17 ヒンコからのコンタクト
ストロングジャパンプロレスの真夏の祭典であるJ1クライマックスの初日を迎えていた。
今年は小石川ホールを皮切りに、横浜、小田原、三島、静岡などで興行を行い、最終の東京国技館で優勝決定戦というスケジュールだった。下馬評では、実力者・バッファロー天野が、台頭してきた棚機優至や村中俊介の若い力を跳ね返して優勝するとの予想が大半を占めていた。
俺は、小太郎が誰かの贋作レスラーとして出場したら必ずJ1優勝するだろうなとマジで思っていた。事務所で電話番をしながら、小太郎の贋作レスラー絡みの魅力ある対戦を勝手に妄想していた。
ジリリリン、ジリリリン。
突然、俺のデスクの電話が鳴った。
匠の第一回大会も落ち着いて、問い合わせの電話が下火になっていたところに急に電話が鳴るとビックっとする。今回のJ1クライマックスに急きょ参戦となったミスター源龍さんと贋作レスラーのタフネス鴨田選手の妄想ファイトに夢中になっていた俺は、大量のよだれを拭き取りながら受話器を取った。
「はい、PWMS・匠です。お電話、ありがとうございます」
第一回大会前後の怒涛の問い合わせの洗礼を受けていた俺の電話対応は格段に進歩していた。生まれてこの方、使ったこともないような丁寧な言葉が無意識のうちに出ている自分にびっくりだ。
「……」
受話器の向こうからは何も聞こえてこなかった。そういえば、この二、三日、無言電話が何回もかかってきていたのを思い出した。
「PWMS・匠の事務所ですけど」
強めの口調で、もう一度返すと、少し間を置いて受話器の向こうから、たどたどしい声が聞こえてきた。
「あ、あの……あ、あたい、は、般若ヒンコなんだけど……」
「えっ?」
耳を疑った。
「は、般若ヒンコなんだけど」
俺の心はざわついた。般若ヒンコがもし自分の妹の品子だとしたら、およそ二十五年ぶりとなる妹との会話だった。般若ヒンコとの対戦要求を公表してから、すでに三か月以上も経っていた。
「ど、どうしようかと、さ、散々迷ったんだけど……ウ、ウイークリープロレス見て、ゼ、ゼアミさんと、お会いしたいと思って……」
「は、はい」
俺は緊張してしどろもどろとなった。
「そ、その前に、は、話したいことがあるんだけど。ちょっと事情があって東京まで行けないんだけど。こっちに来てほしいんだけど」
「は、はい。かしこまりました。ご、後日、こちらから改めてご連絡いたしますので、ご、ご連絡先のお電話番号をお願いします」
いつもの事務的な対応に戻っていた。妹への罪悪感から自分の声がばれないように無意識のうちに声色を使っていた。すまないと思った。でも悲しいかな、そもそも二十五年前の俺の声など、妹にばれるはずがなかった。
般若ヒンコと名乗った女は、携帯の番号を俺に告げた。俺は震える手で番号をメモるのが精一杯だった。
長い余韻を残してから、女はひと言「あ、あたい……邪魔者なんかじゃないんだよね」と小さな声で言って電話を切った。
意味がわからなかった。
手元にある番号が妹との唯一のつながりだと思うと、救いの手が差し伸べられたような安心感に満たされた。
思わず深呼吸をしていた。ヒンコと名乗る女が電話の向こうで「ゼアミに会いたい」と言ってくれたことが無性にうれしかった。
俺はすぐに、般若ヒンコと名乗る女からコンタクトがあったことを電話で辰波さんに報告した。辰波さんは手放しで喜んでくれた。
「般若ヒンコのところには、新吾自身が行くか?」
俺にはとても、そんな度胸はなかった。ヒンコが実の妹かどうかも確かでないし、仮に実の妹の品子だったとしたら、家族を見捨てた俺をどう思っているのか? そのことが何よりも怖かった。そんな俺の沈み込んだ空気を察して、
「それなら、すべてを知ってる小太郎に行かせるか。うん、小太郎がいい。あいつなら、独特の勘どころと、あの天然キャラでヒンコから何かを引き出してくれるだろう。決めた。小太郎でいこう」
辰波さんが電話の向こうで受話器を持ったまま手を叩いているのがわかった。
「小太郎は、今、道場か? すぐに俺のところに連絡するように伝えてくれ。おっと、ヒンコの携帯番号だったな」
辰波さんは、俺から携帯番号を聞き出すと受話器を切った。
それから、ものの三十分も経たないうちによそ行き姿に着替えた小太郎が事務所に顔を見せると、「これから、般若ヒンコのところに行ってくるよ。期待して待っててね」とだけ言って、俺が話す間もなく全速力で走り去っていった。
「おい、待てよ!」
