19 ヒンコの真実
品子は、かなり飲んでいた。
試合終了後、病気を理由に辰波さんの食事会を断ると、小太郎を強引に誘って赤ちょうちんをはしごしたようだ。身体が悪いのにこんなに呑んで大丈夫なのか。
事務所の長机で、俺は初めて素顔の品子と向かい合った。品子の隣には小太郎が座った。
「酒でも飲まなきゃ、こんなところに来れるかい!」
品子がいきなり強がって顔を伏せた。
俺は、すっかり酔いがさめていた。妹が会いにきてくれて本当にうれしかった。夢じゃないんだよな。
「と、とにかく、今日はありがとう。ふ、二人のおかげでお客さんは喜んで帰ってくれたよ。そ、それが何よりだ。……に、二十数年ぶりに品子と会うことができたんだよな。リ、リングでは、ヒンコのフットスタンプでスリーカウントを聞くことができて幸せだった」
たどたどしくも、もっともらしいことしか言えなかった。
だが、品子も小太郎も黙り込んでいるままだった。
品子は顔を上げなかった。品子の心情を考えると、俺は何を言っていいのかわからない。隣で品子と一緒になってうつむいたままでいる小太郎に苛立った。
小太郎、なんか言えよ!
そう思って小太郎を睨みつけた時、突然、品子が顔を上げて毒づいた。
「大事な客が来たのに、ここじゃ、酒も出さないのか」
「そうだったな」
俺は素直に納得すると、冷蔵庫に立った。空気が動いた。品子の乱暴な振る舞いの中に、あいつなりの不器用な気遣いを感じて、兄妹の尖った心が丸みを帯びていくような気がしたが――。
缶ビールを持ってきて、品子と小太郎の前に置いた。俺は自分の缶ビールを開けた。品子も小太郎もプシュッとプルトップを開けていく。
品子は一口飲むと、
「今日の小太郎の般若ヒンコは最高だったな。特に色気のあるドロップキックは、現役の時のあたいそのものだったよ」
と言って、さっき俺が放り投げて床に転がっていたままだった開きかけのコンビーフの缶詰に目をやった。
「コンビーフか。久しぶりだな。小太郎、開けてくれ」
小太郎は、ちらりと俺の顔を見てから、慣れた手付きでコンビーフの缶を開けた。
品子は小太郎からコンビーフの缶詰を奪い取ると、大きな口でそのままかぶりついた。
「あー、うめー。コンビーフって、こんなにうまかったかな」
そう言うと、酔いにまかせてコンビーフの缶を床に投げつけた。
酒癖が悪いな。もはや堪忍袋の緒が切れた俺は思わず立ち上がって、
「呑みすぎだぞ! もっと身体を大事にしろよ!」
両手で思いっきり机を叩いていた。
途端に、品子の表情が激変した。青筋だった顔でぐっと俺を睨み上げると、その思いの丈を爆発させてきた。
「お前、そんなこと言えた義理かよ。だったら、お前は何なんだよ。兄貴らしいこと、何してきたよ。病気の母ちゃんとあたいを捨ててどこへ行っちまったんだよ。母ちゃんが入院してからすぐに、お前は、まだ十歳にもなってなかったあたいに、面倒くさくて邪魔だからお前も母ちゃんと同じ病気になって入院しろって言ったんだぞ。あたいは邪魔者なのかよ。でも、お前の望み通りに、あたいは母ちゃんと同じ病気になって大好きなプロレスをやめたよ。あの時のお前の言葉が、今でもあたいを苦しめてるんだよ。わかるか、お前に、ええっ!」
品子の口元が小刻みに痙攣していた。右の手首も異様にピクピクしているのが見えた。
品子の気持ちが痛いほどわかった。俺は目を伏せるしかなかった。言い訳もくそもない。謝るしかないんだ。
そんな俺を目の前にしてか、品子は、いったん深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、震えた右手を後ろに隠してから、
