2 恩師・辰波さんとの再会
――タラップに、重苦しい足を落とした。
とうとう帰ってきたんだ。夏の名残のオレンジがかった日差しが、ジャンボジェット機の車体に反射して、やけに眩しかった。
かったるいまま階段を降りきった。足が動かなくなった。次の一歩が出なかった。後ろの乗客が迷惑気に左右に散って足早に俺を追い抜いてゆく。思わず唾を吐いた。急ぎすぎる人間に苦笑いを浴びせて、俺は深呼吸をした。
二十三年ぶりの故郷の空気。全身にまとわりついてくるような暑苦しいべとべと感。アメリカでの二十三年間の乾ききった空気とは別世界のようだ。
ここには、どうしようもなく無責任な自分がいた。不義理だらけの過去。決してポリ公にとっ捕まるような罪じゃないとは思うんだが、息子として兄貴として最低だったと、思わずにやけちまう。
一八三センチ、一〇一キロ。俺はこの身体ひとつで、二十年以上もアメリカで闘ってきた。自分でもよくやったと思う。
だが、故郷に降り立ったとたんに足がすくんだ。震えた。帰るのが怖かったんだ。ここには逃れることができない本当の俺がいたからだ。
「ゴホンッ!」
突然、背中で大きな咳払いが聞こえた。振り向くと、俺の隣に座っていた白髪頭のおっさんが階段を降りてきたところだった。迷惑そうな顔をしていた。右腕には、下を向いたままの若い女がすがりつくように寄り添っている。確か通路を挟んでおっさんの隣に座っていた女だったような気がするが……年の離れた愛人か。
おっさんが黙ったまま、邪魔だというように左手を払った。それとともに、恐ろしくいい匂いが漂ってきた。NPA世界チャンピオンのリッチ・ブレアーがパーティーの時につけているようなバカ高い香水だろうか。飛行機の中では感じなかったが。
「これは、失礼」
俺は素直に謝ると、押し出されるように一歩を踏み出していた。
おっさんは女の身体を支えながら空港ロビーの方にゆっくりと歩いていった。寄り添っていた女はたどたどしい足取りで、おっさんの右腕につかまりながら必死に歩いているようだった。足が悪いのか?
「頑張れ!」
俺は柄にもなく、なぜか小さな声で声援を送っていた。二十三年前に見捨てた妹も、ちょうど同じくらいの年頃だったからか。小さな勇気をもらったような気がした。
行くしかないな。くじけそうな自分を奮い立たせるようにして、俺は空港ロビーに急いだ。
すぐに、おっさんと女を追い越した。
追い越しざまにもう一度、寄り添って歩いていく二人の横顔を見てみた。その横顔が、なんだか無性に懐かしかった。久しぶりに会う家族のような気がした。
とうとう、ふるさとに帰ってきたんだと、より実感できた。
空港ロビーでは、恩義ある先輩が待っていてくれた。
ピンクのTシャツにジーンズというラフな格好で、その先輩は立っていた。俺の姿を見止めると静かな笑顔で手を振ってくれた。
辰波馨さんだ。
俺は、この先輩からぜひにと招かれて、ここに戻ってきたんだ。日本にも俺を受け入れてくれる人間がいる。今は、それだけが支えだった。
半年ほど前だった。
辰波さんから突然、ロサンゼルスの俺の携帯に電話がかかってきた。
「そろそろ日本に帰ってくる気はないか? 日本のプロレス界を盛り上げるために、ぜひとも三刀屋新吾と一緒にやりたいことがあるんだ。こっちでの生活は保障するから、すぐに戻って来い」
「ちょ、ちょっと待ってください。半年後に、長年ロスでお世話になったジョークさんとの引退試合が決まっているんで、それまでは待ってください」
「分かった。詳しいことは、こっちで再会してからだ」
たったそれだけだった。でも、俺は心を動かされた。辰波さんとだったら、今だったら――日本のプロレス界のために何かできそうな気がしたからだ。
