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愛を盗む者、愛を知らぬ者  作者: 花の香り


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3/3

目覚め

意識は薄く、世界は綿のようにふわふわと揺れていた。

セラは目を開ける。天井は見慣れぬ木組みと白い漆喰、窓からは朝の淡い光が差し込んでいる。ここは——知らない場所だった。


反射でベッドから跳ね起きようとする。ぎこちない動きに、腹の古い傷が鋭く疼く。手を伸ばすが、いつもの短刀もなく、腰に触れるはずの革帯もない。見慣れぬ服。薄手の白いシャツに、織の細かい外套。貧相な自分の影が見当たらないことに、むしろ怒りが湧いた。


「ここはどこだ」

問いを投げるより早く、足元から低い声がした。


扉の脇に立っていたのは、紳士然とした若い男。整った顔立ちに穏やかな眼差し。たたずまいは無闇に威圧しないが、決して庶民のそれではない。


「落ち着け」

男は手を挙げると、そばにいる年配の男に制止を促した。年配の男は厩医か何かのようで、眉をひそめながらも従っている。


セラは刃を探す仕草を続け、見つからないことに苛立った。やがて冷えた目つきで男を睨むと、舌鋒鋭く吐き捨てる。


「お前は誰だ。あの世に送ってやることもできるぞ――覚悟はあるのか?」


その言葉に、若い男はふっと笑った。笑みは優しく、どこかからか野良犬を躾けるような愛情が混ざっている。


「私? 私は……アレン。どうして君がここにいるのかは分からないが、危ない目に遭っていたらしい。命を救ったのは、偶然だよ」


セラは嗤った。嘲りは習慣になっている。


「国王の命を狙う不届き者かな。役に立つな」

年配の男が歯切れ悪く察し、跪いたままに小声で報告する。だが、セラはさらに口を開いた。


「――幼い頃から一人で旅をし、悪事で飯を食って生きてきた。不届き者だが、何か文句でも?」

声は尖っている。助けてもらっても何も思わない、いや、むしろ逆だ。お前を殺せばよかったとまで言い放つ。


アレンは眉一つ動かさず、その言葉を楽しげに受け流す。


「殺せばよかった、か。倒れたあと、『嫌だ、生きたい』って言ってた人は誰かな、ってね」

そのからかい混じりの言い方に、セラの顔色が一瞬こわばる。膝の縫合、口にした記憶の断片が疼く。――確かに、倒れたとき、誰かがそう呟いていた気がする。だがそれは、彼女が見せる弱さではない。見せてはならない。


「お前みたいな、豊かな暮らしをしてきた奴には分からないだろう。お前が思う“生き方”より、もっと酷いことをたくさんしてきたんだぞ!」

怒りが言葉を引きずり出す。声の震えを抑えきれず、拳に力が入る。


アレンは歩み寄ることも、威圧することもせず、ただ首をかしげた。


「君の過去に何があったのかは知らない。だが、私に向けられた君のその激しさは、私を手段にしようとしているように聞こえる。君は私を利用して何をするつもりなんだ?」


思いがけない問いに、セラは一瞬口を噤む。利用――。利用される側のこの男の目に、何か見えない意志が光る。怒りがぐっと沈み、代わりに冷たい計算が浮かぶ。


「利用? 私は利用される側じゃねえ。必要なものを取ってきただけだ。あんたに何かさせるつもりはない」

言葉は短く、刃のようだ。だが、その声の端に、不思議なほどの期待と恐れが混じっていることに、自分でも気づいていなかった。


年配の厩医めいた男が小さくため息を漏らした。アレンは視線を逸らさず、じっとセラを見据える。


「君の傷が深い。治療が必要だ。私たちは君を放ってはおけない」

その言い方は命令ではなく、申し出だった。だがセラの耳にはほとんど届かない。外套の縁から見える腕の傷が、泥だらけの手にかすかな震えを残している。


「放っておけ。俺には用がある」――とでも言いたげに、セラはベッドの端へ移ろうとした。だが血が脚に流れ、膝がガクンと崩れる。


アレンは素早く彼女の手を取った。力は穏やかだが確かに強く、引かれた拍子にセラは目を細める。


「……お前みたいな奴は、自分が強いと思っているが、案外すぐ壊れる」

そう囁かれた瞬間、セラの胸に何か冷たいものが差し込む。怒りも、当てこすりも、言葉も、全部が遠のいていった。彼の声は、笑いを含んでいて、けれど憐れみとは違った。――その矛盾が、妙に気持ち悪い。


扉の外で、足音が近づく。馬のいななき、ざわめき。追手の気配か、それとも城の人間か。セラは目をぎゅっと閉じ、もう一度牙をむこうとするが、力が出ない。


アレンは袖で額の汗をぬぐい、年配の男に一瞥を投げた。


「いいだろう。まずは治療だ。君の話は、君の体が回復してから聞こう」

その声は静かだが絶対だった。年配の男が頷き、アレンはベッドの傍らに腰を下ろした。


セラは冷たい目で彼を見返す。憎しみも疑念も失わない。だがどこかで、――心の隅で、小さく何かが鳴った。彼の言葉も、手の温度も、無視できない。


「利用してどうするつもりだ、って?」

セラは低く、半ば自嘲して言った。

「お前を殺すというより……そうだな、まずは生き残るための道具にするくらいだ」


アレンはにやりと笑った。

「そうか。使われるのは嫌かもしれないが、使うのはこちらの方かもしれないね」

その含みを持たせた笑みに、部屋の空気がほんの少しだけ揺れた。


外では、馬の蹄が遠ざかる。セラは視線を窓の外の光に合わせる。胸の奥の復讐の炎は消えない。だが、その炎のそばに、知らぬうちに小さな灯りがともりかけているのも、否めなかった。

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