35 小太郎・ヒンコ・新吾対クマドリ・辰波
翌日――いよいよ小石川ホールでの決戦の日がきた。
俺は事務所からタクシーに乗って九時半には会場に着いた。小石川ホールの周囲には、今日の試合を知らせる案内もなければ客らしい姿もなかった。平日の午前中ということなのか、人影はまばらだった。俺は一瞬、日にちを間違えたかと思ったが、関係者出入り口の方から小太郎が走ってくるのが見えたのでホッとした。
「小太郎、いったいどういうことなんだ?」
「へへ、知らないのは新さんだけだったね」
意味深な笑みを浮かべる小太郎に、俺は訳がわからないまま右手を引っ張られて小石川ホールの選手控室に入った。
控室には、すでに般若ヒンコが妖気的な隈取りペイントと淡いピンク色の水着コスチュームに変身して座っていた。
品子は俺に気付くと、少しバランスを崩しながら立ち上がった。
「おお、兄貴か。今日はよろしくな。リングに上がればすべてがわかっからよ。小太郎、行くぞ」
またも意味深な言葉を残して、品子は小太郎と一緒にそそくさと控室を出て行ってしまった。
なんだ、あいつら? まったく訳がわからなかった。
俺はとりあえず、黒のショートタイツとロングシューズを身に付けて出番を待った。
十時三十分を回った頃、レフリーのピューマ鳥取さんがリングインを伝えに来た。
入場口に行くと、小太郎と般若ヒンコがすでにスタンバイしていた。何が何だかわからなかったが、今こうして三人で入場待ちしている現実が頼もしかった。与作の遺した子ども三人が、今、お互いの境遇をわかり合った上で同じリングに上がるんだ。
親父、母ちゃん、しっかり見とけよ。目頭が熱くなった。
軽快な入場曲が流れ出した。小太郎のテーマ曲だ。同時に、小太郎が入場ゲートを開いた。
小太郎を先頭に、般若ヒンコ、そして俺の入場が始まった。
会場には観客が誰もいない。いや、たった二人だけいた。リングサイドの最前列の席にぽつんと肩を並べて座っているのが見えた。
俺がしんがりで青コーナー下に入場すると、観客の二人はこっちを向いて笑顔を見せた。事務局のスズさんと結子さんだった。
結子さんの胸元には、かつて小太郎が俺にプレゼントしてくれたのと同じプロレス家族四人の写真が抱かれていた。還暦の記念に撮られた素顔の征三、チャンピオンベルトを腰に巻いた本田ミン、デビュー当時の恥ずかしい田吾作スタイルの俺、そして般若ヒンコになる前のアイドルレスラー品子の合成写真だ。
俺は、ついに泣いた。あふれるものをこらえられなくなった。
そうか。昨日、小太郎は名古屋まで車で結子さんを迎えに行っていたのか。そして東京に戻る途中の熱海で品子を拾ってきたというわけか。馬鹿な妄想をしていた自分が恥ずかしくなった。
俺は二人だけの観客に対して深々と頭を下げてリングに上がった。そして、小太郎、般若ヒンコとともにロープを背にして並んだ。リング上には、レフリーのピューマ鳥取さんとマイクを手にしたリングアナウンサーのケロリンが、こっちを見て微笑んでいた。
続いて、辰波さんの入場テーマ曲『ドラゴン殺法』が流れ出した。赤コーナーの花道から、歌舞伎調の隈取りに黒の空手道着ズボンをはいたオリエンタル・クマドリが現れた。続いて、黒のショートタイツにロングシューズの辰波さんが入場してきた。
さあ、こい! 俺は武者震いして二人の先輩レスラーを待ち受けた。
赤コーナーにクマドリと辰波さんがリングインして『ドラゴン殺法』が鳴り止むと、ケロリンがリングの中央に進み出た。
「前座のレジェンドレスラー・与作が遺した三人の子、そのすべてが人生の荒波を乗り越えて、今ここに再会。まさにプロレスの申し子として、ひとつのリングに立つ――本日のメインイベント、スペシャルマッチ六十分一本勝負を行ないます。赤コーナー、一八〇センチ一〇〇キロ、おりえんたるーくまーどりー、一八五センチ一〇五キロ、たつなみーかおーるー。青コーナー、一八六センチ九〇キロ、こたーろー、一七〇センチ六〇キロ、はんにゃーひんーこー、一八三センチ一〇一キロ、みとーやーしんーごー」
光栄にも最後に名前を呼ばれた俺は、観客席のスズさんと結子さん、そしてプロレス家族の四人の写真に向けて右手のこぶしを突き上げた。
