①-1 五月十五日 いつもと違う日
五月十五日 晴れ 汗ばむ陽気
「歩,買い出しにいくつもりではなかったの?」
三十代後半と思われる女性が顔を覗かせる。
嫌に硬い敬語を使うその女性は化粧が濃く,ドレスを着飾り,その華やかな布の前で手を重ねている。
歩と呼ばれた少年は掃除をしていた。棚の雑巾掛け。五月になったばかりのこの季節ではまだ寒いだろうに。その細い指は赤くなっていた。
「あ,そうでした。ありがとうございます」
歩は驚いたようにすぐ返事をした。
太陽が傾きかけた頃。
掃除道具の片付けに時間をかけてしまった歩は,自転車のペダルをいつも以上に早く回す。黄色い日差しを跳ね返さんと思われるほど綺麗に塗装されたアスファルトはペダルの跡さえ残さない。
一般的とは言わないが何の違和感も無い光景。
まだ五月前半だが微妙に汗ばむ気温の中,歩は急いで漕いで行く。
少年_____舘湧歩はとある屋敷の住人だった。
十六歳の彼は丁度六歳の時にその屋敷へ来た。
両親に捨てられ,行くところを無くした無一文の歩を,屋敷の長は快く受け入れた。
歩は愛された。
屋敷の長夫婦もその子供もその召使いも彼を愛し,信頼している。困りごとがあれば彼の元へ駆けつけ,不安ごとがあっても彼の元へ駆けつける。それを彼は一生懸命に聞き,何とかして解決する。
ずっとこの屋敷に……。
そう願う住人のなんと多いことか。
いや,歩自身もそれを願っている。所詮は拾い子。皆の前では平然を装う彼も,心の中ではいつか捨てられるのではないか,という不安に狩られている。
微妙に行動が固くなっているのは普通なら気づくだろうけど……。
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買い物。
自転車を使って二十分のスーパーは品揃えが良い。
玩具等があるわけではない。
野菜,果実,肉製品,魚製品,御菓子、氷菓子……
種類が多く,更に産地別で分けられている。また,
食品棚には食品に関する情報が飽きるほど書かれており,調理法まである。
退屈もしなければ世のお母様の味方だ。
特に人気なのは抹茶のケーキ。
ふわふわのスポンジにほろ苦い抹茶のクリームが,広い世代で人気を誇っている。ワンポイントで苺を入れるのがおすすめ,
「抹茶ケーキ,いつか食べられるかな……?」
歩は自分が捨てられた理由を分かっていない。
経済苦でもDVがあった訳でもない。歩の記憶にあるのは幸せで笑顔の絶えない温かな家庭。その中でも抹茶のケーキは特別濃かった。
幼少の子供は大抵苦手とする抹茶を歩が絶品だと感じたのは後にも先にもその一度きり。しかも彼はまだ普通の抹茶は苦手としている。
何度かあの喜びを思い出したいと例のスーパーの幾らかのレシピを使って挑戦しているが,一向に辿り着けていない。辿り着ける気配すらない。
とはいえ,歩の料理の腕は素晴らしいものだ。今では屋敷の食事は殆ど少年が考案して,専属の者と作っていると言っても過言ではない。
頼まれたメモを横目に今日の晩御飯を考える。
「今夜は西洋風かな……」
ブツブツ言いながら見慣れた食品棚を眺める。先に冷凍ブースへ行った。五月と言えど,自転車ダッシュは暑かった。
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「どんな思いで作られたんだろうな,あれ,」
汗が一通り渇いた歩の耳に,女性の会話が入ってきた。黒いジャケットに白いパンツをはいた女性。遠目だが,姿勢の良さと背の高さはよく分かる。透き通る美しい声は精肉コーナーから聞こえた。
「彼女も,貴女のような異常性格の塊には云われたくないでしょうね」
もう一人の女性が呆れたように返答した。こちらはクリーム色のスーツのような服装だった。黒ジャケットの女性ほどではないが,こちらも背が高く,できる女,という感じの貫禄があった。
「でも安心した。あんな残虐極まりない行為の動機が分からないなんて…貴女にも少しは正常な部分があるみたいで」
「あはっ,酷いね。それじゃまるで私が残虐非道の精神を痛めた殺人鬼のようじゃない」
何かの肉を取りながら話す黒服の女性に対し,どうせ思ってもないんだろう,と返すスーツ姿の女性は小慣れている。
「…それより,どうやって作るの。それこそ重要じゃない?」
