思い出の中にある掌
娼館へと現れたクリスと名乗る男性からヴァルト達に貸し与えられた家は、思った以上の広さだった。
外見同様、中の構造や設備も時代を感じさせるもので、頑丈に作られた屋敷はその年月を物ともしない風情を醸し出していた。
二階建ての屋敷の内部は、一般的な屋敷と造りは大体一緒だ。
入り口からすぐ前の玄関ホールは広く、ちょっとした立食パーティすら開けそうである。二階が住人の居室となっており、日当たりも非常に良い。一階は玄関ホールの他は、調理場や食堂を除いて使用人室まで兼ね備えている。
一通り、貴族が構える屋敷として最低限の機能を持つこの屋敷を売りに出すとならば……ヴァルトには幾らになるのか見当が付かない。
但し、それは洗練された調度品や家具があれば、絢爛さに目を眩んだことだろう。
ヴァルト達が貰ったのは、厳密に言えば……言葉通り“屋敷”だけだった。
足を一歩踏み入れれば、屋敷の中はがらんどうで、何も無い部屋達は見ていて寂しいものがある。全部の部屋を回っても、今はクローゼットはおろかベッドですら持ち運ばれた形跡のみを残しているだけだ。
ヴァルトはバルコニーから外を眺めて、やり切れない感情と共に疲れた溜息を吐く。
昨日、屋敷の様子を伺った際に目に付いた、家具や調度品を運び出した後に残されていた“あるもの”の始末を考えるだけでうんざりしていた。
それは──長年に渡り、溜まりに溜まった埃や、家具の所為で前の住人には見えなかった頑固な汚れである。
ヴァルトは別に汚れ位は構わなかったのだが、構う人間が二人ほど傍にいたのが災いとなった。
今こうして、ヴァルトが深い溜息を吐く原因は……アンジェリカとマリエラの二人にある。
足を踏み入れ屋敷の惨状を見るなり、つい今しがたまで外観を見上げて喜んでいた様子など関係無いとばかりに、二人は抗議の声をラズーロにぶつけた。しかし稲穂に北風の如く、ラズーロは予想していたのか……のらりくらりと、風に吹かれた稲穂のように抗議の嵐をいとも簡単に受け流しただけだった。
ラズーロには何を言っても無駄、と解った二人が次に取った手段はそう……
四人全員で行う“大掃除”である。
「あーっ! ダメオヤジ! またサボってる! アンジェさんに言いつけるよ!」
「うるせぇなぁ……ちょっと外の空気を吸いたかっただけだ」
その声にヴァルトは心底面倒くさそうに頭を掻きながらも振り返り、言い訳を口にする。見ると、開け放たれたバルコニーのドアから白いエプロンを汚れで黒くしたマリエラが顔を覗かせていた。御丁寧に小さな頬を膨らまし、怒った様子をより強調させている。
マリエラが身に纏っているエプロンはアンジェリカの娼館から借りたものだ。しかし、大人用のそれは大き過ぎたようで、肩紐を絞って小さくはしているが、まるで服の様にも見える。頬だけでは物足りないと感じたのか、子供なりに威圧感を出そうと上目遣いでヴァルトを睨み付け、肩を怒らせて近付いて来た。
「キチンとしないと、いつまで経ってもお掃除が終わらないでしょ! ほら、さっさと仕事して!」
「そうガミガミ怒鳴るなよ。今からそんなんじゃ……直ぐに老けちまうぞ」
ヴァルトは子供ながらの甲高い怒鳴り声に片耳を塞いで、顔を顰めて肩を竦めた。
「そ……そんなことないもんっ!」
まだ十歳を過ぎたばかりだというのに“老ける”という単語に過敏な反応を見せたマリエラを見て、ヴァルトはもう一度肩を竦めて視線を外す。そしてバルコニーにある青銅製の手摺に背を預けながら空を見上げると、ヴァルトは背後にある手摺の外へと親指を立て、マリエラに声を掛けた。
「あーわかったわかった。そう怒鳴るな……、ほれ、見てみろよ。今日もいい天気だぞ」
ヴァルトの言葉に対する返事は、予想外の方向から返ってきた。
「確かにいい天気ねぇ?」
ヴァルトの言葉に同意を示したのは、目の前にいるマリエラからでは無く……手摺の下から響いてきた声だった。
調子こそ穏やかながらも言葉には表せぬ迫力が篭もったその声に、ヴァルトの喉から短く呻きが漏れる。慌ててしがみ付くように柵の下、丁度玄関がある位置へと視線を下ろすと、そこには左手をソフィアと繋ぎ、空いた右手を腰に当てたアンジェリカの姿があった。
「随分と余裕があるのね……? 頼んでおいた掃除は終わったのかしら?」
「おわったのかしらぁ?」
眼光鋭く見上げるアンジェリカに、ヴァルトは声も出ない。
アンジェリカがの笑みを見て、隣にいるソフィアは楽しい事だと勘違いしているようだ。満面の笑みを浮かべながらもアンジェリカの言葉を真似ている。
「あっ! アンジェさんおかえりなさーい」
「はい、ただいま。マリエラちゃん」
「ねぇたん。ただいまぁ!」
固まったヴァルトを無視するかのようなやり取りをマリエラと行いながらも、アンジェリカはにっこりと微笑みを浮かべていた。腰に当てていた右手をヴァルトへと向けて、アンジェリカは人差し指を曲げ、無言で『降りて来い』とヴァルトに命じる。
