデンは大喜びの表情を浮かべる。
テリーは苦笑を浮かべながら最下位の草を宙へ舞い上げると、ついた汚れを払う様に手をパンパンっと叩く。その手からは小さな草の切れ端が落ち、風に流されて飛んでいったが、その事に気付いた者はヴァルトだけだった。
──こいつ……
くじ引きのからくりを見抜いたヴァルトが、ニヤリと口端だけを上げ笑みを浮かべる。
「さて……順番も決まった事だし、さっさと初めてさっさと終わらせちまおうぜ」
ヴァルトは組んでいた腕を解いて三人に向き直るも、長男の小男が腕を振り上げて制止する。
「ちょっと待て! まずは名乗り合うのが礼儀だろう!」
「……いらねぇよ……面倒臭ぇ……」
「ならん! ならん! なっらぁぁぁぁん! いいか、戦いとは男の社交場なのだぞ。であるからには、それなりの礼を尽くしてこそであぁる! 戦う相手に名を名乗らぬなど無作法、我等三兄弟は看過することはできんっ!」
“名乗り合い”を拒否したヴァルトに対し、長男は顔を真っ赤に染め上げながら叫んだ。
小さい体躯のどこに声量を秘めていたのか。その叫びが響き渡り、馬車の幌が音で震える程大声である。
因みに三男のボーデンは長男の言葉に感銘を受けたのか激しく頷き、次男のテリーは恥ずかしそうに片手で顔を多い深々と溜息を吐いていた。
ヴァルトもテリーと同様、もはや否定する気力でさえ失い、手を兄弟に振って先を促す事しか行えない。
ある意味──闘技奴隷時代を含めて、精神的に疲れる敵と出会ったのはこれが初めてかもしれない。そんな考えすら、抱くまでにヴァルトは疲弊していた。
「では、この俺様からだ! 俺様の名前は……ウェントス。ブルックス三兄弟が長兄! 『疾風』のウェントスだ!」
「我こそは三兄弟が末弟……『鉄壁』のボーデン! 我が盾の前には如何なる攻撃とて無力としれぇぇい!」
二人が名乗り上げた後には、言葉に表せない何とも云えない沈黙が訪れる。
草原を吹く風の音以外は何も聞こえない中で、長男のウェントスと三男のボーデンが首を傾げ無言で顔を見合わせると、影の薄いテリーへと視線を向けた。
二人から視線を逸らし続けるも、沈黙の催促に耐えかねたテリーが渋々と口を開く。
「あー……うん……分かってるよ。えっと……次男のテリーです。宜しく……」
他の二兄弟に比べると地味過ぎる自己紹介に、ヴァルトは思わず力が抜けそうになった。
「お前だけは、普通なんだな……」
思わず漏らしたヴァルトの言葉で、過剰なまでに反応を見せたのはテリーでは無い。派手な“名乗り”という自己紹介を行った長男と三男だった。
「テリー! 貴様は何だ! その気の抜けた名乗りはっ! もっと気合を入れて言わんか!」
「テリー兄者っ! ウェン兄者と俺が二人して徹夜で考えた二つ名、『知略のテリー』を忘れたのですか!?」
「そんなの恥ずかし過ぎて名乗れるわけないだろ! それに……もっと普通でいいんだよ!」
“女は三人揃うと竜も逃げ出す”という諺が世にはあるが、どうやら馬鹿が三人揃っても竜が逃げ出すほど煩くなるようだ。
そんな事を思いながら、ヴァルトは辟易とした渋面を浮かべる。
「もう良いから……かかってこいよ……いい加減、お前等に付き合うのも疲れてんだ……」
ヴァルトは少し苛立ち紛れに、なおも揉めている三人に殺気をぶつける。すると意外な事に、三人は即座にその場を飛び離れて、臨戦態勢をとった。
その慣れた機敏な動作に、ヴァルトは三人の評価に上方修正を行う。
殺気をぶつけるといっても、あくまでも漏れ出す程度であった。それこそ、戦闘慣れしていないものならば何も感じない程度のものだ。にも拘らず、三人が同時に反応をしたという事は、幾許かは戦闘慣れしている証拠であり……それなりに腕が立つ相手であるとの証明も兼ねていた。
