出会い
きっかけは単純だ。あの日見た彼女の姿が脳裏に焼きついて離れないのだ。夕日に照らされ輝く黒髪をなびかせながらも、どこか儚げに中庭の欅を眺める彼女の姿が———
その日、私—鈴鹿呂湖—はいつも通り学校を終え、部活動をする生徒たちを尻目にそそくさと帰宅し、制服を着たままリビングのソファに飛び込んだ。お母さんがいれば、シワになるから脱ぎなさい、と怒られたかもしれないが、今日は仕事が長引いて遅くなる、と朝に聞いていたので気にしない。お父さんも単身赴任でそもそも帰ってこないので尚更だ。
しばらくゴロゴロとした後、「あ、アニパワのスタミナ消化しないと」と思い出し、ソファに飛び込んだ時に横に投げたカバンから自分のスマホを探した。アスパワとは、今私がハマっている『アニマルパワー』という育成シミュレーションゲームだ。自分がブリーダーとなり、選んだ動物を育てて、動物運動会優勝を目指す、という内容だ。簡単な操作ながらもストーリーが作り込まれており、一人でも十分に遊べるのに加えて他のプレイヤーが育てた動物と競うといった幅の広さもある。その作り込みに私もどっぷりとハマってしまったというわけだ。育成にはスタミナを使うのだが、1日のスタミナ総量は決まっているので、コツコツやるのが大事なのだが、今日の朝は寝坊して消化する暇もなく、さらには充電もしていなかったので、2時間目の休み時間中に切れてしまい、消化できなかったのだ。
というわけで、やっとできる、とカバンからスマホを取り出そうとしたが、いくら探してもカバンの中にスマホがない。あれ、と思い普段使わないポケットや今着ている制服などを探したが、どこにもない。少し焦ったが、一旦深呼吸し、充電が切れた2時間目の休み時間からの行動を思い出してみる。充電が切れ、仕方がないのでカバンにしまい、3時間目の授業を受けた。そしてそのまま4時間目、昼休みを挟んで5時間目、6時間目と授業を受けた。ここまで思い出して、スマホをカバンから出した心当たりが全くない。少し不安になりながらも、唸りながら思い出して時間を進めてみる。最後の帰りのホームルームまできて、はっ顔を上げた。そうだ、最後にテスト勉強用に置き勉してある教科書を詰め込もうとして、一回出して机に置いたんだった。そこまで思い出して、その後カバンにスマホを戻してないことに気づく。はあ、と自分自身の不注意さに呆れるとともに、失くしたわけではないと知って胸を撫で下ろした。リビングの時計がちょうど5時を指しているのを確認して、まだ間に合うな、と思い少し急いで学校に向かった。
自転車で本日二度目の登校をした時には、時刻はもう5時半となっていた。テストが近いことから、部活動の時間もいつもより短いために、すでにほとんどの部活が解散しているようで、学校内はとても静かだった。自転車を駐輪場に止め、下駄箱から自分のスリッパを出し、自分の教室—2年2組—に向かった。階段をひとつ上がり、曲がってすぐに目的地に到着した。誰もいないだろうし、早くスマホを回収して帰ろう、そう思って教室の戸を開けた。しかしその瞬間、私は教室の中にいた意外な人物に目を奪われ、戸に手をかけたまま固まってしまった。そこにいたのは、夕日に照らされた黒髪、少し吊り目がちな目、モデルのような細く長い足、本人の性格から表立って目立つことはないが、その性格と人当たりの良さから生徒教師全員から信頼の厚い私のクラス自慢の委員長—長嶋喜衣—だった。不意打ちのように目に飛び込んできたこの光景は、普段光を浴びない私にとっては眩しすぎるものだった。
「…あら、鈴鹿さん。こんな時間に会うなんて珍しいですね。部活動か何かしていたのですか。」
長嶋さんが教室に入ってきた私に気づいて、微笑みながら声をかけてきた。このような状況に加え、普段関わらないためか、何を返せば良いかわからない。ここぞとばかりに私のコミュ力の無さを悔いた。
「………鈴鹿さん?」
私があまりの緊張で何も話せず、ただ冷や汗を流している様子を見て、長嶋さんが心配そうに問いかけてきた。
まずい、何か話さないと。そう思うものの中々言葉が出てこない。
「大丈夫ですか?」
何かあったのか、と思ったのだろう。長嶋さんは、声をかけて近づいてきた。
どきん、と強く心臓がはねた。これ以上はまずい、と思った。
「だ、だ、大丈夫です!ちょ、ちょっと緊張しただけというかなんというか…
とにかく!わ、私は忘れ物を取りにきただけなので!……お、お邪魔しました!」
そう早口で言いながら、私は自分の机の上にあったスマホを何かから奪うように取り、急いでその場を立ち去った。今日ほど、後方出口付近に自分の机が位置していて良かった、と思うことはない。視界の端で、ぽかん、としている長嶋さんの姿が見えた。
そこからはあまり記憶がなく、無我夢中で自転車を漕いでいた。気づいたら自宅に着いていた。
自転車をしまって家に入ると、もう帰ってきていたお母さんがリビングから出てきた。
「おかえり……あんたそんな肩で息をしてどうしたの。」
怪訝そうなお母さんに、なんでもない、と適当に返事をしながら自分の部屋に向かった。階段を上る私の背中にお母さんが何か言っていたような気もするが、それどころではなかった。
部屋につくなり布団にくるまり、今しがた自分が長嶋さんにしたことを思い返す。
(なんでこんなことになっちゃったの!?…私のせいだよ!絶対やばいやつだって思われた…)
体をくねりながら半ば無意味な自責を繰り返し、行き場のない怒りや後悔を発散しようとするが、とてもじゃないけれど消えてくれない。
(明日学校どうしよう。……長嶋さんに嫌われてたら、どうしよう)
普段話さない仲とはいえ、クラスメイトに、しかもあの長嶋さんに嫌われるのは悲しいなんてものじゃない。深くため息をついて、さらに布団にくるまる。ふと手を胸元に当てると、心臓はまだ強くはねている。いくら抑えようと思ってもあの時見た長嶋さんを思い出す度に強くなる。その日、何をしていても、教室で見た長嶋さんの姿が消えることはなかった。