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ゼアミ  作者: がくぞう
22/52

22 新吾・ヒンコ・小太郎の三人タッグ

 年の瀬の十二月二十三日――。

 PWMS・匠の第三回大会が、神奈川県の小田原城ホールで開催された。満員札止め。六五〇〇人の観衆が場内を埋め尽くしていた。

 今回の大会は、PWMSシングル王座決定トーナメントの第一回戦がメインだった。トーナメント出場選手は、辰波(たつなみ)(かおる)、ゴア内藤、バク周南、ミスター源龍、ガチ菅原、クラッシュ刀田(かたなだ)、オリエンタル・クマドリ、ホリー・ヴァンクジュニアの八名。

 オープニングセレモニーで入場した時に、出場選手がくじを引いて一回戦の対戦カードが決まり、リングアナのケロリンから観客に発表された。

 俺は若女の能面に白装束・白袴のいでたちで、バックヤードのモニターを通して会場の様子を見ていた。


 第一試合 クラッシュ刀田(四五)×ゴア内藤(六二)

 第二試合 辰波馨(五一)×ホリー・ヴァンクジュニア(六三)

 第三試合 バク周南(五三)×ミスター源龍(五四)

 第四試合 オリエンタル・クマドリ(五六)×ガチ菅原(五五)


 対戦カードが告げられるたびに、レジェンドレスラーの夢の対決に大歓声が巻き起こった。その後、ケロリンから急きょ特別試合のカードが発表された。

 いよいよだ。俺は観客の反応に全神経を集中させた。ケロリンが観客のタイミングを見計らってマイクを握り直した。

「本日は、PWMSシングル王座決定トーナメント第一回戦の前に、特別試合の六人タッグを行なうことが、たった今、決まりました」

 観客が「おー!」と騒ぎ出すのがわかった。

「いよいよ、PWMS・匠、第三回大会の初戦が幕を開けます。まずは特別試合六人タッグマッチ、六十分一本勝負を行ないます。赤コーナーより、異色の三人が今宵、初のタッグを組んで闘います。長年にわたってアメリカマット界で能面レスラーとして一世を風靡してきたゼアミ! この匠のリングで贋作レスラーとして売り出し中の小太郎! そして、五年前に難病を患ってプロレスをあきらめていた一人の女子レスラーが、今ここに復帰した。そいつは、般若ヒンコ! 満を持しての入場です!」

 ケロリンの勇ましい美声が場内にこだました。会場は興奮のるつぼと化した。観客が床を激しく踏み鳴らす重低音ストンピングの嵐が巻き起こった。

 リングへの扉が開いた。

 妖艶でありながら軽快な、あの般若ヒンコの入場テーマ曲が流れ出した。悲鳴に近い声援が聞こえてきた。

 入場ゲートで待機していた俺は白装束の両手で、すでに熱い湯気の立ち昇っている小太郎とヒンコの背中をドスンと押した。

 贋作レスラーでない小太郎は、なにものにも染まっていない黒のショートタイツとロングシューズだった。

 般若ヒンコは、般若の面はつけずに原色をあしらった妖気的な隈取りの化粧を施していた。衣装は淡いピンクのひらひらのついた水着だ。

 ヒンコが先陣を切った。小太郎が、ヒンコの足取りを気遣うように続く。俺はいつものゼアミのゆっくりとしたすり足ですべるように花道を進んだ。ヒンコの入場テーマがすり足のテンポに合わず、若女の面の中で思わず苦笑いしていた。

 リングインの途中でヒンコがつまずいているのが見えたが、すかさず、小太郎がカバーしてくれた。小太郎、ナイスサポートだ。

 ヒンコと小太郎がリングインしたのを見定めてから、俺はリングサイドのステップを一歩一歩登ってロープをくぐった。小太郎もヒンコも大歓声に応えて手を振っていた。俺はゼアミのキャラを貫いて若女のまま微動だにしなかった。

