第七十四話
「いやぁ、こうしているとソレーユ村で再会した時のことを思い出すね」
シュトリは場違いにも穏やかにそう言った。
聖都のあちこちから聞こえてくる悲鳴や破壊音など聞こえていないかのように、笑っている。
「シュトリ。貴様も、聖都を滅ぼしに来たのか…」
「………」
セーレの言葉にシュトリは答えなかった。
「あなたも人類の敵であることが存在意義だとでも言うつもりですか?………ベリアルのように」
どこか残念そうにマナは言った。
度々人間性を見せていたシュトリに少し期待していたのかも知れない。
「あの子と一緒にされるのは流石に心外だな。我輩は、誰に命令された訳でもなく、我輩自身の意思でここに立っている」
シュトリは珍しく不快そうに眉を顰めた。
疲労を吐き出すように、深いため息をつく。
「我輩は疲れたんだよ。いい加減、この長い戦いにも決着を付けるべきだと思わない?」
「悪魔側の勝利で、か」
「そう。でも、セーレ。仮に悪魔が勝利しても、君が考えているようなことにはならないよ」
「…何?」
かつてセーレは人類を絶滅させることは自殺行為だと言った。
人類滅亡の次に待っているのは、悪魔滅亡だと。
人間の魂を喰らって知性を保つ悪魔は、人間がいなければ生きられない。
その懸念を、シュトリは否定する。
「君も昔、ドラスちゃんから聞いたことがあるんじゃないかな? 人間を『飼育する』と言う計画を」
「飼育…?」
「ッ…!」
首を傾げたマナとは対照的に、セーレは顔色を変えた。
驚きから怒りへ。
セーレは表情を変える。
「…あのクソ女。まだそんなことを考えてやがったのか!」
「ふむ。やはり、知っていたようだね」
「当たり前だ! 俺はその計画を聞いて、あの女には付き合いきれねえと判断したんだ!」
ギリッとセーレは歯を食い縛る。
百五十年以上前、まだセーレが七柱と行動を共にしていた時、セーレはアンドラスの計画を知った。
当時はまだ漠然とした物だったが、その発想の悪辣さにセーレはアンドラスと袂を分かつ決意をした。
「セーレ、その飼育と言うのは…?」
「…言葉通りだ。人間から意思を奪い、飼い殺すんだよ」
セーレは心底不快そうに吐き捨てる。
「家畜と同じだ。生かさず殺さずの人間から魂だけを延々と供給させる計画。『人類奴隷化計画』とでも言おうか」
「そんな…ッ」
人から考える機能を奪い、ただ喰われるだけの家畜に変える。
アンドラスの能力なら、それが可能だ。
どこまでも人類を軽視した悪魔の計画。
「君は知らないだろうけど、既に『ソドム』では奴隷が作られている」
「…何だと?」
「アンドラスが脳を弄り、我輩が心を弄り、幸福な夢を見ながら喰われるだけの豚に変わったよ」
無表情でシュトリはそう告げた。
チラリと周囲に目を向ける。
「聖都の人間もいずれそうなる。死ぬよりはマシだと思わない?」
「…本気で、そう思っているんですか?」
「………」
マナの睨むような視線を見ても、シュトリの顔は変わらない。
「決まっているだろう? 我輩はね。大勢の人間を殺した、極悪人なんだよ?」
ただその眼の奥に、何か激情が見えた気がした。
それを隠すように、シュトリは無表情の仮面を被る。
「人と悪魔は相容れない。ならば、人が悪魔の奴隷になることが共存。ハッピーエンド、と言うやつじゃないかな?」
「どう考えてもバッドエンドです。本当に共存を望んでいるなら、相手を尊重しないと」
「尊重、尊重ね…」
シュトリの頬が引き攣った。
マナの言葉が、何か深い所に触れたような反応だった。
「君らが信仰を捨てない限り、我々は相容れない。あのクソッタレな神は、我々の生存を赦しはしない」
「…まるで、神に会ったことがあるような発言だな」
「会ったことは無いよ。だが、奴の力はこの世界に届いている。運命と言う物さ」
明確な敵意を滲ませて、シュトリは吐き捨てる。
「聖都が陥落すれば、人は神の手から離れる。そうすれば、もう邪魔する者は何もいない」
聖都が滅び、使徒が消えれば、世界は変わる。
誰を恐れることもなく、人間の手を取ることが出来る筈だ。
(『あの時』の繰り返しにはならない…)
シュトリの脳裏に、たった一人の娘が過ぎる。
今はまだ、その手を掴むことは出来ない。
だが、全ての障害が片付けばその時は…
「…?」
ぴくり、とシュトリの肩が動き、どこか別の方向へ目を向けた。
「ドラスちゃんがセシールに何か…」
何かに気付いたように呟くシュトリ。