「あぁ,それは簡単だよ。ほら他のは部分部分でしょ?それの使いにくい部分,切り除かれた部分…まぁ簡単に言えば要らないもんを寄せ集めだね。その辺まとめてこうなったんでしょ」
あぁ,と軽く返した黒服女性も小慣れてる。
「うぇ,楽しいの?それ,」
「楽しいからやってんでしょ,じゃないと一般精神で挑めるものではない。メッセージ性もなさそうだし……キャア,ゴン,ザク,ビチャ,グチャ,サク……そんなんじゃない?」
「相変わらず酷い説明ね,」
正直二人の会話は違和感を覚えるものだった。内容もそうだが,輝く様な姿見はより注目を集めている。
肉,寄せ集め,あたりの単語からひき肉の話でもしているのだろうか。とはいえ食材の前でする様な話ではない。
歩はじろじろと見るわけにもいかず,すぐにその場を去った。ほんの数秒の目撃だったが,その独特さは彼女らの姿,声を記憶させるのに苦労はなかった。
早く買って帰ろ……
不思議なものを見た歩は考えることをやめ,早く帰路に着くことを選択した。
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西の空が紅く染まった時間。
「ただいま戻りました」
出発が遅れた分帰りも遅くなっていた。
一分でも早く屋敷に戻れるよう頑張って走ってきた歩は肩を上下に揺らし息を切らしている。
おかえりなさい,と家の長は出迎え,召使に飲み物を持って来させた。よそられた水を飲み終えると,歩は厨房へ歩き出した。空調の整えられた屋敷は息を整えるには十分すぎる環境だった。
トトトトト,というリズミカルな音を食肉の焼ける音がカバーする。黄色い光が厨房全体を包む。舌の肥えた人間でさえ,美味しいと感じる歩の料理は好評で,その姿は板についている。
ただその日はその料理音に雑音が入った。
改装された真新しい廊下をズカズカと進む音だ。
場に似付かわない音は皆の注意を引く。
「失礼! ここに舘湧歩少年はいるかな!」
焦茶色の両開きドア壊さんとばかりの勢いで開かれる。そこには女性にしては身長の高い綺麗な人が立っていた。しかしその顔は帽子を深くまで被りみえなかった。
「困ります! いきなり部屋を出て行かれたら!」
後ろから屋敷の召使の方が焦った顔で言っている。走ってはいけない,は常識。さらに長は規律重視の完璧主義者。それをズカズカと走って来られては誰でも焦る。厨房にいる人も困った顔をしている。
「ふむ,どうやら私は邪魔者のようだ。では簡潔に。
私が君を引き取ろう! ……言いたいことは分かるな?」
引き取り…一度経験したことある動作であるなら意味は分かる。だが言いたいことは分からない。屋敷で暮らす歩は自らが不自由な人間だとは認識していない。引き取られる理由を理解していない。
帽子の女性は他の人に強制的に退出させられた。騒ぎは去った。ただ,彼女を記憶に残すこと,それはこの場に残った多くの蟠りが十分すぎる理由となった。
数分後,長が直接厨房へとやって来た。歩を連れに。帽子の女性といい長が来るといい,厨房内の雰囲気は焦りと緊張へと変化していった。
客人用の部屋へ通された歩は,一人の女性を目にした。
その女性は黒い髪を白いバンスクリップで留め,
紺色のスーツに灰色のフレアパンツを履いた40代前半くらいの方だ。隣の席には黒いスーツが置かれ,いかにも仕事感が出ている。
その女性は全く面識のない人。さっきの人とも全く違う風貌だった。
「歩,この方はあなたの遠い親戚の方よ。あなたを引き取りたいと仰っているの。」
「え……」
少年は唐突なるその言葉への理解に数秒をかけた。
そして歩ようやく引き取る,の意味を理解した。
但しこれは今の意である。親戚ならばその人の家へ行くということであろう。では先程の方の意はなんだったのだろうか。もしあの女性自身も遠い親戚にあたるならばあんなにも豪快な登場をしなくても良かったのに。
豪快な女性と対比するように部屋にいる女性は美しかった。白い肌に濃い口紅。どこか富豪の婦人と言われても違和感のない美しさを放っていた。
歩に見せる笑顔はふんわりと綿のようで,でもしっかりとしたものだった。
「戸惑うことも分かるわ。いきなり来られたら困るものね。でもいい子そう。こんな子がいたら我が家にも花が咲くというもの」