すぐに追ったが、悔しいかな若さあふれる小太郎の俊足には到底かなわなかった。
それ以来、小太郎はこの町屋土手の合宿所には戻ってこなかった。
数日が過ぎても、小太郎はともかく、辰波さんからも何の連絡もなかった。業を煮やした俺は、池之端のストロングジャパンプロレスの辰波さんに直接会いに行った。
俺が社長室に入るなり、辰波さんは機先を制するよに言った。
「般若ヒンコのことだろ。すべては小太郎に任せてあるから大丈夫だ」
「こ、小太郎はどこにいるんですか?」
「小太郎は、般若ヒンコを訪ねたその日に急きょストロングジャパンのJ1遠征に合流することになった。匠では贋作レスラーとして好評なファイトを見せているが、あいつの本分はあくまでもストロングジャパン本体での試合だ。小太郎なりのオリジナルなプロレスを早く見せてもらいたいからな。昨日の第一試合から出てるから、後で江戸スポ(大江戸スポーツ新聞)で確認しておきな。匠事務所は、しばらくは新吾ひとりに任せるから電話対応よろしく頼むな」
辰波さんは静かに微笑むと、俺の肩を元気よくポンと叩いた。
町屋土手のPWMS・匠の事務所に戻った俺は、さっそく机の上に江戸スポを大きく開いた。
江戸スポの一面には、プロレスとは全く関係ない「宇宙人解剖の真実」の見出しとともに緑色のエイリアンの死体らしき写真が大きく載っていた。
プロレス記事は二面からだった。J1クライマックスの厚木での公式戦で、バッファロー天野が百年に一度の逸材と言われている棚機優至に、逆さ抑え込みでまさかの逆転負けを喫した写真と記事が大きく紙面を飾っていた。
その他の試合結果は紙面の下のほうに囲みで小さく報じられている。辰波さんの言った通り、小太郎は第一試合で前座の先輩レスラーと対戦して、たった二分二十秒、スリーパーホールドでギブアップだった。
小太郎の野郎、しょっぱい試合をしやがったな。あいつには新人の試合運びなんか、とてもできないんだよ。あいつのレスリングセンスは、もっともっとずば抜けて上をいってるんだ。
しかし、小太郎が、なぜ急にストロングジャパンの巡業に参加することになったのか? それも般若ヒンコに会いに行ったその日からだ。合点がいかなかった。やっぱり、辰波さんも小太郎も何かを隠しているとしか思えなかった。辰波さんは決して悪いようにはしないと言ってくれてはいるが……。
でも、自分ではどうにもできない以上、辰波さんを信じるしかないし、小太郎を頼りにするしかなかった。
その年のJ1クライマックは、決勝でミスター源龍を破ったバッファロー天野が下馬評通りの優勝で幕を閉じた。
巡業に参戦していた小太郎は前座での自分のレスリングに対応できずに連敗を重ね、結局、シリーズ中に一勝もあげることができなかった。江戸スポの中の小さな記事で、連日、小太郎の敗戦を知った俺は、小太郎の奴、さぞかし落ち込んでやがるだろうな、と心配していたが、一方で、それは俺と般若ヒンコに関する何かを隠すための小太郎と辰波さんの作戦なんじゃないかとも思えてきた。
ただ一つ気になったことは、小太郎が遠征中の試合を何度も欠場していたことだ。小太郎の奴、絶対にコソコソとなんかやってやがるな。
J1クライマックスが終わって数日が経った。
遠征が終わったというのに、なぜか小太郎は帰ってこなかった。何度も、辰波さんに聞いてみたが、辰波さんは笑ってごまかすだけだった。
そんな状況の中、町屋土手の事務所で、辰波さん、事務方のスズさん、俺の三人で、PWMS・匠の第二回大会の企画会議が行われた。
そこで辰波さんの口から突然、俺にとっては驚きの発表があった。
「PWMS・匠の第二回大会のメインは、ゼアミと般若ヒンコの一騎打ち。このカードで打って出る」
――えっ!
俺は一瞬、耳を疑った。頭の中が真っ白になった。
そんな俺に、辰波さんは追い打ちをかけてきた。
「ゼアミとの対戦は、般若ヒンコこと三刀屋品子さんのたっての希望だ。新吾、いいな」
般若ヒンコ――三刀屋品子――妹。とうとう、つながった。
般若ヒンコはやっぱり妹の品子だったんだ。
俺は辰波さんの顔を見た。辰波さんは満面の笑みで俺を見ていた。
品子の希望なら俺はなんでも受けてやる。身体中に力がみなぎってくるのを感じた。
「般若ヒンコはゼアミとの対戦後に、兄にすべてを語りたいと言っているそうだ。新吾、それでいいな?」
ノーは言えないだろう。俺がゼアミとして般若ヒンコと闘えば、その後は何かしらの道が開けるんだ。それなら俺は精一杯、ゼアミを演じてヒンコと闘うよ。