それを見たヴァルトは片手で顔を覆って溜息を吐き、対照的にマリエラは『ざまぁみろ』とばかりにクスクスと笑い声をあげるのだった。
ヴァルトが足取り重く階下へと降りると、玄関ホールの中央で腕を前に組んだ“魔王”がいた。隣には天使の様な笑みを浮かべたソフィアが、降りてきたヴァルトの姿を見てにこやかに手を振っている。
「ヴァル、一つ確認したいのだけど」
「……ああ?」
「私は頼んだはずよね? “自分の家なんだから、きちんと掃除をして”って?」
「……ああ……」
「そしてヴァルはこう言ったわ。『分かった分かった。子供じゃねぇんだからよ』って?」
「…………ああ……」
“魔王”ことアンジェリカは、ヴァルトが過去に言った言葉を器用にも声色を用いて真似をする。それが余りにも似ていたので笑いを堪えきれず、ヴァルトの隣に立っていたマリエラが噴出した。
「……あ・な・たは子供じゃないんだから! 何度も同じ事を言わせないで頂戴!」
「いや……さっきのはな……その、休憩つーか。湿っぽい室内に居過ぎて、つい外の空気を吸いたくなっただけっつーか……」
「三回掃除をサボってましたぁ!」
「ちょっ! てめっ!」
唐突に上がったマリエラの告げ口の声に、ヴァルトは怒った顔をマリエラに向けた。だが当のマリエラは、どこ吹く風とばかりにあらぬ方向を向いて、吹けない口笛を吹くフリをする。
そんな二人のやり取りを前に、アンジェリカは深々と溜息は吐いて、がっくりと首を落とした。
「ヴァル……子供を相手にそんなムキになってどうするのよ……はぁ……ともかく、今からでもいいから掃除位はちゃんとして! 明日には家具が届く筈なんだから、それまでに終わらせること! そうじゃないと、いつまで経っても住む事が出来無いわよ! いい?」
「へぇ……よくそんなに早く家具が届くように手配できたな」
「まぁ、そこはそれ。コネってやつよ。私の仕事柄……ね? それはそうと、掃除をちゃんと済ませて。取り合えず用事が終わったし、また私も手伝ってあげるから」
話題を上手く逸らしたか、とヴァルトが思ったのも束の間だった。すぐさまアンジェリカはそう言うと自分より頭一つ高いヴァルトを見上げて、厚い胸板を軽く叩いた。
「へいへい……ったく、住めりゃいいだろうに……」
「……何か言ったかしら?」
「よっしゃ! 気合入れて掃除するかぁ!」
最後の抵抗ですら、アンジェリカの気迫に押され最後まで言う事が出来無い。
ヴァルトは白々しく棒読みでアンジェリカの指示に返答すると、自分に割り当てられた二階部分の掃除へと戻るのだった。
刈り取りの季節に入った今の時期は、陽が傾くのも若干早い。ほんの少し前に昼の終鐘が鳴ったばかりだというのに、既に陽は斜陽となっていた。
「あーー……だりぃ」
二階の掃除もあらかたは終りを迎えていた。ヴァルトは腰を曲げていた体を起こし、手に持っていた雑巾を木桶へと放り込む。雑巾同様、木桶に汲んでいた水も汚れに染まっており、これまでに何度水を汲み替えたかは考えたくも無い。
「……掃除なんて何年ぶりだ?」
独り言を漏らしながらヴァルトはその場で腰を回したりと、同じ姿勢で固まった体をほぐす。
途中で食事をする以外はずっと屈んだ姿勢のままで雑巾掛けをしていたのだから、体が固まるのも仕方が無かった。
一つ大きく伸びをすると、ヴァルトは部屋を出て玄関ホールへと降りてゆく。
そこには柱を磨くアンジェリカと、大声で彼女に纏わり付くソフィアの姿があった。
「あんじぇー……あそぼーよ!」
「もう少しだけ待ってね? ここを磨いたら終りだから」
「……ソフィーつまんない」
忙しく掃除を行うアンジェリカの周りを歩きながら誘いの文句を口にするソフィアと、一言ずつ苦笑混じりにも丁寧に返すアンジェリカ。その姿は傍から見るとまるで、家事と子育てに追われる主婦のようだった。
ヴァルトは巻き込まれまいと、気配を殺しながら階段を下りる。幸いにもアンジェリカとソフィアには気付かれてはいなかったのだが……丁度、倉庫だった部屋の掃除を終えたのだろう。段を降り切った時に、階段下の扉から出てきたマリエラと目が合った。
マリエラはヴァルトと視線が重なった瞬間には、ヴァルトを指差しながら口を開いていた。
「あっ! ダメオヤジがまたサボってる!」
「……サボってねぇよ。二階が終わったから降りてきただけだ!」
「ヴァルー! おわったの? あそんで! あそんで!」
マリエラとのやり取りでヴァルトの姿を捉えたソフィアは、こちらに標的を変えて走ってきた。足元に子犬のように纏わり付きながら、何度も「あそんで」と催促を始める。ヴァルトの腰辺りまでの小さな身体は元気良く飛び跳ね、その度に肩まで伸びた金色の髪が揺れていた。
