帰路
吸い方もサマになってきたと思いながらふと時計を見ると、あと十分で六時になるところだった。
あ、起こさなきゃ。
奏真はコタツから足を出し、布団の山へ声を掛けた。
「瀧本さ〜ん。六時っすよー」
「うう……。もうちょっと……」
「バイト遅れますよー」
瀧本はガバッと起きると、目の開いてない、ひどくブサイクな顔で言った。
「……そうだった。バイトだ。……あれ? 俺言ったっけ……?」
「お母さんが言ってました。起こしてって」
「あー。……うん。わりーな」
瀧本は頭をガシガシ掻き毟りながら「ふわぁ」と大あくびをしている。
「あ、朝帰りしたらぶっ殺すそうですよ」
奏真の言葉に瀧本がギョッとした表情になった。
「かわいい顔で物騒なコトゆーなよ。目ぇ覚めたし」
「美人な顔して物騒なコト言ったのはお母さんですよ」
「あいつは口がわりーんだよ。あんな風になっちゃおしまいだ」
瀧本は「うんうん」と頷きながらノソノソと立ち上がり、ジャージの上から作業服らしきグレーのジャケットに袖を通した。同じくジャージの上からグレーのズボンを履く。
「あ~だりぃ」
首をゴキゴキ回しながら部屋から出ていき、顔を洗ったのかちょっとサッパリした顔で戻ってきた。首には白いタオルを巻いていて完全に土方スタイルだ。
瀧本は携帯を取り、奏真へ画面を見せた。
「これ、俺の携帯アドレスと電話番号」
瀧本の言い方はボソッとしていて、ちょっと照れてるようにも見える。それが奏真には不思議だった。
……瀧本さんって、もしかしてあまり友達いないのかな? 学校や学祭ではすごく人気があったように見えたけど。ホントは人見知りだったりして。
「……ども」
奏真はそれを受け取り通信モードにするとアドレス交換を行った。
「はい。俺のも入れときました」
「おう……」
瀧本が携帯を受け取り画面を見る。
奏真の目にはなんとなく、瀧本が喜んでいるように見えた。
ほら、やっぱり。アドレス欄に一名増えたのをきっと喜んでるんだ。強引についてきちゃったけど、良かったのかも。
「じゃ、行こうかって、お前、上着ねーんだよな?」
「あぁ、そっか」
後先考えないで出て来ちゃったんだっけ。もう日が暮れちゃったし、外寒いだろうな……。
窓の外に目を向け考えていたら、瀧本が服の山からトレーナーを引っ張り出した。
「これ、上着じゃねーけど。お前には丁度いいだろう」
「あ、ありがと……うございます。すんません」
奏真はまたぺこっと頭を下げ、トレーナーを受け取った。トレーナーは厚手の生地で見たことないロゴが入っている。袖を通していると「ホイ」と手渡されたのは、棚の上にあったフルフェイスのヘルメットだった。黒色で表面には小さな傷があちこちについている。かなり使い込んだ風貌。
「これ、お前にやるよ。俺使わないから」
重そう……。でも、半ヘルより安全だし、寒さしのぎにもちょうどいいかも……。
奏真は口角をムニッと上げ瀧本を見上げた。
「ありがとうございます」
「お、おう。トレーナー……ちょっとデカイな。しゃーねぇな。LLだし」
奏真は自分を見下ろした。確かに手は指しか見えないし、お尻もすっぽり隠れてる。
「寒さ避けになって丁度いいっすよ。ほら、引っ張ったらスッポリ隠れちゃうし」
奏真はもらったフルフェイスのメットを脇に抱え、指の第二関節の辺りまで隠れてる手を瀧本へひらひらと見せた。
瀧本はまた片手で口を押さえ、目を天井へ向ける。ニヤニヤ緩む顔を隠しているようだったが、奏真からは丸見えだった。
この格好、そんなに面白い? 瀧本さんのツボってわかんないな。まぁ、いいけど。
「……じゃあ、家まで送って行くよ」
「ありがとうございます」
瀧本は作業着の上からゴツい綿の入ったジャンバーを羽織り、玄関でブーツへ足を突っ込んだ。歩くだけで筋肉痛になりそうな重そうなブーツだ。
「そういえば、どこでバイトしてんすか?」
「どこ? うーん。七時から国道の道路工事のバイトで、十二時から警備会社のバイト。だから遊んでるヒマなんてねーっつーの。終わるの三時過ぎだべ?」
意外だった。瀧本は背も高いし、手足も長い。目力が強すぎるきらいはあるが、顔の作りはかなり整っている。むさくるしい格好だからゴリラに見えるが、小奇麗な格好をすればホストでも十分通用しそうである。
実はすごく真面目……とか? もっと楽な仕事はいろいろあるだろうに。それとも道路工事のバイトって、よっぽど時給がいいのかな?
