第9話 現実に満足できない理由
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ずっ……と洟を啜る音が体内に、大きく響く。しゃがんでいた高遠笑巳子に気が付き、優利はすっと立ち上がった。
「付き合わせちゃったな。戻っていいよ」
キャンギャルチックなミニスカートに気が付く。ホログラムだから、自由に変えられるらしい。
『――今度会ったら、エミって呼んでくださいね。お気をつけて。狼に食べられちゃいますよ』
まだバグがありそうなアンドロイドに手を振って、人気もまばらな地下鉄に向かう。まるで人がいない。西新宿界隈は、どうなってしまったのだろう。ここには、大きな会社がいくつも隣接し、センターがひしめき合っていたはずだ。
『ヒロ』
小さな声に振り返ると、エミが付いて来ていた。
「なあ、どうしてここ、こんなに人が少ないんだ? だからかな。夕日が大きく見える」
今日の終わりの耀の中、アンドロイドと会社志願者。変な組み合わせだが、ひとりよりはずっといい。オレンジ色の、今日の終わり。
エミは目を遠くに向け、切ない口調になった。
『5G都市化計画の名残です。以前は、この場所は人が溢れかえり、朝晩拘わらず、騒動が絶えず、大変だったと聞いています。自治体という小さな組織を最初に、テクノロジー化を推奨し、続いてリモート・ビジネスが台頭しました。いまや、人の寿命は150を超え、肉体の衰えを解消する急務に向けて、我々キャッスルフロンティアKKは百年後を繋ぐため、テクノロジーとメディカルを繋ぐ架け橋となったわけです』
最後には会社のうんちくになった説明は、分かりやすかった。無人化を推奨した流れで、人が消えたのは分かる。リモート・ビジネスは「住みながら働く環境」。
優利の自宅もその一環だ。
「ありがとう。狼に食べられちゃう、は女の子に使うんだよ、高遠さん」
もう一度見上げてみたが、がっしりとした社屋は、暁月優利という存在を拒んだ悪の巣窟にしか見えなかった。
とぼとぼと階段を降りて、地下鉄に乗る。無人の地下鉄は貸切状態で、人の接点はない。頭を真っ白にしたまま、日本橋に向かうことにした。
日本橋には、白幡胡桃の実家、「七味庵」があるからだ。
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「七味庵」に辿りついて、財布を探ると、有り金は僅か。頑固な店主は近代化の電子マネー支払いを拒み、硬貨での営業を続けている。カードを仕舞って、昔懐かしい券売機に百円玉を五個入れた。
『おそばやさんのカレーうどん』の券を買って、そろりと暖簾をくぐった。白幡定食と書かれた黒板には、夜の呼び込みのためのビールの絵が描かれている。
(これ、描いたの胡桃だな)
胡桃はなんでもキラキラのマークをつける。看板娘として働いているはずだが。兄貴のほうに見つかると……。
「……ヒロ坊、何しに来た」
早速見つかった。料理服の似合う胡桃の兄、白幡向日葵(注:男、リス好きな母親により命名。胡桃も以下略)に肩を竦めながら、優利はカウンターに座った。胡桃や優利より二年上の大学三年生(浪人歴あり)。そこそこモテそうな顔をしているが、多分彼女はいないだろう。極度のシスコンである。
胡桃と付き合うと聞いた瞬間のパンチはまだ頬に甦りそうな強さだった……。
「またカレーうどんか」笑われつつ半券を渡し、「胡桃は?」と聞く。ぎらりと包丁を構えた向日葵兄は「胡桃だと?」と見事なシスコンぶりを露わにした。
「部屋にいるよお。胡桃はぁ! ごはんも食べないで! あの子拗ねると長いからあ!」
「母さんの声でけーから。……泣いていたの、おまえのせいだったりしないよな」
「俺だろうな。いいよ、喰ったら逢って帰る。俺、今日面接だったから、構ってやれてねぇんだ」