「はぁぁ……あー今度な? 今度」
ヴァルトは自分の前ではしゃぐソフィアの姿を前に苦笑を浮かべ、埃で汚れきった頭を掻く。それでも懲りる事無く、同じ単語を繰り返すソフィアには諦める気配が伺えない。一体、何と言えば目の前にいるソフィアに諦めさせる事が出来るのだろう、とヴァルトが思案していると横から声が掛かった。
「あらあら、ソフィアちゃん。そんなに我儘言っちゃ駄目よ? ヴァルはおじさんだから、今日はきっと掃除で疲れてるのよ」
ヴァルトに助け舟を出したアンジェリカは口に手を当てて、笑みを隠しながらソフィアを注意する。だがこちらから見れば元々隠す気などは無く、その口に意地悪な笑みを浮かべているのが丸解りだ。
「そぉなの?」
アンジェリカの浮かべている笑みなど気付く筈も無いソフィアは、ヴァルトの顔を見上げながら可愛らしい頭を傾げさせる。
「ヴァルはおじさんだから、あそべないの?」
「俺はそこまでオッサンじゃねぇよ!」
「嫌ねぇ……自分の年齢や衰えを認めないなんて、おじさんのいい証拠じゃない。将来はきっと偏屈ジジィになるんだわ。あぁ、やだやだ!」
ヴァルトは少し狼狽しながらも否定するが、その言葉は例の如くアンジェリカによって一笑に伏される。口では勝て無い、と充分知っているヴァルトは恨みがましく睨むだけだ。対して自分の勝ちを悟ったアンジェリカは、悪戯っぽく笑う。
「嘘、冗談だってば。貴方の無尽蔵な体力は、私が身を以って“知って”いるから……ね?」
「……おい……」
赤く紅の塗られたぽってりとした唇を誘うように小さく舐めた後で、子供には分からない意味を込めた流し目をヴァルトへと送った。アンジェリカの浮かべる表情から、何に関しての体力を言っているのか刹那に気付くと、ヴァルトは視線に少しだけ険を込めて睨みつける。
マリエラとソフィアは二人のやり取りの意味が分からずにきょとんとした表情を浮かべて、ヴァルトは憮然とした表情を浮かべていた。
アンジェリカは三人の様子があまりにも可笑しかったのか、ケラケラと声を上げて笑う。
「……っふふふ。あー、本当におかしいっ! 冗談よ。そうね……もう少ししたら終わるから、ソフィアちゃんは私と遊びましょうか? マリエラちゃんとヴァルは、仕立て屋さんから昨日仕立てるように頼んだ服を取りに行って頂戴。セレスおば様は仕事が早いから、もう出来ている筈よ?」
一頻り笑った後でアンジェリカが三人に向かってそう言うと、マリエラとソフィアの両姉妹は即座に目を輝かせた。まだ子供とはいえども、やはり女性には変わりないのだ。採寸を行い、生まれて初めて仕立ててもらった洋服が嬉しくてしょうがないのだろう。
「仕立ての割には、えらく早ぇんだな? 普通、四日位は掛かるだろう」
「うちのお店で利用してる仕立て屋さんだからね? 腕は私が保証するわ」
アンジェリカは店で着ている扇情的なドレスではなく。洒落た街娘が着るような服のスカートを少し持ち上げて、それをヒラヒラと振って仕立て屋の腕の良さを見せる。
赤いスカートに青い刺繍の施されたその服は、下級貴族の娘が着ていても違和感が無い程にまで綺麗な仕上がりをしていた。
「それだけなら、わざわざ俺が行かなくても……マリエラだけで大丈夫じゃねぇのか?」
素直に抱いた疑問をヴァルトが口に出すと、アンジェリカから即座に否定の言葉が返ってきた。
「何を言ってるのよ! もう直ぐ夜の初鐘じゃない! この季節は直ぐに暗くなるんだから、女の子に一人歩きさせるなんて危ないでしょ?」
「へいへい……しかし、こんな色気も無いチビ助に何かしようなんて変態がそういるもんかね? ……まぁ、いいけどよ」
「誰がチビ助よ! ダメオヤジ! 私は一人でもいけるわ。ね、アンジェさん?」
見下すように細めた目だけで見下ろすヴァルトに、マリエラは抗議の声をあげてから、アンジェリカの方へと向き直る。胸を張って一人でも大丈夫だと訴えるが、アンジェリカは口に笑みを浮かべ、首を横に振ってから答えを返した。
「それは駄目。この街は貴女が思っているほど安全じゃないのよ? ……それに、昨日は採寸でセレスおば様がこちらに来てくれたけれど……おば様の仕立て屋はガラの悪い特別区に近いから、余計に危ないわ」
「……わかりました……」
頬に手を当てて心配げな表情を浮かべるアンジェリカに、マリエラは素直に頷く事しか出来無かった。
マリエラは代わりに、これ見よがしに大きく溜息を吐いて自分と同行するダメオヤジこと、ヴァルトを見上げる。ヴァルトはヴァルトで、面倒臭そうにマリエラに負けじと盛大な溜息を吐いていた。
「なによ……」
「何でもねぇよ。……それよりいいから、早く行くぞ。チビ助」
「チビ助って言わないで! ダメオヤジ!」
二人はそれぞれ文句を口に載せて、玄関から外に出て街へと向かうのだった。
