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ゼアミ  作者: がくぞう
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1 ゼアミ、アメリカマット界を去る

 ロサンゼルス発、新日本国際空港行きの飛行機の中で、俺は、隣の席のスーツ姿の東洋人のおっさんが白髪頭をなでながら、英字のプロレス雑誌を食い入るように読んでいるのが、気になってしかたなかった。しかも、おっさん、時々、涙らしきものを二の腕で拭いながら嗚咽を繰り返していた。

 プロレス雑誌のページは、「ゼアミ、行方不明。全米マットに衝撃!」「日本のミステリー・ゼアミ、ロスマットから消える」「ゼアミ、日本に凱旋帰国か?」等々――ゼアミに関する記事で埋め尽くされていた。

 俺は、おっさんのことをいぶかしく思いながら、「今さら、ゼアミかよ」と苦笑いしてつぶやいてから、そして――ゆっくりと目を閉じた。

 

 あれは――ちょうど一か月前だった。

 場所は、カリフォルニア州ロサンゼルスのオリンピック・コロシアム。

 その名の通り、ここはオリンピックをはじめ数々の名勝負が繰り広げられてきた伝統と権威ある会場であり、この地区のプロレス興行のメッカだ。

 今夜も、このオリンピック・コロシアムは、陽気なプロレスファンの明るい大歓声に包まれていた。第一試合から好勝負が続き、会場全体は、すでに興奮のるつぼと化していた。

 いよいよメインイベントだ。リングに登場するレスラーは、ゼアミ――。

 アメリカマット界で二十年近くもトップを張ってきた、いわゆる日本の神秘と言われたカリスマ・ミステリーレスラーだった。

 ゼアミの登場が近づくと、陽気なファンが一瞬にして静まり返っていくのが分かった。これから始まろうとしているオリエンタルな空間への、ファンの大きな期待が込められた静けさだ。

 やがて――羽織・袴を端正に身に着けた三人の男が、静寂の中、そろそろと花道を入場してくる。先頭の男は手ぶらだった。二番目の男は笛を持っていた。最後方の男は右肩に小鼓(こつづみ)を載せての入場だ。

 三人の男たちはリングサイドまで歩いてくると、リングに向かって並び立った。笛を持っていた男がひと呼吸してから、ゆっくりと口元で笛を横に構えて息吹を吹きかける。冷たい笛の旋律が奏でられ、続いて「いよっ!」という野太い声、そして鼓の音が鳴り響く。

 いよー、ポン、いよっ、ポポン、はー、ポンポン、おー、ポン。

 会場のライティングも、くっきりとした蛍光色から、やさしくほの暗いオレンジ色の色彩に変わっていく。会場全体が、たちまち幻想的な雰囲気に包まれていった。

 奥の入場ゲートが開いた。絶妙な間を置いてから、とうとう入場だ。ぼんやりとしたスポットライトの中に現れたのは、顔に能面を付け、きらびやかな女ものの能装束(のうしょうぞく)をまとった日本の神秘そのものだ。

 能面は女面だ。つるんとした無表情な色白の顔立ちは、神々しくも、とことん不気味さをいざなった若女(わかおんな)(おもて)だ。額のかなり上のほうに太めの眉が八の字に配置されている。面のほぼ中央に鎮座した横長のか細い二つの目は観る者を吸い込むように惹きつける。両目の間から陰影をたたえた鼻筋が広がり、その下に紅色の口が笑みを浮かべるように少し開いてお歯黒をのぞかせている。頬やあごの絶妙な曲線の白い肉感は柔肌そのもの。女髪のかつらは、金地(きんじ)桐唐草(きりからくさ)文様の鬘帯(かずらおび)でとめてある。面の下の上衣には、金糸・銀糸を織り交ぜた紅白段替(だんがわり)、牡丹・唐草文様の(みやび)唐織(からおり)の着物を足元までまとっている。

 日本の神秘の超ミステリアスな登場に「オー」というファンの驚嘆の声が上がった。

 ゼアミは何事もなかったかのように、笛と小鼓と掛け声の中、恐ろしくゆっくりとしたすり足で入場を始める。真っ白い足袋がまるで氷上を滑っているかのようだ。肩はまったくぶれていない。 