「いや、そうじゃないんだよ。今日はくそみたいな兄貴の新吾に文句を言いに来たんじゃねえんだよ。こんな身体に付き合って最高の試合をしてくれた尊敬するゼアミ選手にお礼を言いにきたんだよ。憧れのゼアミさんと同じリングに立ちたいという若い時からの夢をかなえてくれて、ゼアミさん、本当にありがとうございました」
真剣なまなざしに変わった品子が、突然、椅子からゆっくり立ち上がって直立不動になると、深々と頭を下げた。スポーツ選手らしいさわやかな礼儀を感じた。こいつの心は死んじゃいないと思った。
「これで、プロレスに思い残すことはない。小太郎、いくぞ」
品子が強引に小太郎の腕を引っ張って帰ろうとした。この機会を逃したら二度と品子に会えなくなる、そう感じた俺は、とっさに小太郎の腕をつかんで引き留めていた。
「ゼアミの部屋に来い!」
俺のひと言に、小太郎の顔がパッと明るくなるのが見えた。
今度は小太郎が品子を強引に引っ張った。
「お、おい、小太郎、何すんだよ」
品子は必死に抵抗するが、小太郎の若い力になす術もなく、豪快に抱きかかえられたまま、あっという間に事務室の奥の俺の住居のそのまた奥のエッチな掛け軸の裏に隠されたゼアミの部屋に運びこまれた。
ゼアミの部屋は、押入れを改装しただけの三畳ほどの小空間だ。俺が照明のスイッチを入れると、だいだい色の淡い光が部屋の両端に飾ってあった二対の神聖なゼアミの面を照らし出した。入場の時と試合前半に付けていた若女の能面を部屋の奥の壁に祭り、試合後半に反則の限りを尽くした般若の面を隠し扉のすぐ横の壁に祭っていた。
「こ、これは……」
品子は、いきなり飛び込んできた神秘的な光景に、もはや抵抗する力を失ってしまったように呆然と立っているだけだった。小太郎が、ゼアミの部屋の中央に置いてあった丸椅子に品子を促すと、品子はおぼつかない足取りで黙ったまま腰かけた。
品子は、ゼアミの部屋の奥に祭ってあった若女の面と向き合うことになった。
瞬間、若女の白い顔から閃光が走ったかのように、品子は眩しそうに両手で顔を覆っていた。
やがて――そっと両手を下げた。あの頃の品子の素顔に戻っていた。それは無邪気な子どもの頃の品子の顔だった。
俺はその様子を見て「よし!」うなずくと、品子に背を向けてから、ドカッと板張りの床に胡坐をかいた。目の前の般若の面を仰ぎ見る。
「ゼアミのファンだという品子には十分わかっていることだろうが、今、品子の目の前にある若女の面こそが、かつてゼアミとして全米を沸かせた俺の顔だ。同時に、二十数年前に、品子やおふくろを捨てた愚かな兄貴の成れの果ての姿でもある。その若女に向かって、お前のすべてをさらけだせ。俺も、今、正面にある般若の面に向かいながら品子とヒンコのすべてを受け止めたいと思っている」
品子はしばらく何も言わなかったが、やがて、静かに背中で言ってくれた。
「そんなにかっこつけられるとなんも言えねえじゃねえか。あたいは、兄貴に言うんじゃないよ。ここに来て、今、ゼアミのお面を見てたら、なんだか無性にしゃべりたくなってきたんだよ。本当は、兄貴にも小太郎にも出て行ってもらいたいんだけど、般若ヒンコの夢をかなえてくれた恩があるから無理やり追い出すわけにもいかないからな。その代わり、何を言われても耳をそむけないで聞いてくれ。あたいの現実から目をそむけないで受け止めてくれ。いいな」
隠し扉の前で、いつの間にか小太郎が姿勢を正して正座していた。小太郎も品子の現実を受け止めようとしているのか。まったくもって、律儀でいい若者だ。
