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ゼファーイレブン

作者: 景雪

 マジ、うざい。あいつ。

 夏奈子は集中力の途切れた月曜日の午後、オフィスのパソコンに向かいながら、午前中から昼休みをはさんで四時間、ずっと同じように続くデータ入力にうんざりしていた。どうしても視界に入ってしまう前の席の小暮が、目障りで目障りで仕方なかった。

 小暮、マジ、うざい。第一、男らしくないんだよ。最近流行りの草食系だか何だか知らないけどさ。いつも澄ました顔して。目が合った時にあからさまに睨んでも、別に気にもとめてないみたいだし。あんたなんか、あたしよりも格が十は下なんだよ。目を合わせてあげただけで土下座して感謝しろよ。

 「川本さん」

 突然背後から話しかけられたので、夏奈子は入力中のデータを誤って消してしまった。声をかけてきたのは四期上の上司、田島で、夏奈子は彼に頼まれて、データを入力していた。

 「はい。何ですか? 田島さん」

 「あのさ、さっきも言ったけどさ、時間がさ」

 「すみません。急ぎます」

 夏奈子は田島を振り切るようにまたパソコンに向かった。田島から頼まれているデータ入力は、夕方の会議に使う資料だから、タイムリミットはあと三十分しかなかった。消してしまったデータをまた入力し直さなければならないことに、イライラは爆発寸前までたまっていた。

 小暮、お前のせいだよ。データを間違って消しちゃったの。

 乱暴にキーボードを叩きながら、夏奈子はむしゃくしゃした気分を大きな塊にして、目の前の席に座る、同期の小暮優人にぶつけた。


 「おつかれさま。助かったよ」

 定時が終わって席を立とうとしている夏奈子に、田島が声をかけた。ちょうど夕方からの会議を終えたところだった。

 「いえ」

 夏奈子は適当に返事をした。

 「ごめんね。俺の用事で一日使わせちゃって。金曜日、暇?」

 「え? 金曜日ですか?」

 「おしゃれなバーがあるんだ。お礼におごらせてよ」

 田島は夏奈子にとってどうでもいい上司の一人に過ぎなかったが、おごってくれるという誘いなので、応じることにした。

 「じゃあ、金曜日楽しみにしてます」

 夏奈子はそう言い残して職場を後にした。小暮が少しだけ自分に視線を向けたような気がしたが、無視した。


 「アイラちゃあん。かわいいよお」

 脂ぎった肌と醜く出っ張った腹を不快に思っていると悟られないように、夏奈子は男に乗っかられながら、快感にうちひしがれている素振りだけの表情と声をした。

 「アイラちゃあん。もう、出ちゃいそうだよお」

 男が腰を振るたびに大粒の汗が夏奈子の身体中に降りかかってくるので、彼女は少しでも早くことが済むようにと、男のこわばった一物を包み込む自らの太ももに力を込めた。

 「い、くう!」

 欲望のほとばしりを放出して、男が夏奈子に全体重を預けてきた。本当は横によけて男を顔面から床に叩き落としてやりたかったが、そんなことはできず、彼女は仕方なしに力を失った男の身体を受け止めた。

 「イイジマさん。アイラも、よかったよお」

 どうでもいいくだらない台詞を言う自分が馬鹿らしかった。イイジマの荒い息遣いが顔にかかる度に、夏奈子は自分の上にのしかかる男を蹴り飛ばしたい衝動にかられた。

 「アイラちゃあん。好きだよお」

 イイジマが乾燥して皮がむけた唇を押しつけてきた。夏奈子は死ぬほど嫌だったがその唇を受けて、しかし舌を入れられることだけは拒否し、唇を固く結んで強制的な接吻に耐えた。

 「イイジマさん。シャワーあびよ? 汗いっぱいかいちゃったからね」

 そう声をかけるとイイジマは子どものように素直に頭を振った。夏奈子は一刻も早く、自分の身体に浴びせられた醜い中年男の汗、唾液や色々な液体、体臭を流したかった。イイジマはいつも彼女を一二〇分で指名してくれる上客だったので、邪険にできないのが逆に憎らしかった。


 川本夏奈子は二十五歳で、都内の中堅広告代理店に一般職として勤めるOLだ。短大を卒業したので就職して五年目になる。OLは昼の顔で、夜には繁華街のヘルスクラブで「アイラ」として働く別の顔も持っていた。