「何だお前等、真面目にやろうと思えば出来るじゃねぇか? さて、どれ位のもんか見せてもらうか?」
「さて拳帝……まずは俺様が相手してやる。ま、俺様で終りだろうがな?」
不敵な笑みを浮かべるヴァルトを前に、長兄──ウェントスは真剣な表情を浮かべた。その場から身体を動かす事無く片脚だけを半歩後ろへと下げ、小さく呟く様に呪を唱えて二、三度足で地面を叩く。
呪を唱え終わると、周囲に不思議な現象が起こった。ウェントスを中心に風が吹き上がり、それが収まる頃にウェントスの姿は掻き消され、別の場所へと姿を移していたのである。
「その靴……魔具の一種か?」
「はっはー! よく解ったな! これは“風霊の宿り靴”と言う。これを履く者は風よりも速く駆け、その速さは人の目で追うことなど叶わぬ! 次は本気でその命を貰い受けるぞっ!」
勝利を確信した笑みか、笑い声を響かせるとウェントスは再度、呪を唱えて靴の刻印を発動させる。今度は腰の後ろに着けられた鞘から、二本の曲刀を抜き放ち構えた。
剣を抜き放ったウェントスの姿に、ヴァルトは久し振りともいえる構えを取る。細い目を凝らし、先程は一切捉えることが叶わなかった相手の姿を捉えようと凝視した。
足元──靴の魔具からまた、同じように風が巻き起こる。これもまた先程同様、ウェントスの姿が瞬時に掻き消えてしまった。
そのあまりの速度に、ヴァルトは驚愕の色を隠せない。
だが、次の瞬間……
「のあっ!! ……ごべべべべべぇぇ……」
ヴァルトから少し離れた場所で地面へと転がり、顔面を地面に擦りつけながら器用な姿勢で滑ってゆくウェントスの姿が目に映った。
「……はぁっ?」
突然起こった余りの出来事に、ヴァルトは思わず素っ頓狂な声を上げざるを得なかった。
「……兄さん……全力出しちゃ駄目だって、この前注意したじゃないか……」
間抜けなウェントスの悲鳴が止んだ後に、風に乗ってテリーの嘆く声がヴァルトの耳に入ってくる。
「……あーなんだ。つまりアレか? “人の目で追えない程の速度は、使用者である本人も当然周囲が見えなくなる”って事か……?」
自分を納得させるが為に口からでたヴァルトの呟きに対し、テリーは聞いていたらしく沈痛な面持ちで静かに頷いてみせた。
ウェントスが転倒した理由は簡単だ。人の目では捉えられない神速の所為で周囲が見えず、たまたまそこにあった出っ張った石か何かに躓いただけの事である。
ヴァルトは力が抜けた両腕を垂らすと、今度はゆっくりと片手を上げて自分のこめかみを押さえる。もはや言葉は出ず、少し痛む頭を堪えるしか方法がなかった。
「ぅおぉのぉれぇぇい! よくもウェン兄者をぉぉぉ! この敵は我輩がこの手で取ってくれるわぁ!」
「……あーもー……全てがどうでもよくなってきた……」
憤怒の表情を浮かべて、顔を真っ赤に染める次兄──ボーデンとは対照的に、怒りをぶつけられている当のヴァルトは、冷めた表情でやる気が完全に消失してしまっていた。
完全に戦意を喪失しているヴァルトなど関係無いとばかりに、ボーデンは背中に背負った二つのモノを下ろした。それを左右の手で持ち上げて、誇らしげに掲げて見せる。
「これを見て何も言わぬとは、我輩に恐れを成したか拳帝っ!」
ボーデンが背中に担いでいたもの──それは巨大な大盾であった。
長細く見える二枚の巨大盾は逆五角形を形どっており、騎士が持つような盾を数倍大きくしただけのように見える。
しかし、それは大きな誤りであった。盾の上から僅かに覗くボーデンの顔がニヤリと歪み、口からウェントス同様、何らかの呪を唱え始める。呪の詠唱に呼応するかの如く、盾がみるみる光り輝いき、唱え終わる頃には表面に淡い光の膜が掛かっていた。
「我輩の盾はまさに鉄壁! この世のあらゆる攻撃は我が盾の前では無力としれぇぇい!」