 リングサイドに立っていた羽織袴の三人の男のうち、手ぶらの男が急に声を張った。力強く柔軟に動く唇の奥から独特の節をつけた勇壮な日本語が飛び出してくる。(うたい)囃子(はやし)が始まった。

 三人は能舞台でいう後見(こうけん)役の人たちだ。謡や囃子のほかに能舞台上でのさまざまな演出をつかさどり、演者が不測の事態に陥った時には即座に代役を務めなければならないほどの重要な役割を担っていた。

 後見の演奏に包まれながら、ゼアミの入場のすり足に乱れはない。ゆっくりだが確実に、そして流れるようにゼアミは、いつの間にかリングサイドに立っていた。

 謡と囃子が止む。

 謡の男が他の二人から笛と小鼓を預かると、二人の後見がロープを広げてゼアミのリングインを促した。ゼアミはリングへのステップ階段をゆっくりと登ってリングインする。

 若女の神々しさと唐織の上衣のきらびやかさが、マット上をオリエンタルに染めていく。

 その時だ。

 間髪を入れずに、不気味な入場テーマ曲が鳴り響いてきた。

 三十年以上も全米で極悪の限りを尽くしてきた超ヒールレスラーのザ・ジョークの入場だ。寄る年波には勝てず、この試合を最後に引退を表明していた。ゼアミは、そのジョーク本人から指名を受けて、この引退試合に臨んでいた。

 アラビア系の白いコスチュームで荒々しく入場したジョークは、まったく微動だにしないゼアミの立ち居振る舞いにイラついて、さんざん毒舌を吐きながら食ってかかるが、ゼアミの無機質な若女の表情はあらゆる感情を拒否していた。

 マットの真ん中に立ったリングアナウンサーが選手紹介を始める。

「ジャパーン、二百四十パウンド、ゼアーミー!」

 同時に、リングサイドにいた笛と小鼓の後見二人がリングに上がり、ゼアミの両サイドから雅な装束を手際よくはぎ取った。瞬時に、ゼアミは薄手の白装束の上衣と白袴姿に変身した。顔には相変わらず女面の若女を付けている。

 ザ・ジョークのコールも終わり、「カーン!」と試合開始のゴングが会場に鳴り響いた。

 ゼアミとジョークはお互いの距離を詰めていく。刹那、絶妙な距離感とタイミングで、ゼアミがジョークをアームホイップで華麗に投げ飛ばした。不意をつかれながらも、すぐに起き上がったジョークは、すかさず、反則こぶしでの連続パンチ攻撃に出るが、ゼアミは、そんなパンチを能舞台で華麗に演舞するがごとく、身軽に柔軟にかわし続けてみせる。その後も、あらゆる反則攻撃を仕掛けてくるジョークを、軽やかな身のこなし、手さばき、足さばきで的確に翻弄していく。ジョークの攻撃がゼアミの体に触れた瞬間に、ジョークはゼアミの神がかり的な神秘力にふわりと跳ね返されてしまうのだ。

 先制攻撃のパンチやキックをことごとく跳ね返されたジョークは、とうとう超ヒールの片鱗を見せる。リング下にエスケープすると、客席になだれ込んで、逃げ惑う観客をあざ笑いながら、パイプ椅子を次々にリング上のゼアミめがけて投げ入れて嬌声を挙げた。

 リング上のゼアミは微動だにせずに静かにジョークを見下ろしている。パイプ椅子はなぜかいっさいゼアミに当たらなかった。むしろ、ゼアミを避けるようにリング上に転がっていくだけだった。

 ジョークはますます狂乱していく。さらに観客を蹴散らして両手でパイプ椅子を片っ端からゼアミめがけて投げ入れた。

 パイプ椅子をよける風でもなく、平然とリング上にたたずむゼアミ。

 羽織袴姿の三人の後見がリングに上がって、散乱したパイプ椅子を粛々と片づけているのが見えた。

 ジョークはエプロンサイドで悔しさに任せてマットを何度も叩いていた。そしてすぐさまリングに駆け上がると、パイプ椅子を片付けていた後見たちに殴りかかっていった。後見たちは恐怖の表情でリング下にエスケープする。その際に後見の一人がゼアミに扇子を渡してくれた。

