第九十六話
エノク。
マナの故郷であり、賢者カナンの出身地でもある聖地。
「良し、出来たかな」
完成した朝食の出来栄えを確認しながら、この村の村長である男は呟く。
「リタ、そろそろ彼を呼んで来てくれ」
「はーい!」
その様子を眺めていた村長の娘、リタは笑顔で頷いた。
どこか楽しそうにトコトコと庭へ出て行く。
「おじさーん! もうご飯出来たから、薪割りは終わりだよー!」
弾んだ声でリタが声を掛けるのは、庭で薪を割っていた一人の青年。
光輝く金髪と澄んだ水面のような蒼眼を持つ青年だ。
氷像のように整った顔立ちをしているが、浮かべている表情は気さくな微笑だった。
「リタ。僕はおじさんなんて歳では………」
少し不服そうに言い返そうとして、青年は困ったように眉を顰めた。
「…? どうしたのー?」
「いや、そう言えば僕、記憶が無いんだった。ってことは、実は本当におじさんなのかも…?」
水瓶に汲まれた水面に映る自身の顔を見ながら、青年は首を傾げる。
「うーむ。自分ではまだ若い方だと思っているんだけど、そうでも無いのかな?」
「確かに、ウチのお父さんよりは若そうだよねー」
「だよねー。だったら、僕のことをおじさんと呼ぶのはやめてくれないかなー?」
「あ。それより早く! ご飯が冷めちゃうよ、おじさん!」
「…だから、おじさんは勘弁してくれないかなー」
がっくり、と肩を落として青年はリタの後に続く。
リタの隣の椅子に座り、村長の用意していた朝食に手を付ける。
「薪割りご苦労様。いやー、最近腰を痛めていたから助かったよー!」
「いえ、こちらこそ。宿だけでは無く、食事まで…ありがとうございます」
「気にしない気にしない。困った時はお互い様さ」
そう言って、村長はやや豪快に笑った。
「それにしても昨日は驚いたよ。リタが誰かを連れてきたと思ったら、記憶喪失だなんて」
「おじさん、ウチの庭先に転がっていたんだよー」
ニコニコと笑いながら、リタは胸を張る。
青年を見つけたことを自慢しているようだ。
「何か思い出したことはあるかい?」
「…残念ながら」
「そうか。怪我もしていたみたいだったし、頭でもぶつけたのかな?」
心配そうに青年を見ながら、村長は頭を捻る。
マナに治療して貰えば、記憶も戻るだろうか?
しかし、最近は何やら物騒なことが続いているので、マナは聖都を離れられないかもしれない。
「うーん? うむむむ?」
考え込む村長の隣で、食事を終えたリタが妙な声を出す。
その眼は真っ直ぐ青年の顔を見つめていた。
「どうしたんだい? リタ」
「うむむむむむ」
青年にそう言われても、リタは唸り続ける。
「おじさん、もしかして仮面のお兄さんじゃないよねー?」
「仮面?」
リタの言葉に、青年は訳が分からずに首を傾げる。
村長は唐突に妙なことを言ったリタに苦笑を浮かべた。
「何を言っているんだ、リタ。マナちゃんの従士がこんな所にいる筈ないだろう? それに、全然似ていないじゃないか」
確かに背格好は近いかも知れないが、言動と言うか、表情と言うか、
纏う雰囲気がまるで違った。
「うーん?」
まだ納得いかないように、リタは唸る。
似ているのだ。
その金色の髪が、青い瞳が、
あの仮面の男に。
「そんなことより、今日は少し散歩してきたらどうだ? 何か思い出すかも知れないよ?」
「そう、ですね。そうしようと思います」
微笑を浮かべながら、青年は答えた。
「僕もそうしたいと思ってました。この村は、どこか懐かしい感じがするので」
「た、辿り着いたみたいだね」
同じ頃、マナは転移の光を纏いながらエノクへと出現した。
何故かやや青ざめた顔をしており、引き攣った表情を浮かべている。
「………」
「が、ガルグイユさんが転移を覚えていてくれて、助かったね…」
無言で口を抑えているセシールにマナは苦笑いを浮かべた。
以前はセーレの転移でやってきたが、今回は肝心のセーレが行方不明だった。
なので、代わりに転移を習得していたオズワルドに転移で送って貰ったのだ。
転移は法力を大量に消耗する法術だが、セーレの生存を伝えたら快く転移してくれた。
くれたのだが…
「…まさか、こんなに揺れるなんて思わなかったよ。馬車酔いならぬ転移酔いってやつかな?」
光の中に身体が消えるほんの数秒の間に、百回は脳をシェイクされた気分だった。
セーレの転移が凄く快適だったのか、それともオズワルドが転移させるのが致命的に下手だったのか。
マナとセシールの気分は最悪だった。
「…セシール、大丈夫?」
「すいません。今は話しかけないで、下さい。少し、吐きそうなので…」
両手で口を抑えて真っ青な顔をするセシール。
体質の問題なのか、マナ以上に気分が悪そうだった。
「治癒は効かないと思うけど………セシールの悪法だったら、治せるんじゃない?」
「………」
セシールの時間回帰の能力を使えば、酔うまでの状態に戻れるのでは?
そう思って言ったマナの言葉に、セシールは気まずそうな表情を浮かべた。
何故か、青かった顔が今度は赤くなっている。
「その、ですね。あの力は、あまり使いたくない、と言いますか。いえ、非常時に使うのは全く躊躇いは無いのですが…」
「…やっぱりまだ、悪魔の力を使うのは抵抗がある?」
「い、いえ、そう言う訳では無く…その、あの悪法は『色欲』の力なので、使うとしばらく心がそちらに傾くと言いますか…」
「…?」
「……………率直に言って、エロい気分になります」
よく分かっていないマナを見て、セシールは耳まで真っ赤にしてそう呟いた。
酔いもどこかに飛んでしまったかのように、頭を抱える。
「あああああ! どうして、この悪法にはこんな副作用があるんですかぁ! あの色欲魔め! 死んでからも私に迷惑をかけるなんてぇ…!」
「せ、セシール。落ち着いて! 大丈夫、セシールが少しムッツリスケベでも私は気にしないから!」
「ああああああああああ!」
フォローのつもりで止めを刺したマナの一言で、セシールは発狂する。
悪魔化した訳でも無いのに、無性に暴れたい気分だった。
半狂乱になって叫ぶセシールをエノクの人々は、驚いたように見ていた。
「あのー」
見かねたように一人の青年が、声をかける。
「そちらのお嬢さんは、どうかされたのかい?」
本気で心配したような声に、羞恥心から正気を取り戻すセシール。
「す、すいません。少し取り乱してしまって…」
先程とは違う意味で赤面しながら、セシールは青年の方へと振り返る。
オロオロしていたマナのまた、その青年の方を向いた。
「「え…?」」
マナとセシールの口から、同時に驚きの声が漏れた。
二人を心配そうに見つめる青年の顔は…
「セーレ?」
セーレによく似ていたからだ。




