嫌だ
山奥に一人の老人が住んでいた。老人は若い頃は大都市で真面目に働いていたが、あまりの忙しさに嫌になって、山奥に一人住むようになったのだ。
ある雪の降る寒い日、若い男が家にやってきた。
「家に入れてもらえませんか!」
男は激しく戸を叩き、老人を呼んだ。
「これはこれは寒い中、大変だったでしょう?さぁ、中にお入りなさい」
老人は、震える男を家に招き入れ、お茶を出した。
「あなたは、あの都市のお人ですか?」
「そうです。今回はこの山の調査でして、来たものはいいものの、この雪で……でも、嫌な顔も出来ませんしね」
しばらく団らんしていると、調査員の男は都市での暮らしを喋り出した。
「今の都市はとても良いですよ!とても忙しいですが、誰もが皆、嫌な顔一つ見せずに働いています」
「それはすごい!私が務めている時は、しょっちゅう嫌な顔をしていたものです」
老人は嫌な顔をしてみせた。すると、男は青ざめた顔になった。
「何ということだ。こんなところに生き残りがいたなんて……」
「どういったことなんでしょうか?」
老人は恐る恐る聞いた。
「都市では政府により、誰もが嫌な顔をできない薬を打つことになっているのです。それは、今では生まれてくる子供の頃から打たれるのですよ」
さらに男は続いて言う。
「でも、嫌でも仕事をしなくてはいけないこの世の中で、顔に表情が出ないのはとても助かっています」
老人は思った。都市ではそんな恐ろしいことが行われていたのかと。
「それでは、嫌なことを嫌だと言えないのと同じではないか……」
老人は二度と山から下りることはなかった。