やがて――俺の背中で、品子が若女の面に向かいながらポツリポツリと語り始めた。
「忘れもしない、小学四年の夏休みだった。突然、病気がちだった母ちゃんが入院してから、家の雰囲気はガラッと変わっちまった。親父は数か月に一度帰ってくるだけで、普段は学ランの兄貴が、いつも面倒くさそうに洗濯物を干したり、食事を作ったりしてた。わかるよ、兄貴の辛さは……。でも二学期が始まって、すぐに、兄貴は家にいなくなっちまった。病院のベッドで辛そうに起き上がった母ちゃんは、兄貴が勉強のためにアメリカに行ったと言っていた。小学生だったあたいは何の疑いもなく、母ちゃんの嘘を信じていた。兄貴、早く帰ってこないかなといつも祈ってた。あたいは、まだ、たった八歳か九歳のガキだよ。学校が終わって家に帰ると誰もいなかった。すごく寂しかったよ。夕方になって家の中がだんだん暗くなってくると、あたいは家じゅうの電気を点けて茶の間の隅で泣いていた……」
俺が辰波さんの付き人として、ストロングジャパンプロレスで過酷なトレーニングに耐え忍んでいた頃だ。でも、幼い品子にはプロレスのトレーニングよりも、もっと辛い思いをさせていたんだ。
「母ちゃんは、その後も入退院を繰り返して、あたいが十六の時に亡くなった。母ちゃんの葬式の時ですら、親父は夜には仕事があるからと、さっさといなくなっちまった。まったくひでえもんだよ。でも、小太郎から聞いたよ。親父もプロレスラーだったんだってな。黙ってんじゃねえよ。自分が誇りをもってやってた仕事なんだろ。なんで子供に内緒にしてんだよ。親父は引退試合で馬鹿息子に血だるまにされて、その後、すぐに死んじまったそうじゃねえか」
俺は般若の面を見上げながら、親父の最後の手紙を思い出していた。
「母ちゃんが亡くなった後に、あたいは親戚に預けられたよ。でも、そこのババアがひでえ人間でな。常にあたいを邪魔者扱いさ。ババアんとこの同い年の娘がそれに輪をかけて意地悪だったよ。あたいがババアに嫌われるように、年がら年中仕向けてやがった。アホかってんだ。もっと自分のことに頭使えってんだよ。親父から何度も手紙が来たが、今さら、そんなもん見る気もしなくて、すぐにゴミ箱行きよ。高校には行ってたけど、荒れてたよ。学校でも家でも厄介者さ。ホント、自分の存在が嫌で嫌でたまらなかった。そんな時に、街で見かけたガルジャ(ガールズジャパンプロレス)のポスター。金髪やら派手なペイントやらのこいつらがとてつもなく人気者なんだ。あたいみたいな、けばい格好でもアイドルになれるんだと思った。あたいはすぐにガルジャの道場を探し出して直談判してやった。そん時、道場にいたのがユンボ杉山さんだったんだ。ユンボさんはあたいの思いをちゃんと聞いてくれた。うれしかったよ。そして行き場のないあたいを、会社には内緒で付き人としてそばに置いてくれた。リングでは極悪非道だったけど、本当はものすごく優しい人なんだ。あたいもユンボさんのようになりたい。心からそう思ったよ。あたいはガルジャの、ユンボさんのしごきに耐えた。耐えて強くなってガルジャに認めてもらう以外に、あたいの生きる道はなかったからね。人気者になって、あたいを邪魔者扱いした奴らを見返してやるんだっていう思いだけだった。三刀屋新吾って野郎もそのひとりだったよ。ユンボさんの妹分として十八の時にデビューしたあたいは、なかなか自分のレスリングスタイルが見つけられずに腐っていた。そんなある日、アメリカで一世を風靡していたゼアミを知ったんだ。ゼアミのミステリアスなスタイルこそが、あたいのレスラーとしての個性じゃないかと直感したんだ。さっそくゼアミのスタイルをまねてみた。大歓声だったよ。それが般若ヒンコの誕生さ。ユンボさんと一緒にヒールとしてブーイングの嵐の中を入場するのは最高だった。みんながあたいに注目してくれる。あたいは邪魔者なんかじゃない。初めて生きててよかったと思った。でも、結局は母ちゃんと同じ病気で、すべて台無しさ。まったく、なんてこっただよ」
