第九十八話
『…この感情は不要だな。計画の支障となる』
ある時、サマエルはそう判断して『それ』を破棄した。
それは善なる者に対する『嫉妬』の心。
神の祝福を得た者達全てに対する妬みの情。
憎悪や憤怒はともかく、コレは不要である。
憎しみや怒りは前へと進む感情だが、妬みは足を止める感情だ。
そう考えたサマエルは、自らの心から『それ』を抉り出した。
『………』
捨てられた感情は、サマエルの力の一部を引き継いで命を得た。
アンドラス、と名付けられた女は最初の悪魔となった。
後に生まれる悪魔達とは異なり、サマエル自身の感情から生まれたアンドラスは誰よりもサマエルに近い存在だった。
人類を滅ぼすと決めたサマエルの決定にも共感し、従順に従い続けた。
『…呆気ない』
サマエルの命令に不満を抱いたことは無かったが、人間を殺す日々に充実を感じたことも無かった。
時折、使徒と交戦することもあったが、それでもアンドラスの心は動かなかった。
使徒も人間も、人類など等しく下等な虫けらに過ぎない。
殺す価値すら無いが、サマエル様が望むなら纏めて潰してやろう。
『…?』
無感動に、機械的に、殺し続ける日々の中でアンドラスは奇妙な物を見た。
それは、笑い合う人間の姿。
我が子を抱き締める母親の笑顔。
父親と手を繋いで歩く娘の笑顔。
悪魔と戦う時には苛烈な表情しか浮かべない使徒が見せた、親としての顔。
『…何、だ?』
全て、殺した。
目に付いた人間は、余すことなく殺し尽した。
父親だろうが、母親だろうが、娘だろうが、息子だろうが、
全て全て、誰一人逃がさずに殺した。
『…なのに』
なのに、この胸を支配する感情は何だ?
何故、私は敗北感を感じている?
何故、私はあんな虫けら達が『羨ましい』と感じている?
『アンドラス。次の任務ですが…』
『………』
違う。
サマエル様が私を見る目は、アレと同じでは無い。
奴らは、私には無い『何か』を持っている。
私では決して手に入れることの出来ない物を持っている。
その事実が、この私があんな虫けらに劣っている事実が、
何よりも、憎かった。
「…残念ながら、君達の力になることは今の僕には出来ないみたいだ」
申し訳なさそうに眉を下げながら、セーレはそう言った。
「記憶が無いなら、悪法が使えなくても仕方ないか…どうしよう」
マナも困った表情で頬を掻く。
行きはオズワルドに転移で送って貰ったが、帰りはセーレを当てにしていた為、困ったことになった。
元々オズワルドの法力では転移は一度が限界な為、エノクにいるであろうセーレを頼るしか手は無かったのだが………まさか、そのセーレが記憶喪失とは予測できない。
そもそも、記憶を取り戻さなければ、セーレは肝心の戦力にならないだろう。
「ショック療法はどうですか? こいつの頭を思い切り殴りましょうよ」
「セシールってば、またそう言うこと言う」
いい加減、この調子の狂うセーレに付き合うのもうんざりなのか、セシールが物騒なことを言う。
拳を作って肩を回すセシールに、マナは呆れたように息を吐いた。
「…そうだね。このまま記憶を失ったまま、皆さんに迷惑をかけるのも忍びない。是非、やってくれ」
「え゛」
半ば冗談のつもりだったのか、あっさりと肯定されてセシールの顔が引き攣る。
セーレの方は冗談でも無いようで、少し屈んでセシールに自分の頭を差し出した。
「僕としても、今の状況は歯痒いんだ。この村までわざわざ迎えに来てくれた君達を僕は覚えてすらいないなんて………我ながら恥ずかしいよ」
「………」
「さあ、僕を助けると思って…」
「む、無理です! わ、私にこの人は殴れません!」
罪悪感で痛む胸を抑えながら、セシールは半泣きで叫んだ。
何て、何て良い人なんだろう。
何も覚えていない筈なのに、初対面同然の相手をこれだけ気遣えるなんて…
本人は何も悪くない筈なのに、これだけ真摯に謝ることが出来るなんて…
「…マナ様。この人は、このままの方が良いのではないでしょうか?」
「セシール!? 何言っているの!?」
すっかり感動してしまったセシールはセーレ(悪)を忘れ、綺麗なセーレを受け入れた。
どこか聖人染みた今のセーレの雰囲気が、セシールの感性に触れたのかも知れない。
「…うーん。何と言うか」
マナとセシールのやり取りをセーレは懐かしそうに眺めていた。
「君達を見ていると、何か思い出しそうな感じなんだけどな…」
「…早く思い出して欲しいと言うのが本音だけど、あなたを責めるつもりは無いからね」
「ありがとう。本当に君は優しい子だね」
穏やかな表情を浮かべて、セーレは目を細めた。
この優しい子の為にも、早く自分を取り戻さなければ。
そう考えて空を見上げた時だった。
「ッ! 何か来るよ…」
「え…?」
セーレの声を聞いたマナ達が首を傾げた直後、空に光の陣が浮かび上がった。
最早、見慣れた転移の光から現れたのは、カラスのような黒い翼を生やした妖艶な美女。
「アンドラス…!」
顔を青ざめさせたセシールが、その名を叫んだ。
サマエルの腹心であり、唯一サマエルの下に残った悪魔の名を。
「………」
マナも同様にアンドラスを警戒しつつ、近くに立つセーレを一瞥した。
(今、私達よりも早くアンドラスに気付いた…?)
