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ゼアミ  作者: がくぞう
18/52

18 ゼアミ対般若ヒンコ

 それから数日後の各スポーツ紙に、PWMS・匠の第二回大会の会場と日時、対戦カードが発表された。今回のカード編成に関して、俺はいっさい関わらせてもらえなかった。それは辰波さんの独断だった。

 

 会場は舞浜コロシアム。十月九日、十八時試合開始。


 第一試合 ジーニアス・武闘(ぶとう)(四一)×ケビー・フォン・ケネディ(四四)

 第二試合 オリエンタル・クマドリ(五六)×キール・ザ・ブスチャー(六三) 

 第三試合 ミスター源龍(げんりゅう)(五四)×クラッシュ刀田(かたなだ)(四五)

 第四試合 辰波(たつなみ)(かおる)(五〇)・バク周南(五二)×ザ・ヴァンクス

 第五試合 ゼアミ(四一)×般若ヒンコ(三五)


 なぜか、第一回大会で大好評だった贋作レスラー小太郎の名前がなかったのが気になった。

 対戦カードがマスコミ紙上に発表されると同時に、PWMS・匠の事務所に電話の問い合わせが殺到した。贋作レスラーは出ないのかということと、般若ヒンコについての問い合わせが大半だった。

 俺は何度も同じ回答を強いられ反吐が出そうだったが、「大会当日までわからない」というあいまいな回答で通すしかなかった。本当に何も知らないんだから答えようがない。

 こんな時、小太郎がいないのがとても心細かった。小太郎、早く帰って来いよ。


 毎日、問い合わせに追われるままに、あっという間に大会当日となった。舞浜コロシアムは五千人の観客に埋め尽くされた。

 とうとう般若ヒンコとの対戦の時が来た。だが、ヒンコとの事前の対面も打ち合わせもいっさいなかった。小太郎も戻らなかった。

 選手控室で、俺は一人、訳がわからないまま、ゼアミの唐織(からおり)の雅な衣装をまとい、若女(わかおんな)の面をつけた。今回は、あえて後見をつけなかった。舞いや謡はいらない。静かに入場してヒンコを迎えたかった。

 第一試合のジーニアス・武闘とケビー・フォン・ケネディの対戦は、序盤から武闘のドラゴンスクリュー、シャイニングウイザード、ムーンサルトプレスがさく裂したが、ケビーののらりくらりとした試合運びに、結局、武闘がケビーの必殺アイアンクローを受けたままリング下にもつれ込んで、両者リングアウトとなった。

 第二試合のオリエンタル・クマドリとキール・ザ・ブスチャーは、予想通りの荒れた展開となった。クマドリの毒霧とブスチャーの鮮血が白いマットを大きく染めると、無効試合のゴングが連打された。

 第三試合、ミスター源龍とクラッシュ刀田は、殺伐とした雰囲気の試合となった。刀田の容赦ないキックの嵐を、源龍の分厚い胸板ががっちりと受け止めたかと思えば、今度は源龍のド迫力な連続水平チョップが刀田の胸板、喉元に叩き込まれた。最後は、よれよれになりながらも気力を振り絞った源龍のパワーボムが刀田の息の根を止めた。

 第四試合の辰波馨・バク周南組とザ・ヴァンクス(ホリー・ヴァンクジュニア、ペリー・ヴァンク)のタッグ戦は、辰波のテクニックと周南のパワーがヴァンクスの兄弟コンビを終始圧倒した。しかし、最後はパワーに頼りすぎた周南がバク・ラリアットを誤爆させた後に、ホリー・ヴァンクジュニアの逆転の逆さ抑え込みでホールを奪われた。

 さあ、次は俺だ。それも、相手は妹の般若ヒンコだ。これまでにないような緊張感に襲われた。

 入場の際の謡や囃子はいっさいなかった。俺は、若女の面に唐織のいでたちで鉄扇を手にしてリングに向かった。

 場内は息をのむように静まり返っていた。俺はゆっくりとリングに上がった。そのまま微動だにせず、般若ヒンコの入場を待った。

 般若ヒンコは、現役の時の妖艶かつ軽快感あふれる入場曲で現れた。顔には般若面よりも怒りや恨みの激しい表情の蛇の面を付けていた。衣装は白地に銀摺箔(ぎんすりはく)三角(さんかく)(うろこ)を施した着流し姿だった。

