第1話 樋口さんとヴィーガンバーガー
朝、登校時間。ボクは靴を履いて、行ってきますと呟いた。
父さんの仕事部屋から「気を付けて行ってこいよ」ぶっきらぼうな、雑な感じが残る明るい返事が聞こえる。
ボクは玄関を開けた。小さな門を越えて、歩道と道路の境目がない道に出れば、同じタイミングで家から出てきた同級生の、樋口さん。
春風に毛先が揺れる切りっぱなし黒髪ボブヘア、サイドを耳にかけて、端正な顔立ちとなんでも吸い込んでしまうような漆黒の瞳がボクを映す。彼女は誰よりも表情筋が硬い。
「おはようございます。トラさん」
同級生のボクにお辞儀する樋口さんに、つられて会釈をする。起伏のない声。でも、無愛想じゃない。両手には包み紙を持ち、半分バンズのような物が見えた。
「おはよう、樋口さん……えと」
気にしない方がいいのかな、それとも突っ込みを待っているのか、上下のバンズに挟まれたレタスと、トマトと、緑のペースト状がかかっていて、あとはパテ。
朝からハンバーガーとは、そんな小さな口で頬張れるのか心配になってしまう。あと、お腹とか壊さないのかな。
樋口さんは静かにシャキっと音を立てて、小さな口に運んでいく。朝ご飯、なんで家の前で食べてるの? 家族とケンカしたの?
別のことで心配になってしまう。
「樋口さん、それ、朝ご飯?」
唇についたリップのような照りと緑のペーストが少し上唇に付着。隙間から伸びた舌で舐めとる仕草に、ボクは目を逸らした。
何度かもぐもぐと口を動かして、飲み込んだ後、
「はい」
ボクの問いに必要な返事だけをしてくれた。
「そ、そうなんだ。そのペーストはなに?」
どろどろの鮮やかな緑には少し形が残っている。多分、野菜なのだろうけど、ピンと来ない。
樋口さんはボクに包み紙を向ける。小さく掘れたバンズと具材達がボクの前にやってくる。
「どうぞ」
「えっ?!」
食べてみろ。そういう意思表示、でもボクは不衛生とかじゃなくて、これってある意味間接モノではないかと思ってしまう。
ボクは樋口さんの顔を視界に映してみた。残念ながら何を考えているのか分からない無を貫く表情筋しかない。
ここで意識するのは、なんだか負けた気分。
待たせたらダメだ、ボクだって男なんだから気にしたらダメだ。包み紙を受け取る。
ボクは思い切って口を開けて、ハンバーガーに食らいついた。
甘みのあるトマト、ペースト状のやつはクリーミーで濃厚な舌触り。
「もぐ、んぐ……んー、あ、アボカド?」
「正解です」
親指を上向きに立て、英語圏で肯定的なサムズアップをしてくれた。
「ありがとう。ごめん、結構食べちゃった」
ボクは意識しないように、気にしてない感じで樋口さんにハンバーガーを返す。
「いえ、大丈夫です」
樋口さんは静かに半分まで到達してしまったハンバーガーを見つめている。もしかして、怒ってるかな?
「足りなかったらコンビニに寄る? パンとか買ってくるよ?」
お小遣いはまだ大丈夫、ある。
「いえ、ヴィーガンバーガーは売っていませんので」
樋口さんはそう呟いた後、半分になったハンバーガーをかじった。
ビーガン、バーガーってなんだろう。
食べたけど、カフェやチェーン店で売ってるハンバーガーと変わらない。
「そ、そう? それと樋口さん、食べ歩きはちょっと。食べ終えたら学校行こうね」
「……はい」
まさか樋口さんとハンバーガーで間接してしまうとは。
小さな口でかじる度に濡れる瑞々しい薄桃色の唇、舌で舐め取る仕草を見続ける。至福のような、ある意味拷問のような、ふと目が合う。
無表情なのに澄んだ瞳はボクを吸い込もうとして、自然と体温が上がってくる。
ボクは熱い顔を見られないよう俯いた。
「樋口さん、どうして外で食べてるの? なにか、あったの?」
ごくん、小さく喉を通る音がよく聴こえた。
「外で食べると、本当に美味しいのか実験です」
樋口さんは相変わらず無表情で変なことを思いつく。
「美味しい?」
「はい……とっても」
美味しいと感じるのに、横目で覗いてみたけど彼女は笑わない。美味しいなら口元や顔も緩みそうなのに、表情筋はがっちりと硬かった。