「この試合の勝者には、PWMS・匠の初代シングル王者、ガチ菅原への挑戦権が与えられることが決定しています」
ケロリンがそう言ってリングを降りた。
ピューマ鳥取さんがゴングを要請した。いつの間にかゴング席に座っていたスズさんが、カーン! と勢いよくゴングを鳴らした。
試合が始まった。
赤コーナーの先発はオリエンタル・クマドリだ。こっちは小太郎だ。
クマドリはいきなり得意技のトラースキックを放った。小太郎は不意を突かれてきつい一発をみぞおちにくらったようだ。胸のあたりを押さえて苦しそうに倒れた。息が詰まったのか、なかなか起き上がれなかった。ピューマ鳥取さんがダウンのカウントを数え出した。これは、ガチの蹴りだと直感した。観客のいない会場での試合には魅せるプロレスは必要ないってことか。
クマドリが仰向けに倒れた小太郎の腹にもう一発蹴りを落として、辰波さんとタッチした。
辰波さんは小太郎をつかみ起こすとヘッドロックに取った。ぐいぐいぐいとしつこいくらいに締め上げる。小太郎の手がだらんと下がっていくのが見えた。俺はしびれを切らせて小太郎のカットに入った。しかし、俺が辰波さんの背中を何度叩こうが、辰波さんはびくともしないで小太郎の頭を締め続ける。そのうち、俺はふいに背後から首を取られて身動きが取れなくなった。上目遣いにクマドリのペイントが見えた。頸動脈を締め上げられて俺の意識は遠のいた。クマドリの年季の入ったスリーパーホールドだ。恐怖を感じた。
朦朧とした中で、ヒンコがレフリーの鳥取さんに向かって必死に抗議しているのがかすかに見えた。ヒンコは鳥取さんを突き飛ばしてロープに飛んだ。次の瞬間、クマドリが俺の首に絡めていた両手を放して横に吹っ飛ぶのが見えた。ヒンコの得意としていたドロップキックがクマドリのこめかみ辺りにヒットしたようだ。
辰波さんにヘッドロックで締め上げられていた小太郎は口から泡を吹きだして、もう失神寸前だった。
そこまでやらなくても! 俺は、辰波さんとクマドリのやり方にカッとなった。
その時、ヒンコがどこから持ち出したのか、俺に鉄扇を手渡してくれた。俺は何の迷いもなく、その鉄扇を開いて、小太郎にえげつないヘッドロックをかけ続けている辰波さんのこめかみに一閃させた。全米で「こめかみ扇」と恐れられていたゼアミの得意技だ。
これには、さすがの辰波さんもこたえたようだ。小太郎への技を外すと、ふらふらと膝をついた。ここぞとばかりに俺は辰波さんの正面から髪の毛を掴み上げると、閉じた鉄扇をその額に釘のように突き刺した。見る見る辰波さんの額から鮮血が噴き出してくるのが見えた。俺は鉄扇を握りなおすと、ガチで辰波さんに襲いかかった。俺の黒のショートタイツが流血でさらにどす黒く染まっていくのが見えた。
病み上がりの結子さんが立ち上がって応援してくれていた。スズさんもゴングを放り出してリングサイドでマットを叩いているのが見えた。リングサイドのケロリンもイケイケという顔をしていた。
もはや素顔の新吾の存在はそこにはなかった。ゼアミのように、凶器による一方的な攻撃に徹するしか挽回する手立てはなかった。これが俺のプロレスの限界なんだろうか?
ガチでレスリングをしたら、俺も小太郎も何もできないってことか。辰波さんと天孫さんのプロレスラーとしての懐の深さというか、怖さを改めて思い知らされたような気がした。
俺が辰波さんに鉄扇攻撃を繰り返しながら、あれこれ悩んでいる間に、ヒンコの介抱で息を吹き返した小太郎が俄然はり切った。
ヒンコのドロップキックでコーナーポストにもたれるように倒れ込んでいたクマドリの顔面にヒンコばりのドロップキックを見舞った。贋作・般若ヒンコだ!
クマドリを抱え上げて背骨折りのシュミット式バックブリーカーで仰向けにダウンさせると、自らはコーナーポストの最上段に飛び乗って華麗な月面宙返りのムーンサルトプレスをさく裂させた。贋作・ジーニアス武闘だ! そのままホールに入ったが、試合の権利は辰波さんにあるのでカウントは成立しない。
クマドリの髪の毛をつかみ起こすと、その顔面に速射エルボー五連発、さらに、とどめとばかりに身体を一回転させてのローリングエルボーを叩き込んだ。贋作・エルボー光沢だ!
