第七十五話
「命令…」
バジリオの口から命令が下される。
それはバジリオだけが許された絶対命令権。
例え耳を塞ごうと必ず聞こえる神の声。
「天罰の章。第七節展開」
オズワルドの後方に青く燃える炎が出現する。
揺らめく炎は天使を模した姿に変化し、その手に燃える弓を構える。
「「『撃て』」」
オズワルドとバジリオが同時に呟く。
神の名の下に下される神の命令。
それに逆らう信仰者には天罰が下る。
だが、逆に命令の従った場合は、その強制力はプラスに働く。
「…ッ」
放たれた火の矢が大きく膨張する。
神の加護を受けたことで火力を増し、その大きさはアンドラスを容易く焼き尽くす程。
「チッ…そんな遅い攻撃が当たるか!」
残った右翼だけを動かし、アンドラスは飛翔した。
先程よりも速度は遅いが、それでも火柱と化した矢を容易く躱す。
「片翼だけでは飛べないとでも思ったかしら! 不意打ちをくらわせた程度で良い気になるな!」
叫びながらアンドラスは宙を舞う。
火の天使を警戒してか、僅かに距離を取っていた。
それを見て、バジリオはオズワルドへ視線を向ける。
「オズワルド」
「分かった。箱舟の章。第六節展開」
口の動きと目の合図だけで理解し、オズワルドは新たな法術を展開した。
青い炎がバジリオ達を包み、円を描くように燃え盛る。
「消えなさい『九十の魔弾』」
右翼から羽根を模した魔弾が放たれる。
その数は九十。
一発でも十分に人を殺せる弾丸が、全てバジリオに向かう。
「『退魔障壁』」
同時に、オズワルドの法術が完成した。
それは青い炎の結界。
外から侵入する全ての魔性を焼き払う、対魔性結界だ。
悪魔自体や物理衝撃などには無意味だが、魔性なら例え七柱が放った魔性であっても無効化する。
「…馬鹿な」
九十の弾丸を撃ち尽くした後、アンドラスは驚愕に目を見開く。
「…有り得ない。どうして、私が撃つ前から退魔障壁を張っていた! 私が魔弾を撃つと分かっていたとしか思えない行動よ!」
「分かっていたんだよ。お前が魔弾を撃つと」
バジリオは不敵な笑みを浮かべてそう言った。
まるで狼狽するアンドラスの姿を嘲るように、笑っていた。
「お前の好んで使用する能力は悪法と魔弾。そして魔弾を使用する時は、敵から距離を取る癖がある」
「ッ…!」
「この十年。お前を殺す方法を考えない日は無かった。遂にその首に手が届いたぞ、アンドラス!」
アンドラスは生まれて初めて、人間に恐怖を感じた。
人間の執念。
悪魔よりもずっと弱い存在でありながら、その思いは時に悪魔すら凌駕する。
(…凄い)
その二人の連携を見て、セシールは心の中で呟いた。
バジリオはこの時の為に、十年間アンドラスのことを調べ尽した。
悪法を封じる方法、魔弾を防ぐ方法、それらを考案し、実行に移す行動力。
しかし、バジリオは単独ではアンドラスに勝てない。
それを補っているのが、オズワルドだ。
並の使徒を超える法術を操るオズワルドがいるからこそ、バジリオの作戦は成り立っている。
バジリオ一人では、アンドラスを倒す火力が足りない。
オズワルド一人では、アンドラスの攻撃を見抜けない。
互いが互いをフォローしているからこそ、アンドラスを追い詰めている。
「………ははは、あははははははははは!」
アンドラスは宙に浮いたまま、狂ったように笑いだした。
その眼は、バジリオを真っ直ぐ見つめている。
「悪法と魔弾を封じた? 舐めるなよ、人間共! それで私に勝ったつもりか!」
フッとアンドラスの姿が掻き消えた。
悪法ではない。
全力を出した、アンドラスの速度だ。
「ッ…! 後ろだ!」
辛うじてそれを目で追ったのは、類稀な視力を持つバジリオのみ。
すぐに伝えるが、一秒反応が遅れる。
