奏ちゃんに会いたい
「はぁ……」
直樹は進まない問題集にため息をつき、フローリングの床へごろんと身を投げた。
三年間打ち込んできたバスケも、七月の県大会予選でまさかの敗北。最後の試合が終わり、三年生はあっさり引退となった。
夏休みだってのに……。
窓から見える真っ青な空に心が踊らない。どこにも遊びに行かず、ひたすらクーラーの効いた部屋でゴロゴロしていると携帯の着信音が鳴った。「どうせ彼女からだ」と思いつつ画面を開けばやはり愛美からだった。『ちゃんと勉強してる?』の問いかけに『してるよ』と返事をして携帯を床に置く。
昨日は直樹の部屋で愛美とやることはした。だから今日は会わない。宿題も沢山あるし、受験勉強もやらなければならない。愛美へ会わない理由を並べている時の後ろめたさが嫌だった。愛美は機嫌を損ねることもなく納得した。互いに進学を希望しているから、当然と言えば当然かもしれない。愛美も勉強はしなくてはいけない。「明日も会える?」と言われなかったことに直樹はホッとしていた。そして、そんな自分に疑問を感じるのだ。
付き合ってるのに。どうして俺、こんなに冷たいんだろう。
自己嫌悪だけが溜まっていく。誰かに聞きたかった。「俺は冷たいのか。これが普通なのか」と。すぐに奏真の顔が浮かんだ。奏真に会い、話したかった。奏真ならどう答えるのか知りたかった。
床に置いた携帯を手に取る。仰向けからゴロンと寝返りを打ち、俯せになると画面を開いた。
『やっほー! 元気? 今から奏ちゃんち行っていい?』
ドキドキしながら直樹は送信を押した。携帯を手に持ったまま返信を待つ。五分、十分。返事は来ない。さらに気分が落ち込んでいく。一度は手放した携帯を手に取り、画面を見る。
十一時半……。あ、そっか。夏休みだもんなぁ。どうせ奏ちゃんのことだ。深夜までずーっとゲームしてる。だから、まだ寝てるんだ。メールの着信音なんかじゃ、目覚まさないよね。
何時に起きるかな。
そんなことを考えながら携帯をポケットへ入れて階段を降りる。居間を抜けてキッチンへ入り、冷蔵庫の冷えた牛乳を飲んだ。そんなに腹は減ってないが、棚からカップラーメンを取り出しポットの熱湯を注ぐ。ラーメンを食べている間も携帯は静かなままだった。
はー。ダメだこりゃ。きっと夕方頃に起きるパターンだろうな。
鳴らない携帯を見ながら考える。
瀧本が卒業して、奏真は学校で直樹たちといることが増えた。しかし放課後は奏真がバイト、直樹も部活と愛美に阻まれ、ひとりの時間が無かった。部活を引退した今こそ、奏真との仲を復活させるチャンスかもしれない。
「あ、もしかしてバイトかも……」
でもそれならそれで、いいじゃん。あの店に行けば奏ちゃんに会えるし、バイト終わってからなら話しも出来るし。
返ってこないメールを待っていてもしょうがないと、直樹は服を着替え自転車に乗り、奏真のバイト先へ向かった。
モコモコバーガーに奏真の姿は無かった。マスターに尋ねると今日は休みらしい。
やっぱり家だな。家で爆睡してんだ。
直樹は奏真のアパートへ自転車を向け走らせた。
懐かしい奏真の家に辿り着く。
小学生の頃はよく泊まりに来てたなぁ。中学になってからは俺の家ばっかだったし……と思いながら、勝手知ったるなんとやらで気軽にインターホンを押す。
「こんにちはー」
「あら、直樹くん。久しぶりね」
奏真の母親は近所のスーパーの制服姿だった。休憩時間中らしい。
「あ、こんにちは。お久しぶりです。えっと、あの……奏ちゃんいますか?」
当然いるものと思い込んでいた直樹に、奏真の母親は浮かない顔して答えた。
「今家にいないのよ」
「へ?」
「学校の先輩の家に夏休みは泊まるんだとかで……」