声高々にそう宣言すると、ボーデンはその場で不動の構えをみせる。
ヴァルトとボーデンの間に、不気味なまでの沈黙が影を落とす。互いに言葉は交わさず、乾いた風が緊張の満ち行く二人の間を吹き抜けていった。
先に動いたのはヴァルトだった。
ヴァルトは戦意を喪失し、気だるく垂らしていた両腕を組むと口を開く。
「……で、どうやって攻撃をするんだ? それで……」
「……ぬ……」
不気味な沈黙が破られ、放たれたヴァルトの疑問に対し──ボーデンは顔をこれでもかと歪めるとヴァルトと同様、沈黙を絶叫にて打ち破った。
「……ぬかったわぁぁぁぁぁぁあぁ!!」
「おめぇらは一体何がやりたいんだ!」
つい頭にきて怒鳴った後は、盛大な溜息がヴァルトの口から漏れた。告げる言葉を終えて、馬車に戻ろうと踵を返す。
いい加減、目の前で繰り広げられる茶番劇に参加する意味が解らなくなったのだ。
その背中に、ボーデンの声が掛けられる。
「なんと! 我が鉄壁に恐れを成して逃げるとは、拳帝とは名ばかりでとんだ軟弱者よ! 確かに我輩は攻撃する事は出来ぬかもしれぬ……だが、同時に貴様の攻撃も我輩には届かん! つまり貴様は我輩を倒す事は叶わんと言う事だぁぁぁ!!」
その言葉に、ヴァルトの足がピタリと止まった。
ヴァルトが見せた反応に、ボーデンは効果ありと思ったのか続けざまに口を開く。
「まぁ、脳ミソまで筋肉と言われる拳帝にしては、賢い選択ではあるなぁ? 仕方があるまい……今回は器のでかい我輩が“見逃して”やろうぞ!」
ボーデンが勝ち誇った様にそう言った瞬間、人の頭程もある岩が盾にぶつかり砕けて散った。
岩の破片が中に舞う中で、ヴァルトの怒声が遅れて盾へとぶつけられる。
「上等じゃねぇか! その言葉を後悔するんじゃねぇぞ!」
ボーデンは挑発に乗ってきたヴァルトの姿に、笑みを浮かべる。
「無理せずに逃げても構わんのだぞぉ?」
「うるせぇ! その御自慢の盾ごとブッ潰してやる!」
ヴァルトは負けと大声を張り上げ、ボーデンに向かって親指を立て、それを勢い良く下へと向けた。その後は腕を組んで周囲を見渡し、一つ大きく頷く。そして足を進めるも、ヴァルトが向かったのはボーデンの元では無かった。
「くっくっくっ! 隙が見当たらぬ為に諦めたかぁ!」
ボーデンは更なる挑発の言葉を投げかけるが、その言葉にヴァルトは何も反応をせずに歩みを進める。
「……やっぱり、これ位か?」
ヴァルトが足を止めたのは、大人の胴周りよりも数倍程はある木の前だった。
草原に幾本か分かれて生えている木の中でも、一番大きな木の前へとヴァルトは歩み寄る。そして無言で幹に手を添えて撫でるように優しく二、三度叩くと、幹に手を回して力を込め始めた。
意図が読めないヴァルトの行動に、ボーデンは挑発の言葉を続けようとして口を開く。だが、次の瞬間には、その口が開いたままの格好で固まった。
静かな草原の中に、生木の裂ける音が響き渡る。
音は少しずつ大きくなってゆき──ヴァルトが幹へと腕を回していた木が、ゆっくりとだが軋む音と共に持ち上がってゆく。
「ふっ……うらぁぁぁ!」
ヴァルトの気合の声と共に、とうとう地面に根を張っていた木が動く。土台となる根元から浮き上がり、ヴァルトの力によって持ち上げられていた。
後に木があった場所に残されたのは、木が生えていたという痕跡を伺う穴だけである。
ぽっかりと地に口を開けた穴に負けない程に、ボーデンは驚きで口を大きく開けている。そんな対戦相手へと向かって、ヴァルトは木を抱えたまま振り返った。
大人の背丈より何倍もある高さの木を抱えて、ヴァルトは盾を構えているボーデンへと歩み寄る。
「さて……どんな攻撃も、その盾の前では無力なんだっけか?」
目の前で起きた余りの出来事に、テリーもボーデンも開いた口が塞がらない。