 観客のボルテージが、ある程度おさまったタイミングでケロリンが、いよいよ対戦相手の紹介に入った。

「対する青コーナーよりの入場は、ついに実現。男女を超えた極悪の華。狂える猛獣インディア・ターバンチャダ! グレーゾーンの呪術師キール・ザ・ブスチャー! そして、女子プロレス界で極悪の限りを尽くしたユンボ・杉山! 悪の三原色が、今ここに花開く」

 不気味な旋律の悪のテーマが鳴り響いた。

 犬猿の仲だと噂されていた、ターバンチャダとブスチャーが肩を組んで花道に現れた。白いターバン姿のターバンチャダの右手にはサーベルが握られている。しんがりで、顔にグロテスクなペイントを塗りたくった金髪のユンボ・杉山がビヤ樽のような身体を揺らしながら竹刀を持って現れた。悪の三原色の登場に、会場はたちまちブーイングの嵐となった。

 俺は、そんな観客の反応にほくそ笑んだ。この六人タッグはいける。そう確信した。

 悪の三原色が、観客と小競り合いをしながらリングに上がった。

 大歓声とブーイングが、リング上を包み込んだ。ケロリンがマイクを力強く握って選手紹介に入った。

「赤コーナー、一八六センチ、九〇キロ、小太郎ー。一七〇センチ、六五キロ、般若ヒンコー。一八三センチ、一〇一キロ、ゼアーミー」

 ヒンコに割れんばかりの声援が飛んだ。

 俺は、その興奮の後を受けて、若女の能面を両手で素早く取り去った。日本のファンの前で、とうとう三刀屋新吾の素顔をさらしたんだ。

「おおー!」

 驚きとどよめきが会場に充満していくのがわかった。

 若女の面を小太郎に預けて、俺は白装束と白袴も脱ぎ棄てた。黒のショートタイツに黒のリングシューズ。ストロングスタイルの象徴だ。それは、俺が二十年以上も待ちわびていた憧れのコスチューム。恥ずかしかったが、ゼアミのいでたちとは違って、しっくりと俺のプロレス魂を奮い立たせてくれた。四十一歳にしてようやくプロレスラーとしての原点に帰った思いだった。

 ゼアミの素顔を初めて目の当たりにしたファンが、拍手喝さいで俺を歓迎してくれているのが、ひしひしと伝わってきた。会場は、サプライズだらけの嵐に、第一試合の開始前からすでにマックスだった。

 ヒンコが俺の目を見て、笑っていた。俺は思わず、ヒンコと小太郎に握手を求めていた。ヒンコと小太郎の熱い手が、俺のやりたかった純粋なストロングスタイルのプロレスに火を点けた。

 青コーナーの悪の三原色の紹介が終わってゴングが鳴ると、俺は、はやる小太郎を制して戦いの場に躍り出た。能面にさえぎられたプロレスではない、素顔のプロレスができる喜びでいっぱいだった。

 相手はブスチャーだった。ビッグジャパンプロレスで、親父の与作と何度も闘ったことのある大ベテランの悪役レスラーだ。白いロングパンツと先のとがったブーツが特徴的だった。ロックアップの引き合いから、俺はブスチャーの隙をついて喉元にエルボーをくらわせた。のけぞるブスチャーめがけて、今度は自らロープに飛ぶと、その反動を利用してとびきりのドロップキックを叩き込んだ。ゼアミとしては一度も繰り出したことのない基本的なプロレス技だった。

 ドロップキックで仰向けに倒れたブスチャーに、俺はボストンクラブを仕掛けた。ブスチャーの両足から腰が大きく反り返った。完全に極まった。そのままギブアップを奪うことができたが、それではプロレスの試合は成立しない。俺は、必死にもがいてロープに逃れようとするブスチャーに身を任せてロープブレイクさせると、レフリー・鳥取さんに背中を叩かれてボストンクラブを外した。赤コーナーを見ると、小太郎がはちきれんばかりにタッチを求める腕を伸ばしていた。

