52 プロレス風姿花伝1 熱海のおっさん
風姿花伝には、ときどき因縁めいた人たちがふらりと訪ねてくるようだ。
前の匠の事務所で小太郎たちと飲み食いしていた頃の元祖・風姿花伝には、川野瀬先生が訪ねてきて、プロレスと能のチケットを交換した。
ちょうど一年前の真夏の夜には、ストロング闘鬼さんが鷲のベルトを持って生ビールをうまそうにやっていった。
そして、その日は、超意外なその人が店にやってきた。
俺は昨日の夜、大方の予想に反しておよそ二年半にわたりPWMS・匠の初代シングル王座を保持していたガチ菅原さんのベルトに初めて挑戦していた。が、ガチさんの脇固めの罠にまんまとはまってギブアップしちまった。気分の悪い一日だった。
黒い格子戸がガラガラと開く音がしたかと思うと、覚えのある高級感漂う香水の匂いが夏の夕風にのって俺の鼻を驚かせた。
すぐに、男が入ってきた。
白髪をポマードできっちりと固め、バリバリに艶だったダークグレーのスーツに、ピッカピカの黒革靴を上品に身にまとったその男。全身から湧きたつような半端ないそのオーラ。
そう、熱海のおっさんだ。
今年の正月に、般若ヒンコの悪徳マネージャーとしてアメリカマットに殴り込んで以来、二代目ゼアミとなった小太郎とつるんで、ニューヨークを中心に大暴れしているとネットやマガジンで見ていたが……。
なんで、そのおっさんが今、ここに?
「新吾君、久しぶりだね。元気そうで何よりだ」
熱海のおっさんが、これまで見せたことのないような笑顔で俺を見ていた。
「ここに、座らせてもらうよ」
そう言うと、熱海のおっさんは品よくカウンターの椅子に座った。
「生、あるかな」
闘鬼さんが来たときとは違った緊張感だ。俺は「は、はい」とだけ返事をすると、ギンギンに冷えたジョッキに並々とビールを注いで、カウンターに静かに置いた。
考えてみれば、熱海のおっさんと、こうして面と向かって話すのは初めてだった。
「ありがとう」
熱海のおっさんは、一気にジョッキを飲み干すと、唐突にまくし立ててきた。
「突然のことで、さぞ、びっくりしただろう。いや、衆院選があってね。息子の応援で、やむなく帰国したんだ。祖父の代から地盤があるとはいえ、いまの時代、選挙も甘くなくてね。私も政治家のはしくれだから、選挙となると妙に血が騒ぐんだよ。息子の応援に、いてもたってもいられなくなって。言ってみれば、親バカさ。まあ、何とか、当選してくれたからホッとしているんだが。わがまま言って、ニューヨークのプロモーターや品子には迷惑をかけてしまったよ。まあ、でも、大丈夫だろう。小太郎もヒンコもニューヨークで稼げるレスラーになってきたからな。近い将来、マディソン・スクエア・ガーデンでメインをはれるんじゃないかな」
俺は、訳がわからないまま、小さくうなずくだけだった。それから、
「……」
「……」
しばらく沈黙が続いた後、おっさんが苦笑いしてから、意外なことを言った。
「さっき、上野桜木の寛徳寺に行ってきたよ」
「えっ……」
俺はどぎまぎする。試合開始直後に、いきなりラリアットを喰らった心地だ。
「ニューヨークの品子と小太郎の分まで、征三さんと民子さんのお墓参りをしてきた。区切りがついてホッとしたよ。真新しい花とワンカップが供えてあったけど、新吾君だよね」
おっさんが、俺の目を見た。
「は、はい。今日はおふくろの命日の八月十五日なので、午前中にお参りしてきました」
「ありがとう……」
そう言って、おっさんが感慨深げに瞼を閉じた。
ありがとう、だと? なんで赤の他人の熱海のおっさんに礼を言われなきゃならないんだ。区切りがついてホッとしたって……いったいどういうことだ? 俺は、またしても訳がわからず、今度はカチンときた。
「美味い吟醸はあるかな?」
俺の気持ちに気付いたのか、おっさんが空気を変えにきた。
俺は、風姿花伝で一番高い吟醸酒をコップに荒々しくつぐとカウンターにガツンと置いた。酒が少しこぼれたがおかまいなしだ。
熱海のおっさんは、そんなガキみたいな俺の振る舞いに、再び苦笑いしながらコップを二口、三口やった。そして、けっして俺と目を合わせることなく話し始めた。
「これは言おうか言うまいか、以前、初めて新吾君と電話で話した時から迷っていたことなんだが……うーん、今日は言うべきなんだろうな。そのために、ここへ来たんだから……」
おっさんから笑いが消えて、真顔になった。
「くどくどとしたことは言いたくない。実は、新吾君は、私と民子さんとの間にできた子どもなんだよ」
「えっ……?」