奏真の疑問が表情に現れていたのか、瀧本が忌々しげに言った。
「水商売はダメなんだよ。禁止されてんの。あのクソババア。自分は水商売のくせに」
「はぁ」
「あんたのコトだから、そっちが楽しくなって学校行かなくなるでしょ? だとよ。当たってるだけに言い返せねーんだよな。まともなバイトして貯めた金じゃないとバイクも買えなかったしよー」
あのバイク、バイト代で買ったんだ。バイクっていくらするんだろう? きっと高いよね。バイクのことは全然わからないけど、瀧本さんはあのバイクが欲しくてバイトしたんだ。なんかそういうのって、かっこいい。
瀧本も母子家庭なんだと奏真は察していた。母一人、子一人。同じなのに、違う。
目の前にいる瀧本への憧れは、出会う以前とは全然別の物になっていた。そんな感動を覚えながらも、奏真は瀧本をチラリと見上げ、二マッと口角を上げる。
「でも今日、ゲーセンにいましたよね?」
瀧本は奏真のからかいにニヤリと笑った。
「今週はテスト期間で午前しか学校ねーって言ってあんの」
奏真はテストと聞いてハッとした。
びっくりした。一瞬マジでテスト期間かと思った。ちがうちがう。期末テストは二週間後だもん……。ということは、そろそろテスト範囲の発表があるかも?
そう考えた奏真だったが、次には投げやりな気持ちになった。
……もういいや。どーせ停学くらってんだし。今さらテストなんてなんの意味もない。
「行くぞ」
「あ、はい」
外はとっぷり日が暮れて真っ暗だった。北風も吹き、かなり気温が下がっている。
瀧本がバイクに跨りエンジンを掛けるとドルンッと気持ちのいい重低音が響いた。半ヘルを頭に被った瀧本は、フルフェイスを装着した奏真を振り返り「乗れよ」と大きな声で言う。
「はい」
奏真が「よいしょ」と登るように後ろへ跨り、瀧本の背中にまたギュッとしがみつくと、瀧本は奏真の手を握り自分のジャンバーのポケットの中に入れた。中はポカポカして、とても暖かかった。
「ってかさ、お前んちってどこ?」
「三丁目です。スーパー大松の裏」
「ふーん。あそこらへんね」
奏真の家は三丁目にある。スーパー大松の裏のアパート。本当は嘘を言いたかった。五丁目でも十三丁目でも市外でも、家から遠く離れられるならどこでもよかった。でも、瀧本はこれからバイトに行かなくてはいけないのだ。迷惑をかけるわけにはいかない。
バイクは安全運転で夜の街を駆けた。
一丁目の角を曲がり、二丁目へ入る。馴染の景色が色濃くなっていくごとに、どんどん気が重くなっていく。T字路を右へ曲がると、奏真はバイクに逆らい振り返った。
────あ。
直樹の家が目に入ったのだ。そして、奏真の目に映ったのは自宅の前で立ち話をしている親友の姿だった。
懐かしさと同時にギュッと胸が痛む。栗色の頭と細長いシルエット。身体からニュッと伸びる長い手足。一瞬だった。ほんの一秒。その姿を奏真の目は確実に捉え、その弾けるような爽やかな笑顔までハッキリと見て取った。
会いたくて求めていた直樹の姿。しかし直樹の横にいたのは奏真が一番いて欲しくない人物だった。付き合い始めたばかりの直樹の彼女だ。
他の道を案内すればよかった……。
二丁目に直樹の家があることはもちろん知っている。何度も泊まりに行ったことがあるからだ。奏真の知る中で唯一温かい家庭。今となってはその二丁目にも、自分の行き場がないことを奏真は目の当たりにした。
遠くへ行ってしまいたい。……帰りたくないけど、帰るしかないんだ。
バイクのスピードが落ち、瀧本の大声が聞こえた。
「スーパーの裏でいいんだな?」
奏真は返事をする代わりに、大きな背中へフルフェイスのメットをゴリゴリと擦りつけた。