 男なんて、パンツを脱げばみんな一緒。オスに変身するんだよ。

 夏奈子がヘルスクラブで働くのは、金銭に困ってのことではない。風俗店という、男が欲望の全てをさらけ出す場所で、その欲望を受け止める魅力的な対象としての自分自身に、陶酔したいがためだ。

 プロポーションを保って、常に肌艶を気にし、男を欲情させる声やしぐさを訓練し、多くの客から繰り返し指名を取れるように自らの価値を高める。指名の数や対価としての報酬は、結果に過ぎない。夏奈子はある一瞬にたまらない優越感と満足感を覚えていた。彼女を目の前にして、たくさんの男達がため息をもらしながら一物を堅くする、一瞬に。


 金曜日、田島が夏奈子を連れていったのは、会社から徒歩三分ほどの、地下にあるバーだった。こまめに掃除された清潔な店内と、良く磨かれて店の照明を受けて光をためたように淡く輝くカウンター。つまらない男にしてはまあまあのセンスだと、夏奈子は思った。

 「何飲む?」

 「お酒以外なら、なんでも」

 「……」

 カウンターに腰を落ち着けて、田島はスコッチをダブルで、夏奈子はジンジャーエールを頼んだ。

 「酒だめなんだっけ?」

 「気持ち悪くなっちゃうから」

 本当は、夏奈子は酒が飲めないことはない。だが、飲みたくはない理由があった。短大に入ってすぐ、他の大学の男子学生と一緒に飲んだ際に、甘くて飲みやすい酒を飲まされてほとんど強姦に近い形で初体験をさせられた。二度と同じ過ちを繰り返さないように、アルコールは一切飲まないことにしていた。

 女を酔わせて、ガードを緩くして、男の考えていることはただ一つ。合体することだけ。たまった欲望を放出することだけ。

 夏奈子にとって男とは、動物のオス以外の何物でもなかった。今まで交際をしてきた男達全員、一人の例外もなくそうだったからだ。

 「ちょっとくらい、飲んでも大丈夫だろう? 甘いやつなら」

 「無理矢理飲ませるんなら、帰りますよ」

 夏奈子が強めに言うと田島は押し黙った。

 こいつの魂胆は見えている。いつ獣に変身するか様子をうかがっているのが手に取るように分かる。夏奈子は田島のその様子を蔑んで見ながら嘲笑を投げつけたいがために、今日の誘いに応じた。勝敗は最初から決まっていた。

 最も、何度勝負しても結果は一緒なんだけどね。

 田島は無駄に金を費やして、夏奈子との金曜日の勝負に無様に敗れた。

 馬鹿ばっかりなんだから、男なんて。酒さえ飲まなきゃ、あたしが負けるわけないのよ。


 うざい。マジで。

 イライラが募る月曜日。夏奈子はキーボードを強めに打ち付けた。

 小暮の野郎、あたしの視界に入ってくんじゃねえよ。むかつくんだよ。

 仕事を適当に一旦切り上げて、夏奈子は喫煙室に向かった。最近煙草の本数が多い。かつてはメンソールなどを吸っていたが、ここのところセブンスターばかりだ。辛い煙草が吸いたい気分だったから。

 一人だけの喫煙室で煙を充満させていると、なんと小暮が入ってきた。小暮は非喫煙者だ。缶コーヒーを二本持っている。

 何しに来たんだよ。

 「川本さん」

 気安く声をかけてきた彼を、夏奈子は睨んだ。

 「あんた、煙草、吸わないんでしょ?」

 「うん、そうだけどさ」

 「何よ。あたしに何か用なの?」

 差し出された缶コーヒーを、苛立ちを表情に出しながら夏奈子は拒否した。

 小暮は同期ではあったが、夏奈子はほとんど話したことがなかった。彼は元々口数が多くない。飲み会の席などでも、ニコニコしながら周りの話を聞いているだけだ。夏奈子は皮をかぶったようなそういう男が大嫌いだった。

 表面上だけいい人ぶりやがって。お前もオスなんだろう? 本性出せよ。

 「川本さんさ、悩みか何かない?」

 「は?」

 意味分かんねえんだよ。何様のつもりだよ。お前はあたしの親か先生のつもりか?

