第八十五話
「………」
ある一室で一人の女が酒を飲んでいた。
素人にも分かる程の値打ち物を浴びるように飲み続ける長い黒髪の美女。
周囲には何本もの空の瓶が転がっているが、女の表情は変わらない。
自棄になったようにどれだけ酒を飲んでも、全く酔うことが出来なかった。
「…何の用かしら?」
視線は向けずに、女は部屋に現れた招かざる客へ言う。
「随分と荒れているようだな。ペラギア=アリストクラット」
その客、オズワルドは数冊の本を片手にそう告げた。
「別に、単なる気晴らしですよ。先日の偽者のせいで、私も酷い目に遭いましたからね」
自嘲するようにペラギアは笑う。
先日、ペラギアはベリアルに捕まって数日間に渡って拷問されていた。
バジリオによって解放された後は、しばらく療養していたのだが、最近になって退院したのだ。
傷も癒えて元の美貌を取り戻しつつあるが、それでもペラギアの顔は晴れなかった。
「それに、もう世界は終わるのです。ならば、残り少ない人生を少しでも楽しむべきでしょう?」
絶望した顔で痛々しい笑みを浮かべるペラギア。
ペラギアはサマエルは復活したことで希望を失った者の一人だった。
ヴェラが死に、サマエルが復活した。
もう人類は終わりなのだと悟ってしまったのだ。
「まだ時間はある。法王様の残してくれた時間が」
「…フッ、その法王様もサマエルには勝てなかった。四百年もの間、聖都を護り続けたあの法王様が」
ペラギアはそう言って新しい酒瓶に口をつけた。
「あなたは法王様のことを意外と高く評価していたのだな。嫌っているように見えたが…」
「ッ…!………嫌っていようが、疎んでいようが、事実は事実よ。それを認めない程に子供では無いわ」
一瞬、苦い顔をした後にペラギアはそう吐き捨てた。
ヴェラのことは嫌いだったが、内心認めてもいたのだ。
本人の前では一度も口にすることは無かったが。
「先程も言ったが、時間はある。その間にサマエルのことを調べて、対抗策を…」
「…分かってないわね! サマエルが、あの悪魔がどれだけの絶望なのか!」
ペラギアは怒りのままに、酒瓶を叩き割った。
「歴史を紐解けば分かるわ! あの悪魔に比べれば、法王様だって一人の弟子に過ぎない! カナンと全ての弟子を相手にして、それでも圧倒した悪魔なのよ! アイツは!」
「………」
「かつて、五百年以上前にはこの大陸にも十の国があったと言われているわ。十の王がいて、十の軍が存在した。なのに、サマエルには誰一人歯が立たなかった!」
今の大陸に国は存在しない。
あるのは聖都と言うヴェラの興した町だけ。
サマエルの暴れた百年の間に、十の国が全て滅ぼされてしまったのだ。
「その知識があれば…」
「…何か言いました?」
「あなたの知識があれば、サマエルに対する対抗策を考案できるだろうと言っている」
オズワルドがペラギアの下を訪れた理由は、それだった。
『枢機院』としての地位を利用し、世界各地の本を読んだペラギアの知識量はヴェラすら超えている。
その彼女の知識さえあれば、謎の多いサマエルの正体が分かるかも知れない。
「…ハッ。出来る筈も無い。私など、使徒になれなかったから使徒の知識だけ蓄えていた女よ? 騎士の話を読んで自分が騎士になったと妄想に浸るような物………本物の使徒には敵わない」
ペラギアは泣きそうな表情でそう言った。
彼女の言う本物の使徒とは、ヴェラのことだろう。
歴史を読む度にペラギアは使徒の偉大さを知り、現実の自分の矮小さを思い知らされたのだ。
使徒になりたかった。
そうすれば、認められると思っていた。
「法王様はあなたのことを認めていた」
「…何を、言っているのよ!」
気休めに聞こえるオズワルドの言葉に、ペラギアは表情を怒りに歪めた。
「枢機院と言うのはね! あの女がかつての仲間を想って作った組織なのよ! 次々と神に見放されて落ちぶれていく子孫達に同情して!」
それはペラギアが長い間抱えていた苦悩だった。