しかし、ボーデンにとっては他人事では済まされなかった。今、狙われているのは自分である。
ボーデンはせめてもの抵抗で、粘つく汗を滝の様に流している頭を必死になって振る。だがそれも、無駄な抵抗に終わるだけだ。
ヴァルトは逆に爽やかな笑顔を浮かべながらも、どんどんボーデンへと近付いてゆく。
あと数歩のところまで歩み寄ると、ヴァルトの笑みはさらに一層増した。持った大木を、まるでわざと恐怖を与えるかの様にゆっくりと振りかぶり、そして……
「まっ……ぐぅわらべるばぁぁぁ!!」
焦って魔具に注ぎ込んでいた魔力を、遮断してしまったのか。光の消えたボーデンの二枚盾を相手に、ヴァルトはそれを思い切り振り抜いた。
大きな鐘を打ち鳴らしたような音と共に、『鉄壁』の二つ名を持つ巨体が宙を舞う。
地面へと落下すると幾度か跳ねながら地面を抉り、やがてボーデンの動きは止まった。
ヴァルトは木を持ったまま、倒れてピクリとも動かないボーデンの元までゆっくりと向かう。鎧の上から上下する胸を見て、息があるのを確認した後は……その上に木を叩きつける動作を繰り返し行った。
ヴァルトは幾度も木を振り下ろし、その度に派手な音が草原へと響く。漸くして満足したのか──ヴァルトは漸く木を放り投げると脇へとしゃがみ込み、再度ボーデンの様子を伺った。
「ほう! こりゃあ凄いな? あんなに殴ったってのに、傷一つ付いてねぇ! 流石は鉄壁だな……その盾」
そこには身体の半分ほどを地面へとめり込ませながらも、傷一つ付いていない盾があった。盾はまるで蓋のように気絶したボーデンの上に覆いかぶさっており、意識の無い持ち主を守っていた。
それを満足そうな笑みで見下ろした後で、ヴァルトは手に付いた木屑を払い落とす。そして、事の成り行きをただ静かに眺めていたテリーへと向き直った。
「さて……最後、お前さんの番になったわけだが? どうする? やるか?」
テリーはヴァルトの言葉に苦笑を浮かべながらも肩を竦めると、大きく溜息をついた。
「勝てない勝負はするものじゃないと、僕は思うんですけどね? けど……まぁ、兄貴や弟がやられて、僕一人逃げ出すなんて格好悪いと思いませんか?」
「ははっ! 確かに。それでこそ男の子だな」
「……ですが、少しだけ待ってくださいませんか? 兄と弟の醜態を晒し続けるのも……流石にアレなので」
「別に構わんさ」
テリーと同じように肩を竦めて見せたヴァルトの言葉に、テリーは一度だけ頭を下げて礼を述べるとヴァルトから背を向けた。
まずは未だピクピク痙攣しているウェントスの元に行き、気絶している小さな身体を肩に担ぎ上げる。その足で地面に半身を埋めて気絶しているボーデンの元へと向かった。担いでいた兄を横に寝かせて、介抱のためか装備を脱がしてゆく。
その一連の動作を、ヴァルトは腕を組みながら黙って眺めていた。
ウェントスの介抱が終わった後で、地面に埋もれているボーデンを引き上げようとするも、身体の大半を地面の中に埋もれさせている大きな体躯はなかなか動かせないらしい。最終的に引き上げるのを諦め、しゃがみこんで介抱するだけに留めたようだった。
「手を貸そうか?」
「いえ、結構です。これ以上、お時間を取らせるのも何なので……」
戦いとは程遠いやり取りを終えて暫くした頃には、介抱が終わっていた。
「……お待たせしました」
テリーはヴァルトの方へと、歩いて近付いてきた。そしてヴァルトから十歩ほど離れた位置に足を止め、腰の横にぶら下げた剣を抜いて構える。
その姿は片手に一般的な片手用の直剣を持ち、左手には丸いラウンドシールドを構えている。ごく有り触れた攻防一体の構えだった。
「そろそろ、始めましょう。これ以上時間を掛けてしまうと、馬車で待ってるお連れの方にも悪いですし……」