 「ちょっと前さ、仕事が終わった後に、川本さんを見かけたんだよね。繁華街の方で」

 嫌な予感がよぎった。夏奈子は背中を氷が滑ったように寒気を感じた。

 「仕事帰りに、飲みに行ったかなんかじゃない? 別におかしくないよ」

 声が上ずってしまった。小暮相手に動揺している自分が、夏奈子は許せなかった。

 「服装が、仕事の時とは随分違ったんだよね」

 夏奈子は夜の仕事の前後に、乗客のイイジマなどに、食事をおごってもらったりブランド品を買ってもらうこともある。そういう時は、仕事用の服では地味過ぎるので、あらかじめコインロッカーにしまっていた夜用の服に着替えていた。

 「なにそれ。あたしが、仕事を終わった後に、着替えちゃいけないって言うの?」

 「いや、そういう訳じゃないけど」

 夏奈子は喫煙室の扉を蹴るように開け、外に飛び出た。

 小暮の野郎、あたしのストーカーなんじゃないの? きも。気をつけないと。草食系って言っても一応男だから、力じゃかなわないだろうから。


 「アイラちゃん。欲しいものない?」

 その日、休日の早番でヘルスの仕事は昼の三時に終わった。早くから開いているバーでジンジャーエールのグラスを傾ける夏奈子に、上客のイイジマが聞いた。

 「うーん。考えとくね」

 大げさにえくぼを見せて答えた。イイジマは一杯だけ飲む夏奈子の仕事終わりのこの時間に、二万円を払っていた。たった三十分かそこら、適当に相槌をうつだけの自分に二万円の価値があることが、夏奈子はほくそ笑むくらい誇らしかった。

 バーを出て電車に乗ろうと夏奈子が駅に向かうと、彼女の腕をイイジマがつかんだ。

 「アイラちゃん。ちょっと、付き合ってよ」

 振り払おうとしたが、イイジマの指の一本一本はびくともしなかった。

 「なあに。僕は変なプレーはしないからさ。ノーマルだよノーマル」

 イイジマの指が食いこんで、腕の血管が強く脈を打つのを感じた。

 「やめて……」

 「何でも買ってあげるよ。お小遣いも奮発する。だから言うことを聞くんだ」

 腕が折れるかと思うくらい、イイジマの指に力が入れられた。

 「やめてよ、お願い……」

 「おい、いくらつぎ込んだと思っているんだ、お前に」

 下僕かペットの豚にしか思っていなかったイイジマが、牙を向いたように眼鏡の奥の細い眼をぎらつかせた。

 「離してよ、手……」

 夏奈子の声を無視するように、イイジマは彼女の腕を強引に引いた。ピンクのネオンと下品な雰囲気に包まれたホテル街に、連れ込んでいった。

 短大時代、身体を弄ばれるだけ弄ばれたので、社会人になってから夏奈子は、プライベートで身体を許す相手を作らなかった。肉体関係なしで交際してくれる男など皆無だったので、彼氏など作らなかった。

 ラブホテルの低俗なたたずまいが迫ってきた。

 「……」

 夏奈子の抵抗は声にならなかった。

 その時、鼓膜を突き破るような轟音が響いた。イイジマと夏奈子は音のする方を見た。大きなバイクが排気音を響かせて二人を睨むように停車していた。フルフェイスのヘルメットにミラーシールド、革ジャケットに革パンツのいかついライダーがまたがっている。

 あまりにも突然の出来事に、イイジマの指の力が緩んだ。その隙に夏奈子は、腕を振り払って走った。イイジマは肥えた腹を揺らしながら彼女を追ったが、バイクが立ちはだかるようにイイジマの進路をふさいで、驚いたイイジマは尻もちをついて背中からアスファルトに叩きつけられた。なおもバイクはアクセルをふかしながらイイジマをひかんとする勢いで迫ってくる。イイジマはたまらず、バイクに背中を向けて逃げるように走り去った。

 何? あのバイク。顔は良く分からなかったけど、すごい怖い感じの人だった。あたしを助けてくれたのかな? まあいいや。逃げられたんだし。

 夏奈子はイイジマの手を振り切って逃げる際、転んで膝をすりむいていた。血がにじんでいるそこをさすりながら、電車に飛び乗り、まだ治まらない息を沈めていた。


 「川本さん。今夜、付き合ってよ」

 金曜日、会社の昼休みが終わる直前、席について携帯電話をチェックしていた夏奈子に、田島が声をかけた。

 「今日は、ちょっと」

 夏奈子がやんわりと拒否を示すと、田島は顔を近づけ、耳元に息が吹きかかるくらいの距離で、

 「ちょっと、これ見てもらいたいんだけど」

 自分の携帯電話の画面を差し出した。そこには、手をかざして一応目だけは隠してある、「アイラ」と名付けられた夏奈子の写真があった。彼女が働くヘルスクラブのホームページの写真だった。

