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ゼアミ  作者: がくぞう
11/52

11 与作との血闘

「よし」

 俺の静かなかけ声を合図に、まず羽織袴姿の後見役三人が一列に並んでバックヤードを出て行った。先頭の後見は笛を携え、次の後見は小鼓を肩にかけ、最後の後見は何も持っていない。

 やがて、ゼアミ入場の謡と囃子が聞こえてきた。笛の旋律に始まり、続いて「いよー」という野太い声と鼓の音が鳴り響いた。

 いよー、ポン、いよっ、ポポン、よー、おー、ポッポンポン。

 少しほの暗いだいだい色のやわらかなライトに照らし出された俺は、扇と秋草文様がちりばめられた紅白段替の雅な唐織の能装束に身を包んで、ゆっくりとしたすり足ですべるように入場する。面はもちろんゼアミの部屋に飾ってあった若女(わかおんな)の面だ。

「おー!」

 一瞬、驚きの声があがったが、その後は、ゼアミの神秘的すぎる能装束姿に、むしろ会場全体が声を失ったように静寂となった。そんなピーンと張りつめたような会場の花道を、俺はゆっくりと入場していく。俺にとっては試合前の恍惚の瞬間だった。

 リングサイドに立った。後見のアシストでゆっくりとステップを登ってリングインすると、すぐに謡と囃子に合わせてリング上で軽やかな舞いを披露する。

 その艶やかさに、それまでの静寂から会場全体が一気に華やぐのを感じる。能舞台さながらの、これが俺のゼアミの真骨頂だ。

 しかし、俺の独壇場はすぐにかき消された。会場内に突然「高砂やー、この浦舟に帆を上げてー」の音響が重なり、高砂の謡が始まったのだ。予想外の演出に、後見たちはお互いの顔を見合わせて謡や囃子をやめてしまった。

 俺も舞いを止めて、対戦相手の入場口の方に若女の面を向けた。

 間髪を入れずに、観阿弥の入場となった。大声援とともにゲートに現れた観阿弥は、崇高な雰囲気を漂わせながら、高砂の謡に乗ってさざ波のような細かい歩調で花道を進んでリングサイドに立った。近くで見ると、頭に烏帽子を載せ、ふくよかに微笑んだ翁の面をつけ、薄茶色の綾織りの狩衣と白袴の指貫(さしぬき)を身にまとっていた。

 その装束は神聖なみそぎのいでたちであり、神の依り代を意味する姿だ。ゼアミとしてリングに上がった頃、アメリカの能楽スクールで、反吐が出るほど能装束の勉強をしていた俺が言うんだから間違いない。

 観阿弥は自らロープを開くと、ゆっくりとリングインし、コーナーを背にしたまま微動だにしないでいた。

 無表情の翁面と初めてリング上で対峙した。観阿弥とゼアミ(世阿弥)――とうとう親子対決の時が来たんだ。

「青コーナー、ゼアーミー」

「赤コーナー、かんあみー」 

 リングアナウンサー・ケロリンの選手紹介だ。

 観阿弥は自ら烏帽子と翁面をゆっくりと脱ぎ捨てた。前座レスラー・与作の白覆面が現れた。狩衣と指貫は身につけたままだった。

 俺はそれを見定めると、艶やかな唐織を後見役のアシストで瞬時に取り去って白の上衣と白袴姿となった。顔には若女をつけたままだ。後見役から受け取った鉄扇が俺の右手で冷たく光っている。長年のアメリカでのファイトスタイルと変わらない、これが俺のゼアミだった。

 カーン!

 レフリー・ピューマ鳥取さんの合図で、開始のゴングが鳴った。

 俺は、左の手のひらで静かに面を押さえ、右手では鉄扇を高く掲げながら、観阿弥を若女の正面でとらえたまま動かなかった。しばらくは睨み合いが続いた。やがて白覆面の観阿弥がしびれを切らせたように俺の周囲を回り出した。俺は観阿弥の動きに合わせて、若女を常に観阿弥の正面で受け止めるようにすり足で回転した。観阿弥は蛇に睨まれた蛙のように、俺の懐に飛び込めないでいるようだ。

 数分が経過した。次に何が起こるのか? 異様な静寂の中で観客はかたずを呑んでリング上の両者を見守っているのを感じた。観阿弥の狩衣と指貫の衣擦れの音だけがやけに耳についた。

 と――突然、観阿弥が俺の視界から消えた。面をつけていると視野が格段に狭くなる。そのため、面の目の周りに小さな穴をいくつも開けて見えやすいようにしてはいたが、それでも視界は十分でなかった。

 俺は思わず鉄扇を下ろして、面の中から観阿弥の姿を捜した。そして見つけた。

 驚くことに観阿弥は、額をマットにこすりつけるように深々と土下座をしていたのだ。その予想外の行為に迷いが生じたのか、さすがの俺もプロレスという仕事を忘れて油断した。