「お、もういいのか?」
「はい……ですが、一応は兄と弟に習って名乗りをしましょうか? 僕の名前はテリー……ただのテリーです。貴方に勝つことが出来れば、以後『拳帝殺し』とでも名乗りましょう」
「剛毅だが殊勝だな……“勝つことが出来れば”か。なら、俺も礼に従おう。俺の名前はヴァルト、“ノスフェラトゥ”のヴァルトだ。もし俺に勝って名乗るならば『不死者殺し』とでも名乗ってくれ、そっちの方がサマになるだろう?」
ヴァルトは礼を弁えたテリーの行為に、礼で返すと籠手の嵌っている腕を掲げて構えて見せる。犬歯を見せて不敵な笑みを浮かべるヴァルトの姿に、テリーはにっこりと微笑むと左手の盾を胸の前に構え、片手剣を斜めに腰の前で構えた。
「……では、参ります!」
短く、それだけを言い放つと離れているヴァルトへと走り寄り、片手剣を一閃させた。
ヴァルトはその剣を体裁きだけで軽く避けるが、避けた次には再度振るわれる。
剣撃を加えてくるテリーの姿に、避けながらもヴァルトは素直に感嘆の念を抱く。相手があまりにも基本に忠実で、ここまで愚直な剣を振るうとは思ってもいなかったのだ。
兄との口喧嘩の最中でもヴァルトに注意を払い続け、隙を見てナイフを投擲する様な隙の無さを持っている相手である。
最初に抱いた印象から、ヴァルトはてっきり正統な剣など使わずに相手の不意を付く、“邪剣”でも使うのかと思っていたのだが、拍子抜けすると同時に感心もしていた。
「随分と素直でいい剣だな」
「“正道知らぬ剣は力無き剣だ”と師が厳しかったものでして……」
テリーは正確に、剣を何度も振るう。ヴァルトがその剣を全て躱しているというのに、その顔には焦りの一つも見えなかった。
焦りや深追いは自分の破滅だということが、良く知っている者の攻撃だ。これは下手に派手な攻撃よりも、地味ながら着実に振るう剣は厄介なものである。冷静さを保ち振られる攻撃の厄介さは、奴隷闘士だったヴァルトは誰よりも身を以って知っていた。
「いい師に巡り合ったな……だが、素直な剣は読みやすい」
縦に振り下ろされた剣を半身に体をずらして躱しながら、ヴァルトは素直な感想を漏らした。
その言葉に、テリーも息も切らさずに苦笑で答える。
「ははは……よくそれで怒られました。師にはほんの一ヶ月ほど学ばせて貰いましたが、いい師とは程遠い自堕落な師でしたよ。ですが、色々と学ぶ事も多かった。例えば……」
そこで言葉を途切らせたテリーの殺気が、一瞬だけだが大きく膨らむ。
横に振られようとしている剣を籠手で受け止めようと、腕を上げる前に嫌な予感が過ぎったヴァルトは身体を大きく仰け反らしていた。
宙を切る音が耳に届いたのは、その時だった。軽い痛みが走り、ヴァルトの頬が浅く切られて血が流れ落ちる。
続けざまに追撃で振られようとしている剣の範囲から逃れようと、ヴァルトはその場から後ろに転がってテリーとの距離をあけた。
テリーも更に追撃しようと考える素振りが、僅かながらも表情に浮かぶ。だが直ぐに考えを改めたのか、その場に留まると軽く息を吐いて呼吸を整えた。
「今……何をしやがった?」
「自分の手の内を簡単に晒すと思っているんですか?」
「案外、素直なお前さんなら答えてくれると思ったんだが……なぁ!」
今度はヴァルトが、一瞬身体を沈み込ませるようにしながら跳躍し、地面から勢い良く足を放った。瞬く間に距離を詰めると籠手を嵌めた拳で、テリーの身体を構える盾ごと撃ち抜く。
拳に衝撃が走り、相手を捕らえた事を確信するも──ヴァルトの望む結果は得られなかった。
「……お前」
信じられない事に全力ではなかったとはいえ、ヴァルトの突きはテリーが掲げた盾によって受け止められていた。盾ごと吹き飛ばされる様子も無く、テリーはその場で踏み止まっている。
