第九十一話
悪法『傲慢』
使徒殺しの黒い矢。
法力が強ければ強い程に毒性を増す呪いの込められた毒矢。
法王すら上回る法力を持つサマエルの身体が、それに耐えられる筈も無かった。
全身に猛毒が回ったサマエルはあまりにも呆気なく、絶命した。
「終わった、か」
セーレは倒れたまま動かなくなったサマエルを見下ろして、そう呟いた。
例え四百の悪魔を操ろうとも、サマエル自身が死ねば無意味だ。
首を刎ねても死なない不死性を持っていようとも、使徒である限りこの毒からは逃れられない。
あとは、残った悪魔さえ片付ければ全て…
「『九十の魔弾』」
瞬間、セーレの頭上から九十の弾丸が放たれた。
咄嗟に粒子で防壁を作ったセーレへと、それは翼を広げて向かってくる。
「セーレ! あなた、まさか…サマエル様を!」
「ハッ。行動するのが遅かったな、アンドラス。もうサマエルは死んだぞ」
今まで律儀にサマエルの命令を守っていたのだろう。
サマエルの邪魔をしないように様子を見守っていて、今になって青くなったのか。
滑稽なことだ、とセーレは嘲笑った。
「…殺す。あなたも、人間共も全て殺してやる!」
黒い翼を大きく広げ、アンドラスは吠える。
例え自身の命と引き換えにしようとも、復讐を果たそうと構える。
「最後の仕事だな。貴様を片付ければ、全て終わりだ」
セーレもまた、迎撃しようと構えた。
青白い粒子を纏って、空に浮かぶアンドラスを睨む。
一触即発の状況。
「―――やれやれ、主役を差し置いて何を盛り上がっているのですか?」
その時、聞こえてはならない声が聞こえた。
セーレの背筋が凍り付く。
有り得ない。
アレは、もう死んだ。
あの毒矢を受けて生きていられる筈がない。
使徒である限り、絶対に死んだ筈だ。
「考えましたねェ。他者の悪法を利用するなんて、想定外でしたよ」
ゆっくりとサマエルの身体が起き上がる。
絶望が再び立ち上がる。
「馬鹿、な…どうして、毒矢が…」
どうして、毒矢が通じなかった。
必ず使徒を殺す毒矢が。
まさか、サマエルが使徒であると言う話自体が嘘で…
「さて、一つ間違いを訂正しておきましょう。私は確かに使徒であり、お前の放った毒矢は私の身を蝕んで瞬く間に命を奪いました」
「………何を、言っている?」
「見ての通り、私は『死亡しました』………お前は私を殺すことに成功したのですよ」
顔に嘲笑を浮かべながら、サマエルは静かに言葉を告げる。
セーレ達の作戦は成功したのだ。
毒矢はサマエルに突き刺さり、確かに命を奪ったのだと。
「お前の間違いは、それで私が終わると思い込んでいたことだけです」
毒矢で殺せば、それで終わりだと思っていた。
それがセーレの間違い。
サマエルにとって、それは死ではあっても、終焉ではない。
「お前は私を、たった一度殺しただけ! 私は死など、とうの昔に超越している! 我は一にして百! 四百の魔が融け合う地獄こそが私だ!」
(一度、殺しただけ…?)
セーレは呆然と、傷一つ無いサマエルを見た。
(悪魔はサマエルの分身。身に宿る悪魔を、自身の命の代わりにしたのか…?)
自我が目覚める前の悪魔は、サマエルの分身であるが故に。
身に宿すことで命をストックすることが出来るのか。
だとすれば、最悪だ。
サマエルは現在、四百の命を保有していることになる。
今までの戦いで何体か減ったが、それでも三百は切っていないだろう。
たった一度殺すだけでもこれだけ手を尽くすしたのに、それが残り三百以上。
サマエルも馬鹿じゃない。大人しく殺されることは無いだろう。
一度受けた攻撃は二度と通じない。
もう毒矢も使えない。
打つ手が、無い。
「味わっていますか? それが絶望と言う物だ!」
サマエルの全身に開いた四百の眼がセーレを見ている。
コレは人間では無く、既に使徒ですら無い。
悪魔さえも超えた異形。
邪悪なる神『邪神』だ。
「邪神に祈れ! そうすれば、穏やかな死を与えてあげましょう!」
「ッ!」
祈るようなポーズを取ったサマエルの周囲に、無数の陣が展開される。
種類は様々だが、全て上位法術だ。
転移はもう間に合わない。
(魔弾で、相殺しきれるか…!)