 その時だった。観阿弥が白覆面の顔を上げたかと思った瞬間に、俺の白装束の腰に思いっきりタックルをかましてきた。俺は仰向けにひっくり返って、そのまま、観阿弥にマウントポジションをとられていた。観阿弥のびっくりするような高速タックルに俺は何も対応できなかった。

 だが、すごい違和感もあった。観阿弥の身体がガリガリすぎるのだ。狩衣と白覆面で身体つきも素顔もわからなかったが、とてもプロレスの攻防に耐えられる身体じゃないと直感した。

 観阿弥は有無を言わさずに俺の首元に肘を押し付けてきた。力強さはまったくなかったが、頸動脈の急所を的確にとらえた見事な締め技だった。

 意識が朦朧とした。しかし、なぜか気持ちのいい感覚だった。

 いつの間にか俺は家族の思い出に浸っていた。父と母と妹と素顔の俺――家族全員が、とびきりの笑顔で、母の作ったにぎりめしをほおばっているんだ。とびきり幸せな気分だった。

 次の瞬間、その充足感は破られた。失神寸前の俺の頬に観阿弥の強烈な張り手がさく裂したんだ。

「こいっ!」

 朦朧としていた俺の五感に観阿弥の檄がこだました。まさに神のご宣託のようだった。

 俺は、意識を失いかけても放さなかった右手の鉄扇を力強く握りなおすと、覆いかぶさっていた観阿弥の額に思いっきり突き上げた。

 その衝撃に、観阿弥は白覆面の額を押さえながら、もんどりうって後ろに倒れ込んだ。瞬く間に、白覆面が赤く染まっていくのが見えた。

 しかし、この後、どうしていいか分からなかった。長年にわたって日本のプロレス界に功労のあった与作さんの引退試合である。観阿弥を十二分に引き立たせてから試合を終えたかったのだが、このまま、いつものゼアミのように鉄扇で一方的に攻めまくって試合を終わらせてよいものか?

 俺のレスリングに再び迷いと隙が生じたそのときだった。ドンピシャのタイミングで「遠慮なくこいっ!」と白覆面の中から観阿弥の静かな怒声が飛んできた。白覆面を見ると観阿弥の目が白覆面の中で大きくうなずいているのがわかった。それは、どこか無性に懐かしいまなざしだった。

 決まった。俺は観阿弥の胸を借りて、これまでのアメリカでのファイトスタイルをとことん貫く決心をした。

 まず、観阿弥の白覆面をわしづかみにして、強引にコーナーポストまで押し込むと、その額めがけて鉄扇の雨あられを見舞わしてやった。

 ダウンしたままの観阿弥を尻目に、後見の三人が素早くリングに上がって俺に白い布をかぶせてくれた。後見の一人が布の中に入ってきて、俺の若女の面を般若の面に手早く付け替えてくれた。白い布を持っていた背後の後見二人が、その布を勢いよく取り外すと、俺は般若のゼアミへと変身している。

 俺は、血染めの白覆面を再び掴み上げると、背中を思いっきりポストに叩きつけてから、鉄扇を広げて必殺のこめかみ扇を観阿弥の横っ面にさく裂させた。コーナーポストに力なく崩れ落ちる観阿弥。そのままピクリとも動かなくなった。

 レフリーの鳥取さんが割って入って、観阿弥の状態を確認すると、あわてて試合終了のゴングを要請した。

 俺は血に染まった鉄扇を広げたまま、すり足でリングの中央に進んだ。そして軽やかに勝利の舞いを披露してみせた。

 いよー、ポン、いよっ、ポポン、ポン、よーほー、ポポンポン。

 リングサイドの後見がタイミングよく謡と囃子を演じてくれる。

 俺は、観阿弥の返り血を浴びて鮮血に染め抜かれた白袴をリズミカルに上下させて、白足袋を何度も力強くマットに踏み鳴らした。

 観阿弥はコーナーポストに倒れ込んだまま、俺の舞いを体感しているだろう。

 ゼアミとして日本での初舞台を演じ切ると、俺は大歓声に包まれながら、後見のアシストで、ゆっくりとリングを降りた。

 俺はなぜか、そのまま退場するのがためらわれて、観阿弥がダウンしているコーナーポストに近づいて立ち止まった。観阿弥は出血多量で虫の息だったが、背中越しに満足そうに「うん、うん」とうなずいているのがわかった。俺は般若の面の中から「長い間、本当にお疲れさんでした」と血染めの白覆面を心からねぎらってやった。

 白覆面の背中がやさしく笑っているのがわかった。俺は後ろ髪を引かれる思いで花道を後にした。

 試合後、立ち上がることができなかった観阿弥は、白覆面と狩衣姿のまま病院へ直行したそうだ。

 なるほど、あの痩せ細った身体は、すでにプロレスラーと言えるものではなかった。


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