第八十八話
己が何者なのか理解して、最初に感じたのは優越感だった。
悪魔と言う絶対的強者である自負。
その力の前には、人間など愛玩動物に過ぎなかった。
『コレで金髪は三十人目か。流石に飽きたな。次は別の色も集めてみるか…』
否、愛玩動物と言うよりは玩具だった。
愛だ恋だと口にはするが、やっていることは子供の人形遊びと変わらない。
魔眼を使って洗脳して『ままごと』を愉しみ、飽きれば捨てる。
シュトリが司る物は『色欲』
愛など知る筈も無かった。
『………』
ある日、シュトリは美しい聖女の話を聞いた。
その名は、セシリア=トリステス。
とある田舎町の教会に暮らしている使徒の女だ。
退屈していたシュトリはすぐに教会へ向かった。
『ふう。帰ったらレライハにお礼を言わないとな』
レライハの悪法によって、今のシュトリは完全に人間と変わらなかった。
ケイナン教の教会に入っても、正体がバレることは無いだろう。
深夜、皆が寝静まった頃を見計らって窓から忍び込む。
あとは眼さえ合わせれば、終わりだ。
今までと同じように、簡単に手に入る。
『…ん? 誰か、そこにいるのですか?』
鈴を転がすような声が聞こえた。
期待に胸を膨らませるシュトリの眼に映ったのは、月明かりに照らされた華奢な女。
『………』
美しい、と素直に思った。
使徒特有の金色の髪も、荒事に向かないような細く柔らかそうな手足も、素朴だが愛嬌のある顔も、
無意識の内に魔眼を使用していた。
黒く濁ったシュトリの視線が、セシリアの眼を射抜く。
『んんー? 気のせい、かな? 誰かいたような気がするんだけどなー…』
『…?』
しかし、何故か何も起こらなかった。
セシリアはシュトリの存在すら気付いていないかのように、キョロキョロと辺りを見回している。
(この女。まさか、眼が…?)
どこか焦点の合わないセシリアの眼は、よく見ると光が無い。
この女は眼が見えないのだ。
だから、シュトリの存在に気付かず、魔眼も効果が無い。
こんなことは初めてだった。
魔眼が通用しない人間がいるなど、思いもしなかった。
だが、シュトリは尚のことセシリアに興味を持った。
魔眼が使えないと言うのも、面白い。
たまには能力抜きで、自前の話術だけで女を口説くのも一興だと思ったのだ。
そうして、シュトリはその夜は一度帰り、翌日に姿を現した。
名乗った経歴など適当だ。
目的のセシリア以外には魔眼を惜しみなく使って、その田舎町に居座った。
『旅人さんは今までどんな所を旅したのですか?』
セシリアはシュトリの話を聞くことを好んだ。
旅人と名乗ったことが何か琴線に触れたらしい。
毎日のように教会に通うシュトリを不審に思うことも無く、楽しそうにシュトリの話を聞いていた。
『大陸は殆ど全部巡ったな。知っているかい? 大陸の北部には…』
話題の種が尽きることは無かった。
何せ、かれこれ四百年以上も生きているのだ。
その過程で大陸は全て巡ったし、興味を持った物は全て見に行った。
人生経験が違う。
『凄いですね! 旅人さん若く見えるのに、一体どれだけ旅を続けていたんですか?』
『ふふふ…こう見えて我輩もそれなりに歳を取っているんだよ。まあ、まだまだ現役だけどね』
朗らかに笑いながらシュトリは言う。
会話が楽しくて、思わず自然に笑っていた。
『こんな話は知っているかい? あのね…』
『え? 本当ですか? それは…』
セシリアは感情豊かで、コロコロとよく笑った。
その笑みを見る度に、シュトリは何か心が満たされるのを感じていた。
こんなに何かを楽しいと思ったのは、初めてかも知れなかった。
すぐに口説き落として連れ去ろうと考えていたのに、段々とそんな気も無くなっていた。
そんなことはせずとも、この穏やかな時間が少しでも長く続けば…
それだけで、幸せだった。
『………』
一年が経った。
この田舎町にも馴染み、シュトリはセシリアの恋人として町で有名になっていた。
思いを打ち明けた訳では無かったが、互いに否定はしなかった。
シュトリ同様に、セシリアもまたシュトリに惹かれていた。
『私、元々は聖都に住んでいたんです』
ある時、ぽつりとセシリアは言った。
『だけど、私は眼がこんなだから戦いの役には立たなくて。田舎に帰って来たんです』
セシリアはそう言って少し寂し気な顔を浮かべた。
面と向かって口にされた訳では無かったが、誰もが内心思っていた。
何故役に立たない盲目な女などに権能が目覚めたのか、と。