目の前には色とりどりの布地が高く積まれ、唯一整っているカウンターから奥を覗くと、年配の女性から若い娘に至るまで、様々な針子達が慣れた手付きで服を仕立てていた。
ヴァルトは女性しかいない店の中で、居心地の悪さを誤魔化すように店のあちこちを所在無さげに見回していた。反面、マリエラは展示されている服が珍しいのか店に入った瞬間から目を輝かせて、何度も視線を端から端へと往復を繰り返している。
そんな対照的な二人に向かって、声が掛けられた。
「はい、お待たせ。こっちが小さいお嬢ちゃんの分で……こっちがアンタの分になるね」
「ふわぁぁぁ……ありがとうございます!」
針子達の中から所々白髪になっているも、上品な雰囲気を漂わせた壮年の女性が奥から姿を見せた。手には二つの洋服を持ち、カウンターの上へとそれを丁寧に載せる。
顔を輝かせてカウンターを覗き込むマリエラを見て笑顔を浮かべると、女性は一つ一つ仕立て上がった服をその場で広げていった。
胸を張り自慢するように裏返したりして、出来栄えを披露する。その度にマリエラは頷き、蒼い瞳で食い入る様に出来たばかりの服を眺めていた。
「これ、私の服なんですよね? はぁ……すごいなぁ……」
「そう喜んでもらえると、仕立て屋冥利に尽きるってもんさ。アンジェ嬢ちゃんの知り合いだし、この帯もつけてあげようかねぇ」
マリエラとソフィアに仕立てられた洋服は大きさと色こそ違いはあれど、お揃いの服となっていた。マリエラは確認の為に手渡された自分の服を広げて、あちこちを見回しては頬を緩ませている。
青い布地で仕立て上げられた服は、スカート部分に薄い緑で刺繍が施され鮮やかなものだった。ヴァルトの目から見ても、とても一日で仕立てられた物だとは思えない出来栄えだ。
因みに──ソフィアの洋服はよく汚すだろうということで、赤い布地が使われていたが、これにもまた緑の刺繍が丁寧に施されている。
「どうだい? いい出来だろう。なんなら、着て帰ってみるかい?」
マリエラの喜ぶ様を、まるで孫娘でも眺める様な瞳で見つめていた仕立て屋のセレスは、マリエラに対して問い掛ける。セレスの申し出に対し、マリエラはたっぷりと時間を掛けて迷ってみせる。やがて、にっこりと微笑むと首を横に振った。
「ううん。アンジェさんに最初に見せるって決めてるから……それに汚すといけないし……」
「あっはっはっはっ! アンジェ嬢ちゃんも、随分と可愛らしい子を見つけてきたもんだ。本当は服の汚れなんて気にしなくてもいいんだよ? 子供の服は汚れるって相場が決まってるものさ。まぁ、いいさね。それなら早く帰って、アンジェ嬢ちゃんに来ている所を見せて驚かせてあげな。贈った者にとっては、それが何よりのお返しになるからね?」
「はい! 有難うございます!」
「いいかい、アンタもこんな可愛い子が危険な目に合わない様に、ちゃんと守るんだよ!」
「はっ? あ……ああ……」
会話に入る事も出来ずにただ成り行きを見ていたヴァルトは、突然振られたセレスの言葉に戸惑い、言葉少なめに返事をするしかできなかった。
二着の服をなめし皮に包んで貰い、二人は店を後にする。
店を出て暫く歩いていると、言葉数が少なめだったヴァルトが口を開いた。
「別に着て帰っても、よかったんじゃねぇのか?」
「うん……でも、ソフィと一緒に着たかったから……」
「へっ、可愛いところもあるんだな!」
「うるさい! デリカシーも無い駄目オヤジ!」
二人は茜色に染まった通りを、それぞれ悪態をつきながら歩く。それ以外は何の問題も無く、足を進めていたが……屋敷まで丁度中間に差し掛かった頃に、ヴァルトは急に足を止めた。
「なによ……」
「あー……いや、ちっと用事を思い出しちまってな? ここからは、もう一人でも大丈夫だろ?」
急に立ち止まったヴァルトへと振り返って、マリエラは眉を顰める。こちらと目を合わさず、横を向いて短い赤毛を掻くヴァルトを前に、マリエラは呆れて溜息を一つ吐いた。
「……また、サボる気なんだ……もう、アンジェさんに叱られても知らないんだからね!」
「直ぐに帰るって……アンジェには、その……上手く言っといてくれ!」
ヴァルトはそれだけを言い残すと、その場にマリエラを残してどこかへ走り去っていった。
その行動は余りにも素早く、マリエラに引き止めさせる間も与え無い。反撃の言葉をマリエラが思い浮かんだ頃には、既にヴァルトの姿は無く。通りを歩く人込みへと消えてしまっていた。
「何よ! ほんっとに勝手なんだから! ダメオヤジ! べぇーっだ!」
罵声を浴びせかける相手が既にいないにも関わらず、怒りと呆れが収まらないマリエラはヴァルトが消えていった方角へ向かって大声で叫ぶ。
その時、遠くの方から一度だけ鐘の音が大きく響き渡ってきた。
夜の始まりを告げる初鐘の音だ。