 右手で扇子を開いたゼアミは、後見を蹴散らして狂喜していたジョークの正面にすべるように近づくと、居合抜きのように扇子を一閃させた。

 扇子はジョークの右のこめかみを確実にとらえていた。急所に一撃されたジョークは気を失って崩れ落ちた。ゼアミが使った扇子は、日本の匠に作ってもらったオリジナルな鉄製の硬い扇だ。ゼアミの必殺技・こめかみ(おうぎ)がさく裂したのだ。

 ダウンしたジョークに対してレフリーのカウントが始まった。それと同時に、後見の三人が素早くリングに上がってゼアミを取り囲んだ。最初に二人がゼアミの後ろからきらびやかな白い布を全身にかぶせ、もう一人がゼアミの正面から布の中に体を入れてもぞもぞと動いている。その一人が布の中から出ると同時に、ゼアミの背後の二人が布を勢いよく引き外した。

 ゼアミの面が若女から恐ろしい般若の形相に変わっていた。会場から「オー」という驚嘆の声と「ギャー」という悲鳴が聞こえてくる。般若の面を付けたゼアミの右手には鉄扇が握られたままだ。

 レフリーに頬を何発も叩かれて、ようやく正気を取り戻したジョークは、ダウンさせられた屈辱に怒り狂ってゼアミに襲いかかってくる。

 般若の面に支配されたゼアミは、ジョークの襲撃を冷静にかわすと、勢いあまってコーナーに突っ込んだジョークの後ろ髪をつかみまわして、右手に持った鉄扇を、今度は閉じたままジョークの額に突き立てた。制止のきかなくなった機械のように何度も何度も規則的にゼアミの冷徹な鉄扇は、ジョークの額に突き刺さっていく。

 ジョークの額からぶしゅっと音を立てるように血しぶきが飛び散って、ゼアミの白装束に鮮やかな血の文様を彩っていく。白装束はたちまち血で描かれた凄惨なアートと化した。

 血まみれのジョークがコーナーポストにもたれかかるように崩れ落ちて動かなくなると、般若のゼアミは鉄扇攻撃をやめ、すっとリング中央に進み、扇子を広げて舞いを踊り出した。リングサイドの後見たちが勝利を称えるように勇壮な謡と囃子を演じ始める。

 いよー、ポポン、いよっ、ポポン、よーほー、ポポンポン――。

 リング中央で、血の文様に染まった白袴を誇らしげに上下に動かすゼアミ。膝を高く持ち上げて、白足袋(しろたび)を力強くマットに踏み鳴らす。四方の観客に対して軽快に舞い回る。優美な扇子の舞いとリズミカルな足拍子。謡と囃子がゼアミの舞台に合わせて抑揚している。

 クライマックスが訪れた。観客はオリエンタルな空間に酔いしれて、むしろ静寂に徹していた。対戦相手のジョークですらコーナーポストにもたれかかったまま、恍惚の表情でゼアミの舞いに見入っているかのようだった。

 ゼアミは舞いを終えると、ひと時、名残惜しげに会場を見渡してから、後見が開いてくれていたロープの間をゆっくりとすり抜け、何事もなかったかのように流れるようなすり足で通路の奥に消えていった。後見も演奏を続けながらゼアミの後に続いていく。

 どこからともなく乾いた拍手が沸き起こった。「アンコール」の声が混じる。

 血で染められたオリンピック・コロシアムの会場は、凄惨な試合にもかかわらず、クラシック演奏会の後のような心地よい余韻を残していた。

 そう、この試合を最後に、ゼアミは、俺は――アメリカマット界から姿を消したんだ。

 

 バサッ! 