「…ぐっ!」
反応が間に合わなかったオズワルドの背中を、アンドラスの爪が走った。
傷はそれほど深くないが、オズワルドには何も見えなかった。
攻撃する瞬間も、攻撃した瞬間も。
「遊びはもう終わりよ。死ぬまで切り刻んであげるわ!」
「…流石に、簡単には壊れませんか」
大聖堂の地下。
聖櫃を前にして、ベリアルは残念そうに呟く。
「コレが見た目通りの箱ならば、これほど手間をかける必要も無かったのですが…」
そう言いながら手から放った魔性が、聖櫃に触れた途端に消滅する。
流石は、賢者カナンの生み出した物。
生半可な攻撃では、傷一つ付かないようだ。
「今まで、長かった」
三年前に形無き悪魔として生まれ、サロメに取り憑いた。
二年をかけてマナに受けた傷を癒し、完全にサロメの肉体を支配した。
一年をかけてシュトリを探し出し、七柱と手を結んだ。
七柱とマナを利用して、ここまで辿り着いた。
「ベリアル…!」
「来ましたか」
青白い粒子と共に現れたセーレとマナを見て、ベリアルは笑った。
「ビンゴ。やっぱり、ここに居たか」
セーレは獰猛な笑みを浮かべてベリアルを見た。
「もう逃がさねえぞ…! 『転移』」
セーレの姿が消える。
今までのパターンから予想していたベリアルは、咄嗟に前へと飛ぶ。
瞬間、背後に転移していたセーレの手が空を切った。
「チッ!」
すぐに追う様に腕を振り上げるセーレ。
それを見てベリアルは小さく笑みを浮かべた。
「思ったより、優しいのですね?」
ベリアルの手から黒い霞のような魔性が放たれる。
人間ならともかく、悪魔であるセーレには何の効果も無い攻撃。
「…目晦ましか!」
「そうですよ。この程度の魔性なら、私でも使えますからねェ」
そう笑うベリアルの皮膚が裂け、少なくない血を噴き出した。
その光景に、思わずマナが悲鳴を上げる。
「おっと、この程度の力を使うだけでも、身体が持ちませんか」
「ち、血が…サロメの身体から…!」
「…私のことが心配ですか? 姉さん?」
震えるマナを見て、ベリアルは悪辣な笑みを浮かべた。
それから視線をセーレに向ける。
「どうして手加減なんてするのですか? その気になれば、私なんて十秒と掛からず殺せるのに」
「ッ…貴様」
煽るようなベリアルの言葉に、セーレは殺気立った目を向ける。
ベリアルの言う通りだった。
セーレとベリアルの実力差は大きい。
本気になれば、今の数秒でセーレはベリアルをバラバラにすることが出来た。
しかし、それでは意味が無いのだ。
セーレとマナの目的は、サロメの身体を取り戻すことなのだから。
そして、ベリアルはそれを良く理解している。
「どうしましょうか。このまま戦っては、私は自滅してしまいます。自身の魔性に毒されて、この肉体と共に死んでしまいますよ?」
「ッ…!」
「キキ…キャハハハハ! それでも良いのですが、私だって出来れば死にたくありません。なので、一つ私から提案があるのですが…」
狡猾なベリアルは自身の肉体を人質にして、告げる。
自らの目的を。
「セーレさん。あなたの能力で、この聖櫃の中身を取り出してくれませんか?」
「…何だと?」
セーレは訝し気な表情を浮かべた。
ベリアルの要求の真意が分からなかった。
この聖櫃は賢者カナンの棺。
中身はカナンの遺体の筈だが…
「あなた方は私から肉体を奪いたい。でも、あなた方に肉体をあげてしまったら、私はとても困るのです」
元々自我が薄く、肉体に憑依しなければ自我を保てない存在故に。
サロメを差し出すなら、代わりが必要だ。
「…まさか、貴様」
「その通り。賢者カナンの肉体を、次の私の依り代にしようと思っているんですよ」
ベリアルはそう言って、笑みを深めた。