 イイジマは口元を醜くゆがめながら、「じゃあ六時に」とだけ言い残し自分の席に戻っていった。ちょうどフロアに流れた始業を知らせるベルの音を聞きながら、左手に持った携帯電話が机に打ちつけられカタカタ鳴っていて、夏奈子は自分が震えているのが分かった。


 終業後、前回と同じバーのカウンターで、夏奈子は田島と並んで座っていた。

 「かまかけたつもりだったけど、まさか本当に君がアイラだったとはな」

 田島はスコッチが入ったグラスを揺らしながら、ほとんど独り言のように続けた。

 「まあ、ただでとは言わねえよ。小遣い程度はやるよ。だから言うことを聞けよ。会社にばらされたくなけりゃ」

 人の弱みを握れば、よだれを垂らしながら女の身体を性欲処理の道具にしようとする。男なんて本当にくだらない。鬼畜ばかりだ。

 「じゃあ、そろそろ行こうぜ。今日は最初だからたっぷり楽しませてもらうぜ」

 田島が自分の全身に這うような視線を投げつけたのが分かった。彼は夏奈子の二の腕を強引につかんで、バーを出た。行先は分かっている。イイジマが彼女を連れ込もうとした場所だ。自分はこのつまらない男に、身体どころか心や人格まで汚されて、ぼろぼろになっていくのだろうか。弄ばれるだけ弄ばれて、飽きたら紙屑のように捨てられるのだろうか。

 ホテル街はすぐ側だった。ラブホテルの隠された入口が迫ってきた。夏奈子は目をつむった。

 「田島さん」

 いきなり名前を呼ばれた田島は、「え」と思わず声に出して振り返った。その態度からは狼狽がうかがえた。夏奈子が目を開けて声の方向を見ると、そこにいるはずのない、小暮が立っていた。

 「何だてめえ。人の色恋にいちゃもんつける気かよ」

 「川本さん。承諾済みなの?」

 夏奈子は大きく顔を横に振った。

 「田島さん。無理矢理連れ込むのはどうかと思いますけど」

 田島はあからさまに顔をしかめ、夏奈子の腕を離した。夏奈子はすぐさま駆け出して、駅まで走り続けた。肌寒い十月の夜に、首筋から、額から、脇から、夏奈子は汗が出て止まらなかった。


 月曜日、出勤すると、目の前の席に座る小暮を見て夏奈子は言葉を失った。彼は片目に眼帯、口元にはあざの跡、手の甲には包帯を巻いていた。

 田島のやつ、腹いせに小暮に暴力を振るったんだ。夏奈子は冷凍庫にぶち込まれたような強烈な寒さに全身を支配された。

 小暮に対して誰も声をかけようとはしなかった。どの社員も視線を外して、関わり合いになりたくない気持ちを露骨に表していた。

 総務課長が出勤すると、小暮はまっすぐに総務課長の席に向かい、異様な格好をしている小暮を怪訝な表情で見つめる課長に対して何かを差し出した。課長は目を見開いて差し出されたそれと小暮の顔を交互に見る。小暮が提出したのが退職願だということは分かった。

 それを見た田島が、醜く顔をゆがめたのが視界の端に入った。


 「ねえ。ちょっとひどいんじゃないですか? 警察沙汰ですよ。あそこまでやったら」

 廊下で背中から田島に声をかけると、田島は振り向きざま、吐き捨てるように答えた。

 「うるせえよ。アバズレ。お前、あんな優男が好みなんかよ? ああ。アレがでかいんだな、あいつは。それに勝手に辞めるんだろう? 辞めなかったら、あいつは殺されちまうかもしれないからなあ」

 右の平手で思いっきり、田島の頬を張った。田島は脇に抱えていた書類を床にぶちまけて、情けない声をあげながら廊下の壁に頭から叩きつけられた。

 その足で夏奈子は乱暴に退職願を書き、総務課長の机に殴りつけた。

 「やめてやるよ! こんなクソ会社!」


 午後五時半の定時が終わるまで、夏奈子は会社からは少し離れたファミリーレストランの奥の席で、大それたことを成し遂げた興奮を鎮めるように時間を費やしていた。

 定時を過ぎて夏奈子は、同期として一応登録されていた小暮の番号に、初めて電話をかけた。

 ―もしもし。

 ―もしもし。小暮、今どこ?