 隣の白髪頭のおっさんが、プロレス雑誌を席に放り投げるような音がして、俺はゆっくりと目を開けた。

 すでに、おっさんの姿はなかった。トイレにでも行ったのか。

 ふと、右手の窓に目をやると、無数の星が光っていた。

 二十三年ぶりの日本か……。

 とくとくと、ふるさとへの思いがこみ上げてくる。

 俺が生まれ育った小田原町は、かつての築地の魚河岸のすぐ近くにあったんだ。

 子どもの頃の楽しみは、その魚河岸の守り神でもある波除(なみよけ)神社の六月の祭りだった。盛大な祭りだったな。神社に通じる数百メートルほどのメインストリートに盛りだくさんの屋台が連なるんだ。飴細工、型抜き、綿菓子、たこ焼き、金魚すくい、虫売りと、ほかになんかあったかな。祭りの囃子太鼓がスピーカーで流されてたな。子供神輿を担ぐと、休憩所でジュースやお菓子をもらえてうれしかった。

 そういえばあの頃は、今みたいに小奇麗な公園なんてなかったから、遊び場は、道路だよ。道路で手打ち野球したし、缶蹴り、けいどろ、かどぶつけ、ケンケンパ、ローラースケートやカラー竹馬も流行ったな。石で粗めのアスファルトに落書きもしたよ。仕事や車の邪魔だと怒られたこともあったが、道路は最高の遊び場だったな。

 隅田川に浮いていた筏船や高速道路工事中の土砂の山で鬼ごっこや仮面ライダーごっこもしたっけ。

 あの頃の隅田川、やけに臭かったな。それにも増して魚河岸周辺の小さいどぶ川の匂いには参ったよ。腐った卵のような臭いだったからな。何だかわからねえ、シャボン玉みてえなのがプカプカと湧き出てやがんだ。わかるか。反吐が出そうだったよ。

 魚河岸の隣りのやっちゃばには、日曜日になると人っ子一人いやしない。売れ残った野菜がそこら中に落っこちてたな。割れかけたスイカも転がってたから、拾おうとするとおふくろに怒られたっけ。あの頃、築地の市場には観光客なんていなかったんだよ。

 小田原町は、俺が鼻たれの頃に築地七丁目っていう町名に変わっちまった。大きなスーパーなんてなかったけど、ざる売りの八百屋、いつも水で洗い流したような清潔感に濡れていた魚屋、樽臭い漬物屋、買い食いハムカツのうまい揚物屋、こじゃれた洋品店、小さな本屋、ずっと話しかけてくる床屋、店の中が甘ったるい匂いの文房具屋、薄暗い店構えの布団屋、調理するのが面倒だからとガキの俺にパワハラ的に注文の変更をせまるラーメン屋、カレー南蛮が絶妙だった同級生のそば屋、博打好きだがネタは最高だったすし屋、百円の赤ウインナードッグのパン屋、入りびったった駄菓子屋のくそじじい――いちいち思い出がありすぎて、まったく涙が出てくるぜ。

 

 家族……どうしてるんだろうか? 何よりも気がかりだ。

 病弱だったおふくろに、幼かった妹――とにかく元気でいてくれよ。

 それに、しょうもねえ親父……そうだ。俺宛のEMS(国際スピード郵便)の封筒に入っていた便箋に、たったひと言『日本に帰ってこい』だと。あの野郎、どういうことなんだよ。高校の時に家を飛び出してから一度も連絡を取り合ったことがなかった親父だ。何で今さら、ロス暮らしの俺の居場所が分かったんだ。おまけに差出人の親父の住所には、いまだに「小田原町」って。ふざけるなよ。小田原町なんて地名はもうとっくにねえだろうが。今は「築地七丁目」だよ。相変わらず、とんちきで自分勝手な野郎だぜ。

 後悔と怒りと気がかりと懐かしさ――複雑な気持ちがごちゃごちゃになって、とことんかったるかった。日本へ帰ってからの自分がいったいどうなっていくのか、まったく見当がつかなかった。不安だらけだった。

 突然、無性に眠たくなった。気持ちの疲れが体中の皮膚を這いまわっているようだった。

 眠るしかないな……。

 そう言い聞かせると、俺はすべての過去を枕にして深い眠りについてしまった。


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