7 ゼアミの部屋
翌日の昼下がり――事務所の長机の上で、アメリカから届いていた桐の衣装ケースの荷物を整理していると、突然、事務所のドアが開いて、小太郎が倒れ込んできた。
「おっ、小太郎か。どうした?」
俺は荷物を見られたくない気持ちから、あわてて衣装ケースにふたをして小太郎に駈け寄った。小太郎の上半身を起こすと、小太郎は「練習がきつい……」と言って口から泡を吹いた。
「小太郎っ! 小太郎っ!」
だらんとした小太郎の首を支えながら、俺が必死に声をかけていると、道場の方から竹刀を持った清水一徹さんが恐ろしいスピードで駆け込んできた。
「小太郎! 貴様はもう、ギブアップか。それでいいのか。デビュー戦が近いんだぞっ!」
清水一徹さんは、ストロングジャパンプロレス道場の鬼コーチ、いや鬼軍曹として恐れられていた。一徹さんの真っ赤なキャデラックが道場の駐車場に到着すると、練習生が震え上がるといわれている若手指導の猛者だった。
一徹さんは、倒れていた小太郎を見つけると、その首根っこを捕まえて、道場に引き連れ戻そうとする。
俺は気を失った小太郎の表情を見て、それは少し違うような気がした。ちょっとビビりながらも、思わず一徹さんに意見をしていた。
「小太郎は、しごいちゃだめです。こいつには誰にもまねのできない独特な感性があるような気がします。プロレスラーとして、それに気付くまで辛抱強く待ってやるべきなんじゃないでしょうか」
一徹さんの手が止まった。うつむきながらゆっくりとうなずいているのが見えた。
「お前もやっぱりそう思うか……実はな、小太郎はまだ正式な練習生じゃないんだ。半年前に入門したいと言ってここに来たんだが、まだ未成年だし親の承諾がないとだめだと断ったんだ。だが、こいつは懸命だった。何度も門前払いをしたがあきらめなかった。身内は誰もいない、ここに置いてもらわなきゃ、荒川に身を投げるしかないと食い下がりやがった。俺は根負けして、小太郎を道場のリングに引っ張り込んだ。ためしに簡単な受け身や技を教えてやると、すべて一発で完ぺきに覚えやがった。驚いたね。こんな奴は初めてだったよ。俺は即、小太郎を付き人として合宿所に受け入れた。会社には内緒でな。実戦を通して会社に正式に認めさせたかったんだ」
そうだったのか。二十四年前、高一の時に家を飛び出した俺が、辰波さんの温情で付き人になったのとそっくりだ。
少し腕組みをした後、一徹さんは、
「新吾、小太郎のサポート頼むよ。デビュー戦が近いんでちょっと気合が入りすぎちゃってな。何でもいいから、こいつを男にしてくれ。こいつの望むプロレスを叩き込んでくれ。小太郎は一から十まで新吾に、いやゼアミに陶酔してるからな」
一徹さんはすべてをお見通しだった。
一徹さんを見送った俺は、小太郎の体を支えたまま後ろを振り返った。先ほどまで整理していた衣装ケースのふたから、いつの間にか般若の角が少し飛び出していて、俺は慌てた。
小太郎のデビュー戦は、一徹さんのプッシュの甲斐あってか、それから三日後の小石川ホールと決まった。ストロングジャパンプロレスのオータムファイトシリーズ二日目の第一試合だった。
俺は小石川ホールにひそかに駆けつけて、通路の奥で小太郎のデビュー戦を観戦した。
小太郎はガチガチだった。口では生意気なことばかり言っているが、まだまだ子どもだった。いぶし銀の先輩レスラーに対して何もできず、逆エビ固めでギブアップした。たった一分ちょっとの試合時間だった。
その夜、鉛色の顔をした小太郎が俺のところにやってきた。いつものようにギンギンに冷えたビールを注いでやると、小太郎はそれを一気に飲み干してから、「フー、何もできなかった……」と言ったままうつむいてしまった。俺は黙って小太郎の肩に手を置いた。
翌日は、横浜で小太郎のデビュー二戦目が行われた。対戦相手はデビュー三戦目の小太郎とは同年代の若手だった。一徹さんに頼んで、ストロングジャパンの赤いジャガー図柄のユニホームを着てリングサイドに陣取った俺は、それなりのアドバイスで声をからしたつもりだったが、緊張しきった小太郎にはまったく耳に入らなかったようだ。がむしゃらに何発も放つドロップキックが空を切るばかりで、最後はスタミナ切れから、ボディスラム一発でスリーカウウントを奪われた。
横浜戦の翌日から、関西への遠征が始まるので、小太郎は俺のところにビールを飲みに来ることはなかった。
俺は心配だった。小太郎の奴、どういう精神状態で巡業に参加して、試合をこなしていくんだろうか?