恐ろしく重い内容の割にはあまりにもさらっとしたおっさんの口調に、俺は言ってる意味が、すぐには理解できなかった。突然、とんでもない現実が、この耳に飛び込んできたんだ。脳みそがランダムに波打って思考回路が停止してしまった。
熱海のおっさんは、そんな俺を無視するかのように勝手に続けた。
「その日も、私はいつものように父と本田ミンをラブホテルに送り迎えする予定だったが、当時、防衛庁長官だった父は、北朝鮮の挑発的軍事行動に急きょ官邸入りの事態となって、奇しくも、私とミンの二人きりの時間となった。その時、初めて私は、本田ミンの、本田民子さんの気持ちを聞かされた。民子さんも、私のことを好いてくれていたんだ。お互いの気持ちを確認した後は、もう若い二人の情熱を止めることはできなかった。私は民子さんと心から愛し合った。その後も父の目を盗んで、民子さんとの逢瀬を重ねた。ちょうど、その頃だったかな。リングの上では本田ミンが、父から贈られた般若の面を付けて入場し、チャンピオンとしての絶頂期を迎えていたんだ。しかし、それも束の間、それからすぐに本田ミンは、対戦相手に怪我をさせてしまうなど、プロレスラーとしてまったく精彩を欠くようになった。プロレスラーとしての将来に不安を感じ始めていた民子さんは、私との結婚を口にするようになっていった。実はその時、民子さんのお腹の中には、すでに私の子どもがいた。その現実を知って、私は、逃げた。ひたすら逃げた。父が怖かったし、父の地盤を引き継いで、いずれは政界に進出する自分の立場や欲望を捨てる勇気もなかった。民子さんやお腹の子どもの存在が邪魔になったんだ。やがて、体調を崩した民子さんはリングから去り、私の前からもいなくなった。恐らくその頃に、三刀屋征三さんと出会って夫婦になったんだろう。そして、征三さんの子として、民子さんは新吾君を生んだ。征三さんが、はたして真実を知っていたかどうか、それはわからないが……」
淡々とした表情だったおっさんの目から、しだいに涙があふれ出てくるのが見えた。
「す、すまなかった……」
やがて大粒の涙をぽろぽろとこぼしながら、深々と頭を下げた。
「………!」
いま、目の前で泣いているおっさんが俺の実の父親って……?
俺は何も言えなかった。慰める言葉なんてもちろんいっさいなかったし、おっさんが憎いとも思わなかった。俺は黙ってハンカチを差し出していた。
「……ありがとう」
熱海のおっさんは、顔を上げて素直にハンカチを受け取ると、涙を拭いながら、何度も「うん」「うん」とうなずいた。
「民子さんに般若の面を贈った私の父……妊娠した民子さんを捨てた私……父子二代にわたって、民子さんを不幸にしてしまった罪は、今さら償いきれるものではない。でも、せめて、民子さんの娘の品子のためには、私の一生をかけて何かをしてやりたい。ただそれだけ……」
おっさんが声を詰まらせた。その時、熱海のおっさんのあの威圧感のある全身のオーラがすーっと消えていったような気がした。おっさんが、すごく身近に感じられた。
「新吾君、今日は突然びっくりさせてすまなかった。ただ、民子さんの、お母さんの真実を伝えておきたかったんだ。そして私の真実も……振り返ってみれば、私はつねに、心にも体にも力が入りすぎていた。背伸びしすぎて生きてきた。老い先短い人生、これからは、新吾君や小太郎、そしてヒンコと一緒に自然体でプロレスを楽しんでいきたい。そのために、今日は本当のことを言いにきた……今さら私を父親として認めてほしいなんて思わないよ。勝手なことばかり言うようだけど、今日のことは、この場限りで忘れてほしい」
おっさんが俺の顔を自信なさげにうかがってきた。初めてみせる不安げな表情だったが、どこか俺の親父っていう顔をしていた。
「もちろんさ。今さら、品子や小太郎を過去のごちゃごちゃに巻き込みたくないしな。俺は今まで通り、プロレスラー与作の征三と民子の子として生きた方がしっくりいくからな」
俺はいきなり、ため口をはった。俺自身も熱海のおっさんに対して、変な力みや対抗心がなくなっていた。
そんな俺の気持ちを察してか、熱海のおっさんはやさしい笑顔を浮かべながら、右手を差し出してきた。俺も反射的に右手を出していた。そして、がっちりと握手を交わした。
「新吾、よろしく頼む」
「親父、とことん歓迎するよ。こっちこそ、品子と小太郎のこと、よろしくな。父子二人で日米のプロレスを盛り上げようぜ」
親父の手が、やけに小さく感じられた。でも、暖かかった。
これが本当の俺の父親なんだ……。
その時、風姿花伝の店の中のすべての景色が、ゆっくりとセピア色に戻っていくのを、俺は何だかものすごく心地よく感じていた。