 ――そろそろ、あいつにやらせるか。

 俺はニヤッと笑って小太郎にタッチした。 

 勢い込んでリング内に飛び出す小太郎。だが素顔の小太郎は相変わらず、しょっぱかった。やりたいことがいっぱいありすぎて技がつながらない。頭の中で勝手にいろいろな技がごっちゃになってしまい身体がスムーズに動かないようだ。試合運びがバラバラだった。

 それがターバンチャダとブスチャーの格好の餌食となった。レフリー・ピューマ鳥取さんの死角をついて、ターバンチャダの得意技の喉元へのコブラクローとブスチャーの繰り出す地獄突きが小太郎を苦しめた。俺は何度もピューマ鳥取さんに抗議をしにリング内に入るが、ことごとく反則カウントを取られてコーナーに押し戻された。その間に、小太郎はますます悪のシナリオにはまっていく。ターバンチャダとブスチャーの顔面へのダブルストンピング攻撃に、小太郎はコーナーでダウンしたまま防戦一方となっていた。

 業を煮やした般若ヒンコが飛び出した。よろよろとコーナーポストに登ると、ターバンチャダとブスチャーめがけてミサイルキックを敢行した。見事に決まった。俺は、びっくりした。同時に品子の身体が心配だった。大丈夫か?

 ヒンコはマットに転げ落ちてから、恍惚の表情で仰向けに倒れたまま天井を見つめていた。すぐには動けないようだったが、満足げな顔をしていた。とりあえずは大丈夫のようだな。

 俺は品子の無事を確信すると、すぐにエプロンからリング下に降りて、コーナーにダウンしたままの小太郎に近づいて耳元で囁いた。

「小太郎は捨てて、贋作レスラーになれ。ブスチャーとターバンチャダと死闘を繰り広げてきたペリー・ヴァンクを意識しろ。贋作・ペリー・ヴァンクで行け!」

 小太郎はハッとうなずくと、ペリー・ヴァンクのように両手を小刻みに上下に動かして気合を高めた。

 ヒンコのミサイルキックに、たまらず場外に逃れていたブスチャーとターバンチャダを追って、贋作・ペリーは場外へ飛び降りた。

 俺は、ミサイルキックを放った後にリング上で仰向けのままでいるヒンコに駈け寄ると、静かに抱き起した。

「あ、兄貴……あたいは大丈夫だよ。そ、それより小太郎を……」

 ヒンコは自分のことよりも、小太郎の試合運びが心配のようだ。

 そこに、容赦ないユンボ杉山の竹刀が、俺の背中とヒンコの額に叩きつけられた。

 ユンボ杉山は竹刀を投げ捨てると、ヒンコに「ボディスラムで私を投げてみな」と言って、ヒンコの髪をつかんで強引に引き起こした。

 ヒンコは、自分がボディスラムをかけることがイコール、相手の怪我につながるというトラウマに躊躇している様子だった。

「早く! あたしがどんなボディスラムでも受けてやるから」

 ユンボの必死の形相があった。ヒンコは決断した。

「よっしゃ!」

 ヒンコは、自分のトラウマをかき消すように気合を入れると、ユンボの股間に右手を差し入れ、左手はユンボの首元を極めて、ユンボを高々と抱き上げると、ゆらゆらと足元をふらつかせながらも、見事にユンボの巨体をマットに叩きつけた。

 やった!