 ―これから会社出るところだよ。机の整理とかしてた。

 あたし、机の整理もしなかったな。でも今さら会社に戻れないし。悪いけど、誰かがやってくれるんだろうな。

 ―川本さんの机は、僕が整理しといた。

 馬鹿だな。そんなのあんたがやらなくても、いいのに。

 ―ちょっと、話したいことがあるの。東口のWeihnachtヴァイナハトで待ってる。

 夏奈子はファミレスを出て、東口のバーに向かった。


 十五分後、夏奈子は小暮とバーで落ち合った。カウンターに肩を並べて座ると田島による暴行の跡は痛々しく、夏奈子は視線を背けた。

 「ごめん。小暮」

 彼は笑いながら答えた。

 「気にしないでよ。でも、本当に辞めちゃっていいの?」

 「いいの。田島がいるような会社に、もういたくない」

 小暮は黙ってうなずいた。

 「今日は、飲みたい気分だな。何かお薦めない? 甘いので」

 メニューを広げる夏奈子に、小暮が言った。

 「ボッチ・ボールは?」

 「ぼっちぼーる?」

 「アマレットベースのカクテルだよ。甘くて飲みやすいと思う」

 「じゃあ、それ」

 小暮は店員を呼びとめ、ボッチ・ボールとウォッカ・トニックを注文した。

 「もしかしてさ、あたしが太った中年男にホテルに連れ込まれそうになった時、バイクで助けてくれたのって、小暮?」

 「そうだよ。顔が分からないようにはしていたんだけどね」

 小暮は照れを隠すように唇を横に開いて笑った。

 「バイクなんて似合わないね。それにあんな大きいの」

 「良く言われる。あれはカワサキのゼファーイレブンって言って、暴走族が大好きな単車なんだ。だからたまにパーツを盗まれる」

 「え。何でわざわざそんなのに乗ってるの?」

 「死んだ親父が、カワサキのZ‐2(ゼッツー)ってバイクに乗ってたんだ。ゼファーはZ‐2をモデルにしていたから、ゼファーに乗ることを決めた」

 お父さん亡くなったんだ。小暮はお父さんに憧れがあるのかな?

 ちょうど酒が運ばれてきたので、グラスを軽く打ちつけた。

 「本当はZ‐2と同じ排気量のゼファーのナナハンが良かったんだけど、ナナハンは一番人気だったから在庫がなくて。少し大きいけど一一〇〇、イレブンにしたんだ」

 ゼファーイレブンか。何か良く分からないけど良い響きだな。

 グラスに口をつけて、五年は飲まなかったアルコールの痺れに戸惑いながらも、夏奈子は口の中に広がる甘さを堪能した。

 「おいしい」

 「そう? 良かった」

 小暮は歯を見せて笑った。

 三口も飲むと、酔いが全身に満たされていくのを感じた。

 「実は何回か見かけたんだ。川本さんが、あの中年男と歩いてるとこ。何となく、夜の仕事をしてるんじゃないかと思ってた」

 「それで、あたしのことつけてたの? 先週の金曜日も」

 小暮は黙ってうなずいた。

 「目的は? あたしの身体? お金?」

 「川本さん」

 酒が入り饒舌になった夏奈子を制するように、小暮が少し語気を強めた。

 「君のことが、気になったんだよ。何か悩みとか、あるんじゃないかって。好きこのんで夜の仕事をする人には見えなかったから」

 夏奈子はグラスのボッチ・ボールを飲み干し、もう一杯を頼んだ。

 「あたしのことが、好きってこと?」

 ほとんど笑いながら夏奈子は言った。

 「いや、僕が力になれることは、ないかって。僕の父親は、消防士だったんだけど、同僚をかばって死んだんだ。僕は父に憧れていて、ゼファーイレブンに乗っている。父のように、男らしく生きたい」

 小暮はグラスのウォッカ・トニックに口をつけて、味合うようにゆっくりと飲みこんだ。

 「だからって、自分を犠牲にしてあたしを守るなんて、馬鹿じゃない? そんなことしてたら身体が持たないよ?」

 運ばれてきた二杯目のボッチ・ボールを一口流しこんだ。

 「そうだけど、僕、不器用だからさ。ああいうやり方しかできなかった。君が田島のおもちゃにされるのを、黙って見ていることはできなかったんだ」

 なんか、本音出してないんじゃないの? こいつ。格好つけてるだけだよ、きっと。口ではそう言っても、結局あたしの身体で気持ち良くなりたいだけなんじゃない?