品子が両こぶしを握りしめて太ももを叩いた。
俺の目の前では、正座して聞いていた小太郎がひくひくと肩を震わせているのがわかった。
品子は若女を見続けながら、
「あたいに比べたら、兄貴はいいよな。ゼアミとして好きなプロレスをやり続けられたんだからな。あたいはリングに上がりたくても、できなくなっちまったんだよ。母ちゃんと同じ、この病気でよ。お前があたいを邪魔者扱いして母ちゃんと同じ病気になってしまえと罵ったことが、いっつも、いっつも思い出されて辛かったよ」
「取り返しがつかないことはわかっている。俺のひと言で品子を傷つけ、ずっと苦しんできたことはよくわかる。でも、今の俺がお前に対して、そんなひどいことを言う兄貴に見えるか。あの時は本当に俺自身、余裕がなかったんだ。心から謝る。すまなかった」
俺は、品子の背中で般若の面に向かって頭を下げた。
「今さら遅いや。でも……素直に謝られると、あたいも何も言えなくなるじゃねえか。あたいは、これまで兄貴を憎むことで自分を保ってこられたんだからな……」
品子の表情がゆるんだように感じた。俺の詫びを受け入れてくれたに違いない。少しばかり肩の力が抜けてきた。
「おふくろの病気って……品子がおふくろから引き継いでプロレスができなくなった病気って、いったい何なんだ?」
「原因なんてわかるかい。役に立たない医者ばっかでよ」
「わからない?」
「ただ、はっきり言えることは、まともにプロレスができる身体じゃなくなっちまったってことさ」
「どういう事なんだ?」
「母ちゃんもそうだった。母ちゃんの場合は、あたいの幼稚園の送り迎えの時によくつまずいたり転んだりしていたのを覚えてるんだ。幼稚園の運動会でも、あたいとやったスプーン競争で、母ちゃんが何度も転んだおかげでビリになっちまった。きっと、その頃から病気だったんだろうよ」
「そう言われると、俺も、おふくろがしょっちゅうつまづいていたのを思い出すよ。あんまりにも転びすぎるから、俺のこと怒るから罰が当たったんだって、よくおふくろをからかった覚えがあるな」
「少しずつ身体の自由が利かなくなった母ちゃんは、あたいが小四、兄貴が高一の夏休みに、とうとう入院しちまった。そこまでは知ってるよな。その後すぐに兄貴が蒸発しちまってからは、精神的なショックで、日が経つごとに、歩くことも、食べることも、おしっこすることもできなくなっちまったんだ」
俺の背中で、品子がむせび泣くのを感じた。
「母ちゃんはベッドの中で、うわごとのように、新吾すまなかったね、といつも謝ってた」
「……おふくろ」
俺は顔を上げられなかった。後ろからは、品子の震えた声が容赦なく追い打ちをかけてくる。
「そして、体がままならない情けなさからか、母ちゃんの心はバラバラになって、あたいが高一の時に狂ったように暴れ出して病院の階段から落っこちて、そのままあっという間に肺炎で死んじまった」
ゼアミの部屋は、重苦しい静寂に包まれた。小太郎が小さな声で「母ちゃん……」と言ったのが聞こえた。
俺は、不安にかられながらも、沈黙に耐えられなくなって訊いた。
「……それで、品子の病気はどうなんだ?」
