第九十五話
ある日、人には聞こえない声が聞こえるようになった。
会ったことも無い者の声。
千里も離れた場所で苦しむ人々の声が聞こえた。
それはまるで耳元で囁かれているかのように鮮明に。
『………』
声が聞こえた。
不治の病に侵された者の声が、
謂れの無い迫害を受けている者の声が、
何をしていても常に、救いを求める声が聞こえていた。
『………』
やがて、青年は旅に出ることを決めた。
深い理由は無かった。
彼には人々が救いを求めていることを知り、それを救うだけの力があった。
苦しんでいる人が視界に入ったとして、見て見ぬふりをすることは難しいだろう。
そして、彼にとっての『視界』とは、世界の全てであったと言うだけの話だ。
目の届く範囲の人を、自分の出来る限り救いたい。
そんな誰でも持っているようなちっぽけな善性。
彼はそれに従って行動しただけだった。
彼の名は、カナン=モーゼス。
人は彼を賢者と呼ぶ。
人は彼を神の代理と呼ぶ。
だが、彼自身は自分を何ら特別では無いと思っていた
その善性を当然の物と信じ、誰に対しても同じ物を求めた。
それこそが彼の罪だった。
「…今、のは」
サマエルによる襲撃の翌朝。
眼を覚ましたマナは、ぼんやりとした頭で今見た夢を思い出していた。
マナの権能が見せたのは、他者の過去。
賢者カナンの過去だ。
人々に讃えられる聖人の本音。
誰に語られることも無かったカナンの本心。
彼は神などでは無かった。
彼は彼なりに、自分が正しいと思ったことを自分の判断で行っていただけだった。
その精神性に、マナはどこかシンパシーを感じた。
「………」
サマエルはマナのことを『カナンの権能を継承する者』と言っていた。
カナンが手放した権能を受け継いだ後継者であると。
セーレも似たようなことを口走ったことがあった。
他者の過去を読み取る能力は、カナンが持っていた能力であると。
「…セーレ」
ぽつり、とマナは呟く。
セーレの死体は残っていなかった。
だから、マナもセシールも彼が転移で逃げた可能性に期待していた。
今はどこかで傷を癒しており、すぐに戻ってくると信じた。
「…ッ」
だが、一晩経っても彼は現れなかった。
どれだけ神に祈っても、セーレは帰らなかった。
一体、彼は今どこにいるのか。
それとも、本当に跡形もなく消えてしまったのか。
「…誰?」
その時、コンコンと自室の扉がノックされた。
「…セシール、です」
「セシール? 分かった、今開けるから…」
のそのそとベッドから起き上がったマナは、扉へと向かう。
億劫そうに扉を開けたマナの眼に映ったのは、暗い表情を浮かべたセシールだった。
「…どうしたの? 酷い顔をしているよ」
「………」
セシールは答えなかった。
薄々マナにはその理由が分かっていた。
昨日の襲撃で失われたのはセーレだけではない。
サマエルによって悪魔に変えられたセシールを助ける為、シュトリも犠牲になってしまった。
今までずっと敵同士だったが、シュトリは最期にセシールの為に戦った。
自身の命を賭けて、実の娘を護ったのだ。
「………」
セシールがシュトリの死に何も感じない訳では無いことは、その手に握り締められた『懐中時計』が証明していた。
父親の形見となった物をセシールは複雑な表情で見ていた。
「私達は、サマエルに勝てるのでしょうか…?」
それは、誰もが口にすることを恐れていた言葉だった。
シュトリの能力でサマエルは大幅に弱体化したが、あの戦いは酷い物だった。
サマエルに対抗できる悪魔は全て失われ、人類にはもう打つ手が無くなった。
唯一の希望があるとすれば、サマエルすら警戒したマナの権能だが…
「…ッ!」
マナは自分の手を眺め、悔しそうに顔を歪めた。
サマエルによってセーレが消された直後から、マナは権能が使えなくなっていた。