記憶を失い、力は使えないと思っていたが、感覚的な所は残っているのだろうか。
無意識の内に能力を使い、アンドラスの出現を予知した?
…何か、違う気がする。
「正直、気は進まないのだけど…サマエル様の命令よ」
思考するマナの顔を見下ろしながら、アンドラスは尊大に告げる。
「そこの娘。あなたを魔都ソドムへ招待するわ」
「私…?」
「サマエル様はあなたの能力を御望みよ。シュトリの悪法を解く為にね」
そこまで聞いて、マナは状況を理解した。
サマエルはシュトリの悪法を解くことが出来なかったのだ。
だから、その悪法を解ける人物を求めた。
即ち、悪法を解除できるマナを。
「私は…」
「あなたの意見は聞いていないわ。抵抗するなら手足を数本捥いで連れていくまで」
「ッ!」
その脅しに僅かに震えたマナを、アンドラスは嗜虐的な笑みを浮かべた。
「そうね。むしろ、抵抗しなさい。存分に痛めつけて、人間を生け捕りにする鬱憤を晴らしてあげる!」
黒い翼を大きく広げ、アンドラスは嗤った。
今にも襲い掛かってきそうな獰猛な表情で、マナを見つめている。
「…マズイ、な。今の私は権能を使えない」
「くっ…マナ様、私が…!」
セシールがマナを庇う様に叫ぶが、顔色は悪い。
この状況が最悪であることはセシールも理解しているのだろう。
マナは現在、権能をまともに使うことが出来なくなっている。
セーレも記憶喪失で戦力に数えることは出来ないだろう。
「あなた今、権能が使えないの? あははは! それは好都合………………ん?」
マナの呟きを聞いたアンドラスは嘲笑おうとして、ふと我に返った。
「待ちなさい。サマエル様はあなたの権能を御望みなのよ? なのに…」
それは困る。
非常に困る。
権能が使えないマナを連れて行った所で、何の役にも立たない。
サマエルは喜ばないだろう。
「チッ、これだから人間は。なら、少しばかり痛い目に遭わせて能力を引き出してあげましょうか!」
苛立ったようにアンドラスは両手を広げる。
その手に黒い魔性が集い、魔弾が次々と生成されていく。
「魔弾…! マナ様! セーレ! こっちに………セーレ?」
一か所に集まって防壁を張ろうとしたセシールは、セーレの方を向いて訝し気な顔をした。
「……は」
セーレは、笑っていた。
空に浮かぶアンドラスを見て、興味深い物を見たかのような笑みを浮かべていた。
「セーレ! 早く…!」
「マナさん…?」
慌ててセーレの手を引こうとしたマナの耳に、聞き覚えのある声が聞こえた。
ゾッとして振り返ると、そこには不思議そうな顔を浮かべたリタが立っていた。
(最悪だ)
間違いなく、巻き込まれてしまう。
引き寄せるには、少し距離が遠い。
「『九十の魔弾』」
マナが大地を蹴ると同時に、空から魔弾の雨が降り注ぐ。
この場にいる全ての人間を殺し尽す暴力が振るわれる。
「『退魔障壁』展開」
瞬間、魔弾の雨は青く燃える炎によって防がれた。
円状に燃え広がる青き炎は結界のように魔性を焼き払い、内部の人間を護る。
「なっ…コレは!」
見覚えのある青い炎に、アンドラスは叫ぶ。
それは上位法術の一つ。
箱舟の章の第六節である法術だ。
「ありがとよ、アンドラス。貴様の放つ魔性のお陰で、全て思い出した」
青い炎の中に佇むセーレは、いつも通りの不敵な笑みを浮かべていた。
「セーレ! だが、今の法術は…!」
アンドラスは燃え続ける炎を一瞥し、セーレを睨む。
セーレに法術を使う能力など、無かった筈だ。
魔性と法術を両方扱えるのは、サマエルだけの筈だ。
「言った筈だ。俺は『全て』思い出した、と」
全て、と強調しながらセーレは笑みを深める。
「せ、セーレ…?」
マナは恐る恐るセーレの顔を見つめる。
薄々その正体に感付いてしまったように。
「…俺はセーレ。強欲の悪魔セーレ…そして」
セーレは告げる。
自らの本当の名前を。
悪魔セーレと呼ばれる前の名前を。
「『カナン=モーゼス』だ」




