第4話 樋口さんと固いプリン
卵と牛乳、足りなかったのはこれくらいかな。カゴには父さんに頼まれた食材の他に、ボクがこれから使う材料を目で数えながら、心の中で頷く。
グラニュー糖とかはまだ余ってたし、砂糖もある、バニラオイルもある。容器は家族分と予備がある。
母さんから今日の午後には帰ってくるって連絡があったみたいだ。長い出張から新居に初めて帰ってくる。
なんていうか、緊張するなぁ……まともに喋る機会が少ないせいかもしれない。
知ってることは、甘い物好き、でもコーヒーはブラック派。
カゴを持ってレジに行くと、どうしてか一つのレーンだけ、長い列ができて、研修中と貼ってあるのに並んでいる。しかも男性ばかり。
なんだろう、そう思いながらボクは列のないレジに行く。
計算してもらっている間、気になって長い列のレジに顔を向けた。
そこには、店員の緑っぽい制服を着てエプロンをかけた樋口さんが、レジをしている。
切りっぱなし黒髪ボブヘアでサイドを耳にかけ、吸い込まれそうな漆黒の瞳で相手を見つめ、かなり硬い表情筋で接客中。
「合計一二五六円になります」
「あ、は、はい」
急いで会計をして、ボクはお釣りをもらって、カゴをカウンターに運んだ。それからもう一度、樋口さんを覗く。
見守っている店員に教わりながらレジをこなす樋口さんの横顔に見惚れてしまう。
あんなに無表情なのに、嫌な感じはなく、無愛想でもない。心から綺麗だと思わせる何かと、不思議な雰囲気に包まれている。
列に並んだ人たちはまともに支払いができないくらい釘付けで、胸が嫌にざわざわと騒ぐ。
時計を見つめる店員さんは、大きく頷く。
「もうすぐ時間だからあがっていいよ。樋口さんありがとね」
店員の言葉に、がっくり、と肩を落とした人達は、目当てがなければと簡単に散った。
ボクはエコバッグに買った食材をゆっくりと詰める。あがるってことはもう帰りなのかな。ちょっと待っていれば一緒に帰れるかもしれない。
数分かけてエコバッグに材料を入れて、ゆっくり外に出た。
「おはようございます、トラさん」
「あ! お、おはようございます」
目の前でお辞儀している樋口さんがいて、ボクは思わず驚いてしまう。
「お買い物ですか?」
「うん、樋口さんはここでバイトしてるんだね」
樋口さんは硬い表情筋のまま、
「いいえ」
口で否定する。
「え、じゃあなんでレジに?」
「興味があって、お願いしたら一時間店員として体験学習をさせてくれました」
樋口さんは一時間の報酬として、ホットケーキミックスを貰ったみたいで、手に持っている。
優しいスーパーというか、樋口さんだからかもしれない。
自転車のカゴにエコバッグを入れて、押しながら樋口さんの隣を歩く。というか、樋口さん歩いて来たんだ……。
「そ、そうなんだ」
「トラさんは、料理を?」
「ううん。ボク、趣味で洋菓子とか作るんだ。今日はカスタードプリンを作る為に材料を」
「手作りで、カスタードプリン……」
「うん。家族の分もね。樋口さんは?」
家は隣同士でクラスも一緒だけど、意外と何も知らない。
自動車が通るたびに吹く風で、毛先が揺れる樋口さんの横顔は真っ直ぐ前を見つめている。
「料理はあまり、ですが」
「ですが?」
「……お寿司を少々」
「うん」
「握れます」
なかなか家で握り寿司ってないよ。
「へ、へぇ。それはもしかして、今日みたいな」
「はい」
無表情なのに、なんだか楽しそうに映る。
学校の登下校よりも長めの時間、樋口さんと一緒に帰れて嬉しい気分。
樋口さんは自宅に行かず、虎家の表札の前で立ち止まる。
硬い表情筋のまま見つめてくる漆黒の瞳はボクを吸い込む。
「ど、どしたの?」
思わず裏返る声。
「カスタードプリン……作ってみたいです。一緒に」
「え、えええ!? そ、それは、まだ、早いんじゃないかな?!」
裏返ったままボクは、拒否をしてしまう。
「まだ、早い。そうですか」
あっさり、潔く、無表情のまま。
一緒に作るというチャンスだった。でもでも、家に上げるのはさすがに恥ずかしい。散らかってるし、父さんがゴロゴロしてるから邪魔だし、とにかく色々と困る。
「ご、ごめんね。カスタードプリン、樋口さんの分も作るから、あとで持っていくよ」
「分かりました。楽しみに待っています」
楽しみ、そう言いつつ表情筋は硬い。
お辞儀をして家に帰っていく樋口さんに悪いことをしてしまった。ボクは急いでキッチン向かい、カスタードプリンを作る……――。
ケーキとか作るより簡単だから、すぐにできる。
ボクは容器に入れたほろ苦いカラメルソースとクリーム色の生地を入れて、大きめのフライパンに並べて熱湯を入れた。
布で包んだ蓋をして、火をかけて待つ。樋口さんの為に。樋口さん、喜んでくれるといいなぁ。
甘いの好きかな、苦めだったらコーヒー系のゼリーとか? ビターチョコとか使うケーキもありかな。
時間を待って、火を止めて、余熱を待って、冷蔵庫に冷やした。完成するまでボクはキッチンから離れることができず、そわそわと、時々お茶を汲みに来る樋熊のような父さんに不思議がられ、ボクは軽くいなした。
父さんが部屋にいるだけで凄い圧迫感。身長、確か二メートルはあるって言ってたかな。ボクにその遺伝子は貰えなかったや……。
冷蔵庫を開けて、冷えたのを確認し、ボクは急いで容器に入れたまま樋口さんの家に急ぐ。
逸る気持ちを抑えながらインターホンを押してみる。
返事よりも扉が開き、樋口さんが何かを抱えて出てきた。小袋に入れた何か。
「お待たせ樋口さん。あの、さっきはごめんね。また、ボクの準備ができたら一緒に作ろっか」
「はい、ありがとうございます。これをどうぞ」
カスタードプリンが入った容器を渡して、代わりにと小袋をくれた。
「あ、ありがとう。これは?」
水玉柄の紙袋で、中身は見えない。
「先程頂いたホットケーキミックスで、カステラを作ってみました……不慣れなので、あまり」
もじもじ、と樋口さんは俯く。樋口さんがボクの為に、作ってくれたカステラ。それだけで胸が痛いくらい嬉しい。
「作ってくれたの? すごく嬉しい、早速食べてみるよ!」
「あの、トラさん」
帰ろうとしたボクを呼び止めた樋口さん。
「外で、食べませんか? 外は一段と美味しいです」
ボクの顔、にやけてないかな? 表情筋の硬い樋口さんは、無のままボクを見つめる。
「う、うん!」
樋口家の庭でボクは丸いカステラを、多分たこ焼き器で作った甘いカステラを頬張った。すっごく美味しくて甘い。
樋口さんは家から持ってきた平皿にカスタードプリンを移し替えて、スプーンで小さな口に運ぶ。
「とても濃厚、美味です。カステラは如何ですか?」
「うん、美味しいよ!」
ボクの笑顔に対して、樋口さんの表情筋はとにかく頑丈。
「今度は……お寿司を握ります」
ぐっ、と決意を込めて拳をつくった樋口さんだった。