直後にヴァルトへと向かって振るわれる剣に、驚愕を感じながらもとっさに反対の腕で剣を弾き、後ろへと飛んで剣撃の範囲外へと逃れた。
「成る程な……」
ヴァルトは離れて漸く、自分の一撃が受け止められた正体を掴み苦々しげに言葉を吐く。テリーの掲げている盾は淡く光を放ち、その周囲に魔力が張り巡らされていた。
「そいつは弟と同じ盾ってわけか?」
「ええ。ボーデンが持っていた盾は僕のお下がりでして……まぁ、流石に二枚持つのは僕もどうかと思いますが……」
ヴァルトは黙って、テリーの盾を睨みつける。
──衝撃の軽減……いや……感触からして無効化か? これはまた厄介だな……
基本、一対一の決闘方式で戦っていた奴隷闘士の時に、テリーのような戦士が一番厄介な相手である事はその身を以ってヴァルトは体験している。
自分が凡人である事を知る人間は、決して無理をしない。それは簡単なようで非常に難しい事なのだ。
相手が体勢を崩せば追い討ちをかけたくもなるし、自分が攻撃を受ければ不安にもなる。それらの感情を全て理性で押さえ込み、なおも戦う人間は──戦闘で高揚している者よりも手強く、やり辛い相手であった。
テリーの攻撃は、まさにそれを体現している。決して深追いせず、こちらを観察しながらも自分と相手の力量を誤らない。
それは逆にヴァルトを相手に勝機を持っているからこそ、戦っているともいえる。この手の戦士は決して勝てない勝負には乗ってこないからだ。
現に少しだけ乱れた息も既に整えられて、盾に破損がないかを視界の端に捕らえて確認する余裕すら持っている。
勿論、ヴァルトとて負けるとは考えていない。
本気を出せば盾をも砕き、相手を負かす奥の手も残してはいるのだが……それは相手を殺す前提での話である。生憎とヴァルトはそこまでする気は無かった。
それに……
「……どうにも、憎めねぇんだよなぁ……」
「なんの話ですか?」
剣を構え、再度踏み込む動作を見せたテリーが、ヴァルトが漏らした独り言を聞いて動きを止める。
「いや、なに……こっちの話だ。それよりもよ、ここいらで止めにしないか? これ以上やり合うと生き死にの領分に入っちまう」
唐突なヴァルトの提案に、テリーは唖然とした表情を浮かべる。そして、不意に大きく溜息を吐くと思わず降ろしかけていた剣を構え直した。
「聞く耳はもたねぇ……てか?」
「“戯言を聞く耳は”と付け加えておいてくださいよっ!」
テリーはその体つきからは考えられない程の跳躍で、一足飛びにヴァルトへと肉薄すると手に持った剣を勢い良く幾度も振るい、ヴァルトの出した問いに答える。
それらを紙一重で躱しながら、ヴァルトは苦い笑みを浮かべた。
「そうか……なら仕方無い。お前等が言う拳帝とやらの本気を少しだけ見せてやるか……!」
「……っ!?」
振り下ろされた剣を片方の籠手で弾き飛ばしながら、利き腕を腰溜めに構えるヴァルトの姿を見て、テリーは警戒して拳の範囲外へと飛び退く。
「無茶をしないのは感心だが……経験が足りねぇよ!」
腰の横に添えられたヴァルトの拳が小刻みに震えると、淡く光を放ちだした。
それを見たテリーは着地と同時に、顔を険しくする。
更に距離を開けようか盾を構えようか、一瞬だけ迷いを見せて──結局は盾で防御することを選択したようだ。
だが、その選択は間違いであった。
「確かに、その盾はいい盾だ。だがな……どんなモンにだって欠点はあるんだよ!」
ヴァルトの忠告とも取れる言葉と同時に、力を溜めに溜めた拳は解き放たれた。
「──ッ!」
その後に自分の身に何が起こったのか、テリー自身にも把握することが出来無かった。
気が付けば暴風とも呼べる風が盾とそれを持ったテリーの身体を吹き飛ばし、浮遊感に襲われた後に固い地面が目に入る。