 およそ五年ぶりのリングインに、会場内には期せずして「ヒンコ! ヒンコ!」の大歓声が巻き起こった。

 俺は、そんな大音響に隠れるように、初めて後見の助けを受けずに、独りたどたどしい手つきで唐織を脱ぎ捨てて、ゼアミの試合コスチュームである白装束と白袴・白足袋姿となった。

 とうとう俺の目の前に般若ヒンコが立ったんだ。

 だが、だがだった。ヒンコの蛇の面の位置が俺の目線と同じ高さだったので「あれっ?」と思った。

 やけに背がでかい。でかすぎる。

 リングアナウンサー・ケロリンによる選手紹介が終わって、レフリー・ピューマ鳥取さんのボディーチェックが入る。だが、ヒンコは鳥取さんのチェックを手刀でビシッと拒否していた。

 ヒンコはなぜか三角鱗の装束を脱ごうとはしなかった。あのプロポーション抜群の水着姿を頭の片隅で期待していただけに拍子抜けした。五年というブランクの中で観客に見せられるような身体ではなくなったのか。無理もない。突然の対戦要求だ。今日の対戦をヒンコが受けてくれたことこそがまさに奇跡なんだ。

 いま現実に、俺は若女の面と白装束で、ヒンコは蛇の面と三角鱗の着流し姿で、リング上で向き合っている。

 改めて見ると、俺の目の前に立つヒンコはやはり大きすぎる。確か、ヒンコの身長は公称で百七十センチくらいだったように記憶していたが、目の前にいるヒンコは俺の身長と同じくらいだ。ゆうに百八十センチを超えているだろう。

 観客の歓声の中からも、やがて、「ゼアミ!」「ヒンコ!」とは別のどよめきのような反応が広がっていくのを感じた。

 これは、ヒンコの体格じゃない。

 俺が確信すると同時に、期せずして、「こ・た・ろー」コールが拍手と共に巻き起こった。

 今日は、般若ヒンコファンも大勢詰めかけているだろう。その観客から見れば、蛇の面で顔を隠し鱗模様の着物で体型を隠している、しかも大柄すぎるレスラーはヒンコでないことは一目瞭然だった。

「小太郎!」「贋作!」という小太郎ファンの歓声の中に、次第に「ヒンコはどうした!」「金返せ!」という罵声が交ってきた。

 小太郎の贋作レスラーを支持する声援と、般若ヒンコの復帰を期待して詰めかけたファンの失望の声が入り混じって、五千人を埋め尽くした舞浜コロシアムは異様な雰囲気に変わっていった。

 俺はやばいと思った。発表された対戦カードに般若ヒンコの名前がある以上、ヒンコが出場しなければ、それはチケットを買ったファンを騙したことになる。

 どうするんだ?

 俺は若女の中から、小太郎とおぼしき蛇の面の奥の眼差しを鋭く睨みつけた。

 その時だった。

 さっき般若ヒンコが入場してきたゲートの方から別の歓声が沸き上がってくるのが聞こえてきた。俺は思わず、蛇の面から視線をそらして花道の奥の方を見た。

 試合を終えたばかりの辰波さんが、ピンクのトレーニングウエア姿の女に寄り添いながらリングに向かってくるのが目に飛び込んできた。

 リングに近づくにつれて女の顔がはっきりしてきた。歌舞伎の隈取りのようなペイントが見える。おぼつかない足取りだ。辰波さんに支えられるようにして、ゆっくりとリングサイドまでやってきた。

 期せずして「おー!」という歓声が巻き起こった。

 辰波さんのアシストで女はリングに上がった。改めて「おー!」という、今日一番の大音響が俺の耳をつんざいた。

 般若ヒンコのファンには、その女が五年ぶりにリングに上がった本物の般若ヒンコであるとわかったような反応だった。

 これが、俺の妹の般若ヒンコなのか。

 般若ヒンコは、リングアナのケロリンからマイクを受け取ると、辰波さんに支えられながら深々と頭を下げた。やがて目頭を押さえながら、ゆっくりと顔を上げた。

「今日は、ヒンコの試合を観に来てくれて、ありがとう! でも、あたいは五年前にプルトップ荻窪に負けて引退したときには、もう病気でプロレスのできない体になっちゃってて……悔しくて悔しくて……今日は本当に般若ヒンコの原点でもある憧れのゼアミと闘いたかった。さっきのさっきまで迷ってて……でも、ど、どうしても体がいうこと聞かなくて……みんなの前で闘う勇気が出なかった。今日も明日も、ずっと、プロレスできないんです。ごめんなさい」