 俺は思わず、ガッツポーズをとっていた。ヒンコの病状を知っているファンからは、もはや拍手喝さいしか聞こえてこなかった。

 ヒンコは観客にアピールすると、おぼつかない動作で、仰向けに倒れたユンボ杉山の片足を取って、逆方エビ固めに極めた。

 ヒンコの技を受けたユンボ杉山は、肩を震わせていた。ファンの目にはヒンコの逆方エビ固めに必死に耐えているように見えただろうが、ユンボはその時、ワンワンと大泣きしていた。それは、間近で見ていた俺にしかわからない光景だった。

 今日の試合の前に、ヒンコの病気のことをすべて聞かされていたユンボ杉山にとって、ヒンコのボディスラム一発の重みは半端じゃなかったはずだ。

 プロレスにはドラマがある――何の変哲もないボディスラム一発で、やる側と観る側をとことん魅了してしまう。これが、まさしくプロレスの醍醐味なんだ。

 それとは正反対に、場外では大荒れの試合となっていた。贋作・ペリー・ヴァンクとなった小太郎が、ブスチャーとターバンチャダを相手に、まさしく血闘を繰り広げていた。

 ブスチャーのフォーク攻撃に、小太郎の左肩はすでに真っ赤に染まっていたが、贋作・ペリー・ヴァンクの小太郎はまったく意に介さなかった。反対に、リングサイドのゴングでブスチャーのフォークを叩き落として、そのままゴングでブスチャーの額を叩き割っていた。贋作・ペリー・ヴァンクが手にしたゴングは、ターバンチャダの額にもさく裂した。鳥取さんが割って入ろうとするが、贋作・ペリー・ヴァンクもブスチャーもターバンチャダも、お構いなしで反則の流血戦に徹する。

 まったく収拾のつかなくなった試合展開に鳥取レフリーがノーコンテストの裁定を下した。

 カン、カン、カーン! ゴングが響き渡った。

「あー!」という観客のため息が会場内にこだました。

 場外では、相変わらず、贋作・ペリー・ヴァンクとブスチャー、ターバンチャダがもみ合っている。贋作・ペリー・ヴァンクの鋭い右ストレートがブスチャーとターバンチャダの額を容赦なくえぐりつけた。

 一方、リング上では、ユンボ杉山に逆方エビ固めを仕掛けていた般若ヒンコが泣いていた。かつての師弟が数年間の空白を埋めるように、美しいファイトを展開していた。

 試合終了のゴングを聞いてヒンコが逆方エビ固めを解くと、ユンボがヒールを忘れてヒンコに歩み寄って抱きしめ、ひたすら号泣した。俺は思わず、そんな二人の肩を叩いてもらい泣きしてしまった。

 その時だった。観客の大きな悲鳴が聞こえてきた。

 俺はハッとなって場外に目をやった。贋作・ペリー・ヴァンクがターバンチャダに羽交い絞めにされ、顔面にブスチャーの再三のホーク攻撃を受けて大流血していた。

 俺はとっさに反対側のロープに走ると、その反動を利用して一気にロープの間を頭からすり抜けてブスチャーの背中にトペ・スイシーダを敢行した。場外に飛んだのは、この時が初めてだった。異様な高揚感があった。達成感も強烈だった。俺はこんなプロレスもできるんだと今さらながら驚いた。

 俺はすぐにリングに戻ると、小太郎を羽交い絞めにしていたターバンチャダに今度はトップロープの反動を利用してプランチャー・スイシーダを決めた。ターバンチャダ、小太郎、そして俺が場外マットに重ね餅で倒れ込んだ。プランチャーも初めてだった。やればできるじゃないか。

 小太郎が大流血の中で「新さん、すげー!」と叫んでいるのがわかった。

 さあ、悪役退治だ!

 俺も小太郎も態勢を立て直すと、ブスチャーとターバンチャダの首根っこをつかんで入場ゲートの方に引きずっていった。観客が蜘蛛の子を散らすように行く手で逃げ惑う。

 俺はブスチャーに、小太郎はターバンチャダに、それぞれ延髄斬りを叩き込んで、入場ゲートの外へ追い出した。

 振り返ると、ユンボ杉山に肩を担がれて花道を引き揚げてくるヒンコの姿があった。苦しそうな表情だったが、微笑んでいるようにも見えた。ユンボ杉山も同じような顔をしていた。