あの戦いで無理をし過ぎたからか、別の理由か、悪法や法術を無効化する力が全く使えない。
コレでは戦うどころか、サマエルに抵抗することすら出来ない。
ただ一方的に滅ぼされるだけだ。
「…どうして、私はいつも」
いつも、弱いままなのか。
サロメを救えなかった。ヴェラを護れなかった。
セーレだって、目の前で殺されてしまった。
「カナンの権能を継承しても、私自身が弱ければ意味が無い…」
カナンはサマエルを倒し、四百年の平和をもたらした。
同じ権能を持っていると言うのに、どうしてマナはこうも違うのか。
「マナ様…」
マナから権能が使えないことを聞かされていたセシールも、悲痛な表情を浮かべる。
賢者カナンの権能を持つと言われても、マナはまだ二十歳の娘に過ぎないのだ。
人が死ねば悲しみ、自身の行動を後悔する普通の人間なのだ。
「他人の過去が見えたって、何の意味も無かった。例え、賢者カナンの過去を見たって…」
「…?」
嘆くマナの言葉に、セシールはふと首を傾げた。
何となく、今のマナの言動が引っ掛かった。
「マナ様。賢者カナンの過去を見た、とは?」
「…え? セシールは知らなかった、かな? 私、他人の過去が見えるようになったの…」
「過去が?」
言ってからマナは、その事実をセシールに伝えていなかったことを思い出した。
初めに意識して発動したのはセーレに言われて、サロメの過去を見た時だ。
それ以降はサマエル対策の為、忙しかったので言うのを忘れていた。
「…それって、誰の過去でも無差別に見ることが出来るのですか?」
「いや、今まで私が見たのはサロメくらいで…」
「死者の過去も?」
「えーと、そうだったかな…?」
確か、二回目にサロメの過去を見た時はサロメが死んだ後だった。
なら、死者の過去も読み取ることが出来るのか?
「…違う。あの時は確か、セーレがサロメの形見を持って来てくれて…」
「形見。思いが残った物なら、そこからも過去を読み取れるのですか…」
セシールは訝し気な顔で唸る。
何がそんなに不思議なのだろうか、とマナは首を傾げる。
「では、マナ様は最近『賢者カナンの遺品』に触れたのですか?」
「……………?」
言われてみれば、そうだ。
カナンの過去を見たと言うことは、カナンの遺品に触れたと言うことになる。
四百年以上前の人物に、マナが出会える筈も無いのだから。
しかし、そんな記憶は無かった。
「聖櫃…?」
「確かに、アレは賢者カナンの作った物ですが、その中に入っていたのは…」
そう、棺に入っていたのはカナンの遺体ではなく、サマエルだった。
聖櫃はカナンの収める棺ではなく、サマエルを封印する檻だった。
そもそもの話。
「カナンの遺体って、どこに行ったの…?」
カナンは死んだ筈だ。
サマエルは彼を殺したと叫んでいた。
なら、その遺体は今どこに?
「…もし」
マナの脳裏に、ある推測が過ぎった。
あまりにも荒唐無稽な考えが。
「もし、サマエルと同じように賢者カナンが死んでいなかったとしたら…」
そう言いかけた瞬間、マナの身体が突然発光した。
「なっ…! マナ様!」
黄金の光を放つマナに、セシールは慌てて声を上げる。
だが、光の中心にいるマナはどこかぼんやりとした表情を浮かべていた。
「…『声』が、聞こえる」
やがて、光が収まった時、マナは窓の外を見つめていた。
外に見える聖都の街並みより、更に遠くを。
「セーレの声が、聞こえるの」
「ほ、本当ですか!」
遠くにいる人々の声さえも聞き届ける。
それは他人の過去を見透かす能力と同じ、カナンの能力だ。
「うん。それほど離れていない。セーレが今いる場所は…」
神の耳が聞き届けたのは、セーレの声。
彼が今も生きていると言う証。
「エノク、だ。セーレは今、聖地エノクにいるよ」