「え……先輩? それって、瀧本……」
思い当たる人物はひとりしかいなかった。奏真の母親は「そうそう」と頷き、冷蔵庫に貼ってある紙を剥がすと直樹へ差し出した。そこには瀧本の名前と住所が書いてあった。ちゃんと番地も、アパート名と部屋番号も記してある。
「こうやって居場所も分かってるし……。勉強道具も持ってね? 夏休み中ずっと、居座るつもりらしいの」
「はぁ……え、全然帰ってこないんですか?」
「そうなの。でも携帯に電話するとちゃんと折り返してくるし、元気は元気みたい。家にいるより勉強に集中できるって言うし……。ごめんなさいね? せっかく来てくれたのに」
「あ、いえ。いいんです。俺も、いきなり思い立っちゃって……」
「うんうん。奏真に連絡入れてみて? この瀧本さんって人に迷惑掛けてないといいんだけど……聞いても、大丈夫だからとしか言わないの」
「あははは……そうですね。連絡してみます。ありがとうございました」
頭を下げドアを閉める。
直樹は自転車に跨り日陰に入ると、今、頭で記憶していた番地を携帯に打ち込んだ。マップを開くと、目的地のマークが出る。
「…………」
何をしたいのか自分でもよく分かってなかった。衝動に突き動かされ、瀧本のアパートを目指す。
奏真はもう、瀧本と繋がっていないと思っていた。どうしてかそう思い込んでいた。学校で昼休みに姿が見えなくなることもなくなり、昼間に携帯を弄る姿もなくなった。だから、直樹は安心していたのだ。
たどり着いたアパートはかなり古いアパートだった。
こんなところに住んでるんだ。さすがワイルドな先輩だ。俺だったら絶対イヤだもん。虫とか出そうだし。夜は幽霊とか出てきそう。奏ちゃんだってそういうの苦手だろうに……瀧本さんと一緒だから怖くないのかな?
直樹はアパートの前の駐車場の隅っこに自転車を停め、キャップを取り、腕で額の汗を拭った。
アパートの一階部分はドアが二つ。それとトイレらしきドアがあった。昔は青色に塗ってあったであろう、うっすい水色のドアに白いプレートが張り付いてる。そこにハゲハゲの黒い字。うっすら「便所」と読める。その横にはすりガラスのドアがあった。見ていると肌色の影が浮かび上がる。
あ、誰か出てくる。
直樹は咄嗟に、駐車場にある車の後ろへ隠れた。
「お前なー、ちゃんとシャツくらい着ろよ~」
「瀧本さんだって着てないじゃん。パンツすら履いてないクセに」
「わははは。はー……ちょっとさっきより風も涼しくなったんじゃないか?」
聞こえてきた声に直樹はギョッと青ざめた。二人は楽しげに会話しながら歩いていく。直樹に顔を出して確かめる勇気もなくて、うずくまったままで耳を大きくしていた。サンダルの足音。声はだんだん小さくなり聞こえなくなった。
結局声を掛けられなかった。なんて言えばいいのか分からない。直樹はガックリした気持ちで立ち上がった。
もう、帰ろう。なんか……すげー疲れた。
もう一度アパートを見た。二階へ続く階段はコンクリートだった。二人は階段を登って行った。
確か二〇五だったよね? とメモを思い返す。
二階のドアは四つ。手前、三つのドアは締め切っていて、一つだけ扉が開いている。
きっと、あの一番端っこの部屋だ。
暑いから、網戸にしているんだろうと考えながら、直樹はフラフラと歩みだし、階段を登っていた。
もし、この階段が歩くたびにカンカン音がする鉄製の階段だったなら登っていなかった。しかしコンクリの階段は静かだ。慎重に一歩ずつ上がる直樹の足音など誰にも聞こえない。
直樹の耳に届くのは近くの道路を通る車の走行音だけ。足音を忍ばせ、一番端の部屋へと近づいた。
足を踏み出すにつれ、会話が聞こえてくる。