 会場内には、「ヒンコー!」「ユンボちゃん!」の声援が絶え間なく続いていた。

 俺も小太郎も、血まみれ、汗まみれになりながら、最高にハッピーな気分で花道を引き揚げた。


 シャワーで汗を流して控室に戻った俺は、「ふーっ」とひと息ついてから椅子に座った。ホッとした。

 隣の衝立の向こうでは、品子が着替えの最中だった。会場の方から大きな歓声が聞こえていた。リング上ではPWMSシングル王座決定トーナメントの真っ最中なんだろう。

 控え室のドアが開いてショートタイツ姿のままの小太郎が飛び込んできた。

「品子さん、職員用の駐車場にタクシーが来ましたよ」

「おお、ありがとよ。あたいも今終わったとこだよ」

 衝立の陰から、私服に着替えた品子が出てきた。

「じゃあな、兄貴。辰波さんには、試合が終わった足でユンボさんと一緒にあいさつしたから、これで帰るわ」

「やっぱり、熱海に帰るのか?」

「そうだよ品子さん、あんな不潔野郎のところに戻る必要なんかないじゃないか。新さんのとこに来なよ」

 小太郎は品子を引き留めるのに必死だった。

「前にも言ったけど、あのおっさんには恩義があるんだ。決して好きじゃないけど、裏切るわけにはいかないよ。この小田原城ホールから熱海の別荘までは車で三十分もかからないから助かるよ。どうせ、兄貴が気を利かせて企画してくれたんだろ。ありがとな」

「いや、俺は何も……事務局のスズさんがすべて裏方としてやってくれたことだから」

「そうか。兄貴らしいな。じゃあな」

 品子は背中で手を挙げると、つまずき加減に控室を出て行った。慌てて小太郎が後を追った。

 とりあえず、終わった。

 俺は、控室の椅子に座ったまま、急に言いようのない疲れに襲われてボーっと虚空を見つめていた。

 そこに、品子が笑顔で戻ってきた。

「今日、うれしかったことがあったんだよ。それを兄貴に話すのを忘れてた。ユンボさんのことだけど――ユンボさん、あたいのどうしようもないボディスラムを受けてくれた。ユンボさんをマットに投げることができて、あたいはすっげえうれしくて……でも、一番うれしかったのは、試合が終わって、ユンボさんとあたいが花道を下がるときに、会場のみんなが『ユンボちゃん!』って声援をくれたことなんだよ。悪役として私生活でも散々つらい思いをしてきたユンボさんが、今日は『ユンボちゃん、ユンボちゃん』って、ファンのみんなから親しみのある大声援に包まれてた。悪役という作り物の顔を捨てて、ユンボさんもようやく、泣き虫でお人好しな素顔のユンボさんに戻れたんだなって……とにかく、ホッとしたよ」

 それは、二十数年ぶりに品子と再会してから一番の笑顔のような気がした。

「おいおい、ユンボさんのことだけか。兄貴の俺も、今日、初めてゼアミを捨てて、憧れだった黒のショートタイツにリングシューズで、素顔の新吾をファンに見てもらったんだぜ」

 俺は思わず椅子から立ち上がって、品子に詰め寄った。

「そ、そうだったな。ま、いっか。タクシー、待たせてるからよ。またな」

 品子は照れくさそうに、そくそくと出て行った。

 それから数分後に、品子のタクシーを見送った小太郎が戻ってきて寂しそうにつぶやいた。

「品子さん、また、行っちゃった……」

「小太郎、品子は、いつか必ず戻ってくるさ。その時まで待ってやんな。それが、大きな男の肝っ玉じゃねえか」

「そうだよな。おれはプロレスラーなんだよな。もっともっとスケールを大きくしなきゃ、ファンに申し訳ないよな」

「小太郎、その意気だ」

「そういえば、品子さんがタクシーに乗り込む間際に、これを預かったんだけど」

 小太郎が、俺に大きな手さげの紙袋を差し出した。

 えっ?

