第一章:居場所
「この人、久し振りに見たなぁ……」
水瀬奏真は現在、三日間の停学処分中である。
SNSも動画もとうに見飽き、アプリゲームをする気力もない。
高校生の奏真にとって、自宅は全く楽しいものではなく、ただ時間ばかりがあり続けるだけ。気を紛らわせる娯楽はテレビくらいだ。
あてもなくテレビリモコンのチャンネルをポチポチと変えていると、玄関の向こうから物音がした。
ハッとした奏真が慌ててテレビを消す。立ち上がるのと同時に、無精ひげに咥えタバコの男が入ってきた。
母親の内縁の夫である島田邦夫だ。
島田は奏真の顔を見るなりチッと舌打ちし、奏真の華奢な肩をいきなり突き飛ばした。踏ん張ることができず、六畳二間を隔てる襖に背中がぶつかる。
ガタッ!
背中で襖が外れる鈍い音が聞こえた。
「呑気なもんだな」
平日にのうのうと過ごしている自分のことを棚に上げ、島田は奏真を罵った。
奏真は目を伏せ、歯を食いしばる。怒りを感じてはいたが、歯向かったところでもっと大きな痛みとなって跳ね返ってくることはもう学習していた。
島田は巨体ではないが筋肉質で、盛り上がった太い腕をしている。対して奏真は、母親に似て小柄で身長もお世辞にも高いとは言えない。色白の肌は太陽の日に当たっても赤くなってすぐ元に戻ってしまう。島田に対抗しようと筋トレに励んでみたこともあったが、体質のせいか二の腕はカチカチとは程遠く、いつまでもムニムニと柔らかいまま。奏真はいつしか悪あがきすらやめてしまった。
――俺はなにもしない――
歯をくいしばりながら、頭の中だけで決意を口にした。無反応な奏真の頭を、島田が上からバシッと叩いた。それでも俯いたまま微動だにしない奏真に苛立ったのか、島田は「ケッ。クソガキが」と罵声を浴びせながら襖に寄りかかったままの奏真の肩を掴み、引き倒した。奏真が体を支えようと、畳に両手を突いた途端、また平手で頭を叩かれる。
「好き勝手したいなら学校なんか辞めちまえよ。学生がいい気になりやがって」
島田はフンと鼻で笑ったが、奏真はそれにも黙って耐えた。
「シケた面してんじゃねーよ。辛気臭ぇ」
島田はポケットをまさぐり、新たにタバコに火を点けた。
古くて小さな部屋の中を、タバコの臭いが汚染する。
元は白かったであろう壁も、今やうっすらと黄ばんでしまっている。そんなことはお構いなしに、ヤニ臭い煙が奏真へ吹きつけられた。
次にコツンとなにかが頭に当たる。チリチリと痛みの残る頭で跳ねて落ちたのは、無造作に潰されたタバコの空箱だった。
なんなんだよ……。
残骸を見つめながら奏真は胸の内で悪態をついた。
潰れたタバコの空箱は、昨日まで一本抜いただけの、ほぼ新品のタバコだった。
全部吸いやがった――。
奏真にとって唯一の証拠品も、これでなくなってしまった。
殴られたことはどうでもいい。これくらいの暴力はとっくに慣れていた。在るのはやり場のない憤り。
島田が現れたのは、三年前。奏真が中学二年生の頃だ。
母親の愛人というだけで、多感な時期の少年には十分忌み嫌う理由になる。それに加え、島田は奏真の父とは全く真逆のタイプだった。
奏真が小学四年生の時に亡くなった父親は、優しく穏やかで品があった。
父親が生きていた頃は母親はいつも家にいて、手作りのおやつを用意して奏真の帰りを待っていてくれた。
そんな母が今では早朝から夕方まで近所のスーパーで働き詰め。都営アパートの家賃と、三人分の食費と光熱費を稼いでいる。
奏真の教育費は彼の死んだ父親の保険金でまかなわれていたが、それも微々たるものになりつつある。どうしても生活費で取り崩してしまうからだ。
そんな暮らしに、酒、タバコ代はもちろん、パチンコ代なんて出す余裕などあるわけが無い。
奏真が出会った当初は島田も建築の仕事をしていた。しかし不況で職を解かれてからは仕事を探す素振りさえ見せない。
貧乏なのに……。
ひとり働く母のヒモをしている男に、奏真が常に苛立ちを感じるのも当然のことだった。
いっそのこともっと派手な暴力を受けていればと、奏真はいつも思っていた。
骨折したり、ナイフで切られたり、アザができるほど殴られたりすれば、児童相談所でも、警察にでも奏真は訴えただろう。島田を追い出せるのなら使えるものはなんでも使う。しかし島田の行いはそういった公的な場所から相手にしてもらえない程度のものだった。
なにより島田を心の拠り所にしている母から島田を奪うことはできなかった。母が求めるのは父の存在の証である自分ではなく、島田なのだ。
奏真はそんな不甲斐ない己にも嫌気がさしていた。
ごめん、父さん……。
奥歯をギリッと噛み締める。
色褪せた古い畳。その一点の縫い目を見つめ、奏真は畳に突いていた両手の爪を畳におもいっきり立て、掻き毟るように握り拳を作った。
「お前を見てると気が滅入るんだよ。はぁあ……パチンコでも行ってくるか」
頭をボリボリと掻き、嫌味を吐き捨て、島田が部屋から出て行った。アパートの鉄階段を降りる足音が遠ざかっていく。
島田の気配が消え、奏真は握り締めた拳をゆっくりと開いた。じんわりした痺れとともに、手のひらに血色が戻ってくる。
えぐれたような爪の跡がついた己の手を見つめながら奏真は考えた。
ほんとうだったら、今頃みんなと一緒に……。