第8話 樋口さんとお寿司2
見慣れた二階建ての樋口家の外観。敷地内には何度か踏み込んでいる。隣は虎家、つまりボクが住んでいる家。
横を見上げると、背の高い、長い茶髪を二つ結びにした日向さんが、そわそわと落ち着かずに辺りを見ている。
同じく、ボクも落ち着かない。樋口さんの家に入るなんて、そんな日がくるなんて思いもしなかった。
「どうぞ、お入りください」
玄関の扉を開けて内側から顔を出した樋口さんは、準備が整ったみたいでボクと日向さんを招く。
身体が強張る。樋口さんほどじゃないけど表情筋が硬くなる。
初めて、樋口さんが普段過ごしている家の中へ入り込んだ。
最初に目に入ったのは、樋口さんが、板前の白い制服を着ている。両手にある白い帽子を、そっとかぶる。
「お、お邪魔します」
「し、します」
「いらっしゃいませ。こちらへご案内します」
お辞儀をして、樋口さんはスリッパを二人分、用意してくれた。ボクと日向さんが履いたのを見た後、樋口さんに奥まで案内される。
入れば、親の趣味かキッチンに併設されたカウンターは掘りごたつで、突板は鏡のように磨かれ、つやつやに輝く。
キッチンにはクーラーボックスが置いてある。
「おかけください」
座布団が用意されている場所にぎこちなく座り、背筋はすっと伸びて膝に手を置く。
座ると日向さんはボクと同じくらいになる。少しホッとしてしまう。
日向さんはボクの視線が気になったのか、弱々しい目をボクに向けた。それは一瞬で、すぐに顔を戻す。
樋口さんは綺麗、日向さんはどっちかというと可愛い。この前二階堂君に可愛いって言われて赤くしてたし、褒められ慣れてない感じが、また可愛いと思えるのかも。
ボクも正面に顔を戻すと、
「……」
樋口さんの吸い込む勢いがある漆黒の瞳がボクを捉えていた。
表情筋が硬いせいで、感情が読み取れない。
「樋口さん?」
声をかけると、樋口さんはお辞儀をして、クーラーボックスから短冊となった赤身のマグロを取り出した。
小さな寿司桶に酢飯もある。
「もしかして朝から準備してたの?」
「いいえ……お母さんが突然、朝早くに市場へ行ったそうです。その時のお土産です。今、二階で寝ています」
樋口さんのお母さんは家にいるようで、朝早くから市場に行くという行動力。遺伝かな?
「それでは、これが」
そう言って樋口さんはクーラーボックスから袋ごと何かを取り出した。
「握り寿司です」
出てきたのはパックに詰められた握り寿司で、マグロやサーモン、タイ、やりいか、玉子、アナゴ、いくら。
「いや、握るんじゃなかったの?!」
思わずボクは大きな声で突っ込んでしまい、日向さんは驚いで身をびくり、と震わした。
「冗談です。アイスブレーキングというものです。どうぞ、握っている間に食べてください」
樋口さんは刺身包丁でマグロを切っていく。
「食べていいの?」
「はい、お父さんの夕食ですが」
「ダメじゃん。ね、日向さん」
声をかけると、日向さんは気弱に微笑んでボクに頷く。
左の指先を曲げた間接に包丁を当てながら、慣れた手つきで切った後、今度は手に水をつけ、酢飯を柔らかく掴んで微調整をしている。
「ワサビはつけますか?」
「う、なしで」
あの独特な辛さがどうにも苦手。
「日向さんはどうしましょう?」
「えと、わたしも……なしで」
というか、樋口さん訊いてくれたけど、カウンターから見る限りどこにもワサビは置いてない。
「樋口さんもワサビは苦手?」
「はい、樋口家はワサビをつけません」
じゃあそもそも家にないじゃん。
切ったばかりのマグロの上に酢飯を乗せて、親指を動かしたり半回転させたり、最後に締めるようにぎゅっと握って、真っ黒に光沢のある長皿に握った寿司、マグロと他のネタを並べていく。
「ホントに握れるんだね、樋口さん凄いよ」
樋口さんは恐縮です、とお辞儀。一体どこの板前で体験学習なんてさせてくれたのだろう。
きっと樋口さんの不思議な魅力がそうさせたのかもしれない。突然現れて、他者の目を奪う樋口さんは良い意味で異質だ。
日向さんは尊敬の眼差しで樋口さんに柔らかく微笑んだ。
「す、すごいです。樋口さんはなんでも、できるんですね」
「いいえ、私はただ楽しいことをしているだけです。楽しくないものは、苦しいので……どうぞ召し上がってください」
ボクと日向さんは両手を合わせて、いただきます。
生臭さなんてない、酢飯も、小学校の時父さんと一緒に行ったちょっと高めの鮨屋さんを思い出す。
「樋口さん美味しい……よ」
感想を伝えようと顔を上げたら、樋口さんは冷蔵庫から取り出した市販のカスタードプリンを食べていた。
小さな口に小さなスプーンでプリンを掬って運んで。
樋口さんて、本当に自由だなぁ。
隣では、綺麗に箸でお寿司を口へと運び、静かに食べている日向さん。上品に映える横顔は、ほんのり赤い。
美味しいという言葉がなくても、綻ぶ口と目から伝わる。
あまりまじまじと見るのは良くないかな、ボクも食べることに集中する。
「日向さん、元気出ましたか?」
「あ……は、はい。ありがとうございます、樋口さんのおかげで」
柔らかく太陽のように微笑んだ日向さん。
「なら、私も嬉しいです」
そうは見えないけど、本人が言うのだから間違いない。傘を投げられた最近の記憶が浮かぶ。
あれは笑ったのがいけなかったのかな。
「おはよぉー、あれ?」
眠たそうに欠伸をした声と共に入ってきた女性は、ボクと日向さんを見て動きを止めた。
短いボブヘアで、樋口さんよりも小柄、表情筋は硬くない様子。
「おはようございます、お母さん。もう夕方です」
樋口さんはお辞儀をして、カスタードプリンを引き続き食べる。
「あら、あらららら、隣の虎さんとこの息子さん? この前言ってた転校生のひかりちゃん?」
寄ってきた樋口さんのお母さんはボクと日向さんを交互に見ては、確認するように訊ねてきた。
「は、はい、お世話になってます」
ボクも日向さんもそう返すと、にこやかに満面の笑みを浮かべ、
「どっちも可愛い顔してるねぇーうちの娘と大違い! もうなんでかお父さんと似ちゃってさぁ、あ、でも娘もお父さんも可愛んだけどね!」
圧倒的な勢いで喋る。
「お母さん、お寿司です」
樋口さんは、さっきお父さんの夕食だと言っていたパック寿司を持った。
「ありがとーってそれお父さんのじゃない、あーでも、作ればいっか。いただきます! うちの娘変わってるでしょー結構ほっぺ揉んだり、つねったりしてほぐすけど、お父さんと揃ってずっとあんな感じだからそれがまた面白いのなんの! じゃあゆっくりしててね!」
遠慮なく受け取った後、嵐のように去っていく。
まぁ……家に無表情で静かな二人がいれば、そりゃたくさん喋るの、かな?
「元気なお母さんだね」
「はい……元気な人です。私に、楽しさを教えてくれる素敵な人です」
ボクと日向さんは、自然と笑みが浮かんだ。
「わたし、やっぱりちゃんと自分で断ります。樋口さんに元気貰えて、樋口さんと友達になれて、嬉しいです」
「……なによりです」
お辞儀した、樋口さんはどこか優しさに溢れる雰囲気が漂った。