「ど、どうもこうもねえや。少しずつ身体がおかしくなってきてるんさ。最初の頃は、プロレスやっててもちょっとしたことで手足のバランスが狂って、対戦相手の受け身に負担かけちゃったりしてたけど、だんだん自分でコントーロールできなくなって、相手に怪我をさせることが多くなってきちゃって。ボディスラムも満足にできないんだよ。タイミングも角度も最悪。相手はまともな受け身ができなくて、首の捻挫に手首の骨折さ。そのうち、あたいとの試合や練習をやりたがらない連中が増えてきて。相手がいないんじゃプロレスなんてできやしねえや。結局、あたいは邪魔者扱いで引退するしかなくなった。最後は、同期のプルトップ荻窪が快く引退試合を受けてくれて、表面的には潔くリングを去ったかたちだったけど、あたいの生きている証だったプロレスをやめなきゃならないなんて絶望以外のなにものでもなかったよ。もう、五年も経つんだよな」
「五年前か。引退後はどうしてたんだ?」
「どうもこうもねえ。自暴自棄ってやつさ。リングに立てなくなっちゃって、あたいはまた邪魔者に戻っちまったんだなって、ひたすらやさぐれてたよ。女子プロで稼いだ金があるうちはよかったけど、そんなあぶく銭、あっという間になくなっちまった。そん時によ、付けの利く顔なじみの飲み屋で飲んだくれてたあたいに声をかけてくれたおっさんがいたんだ。えらく金回りのいいおっさんでよ。あたいが身体の自由が利かなくなって女子プロレスを首になったわけを話すと、まず身体のことを心配してくれて、大きな病院に連れてってくれたんだ。体中をさんざん調べられたあげく、結局、原因はわからなかったがよ。あたいも母ちゃんと同じように身体も心もおかしくなって死んじまうのかなと思うと不安でたまらなかったよ。おっさんは、そんなあたいのすべてを受け止めてくれたんだ。生活の面倒を見てくれると言って、おっさんの経営する熱海のマンションに住まわせてくれた。週に一度、おっさんは、ぶっちゃけ、あたいの身体を求めてやってくる。でも、あたいはおっさんに感謝してるんだよ。病気の治療代から生活費、おっさんとやった次の朝にはたいそうな小遣いまで置いていってくれるんだぜ。週一のこんな稼ぎのいい商売はどこにもないぜ」
俺には、品子が心から喜んでいるとは到底思えなかった。目の前の小太郎も怒りに震えているようだった。
「ばかなことやってんじゃねえよ。すぐに、俺のところに来い。明日から俺が品子の面倒見てやるよ」
「ありがとよ。でも、あたいはおっさんに四年以上も世話になってるんだ。病気の治療も、おっさんの顔で優先的に受けられて。この前も、ロサンゼルスにいい医者がいるっていうんで、あたいをわざわざアメリカまで連れてってくれたんだぜ。もしかすっと、今こうしてなんとか杖をつかずに歩けるのも、そのおかげなのかもしれないしな。おっさんに世話してもらわなきゃ、あたい、とっくに野垂れ死んでたと思う。その恩義からすれば、あたいの身体を差し出すことくらい何でもないさ」
「……」
そう言われると、俺は黙り込むしかなかった。高一の時に家を飛び出してから妹に何もしてこなかった。おっさんを責める資格などない。そんな俺の気持ちを尻目に、小太郎は若い純粋な怒りを爆発させていた。
「し、品子さん、熱海の品子さんのマンションて、そんな不潔な場所だったんだ。知らなかったな……。般若ヒンコ復活の準備に、J1遠征の合間を縫って何度も行き来したあの部屋が……。で、でも愛してない男となんて、そんなこと絶対に許せないよ!」
「真剣に心配してくれて、ありがとよ。涙が出るほどうれしいよ。小太郎は、いい男だよ。あたいは小太郎とだったらいつでもオッケーだからな。お前、まだ童貞か?」