 小太郎から受け取った紙袋の中を覗くと、風呂敷包みがあった。

 なんだ?

 俺は、その風呂敷包みをテーブルに置いて中を開いた。

 これは?

 そこには、般若の面と二つ折りされた新聞チラシが入っていた。訳がわからなかった。

 俺が般若の面を取り出したまま困惑していると、小太郎が興奮気味に般若の面を俺から横取りして、食いつくように顔を近づけたかと思うと、大きく絶叫した。

「これって般若ヒンコが入場の時にかぶっていた正真正銘の般若の面だよ!」

 俺は、二つ折りのチラシを開いた。チラシの裏の白紙の部分には品子の下手くそな字があった。

『サイコーにかっこよかったぜ。きょうのアニキのストロングスタイルは。はんにゃのめんは、あたいがヒンコでつかっていたもんだ。プロレスやめてからいちどもつけてなくて、きょうのにゅーじょーで、つけてでようとおもったけど、なんだかきぶんがのらなくてやめたよ。アニキにあずけとくから、だいじにとっといてくれ』

 漢字がひとつもなかった。普段はろくに字も書かないくせに……品子の奴。思わず、目頭が熱くなった。

 気持ちを落ち着かせてから、ヒンコがつけていたという般若の面を手に取って見た。

 …………えっ?

 俺がゼアミでつけていた般若の面とはまったく感触が違った。

 とてつもなく枯れて古びてはいるが、生身の命が宿っているような妖しいうごめきが垣間見えた。

 なぜか、その闇のうごめきの誘惑に思わず自分が吸い込まれそうになる。奇妙な感覚だった。

 この般若の面、とんでもなく、やばいんじゃねえか? 生きてるんじゃねえのか? 品子の奴、この般若の面をいったいどこで手に入れたんだろうか?

 俺は、会場から響いてくるシングルトーナメントの熱狂的な歓声を一方で聞きながら、その不可思議な般若の面に心を奪われていた。

 

 PWMSシングル王座決定トーナメントの一回戦は、クラッシュ刀田、辰波馨、ミスター源龍、ガチ菅原が勝ち上がって、二回戦の準決勝にコマを進めた。準決勝と決勝は、PWMS・匠の第四回大会で行われる予定だ。

 その夜は小田原で第三回大会の大成功を祝して盛大な酒宴が催された。辰波さんをはじめ、トーナメント参加レスラー全員出席の豪華版だった。俺と小太郎は、事務局の鈴木さんや裏方のボランティアスタッフの人たちと会場の片付けを終えてから参加した。

 小太郎の顔を見るなり、ホリー・ヴァンクジュニアが片言の日本語を交えながら「ユー、ペリー、サイコー」と小太郎に握手を求めてきた。ホリー・ヴァンクジュニアの弟ペリー・ヴァンクにそっくりだった今日の試合での贋作・ペリー・ヴァンクに感激したという。

 極悪コンビのキール・ザ・ブスチャーとインディア・ターバンチャダは、ゴア内藤さんやバク周南さん、ミスター源龍さんと、ウオッカの一気飲みで盛り上がっていた。まったく化け物だ。俺も小太郎も、こいつらと絶対に目を合わせないようにしていた。

 オリエンタル・クマドリの天孫さんが、プロレスではまったく手の合わないクラッシュ刀田さんと生ビールのジョッキを何度も乾杯しながら意気投合している姿が微笑ましかった。

 ガチ菅原さんが、酒宴の席の隅っこの方で一人静かにウヰスキーのロックをあおっているのがかっこよかった。

 とにかく、辰波さんの粋な計らいで和やかな酒宴だった。匠ファミリーの主だった顔が初めて一堂に集まった。回を重ねるごとに少しずつ結束が深まっていくのを実感できた。

 この場に般若ヒンコとユンボ杉山という女性のメインイベンターの姿がないのは寂しかったが。


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