そんな周囲の眼に耐えられなかったのだ。
『ここの人は皆、良い人ばかりです。私なんて、傷の治療すら満足に出来ないのに。皆、私を受け入れてくれている』
『それはきっと、君の人徳だろう。君は神に選ばれた使徒だと言うのに驕りが無く、誰にでも分け隔てなく接している。それは強い力よりも得難い素質だと思うよ』
そう、与えられた力に溺れていたシュトリよりもずっと素晴らしいことだ。
愛だの恋だの口にはしていたが、結局のところ誰も愛していなかった。
本当の愛とは、こんなにも穏やかな物なのだと。
彼女に出会って、知ることが出来た。
『子供が、出来たみたいなんです』
更に数年が経ったある日、セシリアははにかみながら言った。
『ほ、本当かい?』
シュトリは驚きと喜びが混じった顔で言う。
身体を重ねることはあったが、どこかで諦めていた。
所詮、シュトリは悪魔であり、セシリアは神の使徒。
結ばれることを神が認める筈がない、と。
『それは素晴らしい! ああ、こんなに嬉しいことは無い! お祝いをしないとな!』
シュトリは歓喜した。
神はシュトリとセシリアの愛を認めた。
悪魔であっても、人を愛しても良いのだ。
そう信じて疑わなかった。
…この時までは。
『………』
その日、シュトリはアンドラスに呼び出されていた。
身重のセシリアを一人にするのは心配だったが、アンドラスを無視する訳にもいかなかった。
仕方なく、すぐに戻ることを告げて教会の者に後を任せていた。
『…ッ!』
用事を済ませてその日の内に教会へ戻ると、そこは異様な雰囲気に包まれていた。
入ってすぐに怪しげな集団に襲われ、返り討ちにしながら奥へと進んだ。
『セシリア…!』
一刻も早く彼女に会いたかった。
彼女の無事を確かめたかった。
教会の中を走り、彼女の部屋に辿り着いたシュトリの眼に飛び込んできたのは…
『……あ…』
血塗れの状態で倒れる愛しい人の姿だった。
『セシ、リア…?』
訳が、分からなかった。
教会を襲った不審な者達は、人間だった。
教会の者を全て殺し、セシリアを傷付けたのは、彼女と同じ人間だった。
人間が何故、同じ人間を傷付けるのか悪魔であるシュトリには分からなかった。
『旅人、さん』
『ッ!…セシリア…!』
何も映さないセシリアの瞳が、ゆっくりとシュトリの方を向いた。
思わず駆け寄ろうとする前に、セシリアは口を開く。
『旅人さんは、悪魔だったのですか?』
『…ッ』
シュトリの足が止まる。
何故、それを知っているのか。
口には出さなかったが、セシリアはシュトリの反応で確信を得たようだった。
『今日、私達の娘が生まれたんです。教会の皆に、助けて貰って…』
息も絶え絶えに、セシリアは言う。
『生まれてきた赤ちゃんは、人の姿をして、なかった』
『…なッ』
『身体には妙な痣があった。頭には角が生えていた。何より、魔性を纏っていた…』
それは、明らかに人間の子供とは姿が違った。
悪魔を意味する痣や、山羊のような角。
悪魔の特徴を色濃く引き継いでいた。
『……………』
神は、我々の愛を認めてくれたのでは無かったのか。
どうして、こんな最悪の形で秘密を暴露したのか。
悪魔が人を愛することなど、やはり間違っていると言うのか。
『皆、死んだ。悪魔に関わったから、悪魔の子供を産んだから…私、は……ゲホッゲホッ…!』
無表情で言うセシリアが大きく咳き込んだ。
その口から赤黒い血が零れて、床を穢す。
『セシリア…! 治療を…』
それで我に返り、シュトリはセシリアへ駆け寄ろうとした。
悪法を使えばこんな傷、すぐに治る筈だと。
手を、差し伸べた。
『私に近寄るな、悪魔!』
その時、セシリアは叫んだ。
今までに見たことも無いような、憤怒の形相で。
『ゲホッ…私は、私は…あなたを…!』
叫ぶセシリアの眼から涙が零れた。
悲しみと憎しみを込めて、呪いの言葉を吐く。
『…わ、我輩は……』
『赦さ、ない、私は…!』
光の無い瞳が、シュトリを初めて射抜いた。
『絶対に、あなたを、赦さない…から…』
それが、セシリアの最期の言葉だった。
愛した者に裏切られた絶望を抱えて、聖女はこの世を去った。
『……………我輩、は…』
初めから、間違いだったのだ。
悪魔が、人間に受け入れられる筈がない。
化物が人のふりをして、愛を口にすれば、誰かに愛されるとでも思っていたのか。
そんなこと、ある筈も無いのに。
『……………』
絶望するシュトリの耳に、足音が聞こえてきた。