 ヒンコはそのままリング上で泣き崩れた。

 辰波さんが、そんなヒンコを労わりながらマイクを握った。

「本日は、PWMS・匠の第二回興行にお越しいただき誠にありがとうございます。般若ヒンコ選手とゼアミ選手との対戦は、まさに本日のメインカードでありましたが、般若ヒンコ選手の体調が復調せず、断腸の思いで、本日は、贋作レスラーの般若ヒンコがゼアミと対戦することになりました。贋作レスラーは、必ずや、往年の般若ヒンコのファイトを再現してくれることでしょう。贋作レスラーではご納得いただけない方にはチケット代をご返金いたします。また、事前に発表された対戦カードに贋作レスラーの名前がなかったためにチケットをご購入なされなかったファンの方々には、スポーツ紙やウイークリープロレスにその旨を告知した後、お申し出により本日の全試合を収録したDVDを無料で送付させていただきます。ゼアミと般若ヒンコの対戦は、PWMS・匠としてどうしても実現したかったカードであります。どうか、ご理解くださいますようよろしくお願い申し上げます」

 辰波さんが深々と四方の観客に頭を下げた。

 ヒンコはリングに顔をこすりつけたまま震えていた。

 俺は、訳が分からなかった。般若ヒンコがプロレスのできない身体とはいったいどういうことなんだ。チケットの返金やDVDの無料送付なんか、スタートしたばかりのPWMS・匠には計り知れない負担になる。そこまでして、どうしてゼアミの俺と小太郎の般若ヒンコの試合を組んだのか?

 俺の疑問をよそに、般若ヒンコの哀しい現実と辰波さんの真摯な説明に、会場はいつの間にか「ヒンコ」コールに包まれていった。

 俺は、小太郎をとことん締め上げて事実を聞き出したかったが、「ヒンコ」コールの高まりに合わせるような絶妙なタイミングで、贋作・ヒンコとの試合開始のゴングが鳴った。

 カーン!

 振り上げたこぶしを下げるしかなかった。

 辰波さんに支えられたヒンコが、弱々しい足取りでゆっくりとリングを下りていくのが見えた。俺は行き場のない気持ちになって、ヒンコを目で追ったまま立ち尽くした。

 リングサイドに用意してあった椅子に座ったヒンコと目が合った。隈取りの奥から鋭い眼光が見えた。俺は思わず若女の中の目を、そらした。自分のやってきた過去が怖くて妹の目をまともに見ることができなかった。

 いつの間にか会場全体が「ヒンコ」コール一色となっていた。

 その時だ。突然、俺の背中に衝撃が走った。蛇の面を付けた贋作・ヒンコが自らロープに走って着流しのままドロップキックをかましてきたようだ。それは現役時代のヒンコが相手の隙をついて序盤に出していた背後からのドロップキックそのものだった。観客の反応から察するに、往年のヒンコらしい粘りとノビのある鮮やかなドロップキックだったようだ。

 俺は、目の前にあったトップロープに喉元を打ち付けて、そのまま膝から崩れるようにうつぶせになり、しばらく窒息状態に陥った。

 贋作・ヒンコは容赦なく俺の若女の面の後ろの髪の毛をつかみ起こすと、痛めた喉に追い打ちをかけるように、まさに蛇のようにしなやかな両手をスルスルと巻きつかせてきた。スリーパーホールドだ。それも呼吸器官を圧迫するヒンコ得意のチョークスリーパーだった。レフリーのピューマ鳥取さんが反則チェックに入ろうとするが、贋作・ヒンコは鳥取さんに蛇の面をこすりつけるようにして注意をそらし、執拗に俺の首を締め上げてくる。これも俺が最近、ビデオでチェックしていた現役時代のヒンコの試合運びだ。

 俺は、薄れそうな意識の中で――お前の技をすべて受けきってやる。しょうもない兄貴のことを思いっきりボコしてくれ。勝手な思いだが、この試合で俺の気持ちに区切りをつけさせてくれ。そう願っていた。