頭を振らつかせたまま意識が朦朧となったクマドリに、最後はロープの反動を利用してランニングネックブリーカードロップがズバッと決まった。贋作・ビッグ邪馬だ! クマドリは後頭部を強打し仰向けに倒れたまま、体をぴくぴくと痙攣させていた。
小太郎は完全に贋作シリーズに突入していた。俺のゼアミと同じく、これこそが小太郎の真骨頂だった。もしかすると、辰波さんも天孫さんも体を張って、俺と小太郎にプロレスラーとして歩むべき道を教えてくれているのかもしれない。
俺は流血した辰波さんの額に、なおも容赦なく鉄扇を叩きつけた。絵になってると思った。相手が辰波さんだから、なおさらだった。かつての辰波さんは流血の似合うレスラーとして有名だった。観客がいたら、きっと大歓声と女性ファンの悲鳴の嵐が巻き起こっていただろう。
得意の贋作レスラーでクマドリをノックダウンさせた小太郎が、辰波さんの背後に素早く忍び寄って、辰波さんをフルネルソンに取った。
ドラゴンスープレックス! 俺は心の中で叫んでいた。
辰波さんが後方に投げられるのが見えた。若さあふれる小太郎のバネの利いたしなやかなブリッジが鮮やかに弧を描いた。えぐい角度で辰波さんの首がマットにめり込んでいった。贋作・辰波馨だ!
鳥取さんがカウントを数えようとしたが、その前に辰波さんからギブアップの声が聞こえた。
鳥取さんの指示で、スズさんがゴングを連打した。
カン、カン、カン、カーン!
「七分十八秒、七分十八秒、飛竜原爆固め、飛竜原爆固めで小太郎の勝ちであります」
ケロリンのアナウンスが鳴り響いた。小太郎のテーマ曲がその勝利を称えるように、声援のない会場を包み込んだ。
俺は辰波さんの血で真っ赤に染まった鉄扇をヒンコに手渡すと、逃れるようにリングを下りて花道を引き揚げた。大恩人の辰波さんを大流血させてしまったことが後ろめたかった。
俺の背中で、小太郎が鳥取さんに勝利宣言を受けているのが聞こえてきた。若い小太郎にとって、今日の試合はいい勉強になっただろう。物まねをした時の小太郎は無類の強さを発揮するのがよくわかった。この道をとことん進んで行けばいい。
一方の俺は――対戦相手を一方的に攻め続けて流血させるだけのゼアミでしかなかった。
「それでいいんだよ」
控室に戻って、椅子にへたり込んでいた俺の背中で声がした。
振り返ると、品子が隈取りとピンクのリングコスチュームのまま仁王立ちしていた。
「あたいや小太郎がゼアミの大ファンだったように、観客もゼアミのわかりやすい大ヒールのプロレスが大好きなんだよ。そうさな、柄にもなく難しい言葉で言えば、勧善懲悪の真逆ってやつよ」
途中から、品子の隈取りの中の口元がぴくぴくと小刻みに動き出したのが見えた。それでも一生懸命に俺を励ましてくれている。
「ゼアミが神秘的な面と豪華な衣装で静かに現れる。でも、それは嵐の前の静けささ。試合が始まるとお約束のように、恐ろしい般若に変わって対戦相手をめった打ちにする。相手を血の海に沈めた後には、返り血を浴びた白装束で勝利の舞いを静かに舞って花道を引き揚げる。みんな、わかっててもそれが楽しみなんだよ。ゼアミのプロレスはいつも裏切らないんだよ。なんかすっきりするんだよ」
痙攣が始まった品子の頬には幾重にも涙がつたって、隈取りのペイントを洗い流していた。
「品子……」
俺は何も言えなかった。妹がいとおしくてしかたなかった。
そこに――ピューマ鳥取さんがあわてて入ってきて「辰波さんからだ。大至急リングに戻るように」と伝えてきた。
品子が俺の肩をポンと叩いてから、足元をよろつかせて背中にもたれかかってきた。
俺は品子の身体をかばいながら立ち上がると、嫌がる品子を強引におんぶして控室を出た。背中に感じた妹の暖かい胸の鼓動は、幼い頃と、なんら変わらなかった。