第八十九話
サマエルの宣言した約束の日が近づくに連れ、聖都をピリピリとした緊張感が支配しつつあった。
サマエル復活の情報を聞き、聖都に押し寄せる人々。
オズワルドは彼らの混乱を抑えつつ、訓練を行っていた。
いずれ襲来するサマエルとの戦いに備えた訓練だ。
誰もが不安を抱えていたが、バジリオが中心となって指導していた。
サマエルは強大だ。
だが、戦わなければ人類に明日は無い。
聖都が堕ちれば、人類は滅びる。
それを理解しているからこそ、人々は武器を取ったのだ。
「………」
「マナ様、ここにいたのですか」
大聖堂の資料室で、シモン=マグスに関する資料を読んでいたマナはその声に顔を上げた。
セシールはマナの読んでいた資料に、一瞬渋い顔をした後にマナへ目を向ける。
「バジリオが呼んでいますよ。マナ様の権能を把握しておきたいとかで」
「ん。分かったよ。セシールは訓練の途中?」
「そうですよ。天罰の章が使える法術使いは珍しいみたいで」
それに加えて、セシールには悪法もある。
生物の時を僅かに戻すだけだが、サマエルとの決戦ではそれが生死を分けるかも知れない。
バジリオはセシールを重要な戦力の一つとして数えていた。
そして、それはマナも変わらない。
直接戦闘能力は低いとは言え、マナの権能は未知数だ。
悪法のみならず、法術や権能まで抑えられるマナの能力は切り札となるだろう。
「…マナ様、不安では無いですか?」
セシールは心配そうな表情で言った。
聖都に残った数少ない使徒と言うことで、マナがプレッシャーを感じていないかと。
「大丈夫だよ。私は私に出来ることをする。それが、ヴェラさんに託されたことだから」
ヴェラのこと、サロメのこと、サマエルには少なからず因縁がある。
悪魔を生み出し、カナンを殺し、あらゆる悲劇を引き起こした元凶。
彼を倒さなければ、人類は終わりだ。
「…あの人も、元は賢者カナンの弟子だったんだよね?」
マナは手にした資料に目を落としながら、呟く。
「シモン=マグス。賢者カナンの奇跡に感銘を受けて、自ら弟子に志願した賛同者と伝えられていますが………どこまでが真実なのか」
どこから道を踏み外したのか。
それとも、元からカナンを殺すつもりで弟子になったのか。
それは分からないが、悪魔を使役して法術を悪用する今のシモンは『堕ちた使徒』だ。
「悪魔として生まれた訳じゃない。人として生まれて、人として育ったのに、どうしてあそこまで同じ人間を憎むことが出来るのかな?」
「…人が人を憎む理由なんて、幾らでもありますよ」
マナの疑問に、セシールは暗い顔で答えた。
かつて、セシールも味わった人の悪意。
それに触れてしまえば、人は容易く人を憎む。
「不幸や悲劇を味わえば、誰だって人であることが嫌になる。世界を否定したくなることもあるでしょう」
紛れも無い人の子でありながら、悪魔の血を引くが故に迫害されたセシール。
その日々を思い出すと、今でも人や世界を憎みそうになる。
人類を滅ぼすと言ったサマエルの言葉も、少し理解してしまう。
「でも…」
暗い表情を浮かべていたセシールは、そこで笑みを浮かべた。
その眼には、マナの顔が映っている。
「人生は不幸だけでは終わりません。道を踏み外さず、正しい道を歩んでいれば、いつか必ず救いは訪れるのだと」
セシールはそれをマナに出会った時に知った。
人や世界を憎んで悪に堕ちていれば、永遠に知ることは無かっただろう。
悪意なく、人と関わる安らぎを。
「復讐は、一見理にかなっているように見えますが、違うのです。自分が受けた苦痛を相手に与えた所で、自分は何も満たされない」
何一つプラスには働かない。
憎しみは何も生まない。
ただ渇いていくだけだ。
『ビー! ビー! ビー!』
その時、聖都中に響き渡るような大きな音が聞こえた。
「コレって…?」
聞き覚えのある音に、マナは首を傾げる。
訝し気なマナとは対照的に、セシールは顔を青褪めた。
「…コレはバジリオが聖都に張った結界です。以前、ソレーユ村に張っていた物と同じ物」
「と言うことは…」
「ええ…」
セシールは窓の外を睨みながら呟いた。
「予定よりずっと早いですが、サマエルが現れました」
「うるさいな。耳がおかしくなりそうです」
聖都に降り立ったサマエルは耳を抑えながら、そう言った。
警報の音を嫌ったのか、面倒臭そうに法術を展開する。
パキン、と言う軽い音と共に警報は止んだ。
「さて、静かになった所で気を取り直して」
サマエルは両側に控えるアンドラスとシュトリへ視線を向けた。
「シュトリ。お前は先に行って自身の目的を果たしなさい。アンドラスは私と共に」