咄嗟に盾で衝撃を無効化しながら着地を試みるが、間に合わなかった。体が受けた最初の衝撃までは無効化出来る筈が無く、口から短い呻き声が漏れる。次の瞬間には再度地面が視界に映り、何度も跳ねるように地面へと打ちつけられる羽目となった。
テリーは一体自分が何をされたのか分からないまま痛みに襲われ、意識は闇に飲まれていった。
テリーが目を覚ますと、規則正しい鈍い音と身体に伝わる僅かな振動を感じた。
未だはっきりとしない意識を微かに振りながら、一度は開けた目を閉じ思案を始める。
途切れる意識の前から今自分が横たわっている場所が何処かは想像がついたが、身体に伝わる振動が頭には届いていない事に疑問を感じたのだ。その時、規則正しかった衝撃が一度大きくなり、横たわってたテリーの身体は僅かに浮く。打ち付ける程まではいかないが、衝撃と共に微かに浮いた頭が霞掛かった思考に疑問を与えた。
一度大きく衝撃で跳ね、頭に感じた柔らかい感触でテリーの意識は完全に覚醒した。
テリーは慌てて身体を起し、周囲を見渡す。
やはりそこは最初に想像した通り、馬車の中だった。
場所や経過こそ分かれど、何故此処にいるのかその理由が思い当たらない。困惑するテリーであったが、身体を起こし直接響く馬車の衝撃によって痛む頭を押さえる事しか出来なかった。
頭の痛みに襲われるテリーに、背後から声が掛けられる。
「貴方、もう少し横になっていた方がいいんじゃないの?」
聞き慣れない声に驚いて振り向くと、テリーの背後に座っている女性の姿が目に入った。
「えっと……貴女は確か……」
喉から出た声は、テリー自身が驚く程に上擦ったものだった。
拳帝と対峙した際に少し視界に入っていた筈だが、あの時は緊張していてろくに顔も見ていなかった。だがこうして正面から見ると、黒い髪を後ろに纏めた妙齢の女性は非常に美しく整った顔でこちらを心配そうに見つめている。
日頃から兄弟と共に行動する事が殆どで、女性に対してはろくな面識が無いテリーにとっては、目の前に居る女性──アンジェリカの存在は緊張を覚えるに充分過ぎるものであった。
「ヴァル! 坊やが目を覚ましたわよ!」
テリーの問い掛けに答える事無く、アンジェリカは大声で御者台へと声を掛ける。呼び掛けた名が先に名乗った賞金首である男の名前である事と、アンジェリカの膝に広げられた布を見る限り、テリーが目を覚ますまでに置かれていた状況は安易に想像出来た。
賞金首である男の連れ──事もあろうに、女性の膝上に頭を載せられて介抱されていた事実を知り、テリーの顔は赤くなる。いっそ“坊や”と呼ばれた事に反論を返そうかとも考えるが、自分の行動を思い返して、それすらも諦めた。
どう足掻いても事実は覆す事など出来ず、現にテリーの傍に寄って心配そうに見上げている二人の少女を前に戸惑う事しか出来無い。
暫くすると、ゆっくりと馬車が止まった。
幌を押し開いて、テリーを負かした賞金首である拳帝が顔を覗かせる。
「よう、漸くお目覚めか? 痛む所とかはあるか?」
厳つい顔には似つかわしくない、気遣わしげな表情で心配するヴァルトを見て、テリーはつい苦笑を浮かべてしまっていた。
「大丈夫です。でも……しいて上げるならば、負けてしまった自尊心が痛むって所でしょうか?」
「くっ、ははははっ! それだけの口を聞けるなら大丈夫そうだ。気にすることじゃねぇよ。お前さんは強かった。そいつは俺が保証してやる。お前が負けたのは、単に俺が強過ぎただけだからな?」
気遣わしげな表情から一転してヴァルトは豪快に笑うと、御者台から荷台へと移ってきた。
他に言うべき言葉が見当たらず、テリーはヴァルトから目を逸らす。
「……ところで、僕の兄弟はどうなったんでしょうか?」