三日後――俺のところに一徹さんが駆け込んできた。小太郎が巡業先を抜け出して行方不明になったと、連絡があったそうだ。
「小太郎……」
俺は、思わず天を仰いだ。逃げるな。逃げるな……いや、そうじゃない。逃げて、逃げて、最後には俺のところに逃げて来い。
だが、そんな俺の祈りは見事に通じた。一徹さんから行方不明の知らせを受けてから二日後の夜、闇夜に隠れるようにして、小太郎が申し訳なさそうに事務所のドアをそっと開けて入ってきた。
「小太郎! 何やってんだ! 巡業を抜け出すなんて、プロとして最低だぞ!」
俺は思わず怒鳴っていた。叱りつけるような口調になっていた。そういえば、俺はこれまで他人のことを本気で叱ったことがなかったような気がする。他人なんか何を考え、何をやろうとどうでもよかった。
「に、逃げてきちゃった」
小太郎が、その場にへなへなと座り込んだ。蝋燭のような顔だった。
俺は苦笑いした。逃げ、か……こいつ、俺と一緒だな。思わず、小太郎の額を愛しい気持ちで一発小突いてやった。
「いてっ」
小太郎が額を押さえて、俺を睨んだ。
「……」
「……」
マジに目と目が合った。次の瞬間、俺も小太郎も、なんだか無性におかしくなって笑った。大きく笑い合った。
すっと場が和んだ。
「小太郎、よくここへ戻ってきてくれたな」
「おれの帰る場所は、新さんのとこしかないからね」
うれしいことを言ってくれるぜ。虚勢を張ってか、精一杯キザっぽく言っているのがわかった。心の中は不安だらけなんだろう。右の口元のほくろが震えていた。
「スパーリングでもするか?」
俺は、小太郎のレスラーとしての力量と将来性を自らの身体で確かめてみたかった。小太郎は一瞬、不安げな表情を見せたが、すぐに無言でうなずいた。
深夜の道場に明かりがついた。
ストロングジャパンの本隊はシリーズ遠征中なので、合宿所にはデビュー前の練習生しか残っていなかった。昼間は清水一徹さんの竹刀と怒鳴り声に縮み上がっていたが、夜はさぞかし羽を伸ばしていることだろう。
道場のリングで、ストロングジャパンの赤いジャガーのユニホームに身を包んで気持ちを引き締めた俺と小太郎が向かい合った。
二十年以上もアメリカマットで生きてきた俺のプロレスラーとしての凄みを感じてか、小太郎は蛇に睨まれた蛙のように動けないでいるのがわかった。俺は小太郎の目を覚まさせるような強い口調で、
「怖くないぞ。自分の思うように動いてみろ。プロレスラーなんてのは、みんな心のどっかでびくびくしながら闘っているもんなんだ。はったりでいいんだよ。怖くても思いきって何かやれば、そっから自分のスタイルが見えてくるんだ。小太郎、こいっ!」
ハッパをかけて、小太郎の首根っこに両腕をねじ込んだ。初めて小太郎と首四つに組んだ。ロックアップだ。そのロックアップでの駆け引きの中で、小太郎は引き付ける力が異常に強いことがわかった。
いける! 俺は直感的に小太郎のプロレスラーとしての可能性を感じ取った。
俺は待った。小太郎が積極的に技を仕掛けてくるのを、ひたすらに待った。しかし、こいつは、こなかった。
どうした? 怪訝な目で俺が睨みつけると、小太郎は自分からロックアップを解いた。
「……新さんって本当は、あのゼアミ、なんですよね」
小太郎が好奇心に満ち満ちた表情で俺を見ていた。俺は思わず目をそらせた。
「いまの組手、おれが生まれる前にアメリカで、東洋の神秘オリエンタル・クマドリのタッグパートナーのキョーゲンとして活躍していた頃のロックアップでしたよ」
こいつ、俺のことを何から何までも見てやがんだ。ロックアップひとつでわかるなんぞ、そこらのプロレス評論家よりも全然すげえじゃねえか。やっぱり、小太郎の観察力は半端じゃないぞ。
確かに、俺はゼアミになってからは、その神秘的なキャラクター上、相手とがっちり組み合うロックアップなど、ほとんどすることはなかった。しかし、キョーゲンの時はプロレスの師・クマドリに徹底的に叩き込まれたロックアップから入る基本的なプロレスを心掛けていた。そのキョーゲンのロックアップを小太郎は瞬時に見抜いたんだ。