二十三年前の夏――。
ストロングジャパンプロレスの辰波馨さんの付き人として、俺はニューヨークへ飛んだ。初めての海外だった。
当時、辰波さんはニューヨークを拠点とするプロレス団体・WPFの世界ジュニアヘビー級チャンピオンだったので、その防衛戦のためのニューヨーク行きだった。
辰波さんは見事に二度の防衛を果たし、その記念にと言ってニューヨークの一流ブランド店で、当時十七歳のぺいぺいの俺にはとても身に着けられないような超高級腕時計を買ってくれた。予想外な贈り物に何も言えずにおどおどする俺に、
「新吾は必ずメインを張れるようなプロレスラーになれるから、その時までとっときな。未来のチャンピオンの腕によく似合う時計を選んでおいたからな」
辰波さんは照れくさそうに頭をかきながら、眩しいほどに光り輝いていた腕時計を手渡してくれた。真っ白な文字盤にコバルトブルーの針が目に飛び込んできた。当時、辰波さんが入場の時に着ていた青いガウンの色とまったく同じ色。明るいブルーがすごい印象的だったのを覚えている。
そして、さらに大きなプレゼントがあった。
「いい機会だから、僕がデビューする前にレスリングの基礎を教わったジャーマン・ガッチ先生のところでしごかれてみないか?」
当時、俺はストロングジャパンプロレスに正式に入門を許されていたわけじゃなかった。辰波さんの温情で、その付き人としてプロレスラーを目指していただけの身分だった。アメリカ行きの俺の旅費も辰波さんの自腹だった。新人がアメリカ武者修行でガッチ先生の教えを受けるためには、正式なデビュー以降にそれなりの成果を収めなくては叶わなかった。若手にとっては最初の大きな目標であり、一人前のプロレスラーへの登竜門でもあった。そのガッチ先生のところへ、何の実績もない俺を連れていってくれるなんて、これほどのプレゼントはなかったんだが――。
「十日間の休暇を利用して、フロリダのジャーマン・ガッチ先生の道場で久しぶりに初心に帰ってトレーニングしたいと思っているんだ。新吾もガッチ先生からプロレスのいろはを叩き込んでもらうといい。期限は特に決めているわけじゃないから、新吾自身が納得するまで鍛えてもらいな。何かをつかんだら、また、いつでも僕のところに帰ってくればいいよ」
辰波さんは優しく和やかに笑っていた。いつもそうだった。争い事が何よりも嫌いで、この人は本当にプロレスラーなんだろうかと、誰しもが疑いたくなるような温和な人だ。
そんな辰波さん、今じゃ日本のプロレス界をリードするストロングジャパンプロレスの社長だ。
辰波さんに連れられて、俺はフロリダ・オデッサのジャーマン・ガッチ先生のところで、みっちりと鍛えられることになった。コシティとかいう大きなこん棒を振り回しての基礎体力作りから始まり、ブリッジと関節技の実技、そして格闘技に関する座学にも明け暮れた。詰め込み授業ばかりで、とことんつまらなかった。笑い話じゃないが名前の通り、ガッチガチの指導だった。辰波さん、新人のころ何か月もよく耐えたなとつくづく感心してしまった。
ガッチ道場が始まってから七日目の早朝――辰波さんが日本に帰国してしまった翌日だった。俺は後先のことなど何も考えずにガッチ道場から逃げ出してしまった。頼りにしていた辰波さんがいなくなって急に心細くなったのもあるが、正直、自分でもよく分からなかった。
気が付くと、右も左もわからないフロリダの広大な原野を、ただがむしゃらに突っ走っている自分がいた。
親身になってお世話をしてくれた辰波さんを裏切ったことが何よりも心苦しかったが、自分の中でどうしても受け入れられない何かがあったんだ。