アリュテーマの街では時刻を知らせる鐘が日に七度、街が管理する塔から鳴らされる。
朝に二回、昼に三回、夜に二回の合計七度だ。
夜に鳴らされる最初の鐘を聞きながら、マリエラは空を見上げた。既に陽は大きく傾き、次の眠鐘が鳴らされる頃には完全に暗くなってしまうだろう。
しかし、マリエラは足早に屋敷とは違う方向へ歩き出した。足取りには迷いが無く、目的地があることが傍目にも分かる。
幾つかの通りと路地を抜けて、マリエラは特別区の程近く──大工などの職人が住む城壁近くまで来ていた。
「確か……この辺りのハズだったけど……」
陽も殆ど暮れかけ薄暗くなった城壁の傍で目を凝らし、マリエラは懸命に何かを探していた。短い距離を数回ほど往復した後に目的の物を見つけると、目を輝かせて走り寄る。
「……あっ! あったぁ!」
マリエラが懸命に探していたものは、城壁傍に生えている一本の木だった。見上げて一つ大きく頷いた。
そしてアンジェリカから貰った服に汚れがつかない様に腕まくりをして、おもむろにその木の根元を近くにあった木の枝で掘り返し始める。
マリエラが額に汗を浮かべて掘り返し続けていると、手に土とは違う柔らかい感触が枝を通して伝わってきた。訪れた感触に思わず笑顔を浮かべると枝を放り投げ、汚れるのも構わずに手で穴を広げると小さな安堵の笑みを浮かべた。
──よかったぁ……ちゃんとあった……
土の中から姿を見せたものは、かなり汚れて薄汚くなったなめし皮の包みだった。
なるべくそっと持ち上げ、マリエラは包みの表面に付いた土汚れを丁寧に落とす。そして、それを胸に抱えると、素早く元来た路地へと戻っていった。
マリエラは仕立ててもらった服と、今しがた掘った二つの包みを胸に抱いて、すっかり陽の落ちた裏路地を通り抜ける。
顔には笑みを浮かべ、胸に抱いた荷物に何度も目を落とし、知らず知らずのうちに屋敷へと向かう足取りは速くなっていた。
今まで何度も通った事のある道だからという自信と、胸に抱く荷物を早くソフィアに見せたいという思いで気が急いていたのだろう。普段は人通りが無い小さな通りにマリエラが出た時には、周囲に気を付ける事などすっかりと忘れてしまっていた。
マリエラの小柄な身体に衝撃が走ったのは、その時だった。
不意の出来事と包みを抱いていた事もあり、マリエラは軽い身体を石畳に転がってしまう。その拍子に抱いていた包みが小さな腕から落ちた。
「……ってぇーな! このクソガキ! どこ見て歩いてやがる!」
マリエラは痛む体を起して、ぶつかった相手を見上げた。自分に向かって罵りの言葉を吐く男を前に、マリエラの表情が固まる。
そこにいたのは……外見からして、いかにもガラの悪さが伺える職人崩れの男であった。
「あ……ごめ……」
「ガキが何をそんなに……お! これは……」
謝ろうとしたマリエラの言葉は、男の視線が追った先を見て最後まで続かない。
通りに落とした際に梱包していたなめし皮が緩み、仕立ててもらったばかりの服が少し見えていたのだ。石畳の上で栄える色を目敏く見つけた男は、それを拾い上げると目の前で広げて、卑しい笑みを浮かべる。
「おお、こいつは丁度いい! うちのガキにぴったりじゃねぇか! ぶつかった慰謝料だ。こいつは貰っておいてやるぜ」
「それは……っ!」
男が手にしていたのはマリエラの服ではなく、ソフィアが着る筈の服だった。
「それは駄目っ! 返してっ!」
「うるせぇ! てめぇからぶつかってきたんだろうが! こいつで勘弁してやろうってんだ感謝しやがれってんだ」
「謝りますからっ! お願いします! それだけは駄目なのっ!」
取り上げられた服を何としてでも取り返そうと、男の足にマリエラは必死にしがみ付く。だが、それが気に食わないのか、男が怒声と共に開いている方の手でマリエラを殴ろうと拳を振り上げた。
「うるせぇって言ってんだよ!」
「ひっ!」
振り上げられた拳を見て、マリエラの喉から小さな悲鳴が漏れる。だが男は手を止める事無く、勢いをつけマリエラへと向かってそれを振り降ろす。
だが──、男の拳がマリエラへと振り降ろされる事はなかった。
「俺の連れに何か用か?」
瞼を硬く閉じたマリエラの耳に、低く太い声が入る。
訪れる筈の衝撃は、何時までたっても訪れない。マリエラへ向かって振り下ろされようとしていた拳は、それよりもさらに大きく硬い手で受け止められていた。
マリエラが殴られる恐さから目を閉じていた瞳を開けて、目の前に立つ人物を呆然と見る。そこにいたのは、マリエラが普段“ダメオヤジ”と呼んでいる男の姿だった。
「おとう……」
恐怖から開放されたのと、聞きなれた声に思わず父と呼びそうになり、マリエラは口を噤む。
そんなマリエラの胸中など関係無いとばかりに、目の前ではヴァルトと男のやり取りが行われていた。
「いててぇいでぇ! 離せっ! 離してくれ!」