それでもやらない訳にはいかない、とセーレは魔性を収束させる。
「セーレ!」
無数の光が放たれる瞬間、セーレは勢いよく後ろに引っ張られた。
驚く間もなく地面を転がり、代わりに前に出た人物が盾となる。
それは、見覚えのある人物だった。
「貴様は…!」
セーレの身代わりとなって、その少女は全身に光を浴びた。
その小さな体を大きく広げて、背に隠すセーレを護るように。
「ほ、法術は、使徒には効かない…」
震える身体を抑えながら、少女は言った。
「…でも、流石にちょっと怖かったな」
「マナ=グラース! 何をやっているんだ、貴様は!」
腰を抜かしたようにその場に座り込むマナに、セーレは血相を変えて駆け寄る。
「あ、危ない所だったね。セーレ」
「危ないのは貴様の方だ! 俺を庇ったつもりか!」
「大丈夫だよ。さっきも言ったけど、私に法術は効かないから…」
「そう言う問題じゃ…!」
サマエルは人を殺す法術も使えると言うことを忘れたのか、とセーレは激怒する。
今回はセーレを殺す為に対悪魔用の法術しか使っていなかったから、良かったものの。
万が一、一つでも対人間用の法術を使っていれば、マナは死んでいただろう。
「チッ、来い!」
「わわ…!」
マナの手を掴み、サマエルから距離を取った場所に転移するセーレ。
怒り狂うセーレに対し、何故かマナは穏やかに笑っていた。
「…何がおかしい。クソ聖女」
「えと、何て言うか。セーレには失礼だと思うけど、さ…」
震えは止まったのか、ちゃんと自分の足で立ちながらマナは言う。
「セーレが心配してくれているのが、何か嬉しくて…」
「―――――――」
ぴたり、とセーレの言葉が止まった。
心配、しているだと。
悪魔であるセーレが、使徒であるマナを?
心配などと言う甘い感情が、この怒りと焦燥感の正体だと?
「大丈夫、私は死なない。セーレも、皆も負けないから…!」
セーレの手をしっかりと握り締めながら、マナは言った。
根拠なんてない。
ただ、そう信じているだけだ。
誰一人欠けることなく、サマエルを倒せると。
「…は」
その底抜けの楽観さに、セーレは呆れたように笑った。
(まさか、この世間知らずの娘に慰められる日が来るとは…)
死ぬ前に負けを認めるなんて、何を弱気になっていたのか。
敵が少しばかり強大だった程度で、何を諦めそうになっている。
我は強欲のセーレ。
こんな小娘に助けられる程、落ちぶれてはいない筈だ。
「仕切り直しだ。共に戦おうか、聖女様!」
「はい! 勿論だよ!」
「時を戻せ! 悪法『色欲』」
傷付いた人々へ手を向けながら、セシールは叫ぶ。
既に死した者は救えないが、まだ生きている者は助けることが出来る。
「奴が放った悪魔は全て始末した。残りはアンドラスと、サマエル自身だけだ」
バジリオはそれに手を貸しながら呟く。
「…? シュトリはどこへ?」
「分からない。僕らが見つけた時には、既にいなかった」
「………」
この状況で聖都に来ていないとは思えないが、何を企んでいるのか。
サマエルの命令で動いているのか、それでも勝手に行動しているのか。
人間の敵なのか、味方なのか…
「…敵として現れたら、共に倒せば良い。今は、目の前の相手にだけ集中しないと」
複雑そうな表情でセシールは呟いた。
セーレと共に戦場に立つマナ。
その前には、嘲笑を浮かべたサマエルが立っていた。
「断ち切れ!『空間切断』」
セーレの指先から十字型の光が放たれる。
青白く光る爪は、笑みを浮かべたサマエルの首を容易く刎ね飛ばす。
「無駄無駄………知っている筈ですよ。私はこの程度では死にません」
宙を舞った首は顔色一つ変えずに、サマエルの身体に戻る。
四百の命を持つことだけがサマエルの強みでは無い。
致命傷すら瞬時に癒す桁外れの法術と魔性もまた、サマエルの不死性だ。
「ああ、知っているよ…!」
しかし、セーレはそれに動揺することなく繋がったばかりの頭部を鷲掴む。
「『空間消却』」
そして、そのまま零距離から攻撃を放った。
セーレの手から放たれた青白い渦はサマエルの頭部を呑み込み、跡形も無く消滅させた。
「………」
頭部を失ったサマエルの身体が、力無く倒れる。
まだ終わりではない。
セーレは油断することなく、残ったサマエルの身体に手を向ける。
「消え去れ!『空間消却』」
動かなくなった隙を狙い、次々と攻撃を放つセーレ。
手を、足を、全て消滅させ、肉片すら残さずに抹消すると。
サマエルは一切抵抗することなく、攻撃を受け続けていた。
このまま押し切る、とセーレは更に力を込める。
「セーレ! 上だよ!」
「何…!」
聞こえたマナの声に、慌てて視線を上げるセーレ。
そこには、鳥型の悪魔に乗ったサマエルがいた。
「いつの間に…!」
「四百の命は全て、私の分身。自身の偽者を作るなんて、簡単なんですよ『聖撃』」
空を飛んだまま、サマエルは法術を放つ。
地上にいるセーレに向かって…
「権能『神の慈悲』」
だが、それは隣に立つマナによって防がれた。
マナの放つ黄金の蝶は慈悲の力。
それは悪法であろうと、法術であろうと、弱体化させる。
「チッ、そう言えば、あの能天気な娘がいたのでしたね…!」
「…確かにな。アイツの能天気さ加減には、俺も苦労している」
「なっ…!」
苛立ちながら呟くサマエルの言葉に、答える者がいた。
青白い粒子と共に背後に現れたのは、セーレ。
その手は、サマエルの後頭部に向けられていた。
「今度は外さねえ!『空間消却』」
「チィィ! 鬱陶しい!『魔弾』」
青と赤。
二つの悪魔の力が衝突し、轟音が響き渡った。