目の前でお玉を持ち上げる胡桃兄の前で、沈みそうになるを堪えて、カレーうどんを流し込んだ。考えたらエナジードリンクしか体内に入れていない。時折恋しくなるのは、いつでもこの店のうどんだった。
年末には、よく胡桃と並んで食べたものだ。はふはふしながら胡桃は優利を観ながら食べるので、よく食べこぼす。さすがにその癖は治った様子だが。今は父親と息子が切り盛りしている日本橋の有数の有人定食店である。
「面接? ああ、いよいよか。就活して一流企業に勤めてまともな男になって見せろ。そうしたら胡桃はやってもいい。年収仮想通貨で……」
声を聞きつけて、胡桃が降りて来た。確かに目が真っ赤だ。むすっとしたままスタスタと店に出て、優利の隣の椅子を引いた。
「あたしにも、それちょーだい。お兄ちゃん」
同じものを注文してカウンターの横に座る。
「あのさ、胡桃」
「うどん、冷めるよ。残すとお兄ちゃんが包丁持ってこっち見る」
そそくさとうどんに戻った。「ほら、甘口な」胡桃用の白いどんぶりが出て来て、胡桃はやけくそのようにうどんを啜り始め、一度休憩の箸休めに入った。
「あたしとの時間を蹴ってまで受けた面接、どうだったのよ」
「うん……俺、また失敗した。昨晩VGOやってたんだけど、相手が運営の面接官で、負かしてしまったんだ。多分、断られただろうな」
「ふーん」
聞いておいて、胡桃はアプリゲームに夢中になった。お客が少ないからか、ニーハイを履いた足をふわもこのケープで包んで、パーカーは短め。ちらちらと動く睫毛や、ふわんと緩んだ頬が愛らしい。
時折耳掛けしては落ちる柔らかい髪は、VRでは見られないものだ。
「で、ピザのバイト続けるんだ」
「いや、店長と喧嘩したから」
「なんで。あそこのピザ美味しかったのにな」
「いや、VGOがやりたくて、気が付いたら喧嘩売ってた」
しばし、二人の間に木枯らしが吹いた。ぴこぴこと胡桃のスマートフォンでは、猫がよく動いていた。せっせと薪を運んでいる。そうやって下働きをすると、特製の煮干しがもらえるからだが、それより城の横に立っているオス猫を誉めたほうが、殿様にぼしをくれる……なんて攻略はこの際いい。
「さすがに、疲れたよ」
「ゲームのやりすぎ」
胡桃に寄り掛かって、目を閉じた。ちら、と向日葵兄がこっちを見たが、また背中を向けた。じゅおー、と焼きそばのソースの匂い。
どうして、《《こっち》》で満足出来ないのだろう。
胡桃が好きだ。なのに、どうして、僕は、彼女を差し置いて、ヴァーチュアス・ゴドレス・オンラインに向かってしまうのだろう。
そして、僕は、胡桃がヴァーチュアス・ゴドレス・オンラインに入ってくれたらなどと、考えてしまう。あの、苛酷な世界で一緒に生きていきたいと。
でも、今日はさすがに|ヴァーチュアス・ゴドレス・オンライン《VGO》は考えたくない。やはり、ゲームと現実を繋げるべきじゃなかった。居場所を自分で無くしてしまったんだ。
そう思った時、胡桃に逢いたくなった。勝手だよな。
「胡桃」
手に触れると、胡桃は真っ赤になった。暴露するが、胡桃との恋愛度はまるで0。幼なじみともなると、そうそう壁を越えられない。
「ん」と胡桃が顔を向けた。「んー」と甘い声を出して、せがむように目を閉じる。少し顔を傾けて、頬の柔らかさに指を離し、また添えた。
今日こそいけるか? お互いカレー食ったけど。
がんガンガン、ドドドドドドド。ダンダンダン! 兄の嫌がらせに近い威勢のよい包丁さばきに正気に還った。
言葉が出ないまま、頭から湯気だけ出して、胡桃の両肩を掴み、遠ざけた。
「悪い、血迷った」
「血迷ったぁ? あんたねぇ……」胡桃はわなわなと唇を震わせて、片手を上げた。
「――この、いくじなしのゲームヲタクっ!」
面接失敗の夜、優利の頬にはとどめとばかりに盛大な手形がついたのだった。
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