ガッチ先生の教えは、どこか違うような気がしていた。ガッチさんのプロレスは、俺の求めていたプロレスじゃなかったってことなんだろうか。いまだにはっきりとした動機はわからない。若げの至りといってしまえばそれまでだが。とにかく、逃げて逃げて逃げたかったんだろう。それだけは、はっきりしている。
逃亡後は金が無かったので、罪悪感にかられながらも、辰波さんからもらった高級腕時計を売ってしまった。食いつなぐことしか頭になかったんだ。でも、それで数か月は食べていけた。
年が明けて懐具合が寂しくなってきたころ、ミズーリ州・カンザスシティの小さなプロレス会場の片隅で立ち見をしていた俺に、この地区のプロレス興行を取り仕切っていたボス・ゲイガルという男が「レスリングができるか?」と声をかけてきた。
それは、まさに幸運の女神だった。ゲイガルは俺にハッピコートと田吾作タイツと下駄をはかせ、ジャップ・トーキョーのリングネームで前座試合を盛り上げてくれと依頼してきた。いきなりプロレスの仕事にありつけたんだ。ガッチ先生の教えのおかげで、しょっぱいながらも何とか試合には対応できた。
カンザスシティを中心に、俺は前座仲間のレスラーたちと、セントルイス、オマハ、シカゴ、メンフィスなどをサーキットして回った。何もかもがハチャメチャな連中だったが、一流のプロレスラーを夢見た心やさしい仲間との移動は、とことん楽しかった。
アメリカで暮らすためのビザや生活に関する小難しいことは、すべてカンザスシティのプロモーター側で解決してくれた。自動車の運転免許も取らせてもらった。
試合を重ねていくうちに固定ファンもついた。自分で言うのもなんだが、当時、十八歳になったばかりの俺はそこそこのイケメンだった。欧米人とは違うルックスが金髪姉ちゃんの興味の的となって、俺はいつの間にか、ジャップ・トーキョーからジャップ・ハンサムと呼ばれるようになっていた。忘れもしない感動の初体験は、俺の熱狂的なファンで試合後にいつも出待ちしていた超グラマーな金髪姉ちゃんだった。
田吾作プロレスが板についてきたころ、ボス・ゲイガルからテキサス州のダラスに行けと言われた。当時のダラスは、鉄の爪アイアン・フォン・ケネディの本拠地で、全米でも特にプロレスが盛んな地区だった。日本人でありながらアメリカマット界で大活躍していた天孫隆明さんが、歌舞伎の隈取りを顔にペイントしたオリエンタル・クマドリとしてダラスで人気を独り占めしていた時期だった。辰波さんやゴッチ先生にプロレスの基礎を徹底的に叩き込まれ、田吾作プロレスのハンサムレスラーとして手ごたえを感じていた俺は、天孫さんのしごき、いわゆる入門試験をことごとくはねのけて、その弟分のオリエンタル・キョーゲンとして、隈取りペイント姿で再デビューすることになった。
天孫さんのアパートにも転がり込んで居そうろうとなった。天孫さんのおかげでアメリカ永住のためのグリーンカードまで手に入れることができたんだ。
「新吾、二十年ぶり以上、かな……」
辰波さんが恥ずかしそうに頭をかいていた。そのしぐさは昔と少しも変わらない。
俺は思わず、両膝をついて頭を下げた。詫びたくても言葉が出てこなかった。
「いいよ、いいよ。それにしても、よく踏ん切りをつけて戻ってきてくれたな」
辰波さんが俺の肩にポンと手を置いてくれた。少し、気持ちがほぐれていった。
「す、すみませんでした……」
俺は、そう絞り出すのが精いっぱいだった。
「アメリカで大活躍だったね。僕の見込みは間違いじゃなかったってことだね」
辰波さんの右手が俺の目の前に差し出された。俺も右手を差し出して辰波さんの温かいぬくもりに再開した。あの腕時計のない左手は腰の後ろに隠したままだった。