第五十五話
「………」
聖都を一人歩きながら、セーレはヴェラから聞いたことを思い出していた。
セーレの知らなかった百三十年前の聖戦。
使徒側の勝利であると語られている戦いの真実は、暴食の暴走による痛み分けだった。
(レライハの奴は法王が殺したと言っていたが、モラクスは本当に死んだのか?)
ヴェラは、モラクスが死んだ所までは見ていないと言っていた。
それでも死んだと思っていたのは、それ以降モラクスの目撃情報が無かったからだろう。
セーレもゴモラが壊滅してからはモラクスの名を聞いたことは無かった。
だが、あの厄介な怪物は本当に死んだとはセーレには思えなかった。
(だとするなら、敵はアンドラス、シュトリ、モラクスの三体か)
シュトリはともかく、アンドラスだけは必ず殺すとセーレは心の中で誓う。
アレは先日の一件で、セーレのことを敵視している。
実力では敵わない以上、放置するのは危険だ。
(………)
何だかんだ長い付き合いだが、七柱に対する情は欠片も無い。
今までは衝突する理由が無かった為、不干渉を貫いていただけであって、敵対するなら是非も無い。
「あぁ! やっと帰ってきたんだね!」
「…ん?」
聞き覚えのある声を聞き、セーレは視線をそちらへ向ける。
視線の先で、先日会ったクララが嬉しそうに飛び跳ねていた。
小動物のように笑うクララの前には、くすんだ金髪の青年が立っている。
「ニコ君、怪我は無い? 鎧とか壊れちゃった所は?」
「大丈夫だ。あまり騒ぐなよ」
銀の鎧に身を包んだ青年は、呆れたように息を吐いた。
その腰には、銀の鞘に入った剣が差してあるので彼が噂の『聖剣使い』なのだろう。
(名前は…ニコラウス=アルミュールとか言ったか?)
本人よりも聖剣に興味を持ちながら、セーレは彼らを眺める。
「あれ? ここに穴が空いているよ? 今回って討伐任務だった?」
「ああ、そこは…傲慢のレライハと交戦してな」
(レライハだと?)
聞き耳を立てていたセーレは訝し気な表情を浮かべた。
ヴェラの話だとレライハは既に死んでいる筈だが…
死んだように見せかけて、姿を隠していただけだったのだろうか。
(…アイツにそんな器用な真似が出来るようには思えないが)
セーレの覚えているレライハは、誰よりも好戦的でその名に相応しく『傲慢』だった。
遠距離戦で最大の実力を発揮するくせに、慢心からわざわざ敵の前に出てくる程の実力を過信した自己主張の激しい男だった。
百三十年前の戦い以降、急に名前を聞かなくなったのでセーレも彼が死んだものだと予想していたくらいだった。
「勝ったの?」
「いや、勝ったとは言えないな。こうして逃げ帰って来た訳だし」
「…? ニコ君、何だか疲れてる?」
「そうだな、少し疲れた。今日は早めに休ませてもらうよ」
心配そうに見つめるクララを引き連れ、ニコラウスは去っていった。
「………」
死んだと思っていたレライハは生きていた?
モラクスも死んでいない?
だとすれば、今の彼らはどこで何をしている?
(…俺の知らない間に、七柱で何が起きてやがるんだ)
聖都でも目立つ黄金と赤と派手な屋敷。
あまり趣味が良いとは言えないペラギアの室内にて、二人は会話をしていた。
「法王暗殺の最大の障害は、ニコラウス=アルミュールです」
高級そうな椅子に座り、紅茶を口にしながらペラギアは言った。
「強欲のセーレでは無いのか?」
紅茶の入れられたカップが黄金製であることに顔を顰めながら、バジリオはそう返す。
例の聖剣使いの噂は聞いているが、それよりもセーレの方が強いと考えていた。
「彼は悪魔でしょう? 悪魔がどうして法王を護ろうと動きのですか?」
「…それもそうだな」
状況次第では法王の味方もしそうだと思ったが、敢えてバジリオは何も言わなかった。
毒を警戒してテーブルに置かれた菓子にも紅茶にも手を付けず、バジリオは腕を組む。
「暗殺決行は聖誕祭の当日。その時にあなたにはニコラウスを抑えて貰いたいのです」
「…確かにどんな相手であれ、信徒であるなら僕の権能で抑えられるが…」
「無論、ただとは言いません。私が法王に至った後、最初に作る使徒の騎士団のトップの地位を約束しましょう」
「そうは言うがな。大体、お前はどうやって法王を殺すつもりだ?」
「………」
バジリオの言葉に、ペラギアは無言で笑みを浮かべた。
それに仄暗い感情を感じて、バジリオは険しい表情をする。
「答えられない、か。まあいい。どんな手段であれお前に殺されるなら、法王はその座に相応しくなかったと言うことだろう」
「ええ、その通りです。王に必要なのは神の加護ではなく、決断力。この世に不要な物を切り捨てる冷酷さこそが王の証なのです」
そう口にするペラギアの顔には何の感情も宿っていないように見えた。