馬車の中を見渡す限り、自分の他にはアンジェリカとマリエラとソフィアの姉妹、それにヴァルトの五人しかいないことに気付く。自分達が狙っていた相手を前に、あの兄と弟がそうそう諦める筈など無い。そう思って、テリーは質問を投げ掛ける事にした。
テリーが放った問い掛けに対し、ヴァルト達の表情が一変する。
言い辛そうに顔を歪めるヴァルトとは対照的に、アンジェリカに至っては顔を憎々しげな表情へと変えテリーを静かに見据えている。
心無しかマリエラとソフィアは、怯えの色を目に浮かべていた。
それぞれが浮かべる表情を前に、テリーの背筋に悪寒と怒りが走る。
「それが、その……言い辛いんだが……」
「ああ、いえ……皆さんの顔を見て、何があったのか大よそは想像できまし……」
先を濁すヴァルトに対し、事情を把握したテリーが言葉を代わりに告げている時であった。
外の方から、叫び声にも近い大声が聞こえてくる。
それは──テリーが最も良く知った者の声であった。
『よぉっじょぉおぉぉおおぉおぉにぃぃぃ会わせ……ソゲブッ!』
「うるっせぇよ! さっきからしつこく復活してきやがって、いいから死んどけ!」
沈痛な面持ちを浮かべていたヴァルトがその声を聞くや否や、勢い良く立ち上がっていた。テリーが止める間も無く、馬車の後ろにある幌を開くといつのまに取り出したのか……拳大程はある石を声の主へと向けて、力いっぱい投げつける。
石が直撃した小男は、盛大な悲鳴を上げてその場で転んだ。
足に巨大な人影を結ばれて引き摺っていたにも関わらず、小男は再び立ち上がり再び馬車へと向かって走り始める。ありえない速度で走るも、もう一発石を食らい再度地面へと倒れていた。
「……はぁぁぁぁぁ……」
それを見たテリーは口からありったけの溜息を漏らし、深く項垂れる。
「あのな……お前の兄は……そのだな……」
「いい、坊や!」
口篭りながらも言葉の続きを告げるヴァルトを押し切ったのは、アンジェリカだった。
「坊やのお兄さんは変態よ! 真性のっ! ド変態なのよ!」
「ちょっ! ……アンジェリカ、お前っ!」
「何よ。本当の事でしょう? マリエラちゃん達を見るなり、抱きつこうとしてきた幼女嗜好の変態に変態と言って何が悪いっていうの!?」
「それでもコイツにとっては家族なんだからよ、もっと……こう、柔らかく言ってやるとか……」
「いえ……いいんです……」
止まった馬車の手前で倒れ込んでいるウェントスなどには見向きもせず、突如起こったアンジェリカとヴァルトとの言い合いにテリーは慌てて間に入り頭を下げる。
「皆さん、本当に御迷惑をお掛けしました。何とでも言ってやって下さい。発病したあの男が悪いんです。僕がきっちりと埋めておきますので、どうか……どうか、御容赦の程を……」
そう言ってテリーは深々と頭を下げる。
まだ僅かに痛む身体に鞭打ち立ち上がると、開かれたままの幌から地面に横たわっている兄を見下ろした。既に身体を動かし、復活の兆しを見せる兄を憎々しげに睨み付ける。
「……随分と苦労、してるんだなぁ……お前さんも……」
「大丈夫です! この苦労の分だけ、今度こそ魂に刻み付けるほど! あの男を痛めつけますから!」
同情の言葉を告げるヴァルトへと振り向き、テリーは力強く言い放つ。特徴の見当たらない整ったその顔には心からのいい笑顔を浮かべていた。
もう一度ヴァルト達に頭を下げ謝罪を行うと、テリーは馬車の後ろから地面へと降り立った。
三兄弟の次兄が浮かべていた苦みばしった会心の笑みに、ヴァルトとアンジェリカ、マリエラの三人はそれぞれ同じ気持ちを抱く。互いに無言で交わす視線にはただ一つ、『可哀想に』というテリーに対しての同情と哀れみを込めたものであった。
『よ……じょ……』
陽が傾きを見せ始めた外から、風に乗って運ばれてきた変態の呟きに──馬車の中では、三人が漏らす盛大な溜息が響き渡ったのだった。