「“離してください”だろうが?」
「は……離して下さい……うぐぅっ」
「“お願いします”は?」
「くっそ……いでであだぁ! おねがいじまず!」
「やだね」
万力のような馬鹿力で男の腕を締め上げ、ヴァルトは不機嫌そうに淡々と言葉を述べる。対して男は、余りの痛みに持っていた服を地面へと落として悲鳴と懇願を上げ続けるだけだった。
男の口から漏れる懇願の文句を聞いてなお、ヴァルトは意地の悪い笑みを浮かべて、更に絞める力を強めてゆく。
「い……いぎぎぎぎ……ぎああ……」
「情けねぇな……ほら、もっと抵抗してみろよ」
「はなじで……ぐだし…………ヘプゥッ!?」
もう少しで腕が折れると思った瞬間に、男の口から突然奇妙な悲鳴が上がり、直後に男は泡を吹きながらヴァルトに握られている腕を支点にして、身体をぐったりとさせて気を失ってしまった。
「……お前、いつの間に……」
ヴァルトが訝しげに見ると、男が突然気を失った原因を把握して呆れた声を漏らす。男の背後には──股間を蹴り上げた体勢で止まった、マリエラの姿があった。
「この人にも子供いるから、怪我させちゃ駄目!」
「おいおい……お前がやられそうになってたんだろうが……それに……そこを蹴り上げるのは、女としてどうかと思うぞ?」
マリエラの合致していない言動に、ヴァルトは苦笑を浮かべて返す。
「私は怪我をさせていないもん!」
「いや、そうじゃなくて……あのな、そこは男にとって……もういい……」
気絶した男を軽く路地の脇へと放り投げた後に、ヴァルトは肩を落として溜息を吐いた。マリエラはそんなヴァルトには目もくれず、石畳の上へと落ちたソフィアの服を拾い上げ汚れていないか確認を行いながらも愚痴を続ける。
「そもそも、ダメオヤジが勝手にどっかへ行っちゃうから悪いんじゃない!」
「それは……俺が悪かった。だがお前こそ、どうしてこんな所にいるんだ? 先に帰ったんじゃなかったのか?」
「それは……その……私も用事があって……」
マリエラは服から汚れを落とすと綺麗に畳み直した後で、それを胸に抱いた姿勢で口篭る。その様子から、聞いて欲しく無い内容なのだと悟ったヴァルトは幾度か目を宙に彷徨わせた。
「まぁ、別に俺は何だっていいんだけどよ。それより……怪我はねぇか?」
「何よ。気持ち悪い……私を心配するなんて……」
「ばっ、馬鹿! ちげぇよ! お前にもしも怪我なんてさせたら……俺がアンジェの奴に説教されるからだろうが!」
「……ふぅん」
半眼で睨むマリエラの視線にヴァルトは慌てて言い訳を口にしながらも、表情を誤魔化す為か地面へと転がっている荷物を拾い集めてゆく。
石畳に落ちた衝撃からか、もしくはぶつかった拍子にか……服と同様、マリエラが掘り出した包みも地面へと広がってしまっていた事に、今更ながらマリエラは顔を赤らめる。
マリエラが掘り出した包みの中身……それは木で出来た玩具や人形、髪飾りといった幾つかの小物だった。使い古されたそれらをヴァルト一人に拾わせる事に抵抗を覚え、慌ててマリエラも地面へとしゃがみ込む。
「べっ、別に私一人で拾うから……いいのに」
「一人でするよか、二人の方が早いだろう……ん?」
「あ……それはっ!」
ヴァルトの声に含まれた疑問の色に、マリエラは慌てて顔を上げる。屈み込んだヴァルトの手には木で出来た人形があった。それを持ち上げて、興味深げに見ているヴァルトの姿にマリエラが慌てた声を出す。
「これは……お前達の父親……グレンが?」
「……うん……私の家はお母さんを早くに死んじゃったから……働くお父さんが寂しくないようにって……作ってくれたの。無くしたり、盗まれたりしたら困るから埋めて隠してたんだ」
俯きながらも言葉を告げるマリエラは、頬がさらに熱を帯び赤くなるのが自分でも分かった。言った後で必ずからかわれると思い、目を合わす事が出来ない。
だが、ヴァルトが見せた反応は、マリエラが想像していたものとは違うものだった。
「……そうか……器用なもんだな。……大事にしろよ」
ヴァルトは手に持っていた人形を、壊れ物でも扱うかのように丁寧にマリエラへと手渡して小さく呟くだけだった。
「……え?」
渡す時の丁寧な扱いと、一瞬だけ見せた優しい眼差しにマリエラは驚きを隠せない。一瞬見惚れてしまった事を無意識に恥ずかしく思い、気付いた時にはつい憎まれ口を叩いてしまっていた。
「ダメオヤジは何をやってたのよ! ど……どうせ、またお酒でも買いに行ってたんでしょ!」
マリエラはヴァルトの背中に、膨らんだ大きな皮袋を見つけて咎めるように指を差す。ヴァルトも罰が悪そうに頭を掻いた後で、あらぬ方向を向いた。
「ん……まぁ、そんな所だな。アンジェには内緒にしとけよ? あいつの説教は長ぇからな……」
「うん、分かった。その言葉も報告するね」
「んなっ! てめぇ、この裏切りもんが!」