その隙をセーレは見逃さなかった。
「『転移』」
意識がセーレ達から離れた瞬間、セーレはマナの手を掴んだ。
シュトリが気付くよりも先に、二人は青白い粒子に包まれて消える。
「…おや、逃げられたか」
特に慌てた様子も無く、シュトリは呟いた。
まるで、それすらも予定通りとでも言いたげに。
「お前は…」
アンドラスは現れたバジリオを見下ろしながら呟く。
その隣には、オズワルドの姿もあった。
自身の記憶と照らし合わせ、嘲笑を浮かべる。
「…ああ、あの時の。部下を残して無様に逃げ帰った男ね」
「そうだ。その無様に逃げ帰った男だよ」
「はは、あははは! それで? 今回は部下の為に命を落としにきたのかしら?」
バジリオに抱き留められたセシールを見ながら、アンドラスは嘲笑した。
部下を犠牲に生き残ったと言うのに、これでは部下も浮かばれない。
このアンドラスの前に二度現れて、生き残れると思っているのか。
「LA―――Ar―――」
機嫌良さそうに笑うアンドラスの口から歌声が響く。
心を乱し、人を魅了する美声だ。
異形の翼を持つとは言え、魅力的な女性の姿をしているアンドラスは見惚れる程に美しかった。
「醜いな」
「………今、何と言った?」
「醜いと言ったんだよ。ある物語に『セイレーン』と言う人面鳥が出てくるが、正にそれだ。人の成り損ないの醜いキメラめ」
バジリオの挑発に、歌が止まった。
嘲笑を浮かべていたアンドラスの顔が怒りに歪む。
「貴様…!」
「どうした? お前の担当は憤怒では無かった筈だが?」
「良い度胸ね。すぐにでも殺してあげるわ!」
アンドラスの姿が消える。
同時に、バジリオの四方からアンドラスが襲い掛かった。
全く同じ姿。同じ形を持った四体のアンドラス。
本体は一体で、他は偽者だが、見分けることは出来ない。
その筈だった。
「…そこだ、オズワルド。命令『法術強化』」
「分かっている。天罰の章。第五節展開」
迷いなくその内の一体を指差したバジリオに従い、オズワルドは手を向ける。
砲身を思わせる模様の陣の中心に、光が収束していく。
「『聖撃』」
「…何!」
バジリオの権能で強化された光の砲弾が放たれる。
それはアンドラスの左翼に触れた瞬間、爆発的な光を放ち、翼を跡形もなく焼き払った。
衝撃でアンドラスは地面に叩きつけられる。
「馬鹿な。どうして、私の悪法が…!」
「お前の悪法の正体なんて、とうの昔に見抜いている」
地に落ちたアンドラスを見下ろしながら、バジリオは告げる。
「調べたさ。お前に部下を殺されて十年。あらゆる資料を漁って、お前のことを調べ続けた」
残された資料はそう多くなかった。
皆殺しの異名に相応しく、アンドラスに出会った者はほぼ全て死亡していた。
数少ない生存者もそのショックで発狂していた。
それでも、バジリオは調べ続けた。
「人の認識を操る悪法『嫉妬』………その鍵は歌だ。お前はどんな人間を殺す際も、一度は必ず歌を歌っていた」
「ッ…!」
「歌で惑わすなんてレベルでは無いが、お前の悪法は歌を聞かせた者を自在に操る能力だ」
効果時間や効果範囲までは分からないが、恐らく一日程度は余裕で持つのだろう。
だから最初に歌を聞かせ、敵を術中に嵌めるスタイルを取っている。
「ならば、話は簡単だ。歌を聞かなければいい」
「…一体、どうやって!」
アンドラスは起き上がりながら、叫んだ。
先程、バジリオは確かに歌を聞いた筈だ。
この距離で聞こえなかった筈がない。
「海に住むセイレーンと言う怪物は歌声で人間を誘い、海に引き摺り込むと言われる。その対処法は何か知っているか?」
「………」
「それはな。耳に蝋を詰めることだ」
バジリオは自身の耳を軽く叩きながら、そう告げた。
その耳には蝋が詰まっていた。
「耳栓! そんなどうして、お前はさっきから私を会話を…!」
言いかけて、アンドラスは気付いた。
バジリオの眼が、アンドラスの眼では無く『口』を見ていることに。
ハッとなり、アンドラスは自身の唇に手を当てる。
「貴様…! 読んでいたな! 私の唇を!」
「口を隠したから何を言っているか分からないが、恐らくその通りだ。僕は、読唇術が使えてね」
ニッと笑みを浮かべ、バジリオはオズワルドを見た。
オズワルドの耳にも当然、耳栓がつけられている。
彼ら同士の会話も、読唇術で行われていたのだ。
「これでお前の悪法は完全に封じた。さあ、次は残った右翼を捥いでやるぞ。アンドラス」