「他の馬鹿共は金と権力さえあれば満足していたけど、私は嫌だった! 私は、私自身の力で人々を救いたかった! 子孫としてでは無く、私自身を認めて貰いたかった!」
どれだけ努力しても法術一つまともに使えず、権能を得ることも無い。
神に見放されてしまった愚かな娘。
それをヴェラはずっと庇護し続けた。
それが、それが許せなかった。
ただカナンの弟子の子孫だからと言う理由だけで、特別扱いだ。
幼い頃、ペラギアはヴェラに約束した。
必ず使徒になって、ヴェラの力になると。
それを聞いた時さえも、ヴェラはペラギア自身を見ていなかったと言うのか。
「法王様はあなたのことを認めていた。それは真実だ」
「何を、根拠に…!」
「不思議に思わなかったのか。どうして私が、あなたが博識であることを知っているのか」
「…それは」
オズワルドは手にしていた数冊の本を、ペラギアに見せた。
それは歴史書やカナンの伝説に対する考察などを記した本だった。
全て、ペラギアの書いた本だった。
「何で、それを…」
「法王様の部屋に置いてあった。法王様は確かにあなたのことを見ていた。あなたの努力を、あなたの才能を常に見守っていたんだ」
ヴェラはペラギアの敵意に気付かないふりをして、仲良くしようとしていた。
それはペラギアがかつての仲間の子孫だからでは無い。
使徒に選ばれずとも認められようと努力しているペラギア自身に、好感を抱いたからだ。
「わ、私は…」
「…聖誕祭の一件後、法王様はあなたが偽者だったことを知って心から喜んでいた」
オズワルドは思い出すように目を閉じる。
聖都で暗躍していたペラギアがベリアルの偽者だったこと。
本物のペラギアがベリアルに捕まっていたこと。
それを知って、ヴェラは喜んでいた。
「法王暗殺計画。あなたは悪魔の甘言に乗らなかった。あなたは法王様の地位を求めていたが、その命を奪うのではなく、法王様に認められることに拘った」
「あ、あああ…」
「それが、法王様は嬉しかった。使徒で無くとも、あなたは確かに我々の仲間であると」
ペラギアの眼から涙が零れた。
ヴェラが死んだと聞いた時に枯れ果てる程に流した筈なのに、涙が止まらなかった。
「私は、ただ認められたくて…! 法王様に………ヴェラ、様に…!」
「…あなたが本当に欲しかった物は、とっくの昔に手に入っていたんだよ。あなたはただ、それに気付かなかっただけだ」
「…ッ!」
ペラギアは声も出さずに、その場に泣き崩れた。
憧れていた人に認められていた喜びに。
その人物に二度と会うことが出来ない悲しみに。
ただ、泣き続けた。
荒れ果てた町並み。
人の生きていた痕跡を確かに残しながらも、既に生活感の失われた町。
道を歩くのは人でなく、異形の悪魔達。
禍々しい魔性が包むその魔都の名は『ソドム』
背徳の町とも呼ばれる七柱の本拠地だ。
「…それで、サマエル様はまだ出て来られないの?」
「聖都から戻ってからずっとだね」
ソドムに存在する巨大な建造物。
深い崖に囲まれた『朽ちた廃城』にて、アンドラスとシュトリは会話していた。
「あの時は驚いたな。お父さんったら、復活してすぐに石になっちゃうんだから」
「…あの方のことは『サマエル様』と呼ぶように。無礼な真似をしたら、私が殺すわよ」
「はいはーい。サマエル様、バンザイ」
どうでも良さそうにそう言いながら、シュトリは城の奥の部屋を見る。
聖都から戻ったサマエルが石化を解く為にずっと篭っている部屋を。
「…そもそも、あなたの悪法で治して差し上げれば良かったのでは?」
「あー。我輩も一応、そう言ったんだけど。何か断られちゃったんだよねー」
「なるほど。この程度のこと下僕の手を借りる必要など無い、と。流石はサマエル様」
何やら尊敬の眼差しで奥の部屋を見つめるアンドラス。
やや熱っぽい視線に好奇心を刺激されながらも、シュトリは小さく息を吐く。
(サマエル様にラブなドラスちゃんには悪いけど、アレは自信なんて優しい感情ではないと思うよ)
サマエルは自身の力に絶対の自信を誇っている。
それは間違いないのだが、それだけなのだ。