「あはははっ! 仲間になった覚えなんかありませんよぉーだ!」
マリエラは服の包みと、父が作ってくれた小物が入った包みを大切に胸に抱くと、怒りの声を上げたヴァルトから逃げ出すように通りを走り始めた。
ヴァルトも小さく溜息を一つ漏らすと、マリエラを追いかけるべく背中の荷物を背負い直して、ゆっくりとマリエラの後を追うのだった。
屋敷に戻ると、アンジェリカという魔王が再び屋敷の扉前で降臨を果たしていた。
「ヴァル……貴方はいい歳して、ちゃんとお使いすら出来無いのかしらね……?」
元々追いつく気のなかったヴァルトは、マリエラが走って帰った後を悠々とした足取りで歩いて帰ってきたのだが……到着した頃にはマリエラがアンジェリカに告げ口、もとい“報告”を終えており、今の状況に至っていた。
「あ……う……」
「どうやら、お馬鹿さんは言葉も話せなくなってしまったようね?」
短い付き合いながらもアンジェリカが一度こうなれば、何を言っても無駄だとは身を以って体感しているヴァルトだったが、それでも何とか言い訳をしようと口を開く。だが今回ばかりは余りの気迫に押され、言葉が何一つ浮かんではこなかった。
恨みがましくアンジェリカの横に立つマリエラを見つめるも、マリエラはどこ吹く風とばかりに横を向いている。
「大体、貴方には責任感というものが欠けているのよ! あれだけ危険だと言っておいた筈でしょう! なのに、小さい子供を放っておいて……」
ヴァルトが何も反論を行えない事が分かっているアンジェリカは、滝水の如く説教という水を容赦無く浴びせかける。
一体どれぐらい頭の上を打っては、霧散する言葉を聞いていたのだろう?
説教が降り注ぐ滝の終りは、突然に訪れた。
「……アンジェさん、それ位でいいじゃないですか? それよりも……遅くならないうちに、私とソフィーが着替えるのを見てくれませんか? 凄く良い服だったんですよ!」
唐突に隣から放たれたマリエラの言葉を聞いて、アンジェリカの表情が一変する。マリエラと手を繋いで黙っていたソフィアも、姉の言葉を聞いて即座に反応すると嬉しそうに同意を示した。
「あ……あら、そうね。おば様があれだけの仕立てをしてくれたんだもの、きっと凄く似合うと思うわ! マリエラちゃん、ソフィアちゃん……責任感のない大人は放って、一緒にお着替えしましょうか?」
「はい!」
「うん!!」
アンジェリカの言葉に、マリエラが元気良く返事を返して、それに追いかけるようにソフィアが満面の笑みを浮かべて頷く。
一方、背を向けたアンジェリカを前に漸く説教も終りかと、ヴァルトは安堵の表情と溜息をアンジェリカに気付かれない様に吐いた。
ふとその視界に──屋敷へと入るアンジェリカと、悪戯っ子の笑みを浮かべて指を一本立てるマリエラの姿が映る。マリエラの浮かべる笑みと、指の意味を汲み取ったヴァルトは鼻を鳴らした。
──“貸し一つ”ってか? いい根性してるぜ……全くよ。
ヴァルトはその姿に苦い笑みを浮かべて、手をヒラヒラさせてマリエラに返事をする。マリエラは思いっきり舌を出してそれに答えると、アンジェリカの後を追って屋敷の中へと姿を消した。
「さて……と」
三人が屋敷の中へと入って行った後──つい先程まで、痛烈な説教を受けた事すら忘れたかの様にヴァルトは口端を上げて笑みを浮かべる。
「さっさと済ませちまうか……」
そう言ってヴァルトは庭にある大きな木の元へと向かうと、背負った荷物を広げたのであった。
屋敷の中で賑やかに騒ぎながら、服を着替え終えた三人が屋敷の外に出る頃には……夜の訪れを告げる二回目の鐘が鳴り響き、冷たい空気が外に流れていた。
新しい服を身に纏い、はしゃぐ二人の姉妹とは別にアンジェリカは夜風に身体を軽く震わせる。軽く露出した肩を擦りながらも、アンジェリカは辺りを見回していた。
「やっぱり……ヴァルの姿が見えないわね。家にも入らなかった様だし……拗ねて先にお店へ帰っちゃったのかしら?」
アンジェリカがしょうがない男だとばかりに苦笑を浮かべるも、その目には『先程は少し言い過ぎたかもしれない』という色が漂っている。
丁度その時、アンジェリカの心境に答えるかの如く、屋敷の角から当のヴァルト本人がひょっこりと姿を現した。
「おせぇよ! 一体着替えにどれだけ時間を掛ける気なんだ?」
「あら? いたの。女の支度には時間が掛かるものよ? ……それにしても、中にも入らず何をしていたのよ?」
アンジェリカが放った言葉にヴァルトはニヤリと笑みを浮かべると、それ以上は何も言わず屋敷の角へと再び姿を消してしまった。
ヴァルトが浮かべた笑みの理由が分からないまま、ヴァルトを追い掛けるソフィアについてマリエラとアンジェリカも後を追う。ヴァルトが消えた屋敷の角を曲がったアンジェリカ達は、そこで変なものを見つけて立ち止まった。