 俺は、スーッと意識が軽くなっていくのを快く感じた。いっそ、このまま何もかも忘れて眠ってしまいたかった。

 と、その時だった。俺のそんな感情を察した贋作・ヒンコが自らチョークを解いて俺を放り出すと、リング中央に立って観客にアピールを始めた。ロープ際で倒れ込んでいる俺に向かって、見下すように右手の親指を二度、三度と指し下ろした後、今度はその親指を立てながら自分の喉元に持っていって、満足そうにうなずきながら観客席を見回して見得を切ったのだった。

「いよっ、ヒンコ! 待ってました!」

 会場のヒンコファンから期待感いっぱいの大歓声が巻き起こった。

 贋作・ヒンコは大声援に対して大きくうなずくと、再び俺に向かってきた。俺の白装束・白袴に対してクネクネとした腰つきでストンピングの雨あられだ。そのすさまじさに、手にしていた俺の鉄扇がいつの間にかどこかに吹っ飛んでいた。

 リングサイドに座った妹の目の前で、俺は贋作・ヒンコにボコボコにされている。妹はいったいどういう思いでこの試合を見ているんだろうか?

 贋作・ヒンコは、やられっぱなしの俺に馬乗りになって羽交い絞めにすると蛇の面を近づけて小声で言ってきた。

「どうしたんだよ。なんで攻めてこないんだよ」

「ヒンコに攻撃はできない。お前が攻め続けて試合を組み立てろ」

 俺は、贋作レスラー・小太郎にすべてを任せた。

 贋作・ヒンコは、次の瞬間、羽交い絞めを離すと立ち上がってリングを降りた。

 何をするんだ?

 次の瞬間、観客の「おー!」というどよめきと、少しの静寂の後、割れんばかりの拍手が巻き起こった。

 そして俺の視界には、たどたどしくリングに上がってきた本物のヒンコの姿が飛び込んできた。

 直後だった。

 俺は贋作・ヒンコに無理やりつかみ起こされると、リング中央まで引きずられた。贋作・ヒンコは右手を高々と挙げると、俺に強烈なボディスラムをかましてきた。今までに受けたことがないようなとびきりきついボディスラムだった。背中を強打して息が詰まった。

 リング中央で大の字に倒れた俺の目に、なんと、贋作・ヒンコに手助けされて、よろよろとコーナーポストによじ登ろうとしているヒンコの姿が入ってきた。

 病気のヒンコがリングに上がって試合をしているんだ。

 来い! フィニッシュだ!

 その瞬間、俺は心の中でそう叫んでいた。俺は般若ヒンコの必殺技を心待ちにした。

 ヒンコがコーナーポストに登った光景に、会場全体のボルテージがマックスとなっていくのがわかった。一方でヒンコを心配する悲鳴も聞こえてきた。

 コーナーポストに立ったヒンコは祈るような表情で天を仰ぐと、ためらいもせずに宙を舞った。次の瞬間、ヒンコのトレーニングシューズが俺の腹部に的確に突き刺さっていた。般若ヒンコの必殺技・ダイビング・フットスタンプがさく裂したんだ。