彼が信じるのは自分自身のみ。
それ以外の全てを信じておらず、壊したいと思っている。
自身が生み出したアンドラスやシュトリですら、信じていないのだ。
(なるほど。ベリアルちゃんが我輩達にまで正体を隠していた筈だ。きっと、正体を明かせばサマエル復活の邪魔をされると疑っていたのだろう)
シュトリはともかく、アンドラスなら喜んで協力するだろうに。
ベリアルはそれを信じなかった。
その時、ギギィと音を発てて奥の部屋の扉が開いた。
現れたのは、当然サマエルだ。
まだ石化が完全には解けていないのか、左腕が石のままだった。
「集まっていましたか。丁度良かったな」
「さ、サマエル様…!」
アンドラスはサマエルの顔を見て、慌てて跪いた。
それを見ながらもシュトリはそのままだ。
「…アンドラスか。四百年ぶりですね」
「サマエル様、あの…この度は、知らぬこととは言え、無礼を、その…!」
「…うん? 何を言っているのです?」
何やら平謝りしているアンドラスに訝し気な顔を浮かべ、視線をシュトリへ向ける。
「ドラスちゃんは困惑しているんだよ。まさかお父様が幼女になっているなんて思わなかったら! もうどう接して良いか分からない! と言う乙女心を察して下さい」
「き、貴様! 私が言い難いことをズバズバと!?」
「我輩も少なからずショックだよ。まさか、嬉々として風呂を覗いていた相手が実の父親だったとか」
珍しい凹んだ様子でそう言うシュトリに、アンドラスは顔を赤くしたり青くしたりする。
そんな二人を見て大体の事情を察したのか、サマエルは呆れたように息を吐いた。
「なるほど、私の分身の話ですか。アレには私の記憶を与えましたが、あくまで分身に過ぎません。アレにしたことで私に負い目を感じる必要はありませんよ」
「さ、サマエル様…!」
感極まったように叫ぶアンドラス。
普段と全然キャラが違うな、とシュトリは内心呟く。
「とは言え、アレも中々役に立ってくれましたね。ベリアルと言いましたか。アレのお陰で私は復活することが出来ました」
「…私も命令さえ頂ければ、あなたのお役に立ってご覧にいれます!」
眼の奥でメラメラと炎を揺らめかせながら、アンドラスは身を乗り出した。
(ベリアルちゃんに『嫉妬』したのかな? 嫉妬のアンドラスだしなー)
以前、本人は『嫉妬』の名を否定していたが、こう言う所を見るとこの名を与えたサマエルの判断は間違っていなかったと思う。
今まで冷めていたのは、単にそれだけ情愛を抱く対象がいなかったからなのか。
「そうですね。では、一つ役に立って貰いましょうか」
「何なりと」
「このソドムにいる人間達を、皆殺しにして来て下さい」
買い物でも頼むような気軽さでサマエルは言った。
「…え? あの、地下に捕えてある家畜用の人間のことでしょうか?」
「それのことです。さっきから彼らの『声』がうるさくて仕方ないんですよ。耳障りで石化の解呪に集中できない」
「声…?」
シュトリはサマエルの言葉に、首を傾げた。
声など何も聞こえない。
当然だろう。人間達は地下に捕えられているのだ。
幾ら悪魔の耳が優れていても、地下にいる人間の声までは聞こえない。
それなのに、サマエルは今も聞こえているかのように険しい表情で耳を抑えている。
「あァ、五月蠅い五月蠅い。蠅共が救いを求める声、命の音。こんな物をいつまでも聞いていたら、頭がおかしくなりそうだ!」
「…?」
どうやら、サマエルには本当に人間の声が聞こえているようだ。
それも気が狂う程の大勢の声を。
「で、ですが、彼らは何の力も無い家畜ですよ? 人類を滅ぼして我々の世界を作る時に必要かと…」
「何を言っているのですか。今は何の力も無くとも、いずれ使徒に覚醒するかも知れないでしょう」
確かに、サマエルの言葉は尤もだった。
どの人間が、どのタイミングで使徒に覚醒するかは誰にも分からない。
神の血は全ての人類に流れているのだから。
「私は人類は滅ぼす。そこに一つの例外も無い」