部屋には異様な臭気が漂っていた。貴婦人と貴婦人のかしこまりすぎた会話。相手の出方を伺っているような冷戦のようなヒリヒリといた空気。なによりも普段よりかしこまりすぎた長の様子。
そんなにも警戒すべき人間だろうか。
歩は少し悲しくなった。
綿のような笑みはまるで仮面であると悟ったからだ。館の長が紫の毒気を放っているとしたら,客は桃色の甘ったるい空気。どんな雰囲気の違う人間も,無駄に着飾った会話を作り出す。結局,皮膚の下は全く同じもの,ということだ。
「歩。この方は海外に住んでいらっしゃるそうなの。明日直ぐに立ってしまうそうよ。貴方はまだ若いのから,今のうちに多くの所を見て回るべきだと思うの。どう?」
歩は迷わなかった。
どうせ同じ性質の人間の場所なら,海外に行ってみたい,と思ったからだ。
「わかりました。直ぐに準備します」
一礼すると逃げるように,でもそれを悟られないように,丁寧に部屋を出た。
歩の荷物は少ないため,直ぐに荷造りが終わり,しかし部屋に戻れと言われた時間はまだ先なので,本を読むことにした。
それは同じ日本に住みながらも,自分とは全く違う生活を送っている人物の物語だった。自らの意思に従って自由に生きる主人公。バイクを走らせ,車を走らせ,好きな服を着て,好きな振る舞いをする。
世間一般では迷惑とされる行為でも堂々と胸を張って行う型破りな姿勢も,人が怖がる事でも臆せずに進むその勇敢な姿勢も,いつしか,少年にとっての憧れとなっていた。
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食事が終わった。
真珠のような白に金の装飾が施された食器は見慣れてる。高級そうに見えるが材料は近所のスーパーものだ。高級そうに見える食事にはソースが点々としているが,その意味はよく分からない。
普段なら食器洗いは歩がやるが,最後くらいゆっくりしなさい,とコックの配慮があって,部屋でゆっくりとすることになった。
ハンガーにかかった見慣れない黒いスーツは,この屋敷のメイドが置きに来たものだろう。明日の旅立ち用だろうが,長い飛行機にこんなきっちりしたものは正直着たくない。
こんな時,物語の主人公はどう行動するだろうか。文句を言うか,自らの手で改造してしまうだろうか。
そんな時だった。
「歩,歩!」
廊下から歩を呼ぶ声がした。長の声だった。普段から冷静な婦人が出さないような,切羽詰まった声。
「咲嬉ちゃんがいないのよ!」
数秒の空白の時間が発生した。
咲嬉とは,この屋敷の末の子で,長の子とは思えないほどの可愛さと純粋さを持っている。
そんな咲嬉がいない。幼いながらもしっかりとした良い子だ。無断でいなくなることは考えられない。
「もうこんな遅いのに! 歩,探してちょうだい!」
大声に驚いたように歩は部屋を出た。既に廊下にも他の部屋にも多くの召使いが慌ただしく走り回っていた。この屋敷にはそれなりに人がいる。こんな大勢で探して見つからないのなら,この建物内にはいないだろう。
外は絵の具を塗りたくったような黒だった。
屋敷を出てから早三十分。声を出し続け,走り続けたために一連の動作は意識の外になり,身勝手に動いている,何かの操り人形へと化していた。
公園のベンチはどこかの子供が遊んだのだろうか,プラスチックのバケツが置いてあった。思えば,今の屋敷に引き取られてから公園で遊んだことは無く,小学校も中学校も帰りは一人まっすぐに帰っていた。こんな形で公園に再開するとは思ってもなかった。
明日,歩はこの土地を去る。何も知らないまま。両親に捨てられた理由も,あの屋敷のことも,明日から暮らす家のことも。何も。
少年の空虚感は黒い画用紙だった。
雨が降る。
風も吹いてきた。いつの季節もこの時間は冷える。
今,ここでいなくなったら,誰か心配してくれるだろうか。そのまま,目を閉じた。
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「大丈夫かい? 少年,」
暗闇の中,顔を打つものがなくなった。そして,話された。影で見えぬが口元は,ふわりと笑っていた。
ただそれは爽やかで,かの甘ったるさを払拭するようだった。
少年の心を黒い画用紙とするならば,この女性は,
白い絵の具だろう。
(当時の少年は何を思ったのだろうか。この考えを否定する日が来ることを,まだ知らない。)