品子にストレートに聞かれて、十九歳の小太郎は思いっきりテンパった。
「お、おれは、プロレス一筋に生きてきたんだ。お、女なんて」
「ま、いいや。そのうち気が向いたら、ヒンコっていう極上の女を教えてやるよ」
俺はつらかった。妹の現状を受け入れたくなかった。疲れた。
「帰る」
突然、品子が後ろで不機嫌そうに立ち上がった音がした。
「今日はもう遅いから、熱海まで帰るのは大変だろ。ここに泊まって行かないか?」
俺はとっさに言っていた。
「と・ま・る」
品子が意外だというような声を絞り出した。
それから、しばらく黙っていた品子だったが、やがて、そっぽを向きながら「兄貴が変なことしなけりゃ、あたいは泊まってやってもいいぜ」とつぶやくように言った。それは――その日、初めて笑顔の混じった品子のやさし気な声だった。
ゼアミの部屋を出ると、八畳の俺の部屋で、品子は俺の敷いた布団に静かに横になった。難病の身で、五年ぶりにリングに上がった疲れが出たのだろう。
品子の女の部分をまともに喰らってノックアウト寸前の状態だった小太郎は、さっきまで事務所で飲んでいたが、いつの間にか合宿所に戻ったようだ。
俺は、すやすやと眠っている品子の横に座って缶ビールを一気に飲み干した。手元には、品子に見せるために親父の遺した手紙を置いていた。封筒の表に親父が書いた「息子と娘に」の下手くそな文字が、なぜか可笑しかった。
その時だった。眠っていたかと思っていた品子が、突然、目を閉じたまま布団の中で淡々と語り始めた。
「今日はよかった。もう上がれないと思ってたリングに上がれて。おまけに憧れのゼアミ選手にダイビング・フットスタンプでホール勝ちしちゃってさ。久しぶりにトップロープに立つことができて、幸せだった。もう後はどうなってもいい、と思って飛んだんだ。ホント、言うことなかったね。――ゼアミの部屋では、なんだか、あたいの気持ちを素直に話すことができたし、ホント、すっきりしたよ。今までこだわってきた、いろんなことが、すべてアホらしく思えてきた。兄貴、あたいの病気がどんどん悪くなって、おっさんの相手ができなくなって、おっさんに捨てられた時には、あたいの面倒見てくれよな。今までずっと、妹に苦労をかけてきた分の落とし前をつけてくれるよな」
妹に頼られて、俺はとことん心地よかった。
俺は無言で、布団の中の品子の手を探した。そしてギュッと握りしめた。品子もすこぶる温かい手で握り返してくれた。
「あ、ありがとう。いつもは、明日が不安で薬飲まなきゃなかなか寝付けないんだけど、今日は安心して眠れるよ……」
俺は、品子の手をいったん離すと、部屋の電気を消した。そして畳の上に横になってから、もう一度、品子の手を握った。こうして、妹と手をつないで寝るのは、俺が小学生の高学年で、妹が幼稚園の頃以来だろうか。
親父の手紙を見せるのは明日にしよう。
その日は、俺もとことん疲れていた。品子の手のぬくもりを感じてホッとしたとたんに眠っていた。
朝はあっという間だった。目が覚めると、もう十時を過ぎていた。隣に品子はいなかった。その代わりに枕元には、ちぎった紙切れに書かれた置き手紙があった。
『久しぶりにぐっすり寝たよ。ありがとな。また、気持ち良く寝たくなったら遠慮なく来るから覚悟しとけ。スズさんに無理言ってタクシーを手配してもらったから、それで熱海に帰る』
品子らしい置き手紙だった。親父の手紙は無くなっていた。
その時、事務所の方で物音がした。急いで行ってみると、小太郎が事務所のデスクに腰かけたまま、ぼーっと天井を眺めていた。