彼女を殺した、ケイナン教の過激派共だろう。
彼らにとって、彼女は悪魔の虜になった魔女なのだろう。
(…違う)
この結末は受け入れるが、彼女が魔女と貶められることだけは認めない。
彼女は聖女だった。
悪魔さえ思わず救いを信じてしまう程の、紛れも無い聖女だったのだ。
認めるものか。絶対に。
『見つけたぞ、悪魔め!』
『そこを動くな!』
背後から聞こえてくる声を無視して、シュトリはセシリアの下へ向かう。
彼女の綺麗な遺体を前に、片手を振り上げ…
『…はは』
邪悪な笑みを浮かべて振り下ろした。
ぐちゃり、と嫌な音が響く。
『なっ、何を…!』
『この女には、もう飽きた』
驚く男達に向かって、シュトリは邪悪な笑みを浮かべたまま告げる。
『魔眼で操って色々させてみたが、やっぱり聖職者の女は駄目だねぇ。頭も股も固すぎて…』
悪辣な言葉を使い、悪辣な笑みを浮かべ、邪悪な悪魔を演じる。
『き、貴様! まさか、聖女を…!』
セシリアは、あの聖女は操られていただけなのだ。
彼女は何も悪くない。
ただ、悪い男に騙されて、悪夢を見せられてしまっただけ。
悪いのは全て。
ここにいる悪魔だ。
『ははは、ははははははは…!』
「………」
シュトリは誰も居なくなった町を眺めていた。
サマエルが復活し、既に数日が経過していた。
未だサマエルはソドムに篭っていたが、彼の放つ蟲は次々と村や町を滅ぼしている。
一分一秒でも早く人類を滅ぼす為に。
その異変を知った人々は故郷を捨てて、聖都へ移動していたが、無意味な抵抗だ。
何故なら、あと数日もしない内にサマエルは聖都を滅ぼすのだから。
大陸各地にいた使徒も聖都へ向かったり、途中で蟲に殺されたりと様々だが、サマエルの相手を出来そうな者は一人もいない。
残る希望は聖都に残っている者達だが、法王を亡くした聖都がどれだけ持つか。
「…神ってやつは、どこまでも狭量だね。いざ人類が滅びるって時にも、助けようとしないのか」
神がカナンを生み出したのは、サマエルを滅ぼす為。
人類の善を象徴とする存在がカナンなら、サマエルは人類の悪を象徴とする存在。
彼らは対となっているのだ。
だからサマエルが復活すれば、相対的にカナンも復活する筈だ。
カナン自身か、若しくはカナンの力を引き継いだ後継者が。
「………」
遅い。遅すぎる。
何故現れない。神は本当に、人類を見放したと言うのか?
このままでは…
「アバドン、と言うのはどうでしょうか?」
考え込むシュトリの背後から声が聞こえた。
コツコツと靴を鳴らし、それは近付いてくる。
「名前ですよ、な・ま・え。彼らをいつまでも蟲と呼ぶのはどうかと思いましてねェ」
空を飛ぶ蟲のような怪物を見上げながら、サマエルは笑みを浮かべた。
その身体に異常な点は、もう見当たらない。
「…完治したのかい」
「ええ。もう完全復活ですよ」
ニヤリと笑って、サマエルは無表情のシュトリを見つめる。
「親が元気になったと言うのに、あまり嬉しそうではありませんねェ?」
「そんなことは、無いよ」
「ははは…まあ、無理も無いですか。そうですねェ…」
けらけらと笑うサマエルはそこで、何かを思いついたように笑みを深めた。
不穏な気配を感じ、シュトリは一歩後退る。
「邪神とは言え、コレでも神を自称する者です。一つ、慈悲を与えてあげましょうか」
「慈悲…?」
シュトリは心底不思議そうに首を傾げた。
そんな言葉を吐くとは思わなかった、と顔に書いてある。
「アンドラスから聞きましたよ。セシール=トリステス、でしたっけ? お前の娘は」
「………」
「その娘、私の手で完全な悪魔に変えてあげましょう」
「ッ!」
「私が世界を滅ぼすまでの短い時間、親子仲良く最期の時を迎えなさい」
まるで、本当の聖職者のようにサマエルは穏やかな笑みを浮かべた。
しかし、口にする言葉は普段と何も変わらない。
他者の破滅を嘲笑う、悪魔の甘言だ。
「明日、聖都を滅ぼします。お前は私より先に、娘を確保しておきなさい」
パチン、とサマエルが指を鳴らすと空を飛んでいた蟲達が一斉に集まってきた。
火に飛び込む蛾のように、サマエルに引き寄せられた蟲達は融け合い、取り込まれていく。
それは悍ましい光景だった。
人に似た形をしているが、サマエルは人では無い。
四百の悪魔の融け合った、異形の怪物なのだ。
「…ッ」
アレには誰も敵わない。
明日、聖都は滅びるのだ。
なら、シュトリに出来ることは…