 「じゃああたしは、田島じゃなくて、あんたのおもちゃになればいいってこと?」

 小暮の肩に手をかけて、へらへら笑いながら夏奈子は言った。

 「飲みすぎだよ。川本さん」

 「いいよ。あんた、あたしの恩人だからさ。何でも言うこと聞いてあげる。どんなスケベなことでも、させてあげる」

 カウンターの隣に座る男性客が、自分に目を向けたのが夏奈子には分かった。

 「川本さん。今日はもう帰ろうか」

 「待って、もう一杯だけ飲ませてよ」

 夏奈子はグラスの残りを一気に飲み干し、追加の一杯を注文した。


 ダブルベッドの中で夏奈子は目を覚ました。頭が割れるように痛い。久しくなっていなかった二日酔いだとすぐに理解できた。

 「い……た」

 重くのしかかるような鈍痛が脳みそを襲う。夏奈子はぼんやりする視野で周りを見渡した。ガラス張りの風呂場。アダルトグッズの自動販売機。

 ラブホテルだ。小暮に連れ込まれたんだ。寝ている間に犯されたのかな?

 しかし衣服に不自然な乱れはなく、久しく男を受け入れていない股の奥、女の部分にも痛みは感じなかった。

 あ、濡れてる。

 夏奈子は自分の女の部分に、ねっとりとまとわりつく粘液を感じた。

 夢で、あたしは小暮に抱かれてた。

 夏奈子はさっきまで見ていた夢を思い出した。夢の中でとはいえ、生まれて初めてだった。快感が身体を濡らしたのは。

 枕元に目を向けると、ペットボトルの水と、それに押さえつけられて紙切れのようなものが置かれていた。夏奈子は喉がからからだったのでその水を何口も一気に飲んで、紙切れに書かれた文字を読んだ。

 (ごめん。飲ませすぎたみたい。家が分からなかったから仕方なくここに寝かせて先に帰るね)

 小暮の文字をなぞるように何度も何度も読んだ。


 夏奈子も小暮も、一人暮らしをしている東京から実家に帰ることになった。夏奈子は栃木、小暮は鳥取だった。ヘルスクラブは会社を辞めた次の日退店した。引っ越しの準備が忙しく、小暮には会えなかった。小暮が東京を発つ前の日、夏奈子は彼に電話をかけた。

 ―頼みがあるんだけど。

 ―なに?

 ―大通公園にバイクで来てくれない?


 夏奈子は買ったばかりのヘルメットと、しばらくはいていなかったジーンズをはいて、大通公園に向かった。


 待ち合わせ場所には既に小暮が着いていた。厚手の革ジャケット、革パンツ、ライディングブーツ、ショウエイのフルフェイスでゼファーイレブンにまたがる小暮は、いつもの冴えないスーツ姿とは別人としか思えないくらい、凛々しかった。

 「この色、なんて言うの?」

 ゼファーのタンクを指さして聞く夏奈子に、

 「火の玉カラーだよ」

 赤を基調とした色を、小暮はそう説明した。「火の玉カラ―」は無言の迫力があり、それは小暮の心を燃やしている炎のように思えた。

 「乗せてよ。最後だけ」

 慣れないヘルメットを無理してかぶろうとする夏奈子にかぶりかたを教えながら、小暮はフルフェイスの中で笑った。

 「ちょうどお尻の後ろに、グラブバーっていう持つ場所があるから、走行中はそこを握ってね」

 小暮の言うことに、夏奈子は素直に首を縦に振った。

 ゼファーイレブンが走りだすと、一一〇〇CCのエンジンはうなり、四本並んだエキゾーストパイプの先のマフラーから、咆哮のように低く重い排気音を響かせた。

 グラブバーを握れと言われたことも忘れ、夏奈子は小暮の身体にしっかりしがみついた。あまりにくっつきすぎるのでお互いのヘルメットが時折ぶつかって頭に鈍い衝撃が伝わったが、夏奈子は彼の腰に巻いた腕の力を決して緩めなかった。

 小暮。もう少し早く、本当のあなたを知りたかった。あなたみたいな男がいることを、もっと早く教えてほしかった。

 涙が一滴、夏奈子の頬を伝った。次から次に出てきて、涙は止まらなかった。少し開いたヘルメットのシールドから入りこんでくる風に、涙が流されて空気の中に消えていった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] はじめましてm(_ _)m とても読みやすくて一気に読んでしまいました(^O^) [一言] はじめましてm(_ _)m 本日登録したばっかりで(笑) 一番最新に読ませて頂いた作品でした(…
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