終わってみると、俺の方が蛇に睨まれた蛙だったのかもしれない。小太郎にすべてを見透かされているようで無性に腹が立ったが、さっき感じたロックアップの時の尋常じゃない引き付けといい、レスリングの分析力といい、小太郎はプロレスラーとしての素質大だと逆にうれしくなった。
「しょうがねえな」
俺は観念した。スパーリングはやめて、小太郎にゼアミのすべてを注入してやろうと思った。
「こっちへこい!」
俺はリングを降りると、小太郎を匠事務所の奥の俺の住み家に初めて招き入れた。洞察力の強い小太郎が何かを察して異様に興奮しているのがわかった。これから目の当たりにする事実を敏感に察しているようだった。
小太郎は、俺の八畳ほどの部屋に入ると、ギラギラとした目で部屋全体を見回した。しかし、小太郎の目に映ったのは、テレビと、籐でできた小さな箪笥と、江戸時代の男女和合の絵が描かれた一畳ほどの大きな掛け軸と、部屋の角に無造作に丸められた布団一式だけだっただろう。小太郎がポカンとしたような顔を向けてきた。
「新さん、何も、ない?……」
「落胆するのは早いぞ」
俺は部屋の奥に掛けてある江戸時代のエッチな掛け軸の前に進むと、「ここだ」と小太郎に背を向け、学芸員のような慣れた手付きでするすると掛け軸を巻き上げてやった。
「おお!」
予想通り、俺の背中で小太郎の驚く声が上がった。小太郎の目には、掛け軸よりも一回り小さい引き戸が見えているはずだ。
「隠し部屋……?」
小太郎の右の口元のほくろがブルブルと震えているのがわかった。
俺は取っ手を手にして引き戸を開けた。体を小さくすぼめて中に入ってから、小太郎を振り返って「小太郎、入んな」と笑いかけた。
小太郎の目が中を覗き込むようにらんらんと輝いている。小太郎も体をすぼめながら入ってきた。
俺は照明のスイッチを入れた。蛍光灯とは違うだいだい色のぬくもりのある明かりが灯る。そこに照らし出されたものは、いつも、息を呑む美しさと、そして神秘的な輝きを放っていた。
「やっぱり……ゼアミ……だったんだ」
小太郎の興奮しきった目が異様に光っていた。
そこは、匠事務所の改装工事の後に、俺が辰波さんに無理を言って特別に作ってもらった小さな異空間だった。元は部屋の押入れだったところを改装した三畳ばかりのささやかなスペースだった。
つい先日、あえて小太郎のデビュー戦の日に、ここに、あの神聖なゼアミの能面を飾っていた。俺としては、あの小太郎の『ゼアミノート』に心から敬意を表してのつもりだった。
入場の時と試合前半に付けていた若女の能面を奥の壁に――試合後半に反則の限りを尽くした般若の能面を、若女の面とは対の壁に飾ってあった。
ゼアミの装束を収めた桐の衣装ケースも一角に置いてある。
大げさな言い方になるが、プロレスラー・ゼアミの本尊が、およそ十六年間の激闘を終え、ここで傷ついた翼を休めているんだ。
ゼアミの部屋――俺は、ここをそう呼ぶようになっていた。まさか、こんなに早く小太郎を招き入れるとは思ってもいなかった。
小太郎は、ゼアミの部屋で言葉も動きもなくなっていた。
俺は、部屋の中央に置いてあった背もたれのない丸椅子に、カチカチに固まった小太郎の体を座らせた。小太郎の正面では、若女の能面が柔らかな明かりに照らし出されて神秘的な白い笑みを浮かべている。
「ゼアミの能面と正面から向き合ってみな。能の始まりは、物まねで観客を魅了することだった。小太郎のプロレスに対する観察力や洞察力は並大抵じゃないんだから、物まねでもいいんじゃないのか。これまでになかった物まねというファイトスタイルで暴れてみても、俺は格好いいと思うけどな」
俺は小太郎の背中に、もっともらしい説教をかますと、「後は、自分で考えろ」と吐き捨てて、ゼアミの部屋を出て引き戸を閉めた。
後は、小太郎と能面の対話にゆだねるしかなかった。小太郎が、ゼアミの面と向かい合って、いったい何を悟るのか。楽しみだった。