「小太郎、昨日はいろいろとありがとうな。おかげで、妹と思う存分に話ができた――? こ、小太郎、どうした?」
小太郎の様子がおかしかった。うつろな目が天井を向いたままだ。
思わず駆け寄って小太郎の身体を揺さぶると、
「おれ、品子さんのことが、す、好きになっちゃった。どうしよう」
真っ赤な顔でそう言ってから、ばっと両目をふさいで顔を伏せた。
「小太郎……」
小太郎の恋わずらいの治療は、鬼コーチ一徹さんの猛稽古にまかせて、俺は、ストロングジャパンプロレスの辰波さんのもとへ向かった。
辰波さんは、社長室で俺を迎え入れるなり、各社のスポーツ新聞の一面をずらりと応接机に並べて上機嫌だった。
各誌の一面には、「般若ヒンコ、五年ぶりのリング復帰。ゼアミ、初のホール負け」「難病の般若ヒンコ、憧れのゼアミと一夜限りの復帰マッチ」「般若ヒンコ、贋作・ヒンコのアシストでゼアミに完勝」「般若ヒンコ、飛ぶ。必殺のダイビングフットスタンプでゼアミの息の根を止める」と、般若ヒンコの復帰を報じる見出しが並んでいた。
俺は辰波さんに真っ先に、妹と再会できたお礼を言おうと思っていたが、辰波さんは、昨日のPWMS・匠の旗揚げ第二戦の大成功に酔いしれていた。
「ゼアミと贋作・ヒンコの対戦は大好評だったよ。最後は小太郎の若手とは思えない粋な判断で、本物の般若ヒンコがゼアミを得意技のフットスタンプでホール。いいじゃないか。うん。小太郎ってまだストロングジャパンに入って二年足らずなんだろ。すごいよな。ところで、品子さんの体調は大丈夫か? 試合が終わって打ち上げに誘ったんだが、元気がなさそうだったんで心配してたんだが、小太郎が付いていたから大丈夫だとは思うが」
「はい。妹はあれから、小太郎と一緒に俺のところにきて、二十数年ぶりにたっぷり話合いました。これも辰波さんのおかげです。本当にありがとうございました」
俺は辰波さんに心から頭を下げた。
辰波さんは照れくさそうに社長机から少しばかり厚めの現金封筒を取り出すと、
「そうか、それはよかった。これは、ほんの僕の気持ちだ。妹さんに渡してやってくれ。般若ヒンコのファイトマネーだ。難病の身体でありながら、よくリングに上がってくれた。その上、勇気を出してトップロープから飛んでくれて。ありがとう」
辰波さんが目に涙をためながらそう言ってくれた。俺も目頭が熱くなった。
「新吾、次はPWMS・匠のタイトル化に向けて突き進むぞ。同時に、匠のリングでは、そこで闘うレスラーの人生や生きざまをメインとして見せていきたいとも思っている。第一回大会では与作さんとゼアミの親子対決、第二回大会ではゼアミとヒンコの兄妹対決があった。お客さんは、ゼアミ、与作さん、ヒンコが実の家族だということを知らなくても、作り物でない闘いだからこそ、そこに観る者の心を揺さぶり感動させる力があるんじゃないかと思うんだ。あっ、そうそう、新吾、これからは匠の健全な運営のために経営や経理の勉強もしてもらうぞ。とかく、プロレス団体という組織は、どんぶり勘定というか、不透明な経営が横行しがちだからな。誇り高きレジェンドたちが所属する匠は、そういう団体にしたくないんだ。事務局のスズさんのところに通って、みっちりと勉強してくれ」
匠の事務所には、その日から般若ヒンコに関する問い合わせが殺到した。その内容は、般若ヒンコの復帰を期待する声が大部分だったが、興味本位でヒンコの復帰の真相を探ろうとする電話もあった。俺も辰波さんも小太郎も、三刀屋品子という難病の女性のプライバシーを守るために全力を尽くすことになった。