「了解しました!」
「…了解」
アンドラスは恭しく頭を下げ、シュトリは会釈した。
時間が惜しいと言わんばかりにシュトリは走り去っていく。
「シュトリ! サマエル様の前で無礼な…!」
「いや、構いませんよ。彼には彼の優先すべき対象があるのでしょう」
にやけた顔を隠そうともせず、サマエルは言った。
「この終末の世でそんな物を見つけられるなんて、彼は幸福ですよ」
もう世界は終わると言うのに。
娘だの、愛だの。
滑稽過ぎて笑いが抑えられない。
「…それはお前達にも言えることですねェ」
サマエルは愉悦を顔に浮かべながら、視線を前に向けた。
「人間諸君。お前達の信仰とやらは、お前達自身の命より優先すべき対象なのか?」
「………」
ザッと足を鳴らして現れたのは、バジリオとオズワルドだった。
更に、周囲には武器を構えた人々がサマエルを取り囲むように立っている。
「信仰の為に、ここに立っているんじゃない」
バジリオが真っ直ぐサマエルの眼を見ながら、答える。
「我々は、我々の明日の為に、ここに立っているんだ!」
「天罰の章。第七節展開!」
オズワルドの後方に、天使を模した青白い炎が出現する。
それを見て身構えるアンドラスを、サマエルは手で制した。
「お前は手を出すな。コレは、私の娯楽だ」
「『聖火』」
一体の炎の天使が矢を放つ。
その火力は並の悪魔を容易く焼き払う威力だが、十の天使を操ったヴェラに比べればまだまだ未熟だ。
「温い。温い温い温いぞ!」
炎に包まれながらサマエルは愉悦の笑みを浮かべる。
法術でサマエルが傷を負うことは無い。
こんな炎、そよ風と何も変わらない。
「法術と言うのは、こう使うのですよ! 天罰の章。第七節『改悪』展開!」
サマエルが腕を動かす度に、炎が揺らめき一つの形を作り出す。
「焔の蛇よ! 神罰の化身よ! 蒙昧なる者に抱擁し、その罪を自覚させよ!」
それは灼熱に燃える巨大な蛇だった。
頭から尾まで、全て真っ赤な炎で作られた大蛇。
サマエルによって人を殺す力を得た、天罰の具現だ。
「………」
この世の物とは思えない怪物を目撃しながらも、バジリオの表情は変わらなかった。
バジリオだけでは無い。
周囲を取り囲む者達も、多少の恐怖が見えるが、誰一人として逃げ出さない。
「…?」
「放て!」
そのことに気付いたサマエルが訝し気な顔を浮かべた時、バジリオの口から合図が出た。
瞬間、全ての人間の手から青白い光が放たれる。
大なり小なり同時に放たれる光は、油断していたサマエルの手足を貫いた。
「…何?」
焔の大蛇を放とうとしていたサマエルの動きが止まる。
身体が、動かない。
全身が石になってしまったかのように、指一本動かすことが出来ない。
「何だ、コレは」
サマエルの手足には、釘のような形をした光の塊が刺さっていた。
一本や二本ではない。
先程放たれた光の数と同じだけ、光の釘が突き刺さっている。
「それは『聖釘』と言う法術だよ。シモン=マグス」
「…懐かしい名だ。その名前で呼ばれるのは五百年ぶりですねェ」
「法術の父と呼ばれたアンタに見せるのは少々恥ずかしいが、それは僕が作った法術でね」
全身が拘束されたサマエルを見ながらバジリオは言う。
推測は間違っていなかった。
サマエルはシモン=マグス本人。
悪魔では無く、堕ちた使徒なのだ。
通常の法術が通用しないのは、彼が悪魔では無いから。
だとするなら、通常ではない法術を作り出せば良い。
「対使徒法術『聖釘』…それは、使徒を拘束する法術なんだよ」
かつて、バジリオはソレーユ村に於いて対人間用の法術を開発し、部下に教えていた。
その時と同じ要領でバジリオは新たな法術を開発したのだ。
対使徒用の法術を。
本来なら不遜極まりない所業だが、バジリオは手段を選ばなかった。
敵は、最古の使徒なのだから。
「神をも恐れぬ所業ですねェ…」
「僕達は僕達自身の手で人類を救って見せる。神には余計なことさせずに、黙って見ていて貰うよ」
「く、は…ギャハハハハ! 良いですねェ! その物言い! 使徒にして置くのが勿体無いぐらいだ!」
全身を拘束されながらも、サマエルはゲラゲラと笑い続ける。
その眼は愉悦に歪んでいた。
「だが! 勝ち誇るにはまだ早いですよ。手を休めるな! 容赦するな! 決死の覚悟を決めろ!」
サマエルが叫ぶ度に、手足に穿たれた聖釘からバキバキと音が響く。
まるで悲鳴のように、音は段々と強くなっていく。
「そら………もう術が解けるぞ」
「ッ! 総員、次射を構えろ!」
バジリオが声を上げるのと、サマエルの封印が解けるのは殆ど同時だった。