 ヒンコはそのまま、ダウンする俺の体に倒れ込むように覆いかぶさった。贋作・ヒンコに促されるようにして、ピューマ鳥取さんがカウントを数える。

 俺は、ヒンコのホールでスリーカウントを聞きたかった。

「ワン、ツー…………スリー」

 超スローなスリーカウントが入った。ヒンコは俺をホールしたままピクリとも動かなくなった。

 決着がついたのに、会場全体はシーンと静まり返ってしまった。

 贋作・ヒンコが蛇の面を取って素顔の小太郎としてヒンコを抱き起した。ヒンコの顔は涙でずぶ濡れだった。施してあった隈取りがバラバラに飛び散っていた。

 ヒンコは小太郎の手を払うと力強く立ち上がった。そして、右手の人差し指でダウンしていた俺を指し下ろすと、親指を大きく立てながら自分の喉元に持って行った。

 本物のヒンコの五年ぶりの大見得だった。

 「ヒンコ! ヒンコ!」の声援が湧き上がって、あっという間に会場全体が大合唱の渦となった。

 ヒンコは安心したようにファンに頭を下げると、両手で顔を押さえながらよろよろと膝をついた。小太郎があわてて介抱に入る。

 俺は、腹の心地よい痛みを感じながら立ち上がると、小太郎に声をかけた。

「いいぞ、小太郎。最高のクライマックスだった」

 小太郎がニコッと笑った。

 ヒンコは、まだ顔を上げられないでいた。ヒンコの全身が異常にぶるぶると震えているのが見えた。これが病気なのか。

 俺は迷ったが、ついにヒンコに手を差し伸べることができず、逃げるようにリングを降りた。花道を引き揚げる時も、リングを振り返ることはなかった。

 般若ヒンコとの闘いは、終わった。

 状況に応じてリングで暴れてくれた小太郎のプロフェッショナルレスラーぶりには、ただただ感謝するばかりだった。

 控室に戻ってからは、ヒンコが小太郎に支えられて訪ねてくるんじゃないかという虫のいい期待を抱きながら、長い時間、控室に残っていた。が、ヒンコからのアクションは何もなかった。

 あきらめるしかないか。

 俺は憔悴しきった気分でタクシーを飛ばして町屋土手の事務所に帰った。辰波さんからは打ち上げ会に誘われたが、とてもそんな気分にはなれなかった。 

 事務所に入って明かりを点けると、正面の掛け時計は午後十一時を過ぎていた。

 今夜試合で付けた若女の面と能装束を、まっ先にゼアミの部屋にしまってから、俺は、事務所の奥の冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、事務机に腰かけて一気に飲み干した。

 隈取りの奥から俺を睨みつけていたヒンコの眼光が脳裏を離れないでいた。台所に備え付けの缶詰専用の棚から、コンビーフの缶詰を持ってきたが、開けるのが面倒で途中で放り出した。ウイスキーや焼酎をコップに注ぐのもかったるくて、俺は、ただ缶ビールのプルトップを力任せに開け続けて、とにかく飲んだ。

 ふと、時計を見ると深夜の十二時近くになっていた。事務所の長机の上にはビールの空き缶が十本近く転がっていた。疲れた。寝るか。そう思って立ち上がった時だった。

 深夜にも関わらず、事務所のドアが突然開いて、小太郎が顔を出した。

「こ、小太郎……」

 小太郎の顔を見るなり、俺の静まっていた気持ちが爆発した。

「お前、なんで黙っていやがったんだ。品子が病気で女子プロをやめたって? いったい、どういうことなんだよ!」

 俺は思いっきり小太郎の襟首を絞り上げた。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ」

 小太郎は、俺にされるがままにドアの外へ押し出されていった。

 えっ?

 小太郎を押し出した先には、大がらで小奇麗な女が立っていた。

 女と目と目が合った。瞬間、懐かしい記憶がよみがえってきた。

 それは、二十数年ぶりに見る素顔の妹に間違いなかった。小学生の頃の面影が、まだばっちりと残っていた。これが、大人になった品子なんだ。

「品子……」

 どうしたらいいか分からない俺に、いきなりビンタが飛んできた。

「馬鹿言ってんじゃねえよ!」

 品子の顔は、まさに般若の形相に変わっていた。そして、まくし立ててきた。

「小太郎は、今日の試合のために、あたいのために、兄貴のために……あたいが初めて匠の事務所に電話をかけてから、この二か月間ずっと尽くしてくれたんだよ。J1クライマックの巡業に参加しながら、あたいが今日のリングに上がれるようにと、ずっと、ずっと、リングコスチュームから、何から何まで、いろいろと準備してくれて……兄貴こそが小太郎に土下座して礼を言うべきじゃねえのか。てめえは昔から、いつも何もわかっちゃいねえんだよ!」

 品子が、俺の胸板を両手でドンと突いてきた。

「前もって、事情を言ってくれれば、俺にだってやり様があっただろうに……なんで訳を話してくれなかったんだ」

 俺は品子の顔を見ることができず、小太郎に向かって言っていた。

 小太郎は品子の横顔に目をやりながら、困ったような表情で固まっている。

 そんな小太郎をちらっと見てから、品子が意地悪そうな笑いを浮かべて吐き捨てるように言った。

「あたいが、兄貴にはいっさい内緒にしていてほしいと、辰波さんや小太郎に頼んだんだよ。今日まで兄貴をとことん苦しめてやりたかったからな」

 俺は、うつむいたまま何も言い返せなかった。しばらく黙った後に力ない声で、

「まあ、中に入れよ」

 それだけ言うのが精一杯だった。


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