第6話 樋口さんとシャボン玉
雨がしとしと、せっかくの土曜日も雨、連日。気だるさと蒸し暑さがぶつかり合い、ボクは瞼を開けてスマホの時計を眠たい目に映す。
午前六時半。全然二度寝ができる。仕事ばかりの母さんも今日はさすがに休みの日。ほぼ年中ゴロゴロしてる父さんとは大違い。あーでもニートじゃなかったや、そんなこと言ったら怒られそう。
まだ寝ているような気分で身体を起こし、カーテンを少しだけ開けてみた。
濡れている窓の外側は曇り空が広がり、一層気分が落ち込んでしまう。
樋口さんもさすがにまだ寝てるかな。何気なしに隣の庭を窓から覗いてみると、レインコートを着た誰かがいる、顔は分からない。
片手に小さな容器を持ち、もう片方にストローを平行に添えて、口に銜えている。
ボクは眠たい気分を跳ねのけて、濡れても平気なシャツとズボンを選んだ。
歯を磨いて、頑丈な黒い傘を持って、ボクは外に出た。
傘を差してから隣へ。
樋口家の庭で、いくらフードを被っているとはいえ前髪が濡れているのに平気で薄い透明な膜を膨らませた。
それは放たれ、小さな雨粒に当たっても割れず、空気中を舞う。落ちても半円となって庭の芝生にしがみついている。
表情筋がとにかく硬い樋口さん、端正な顔立ちだけじゃ説明がつかないほど思わず、綺麗、と漏らしてしまうほどのなにかを持つ。
「樋口さん、おはよう」
道路から樋口さんに声をかけてみる。
なんでも吸い込みそうな漆黒の瞳がボクを見た。
レインコートはすこしぶかぶかで、ボタンが横に二つ並んだデザイン。クールな雰囲気が漂う色合い。
「おはようございます、トラさん」
お辞儀をしてくれたので、ボクもお辞儀で返した。
「入ってもいい?」
「はい」
許可をもらい、樋口さんの庭へと小さな門から入る。
「こんな朝からなんでまたシャボン玉を飛ばしてるの?」
「はい、雨の日はシャボン玉が割れにくいと、ネットの記事に書いてあったので」
多分、もっと早くに記事を見つけて、気になってすぐに起きたのかもしれない。だとしたら本当にすごい行動力。感心する。
「そうなんだ……でも風邪引くと心配だから、せめて屋根があるところでした方がいい、かな」
樋口さんの頭上を傘で覆う。
すっぽり、ボクと樋口さんでちょうどぐらい。
「はい、あ」
何か新しい発見でもしたような、あ、を漏らした樋口さん。
「どうしたの?」
首を傾げて訊ねてみる。樋口さんは無表情で首を横に小さく振る。
「いいえ、なんでも」
樋口さんは傘の下で再び、液体が入った容器にストローをつけて、反対側に口をつけて息を吹きかける。
小さなシャボン玉がいくつも出来上がり、雨が邪魔をして遠くに飛ばず、近くに落下。それでも割れず、芝生や壁、葉につく。
「あまり割れないようですね」
「気になったことは解決できた? その、楽しい?」
樋口さんはボクを吸い込む漆黒の瞳で見上げる。しっとり、雨で微かに濡れた無の表情が映え、美しさに見惚れてしまう。
「はい……ですが、楽しそうに見えませんか?」
「え?! えぇと、その」
「私の顔は、どう見えますか?」
どう答えたらいいのかな、無表情だってはっきり言っていいのかな。樋口さんは自分の表情筋が硬いと自覚していない?
「えーと、とても、とても……とても」
無垢に求める漆黒の瞳に、どんどん言いたいことが言えなくなってきた。
「た、楽しんで、ます」
はっきり目を合わせられない。
「……」
樋口さんは、容器にストローの先端を強めにつけ、ボクに向かって吹きかけた。
無数の小さいシャボン玉が傘の中で溢れる。
ボクの顔にくっついて、身を捩じらす暇もなく全て受け止めてしまい、視界が泡に支配された。
「うわ、わあぁ!? ひ、樋口さん、いきなり何するの?」
空いている片手でシャボン玉を払う。
漏れる微かな吐息が一瞬だけ聞こえた。
急いで全てのシャボン玉を取り払うと、ストローを持っている樋口さんが硬い表情筋のまま見上げている。
ボクはなんとなく、ムッとなって樋口さんからストローを奪う。容器の中につけて、ボクは樋口さんに向かってシャボン玉を吹きかけた。
ただ、樋口さんのように上手にシャボン玉は作れなくて、少量だけど樋口さんの顔や前髪にくっつく。
いつも無表情の樋口さんに、泡がつくだけで間抜けに映る。
「ぷっ、ははっはは!」
ボクは思わず笑い声をあげてしまう。すると、樋口さんはボクから傘を取り上げた。そのまま庭の芝生に畳んで投げ飛ばす。
レインコートもないボクの全身は、雨に濡れていく。
「ごめんなさい」