「し、しかし、それでは私達は魂を得られなくなり、共に滅んでしまうのでは…?」
「…お前は何か勘違いしているようだな」
サマエルの三つの眼がアンドラスを射抜く。
「私は新たな世界など作る気は無い。私は神の作った全ての存在を滅ぼす。その果てに私自身が滅んだとしても何ら構わない」
それは悪魔をも超える狂気、そして執念だった。
ここにいるのは物を考え、迷う生命では無い。
ただ己の目的の為に突き進むだけの概念だ。
何が死のうと、何が滅びようと、コレは止まらない。
『人を害する』と言う悪意が形を成したような存在。
それがサマエルだった。
「それで、どうしますか?」
ゾッとするような壮絶な笑みを浮かべてサマエルは言う。
「その献身の果てにあるのが滅びであると知っても、お前達の忠誠は揺るがないのですか?」
「ッ!」
アンドラスやシュトリの内心を見透かしたようにサマエルは嗤った。
サマエルは人類を滅ぼす。
そして、その次に待っているのは悪魔の滅亡だ。
このままサマエルに従うと言うことは、自ら滅びの道を進んでいることに他ならない。
しかし、
「…私はサマエル様に従います。何があろうとも」
それを理解した上で、アンドラスは断言した。
頭を深く下げた後、翼を広げて飛び去る。
サマエルに命じられた命令を果たす為に。
「………」
(恋は盲目、か。我輩にも覚えがあるよ…)
その痛々しい献身に同情するような眼を向けながら、シュトリは思う。
「シュトリ。お前はどうですか?」
そんなアンドラスの態度に何も感じていないのか、サマエルは平然と言った。
こんなことを嬉々として伝える程だ。どちらでも構わないのだろう。
自分が滅びる時までサマエルに従うか、身を護る為にサマエルに反逆するか。
どちらを選んだ所でサマエルの計画に支障は無いのだろう。
今滅びるか。後になって滅びるか。
その選択肢を与えて苦悩する姿を見て愉しんでいるだけだ。
悪辣。非情。残忍。外道。
どんな言葉でも言い表せない程の悪意の塊だ。
「我輩は…」
「ルァァァァァァ!」
シュトリが答えようとした時、城の壁を破壊して黄金の獣が飛び込んできた。
灼熱の黄金の鎧に身を包んだ半獣半人の怪物。
それは、暴食のモラクスだった。
「モラクス…! 生きていたのか…」
「ルロロ…ラァ…」
人外の言葉を吐きながら、モラクスはサマエルを睨んでいた。
「久しぶりですね。随分とボロボロですが、大丈夫ですか?」
サマエルの言うように、モラクスの身体はボロボロだった。
鎧には罅が入り、左足と頭部の一部が損壊している。
ヴェラと戦った際に負った傷だろう。
「ラァ…!」
頭部を失ったからか、普段以上に錯乱した様子のモラクス。
どうやら、目の前にいるサマエルのことを悪魔と認識できていないようだ。
敵意と殺意の混じった眼を向けている。
「私のことが分からないのですか?」
「ルァァァァァァ!」
「…それは悲しいですね。お前は人間をよく間引いてくれたから重宝していたのに。飼い犬に手を噛まれるとはこのことですか」
ふう、と残念そうに息を吐くサマエル。
それを隙と思ったのか、モラクスが襲い掛かる。
「まあ、それはそれとして。もうお前は要りませんねェ『聖撃』」
「ルァ…!」
三メートルを超える巨体が光に包まれ、消し飛んだ。
ドロドロと溶けていく黄金の塊が宙を舞い、城を囲む崖の下へと落ちていく。
底の見えない闇の中に消えていくモラクスだった物を、サマエルはゴミでも見るように見下ろしていた。
「役に立たない道具ほど、無益な物は無いですねェ。所詮、四百年与えても人間を滅ぼせない出来損ないばかりですか」
心から嫌悪するようにサマエルは言った。
サマエルにとって全ての存在は破壊対象だ。
それは自らが生み出した存在であっても変わらないのだろう。
彼らを壊さないのは、まだ役に立つから。
利用価値があるからこそ、今すぐにでも壊したい破壊衝動を我慢しているのだ。
「さて、話が途中でしたね」
「………」
「シュトリ。お前はそれでも私に忠誠を誓えますか?」