敷地内にある屋敷の庭に大きな木が一本生えているのだが、昼間に見た時とは明らかな変化を見つける。その太い枝にロープが二本結わい垂らされて、地面へと垂れた先端に見るからに頑丈な一枚板が結ばれていた。
一見するとそれは椅子にも見えるが、椅子にしては不安定で使い物になるとは思えない。
「なにこれ? 椅子?」
「ははっ! アンジェも知らねぇか? こいつは東方の国にある“揺り椅子”ってヤツだ」
木の横で自慢気に腕を組んで立っていたヴァルトに、アンジェリカが尋ねる。その問いにヴァルトは嬉しそうに犬歯を覗かせ笑ってみせる。
揺り椅子と呼ばれた物は微かに吹く夜風に当たり、名前の通り小さくゆっくりと揺られている。
「ソフィア。こっちに来てみな」
「う……うん……」
初めて見るものに流石のソフィアも怖気づき、呼びかけにぎごちない返事で答えると、ヴァルトの元へとゆっくり近付いてゆく。少し身体を強張らせながらも、揺り椅子から目を離さないソフィアをヴァルトは正面から抱き上げる。
そして、宙に浮いた揺り椅子へゆっくりと座らせた。
「ほら、ここに座ってな? しっかりとこのロープを握るんだ。そう、それでいい」
ソフィアの目線と合う様に屈み込みながら、ヴァルトは色々と説明してゆく。
良く理解しないまま頷く姿を見て、やってみた方が早いか。と苦笑を漏らし、ソフィアが座る揺り椅子の後ろへと回り込む。
ソフィアが落ちない様に心掛けながら、ヴァルトはロープをゆっくり前後へと揺らし始めた。
「ほら、こうやって遊ぶんだ」
「……うわぁ!」
最初は恐怖に身を竦ませたソフィアも、揺れを繰り返すうちに慣れてきたのか──最後は楽しげな声を上げて、一人で振り子の様に揺らし始めた。
楽しげに宙を往復するソフィアの姿を見て、アンジェリカとマリエラも驚きと感嘆の声を漏らす。
「すごーい! ゆらゆらぁ! ゆらゆらぁ!」
「なにこれ、すごい!」
「これは確かに……こう、何ていうか。うん。楽しいわ」
三人が代わる代わる揺り椅子に座りながら、三者三様の喜びを表現する。
「……でも、良くこんな珍しいものを知っていたわね?」
暫くして子供の様に姉妹と共に遊んでいたアンジェリカも、今はヴァルトの横に並んで楽しげに遊ぶ二人の姉妹の様子を見て微笑んでいた。
ヴァルトも二人が自分の作った遊具で遊ぶ姿をまんざらでも無い様子で眺めながら、アンジェリカの言葉に返答する。
「傭兵時代だった頃にな、東方出の奴に聞いた事があって思い出したんだよ」
「それにしたってどうして急に……」
「ああ、ソフィアが一人で寂しそうにしていたからな。こいつでなら一人の時でも遊べるだろ?」
「へぇ……やっぱり優しいのね? それとヴァルは昔は傭兵だったんだ……」
「……っ!?」
ヴァルトはうっかり口が滑った自分の言葉に、しまったという表情を浮かべる。一瞬険しい顔を浮かべるも、その表情は既に消え、代わりに口を真一文字に結んだ。
アンジェリカは唐突に様子の変わったヴァルトに対し、怪訝そうに眉を顰める。どうしたのかと尋ねようと口を開く前に、その声はソフィアによって遮られた。
「ヴァルー! ヴァルー! ありがとね!」
「ああ……気にしなくていい」
先程までの様子はどこへやら、ヴァルトはソフィアの言葉にも無愛想に答える。
しかしヴァルトが浮かべる無表情な仮面も、次に発したソフィアの言葉によって打ち砕かれる事となった。
「あのね……あのね! ヴァルはソフィーのおとうさんみたいなの!」
無邪気に発せられたその言葉を聞いた瞬間、ヴァルトの細く鋭い目が大きく見開かれた。
ヴァルトが僅かに見せた変化に全く気付く様子も無く、笑いながら駆け寄ってきたソフィアの頭を一撫でする。
アンジェリカだけが変化に気付き、声を掛けようとするも……突然ヴァルトは踵を返し、三人に背を向けた。
「……すまんが、先に帰る。後は好きにしてくれ……」
たった一言それだけを告げて、ヴァルトは大きな歩調でその場を後にした。
「何よ? あのダメオヤジ……急に帰ったりなんかして?」
代わる代わる遊んでいた揺り椅子に夢中で話を聞いていなかったのか、ヴァルトが帰ってゆく姿を見て憮然とマリエラが呟いた。
「ヴァル……おこちゃったのかなぁ?」
マリエラとは対照的に、俯きながら沈んだ声でつぶやきを漏らすソフィアの頭を、アンジェリカがそっと撫でる。
「きっと照れてるのよ。こんなに素敵なモノを作ってくれたのよ? 怒ってなんかいないから、安心するといいわ」
「うん……でもね……ヴァル、すごく……さみしそうなかおしてたの……」
「そう……」
ソフィアの言葉にアンジェリカはただ、一言だけしか答えられなかった。
広い屋敷の庭に、暫しの沈黙が訪れる。
それぞれが口を噤む中で、良く晴れた夜空に浮かぶ一際明るい月が──揺り椅子と、その周囲にいる三人を優しく照らすだけであった。