「全て全て『不要』なんですよ。過去の遺物に祈り続ける愚王も、救いを齎さない神を信じ続ける愚民も、この世には不要な物が多すぎる」
表情の無いペラギアの眼に、黒い感情が宿る。
それはあらゆる感情が凝縮された、濃密な黒。
その眼に映るあらゆるものを憎悪するような闇を宿した眼だった。
「………少し興奮しすぎたようです」
そう言って暗い笑みを浮かべるペラギアに悪寒を感じ、バジリオは立ち上がる。
逃げるように背を向けるバジリオを見て、ペラギアは残念そうに息を吐く。
「折角の紅茶とお菓子なのに、食べて戴けませんでしたね」
「…失礼、そろそろ店番に戻らないといけない」
「真面目な人ですね…」
カップを傾けながらペラギアは呆れたような視線を向ける。
それに気づき、バジリオは振り返った。
「お前と手を組む以上、確認しとくが…」
バジリオはその眼で、ペラギアの顔を見つめた。
神掛かった観察眼を持つ白金の視線がペラギアの性質を見透かす。
「お前は、本当に『人間』か?」
ペラギアの見せた静かな殺意を思い出し、バジリオは尋ねた。
「何を言っているんです?」
不思議そうにペラギアは言う。
その口元が三日月のように吊り上がり、目が愉悦に歪む。
「そんなこと、分かり切っているじゃないですか」
「…そうか」
その答えに頷き、バジリオは今度こそペラギアに背を向けた。
「法王様。お時間よろしいでしょうか」
「オズワルド? 大丈夫ですよ」
「失礼します」
ノックした後に入ってきたオズワルドは深刻そうな表情を浮かべて、ヴェラを見た。
「枢機院が不審な動きをしているようです」
オズワルドはそう言うと、何かの資料を机の上に置く。
「その筆頭はペラギア=アリストクラット。彼女は悪魔と契約をしたこともあると言う黒い噂の絶えない人物です」
机に置かれた資料は全てペラギアの物だった。
その一枚に目を通しながら、ヴェラは渋い顔を作る。
「噂はただの噂ですよ。それは根も葉もない噂だったと、以前言ったではありませんか」
ヴェラは憤慨したように言った。
他の人間ならいざ知らず、ヴェラが悪魔と契約した人間を見抜けない筈がない。
先日出会ったペラギアからは悪魔の痕跡を感じなかった。
確かにペラギアは評判の悪い人物だが、悪魔に魂を売る程に堕ちてはいないとヴェラは信じている。
「…法王様。あなたは少々、人間を信じすぎています。悪魔より惨いことを企む人間など、この世には腐るほどいるのですよ」
「………」
「ペラギア=アリストクラットは法王様の暗殺を企んでいます。これは確かな情報です」
オズワルドから齎された情報に、ヴェラは少なからずショックを受けた。
従士であるオズワルドのことは信頼している。
彼は不確定な情報でヴェラを惑わせたりはしない男だ。
彼が言うからには、それは事実なのだろう。
「…これでも、人を見る目はある方だと思っていたんだけどね」
ヴェラの脳裏に、幼い頃のペラギアの姿が過ぎる。
自分が使徒になるものだと疑わず、厳しい訓練も積極的に行い、努力し続けた彼女。
ヴェラのようになりたい、と彼女はいつも言っていた。
憧れを胸に理想を追い続けていた彼女の眼から、光が消えたのはいつだったか。
使徒に向けていた憧れが嫉妬に変わったのは、いつからだろうか。
「………」
それでも、法王を敵視しながらも己の力で聖都を護りたいと語った彼女は、まだ心まで腐ってはいないと思っていたのだが。
「聖誕祭はどうされますか?」
「…聖誕祭は実行するわ。ここで中止にしたら、使徒達の士気に関わりますからね」
「では、護衛を強化しましょう」
「そうですね。優秀な護衛には、何名か心当たりがあります」
ヴェラはそう言い、子供染みた笑みを浮かべた。
その夜、クララは一人で聖都を歩いていた。
買い出しを済ませたばかりなのか、大きな紙袋を両手で抱えている。
(店のおばさんの話を聞いていたら遅くなっちゃった。ニコ君、怒ってないかな…)
重い荷物を運びながら、クララは幼馴染のことを思う。
戦う力の無い、クララが聖都で暮らしているのは全てニコラウスのお陰だ。
ある日、聖剣に選ばれたことで村から聖都に移り住んだニコラウスを追いかけ、無理を言ったクララをニコラウスは従士に任命してくれた。
一人でも戦えるニコラウスを支える為、様々な雑用を覚えた。
少しでも彼の役に立ちたくて、悪魔のことも沢山勉強した。
「…あはは」
村にいた頃から、クララはニコラウスの後を追いかけてばかりだ。
彼に憧れ、ずっと追いかけて、今はこんな所にいる。
どん臭い自分の面倒を見てくれるニコラウスは、本当に優しい。
「こんばんは」
その時、クララの耳に女の声が聞こえた。
いつからそこにいたのだろうか、目の前に長い黒髪の女が立っていた。
「丁度良かった。あなたを探していたのですよ」
「あ、あの…」
何だろう、この感覚は。
甘い匂いがする。
女が喋る口から、甘ったるい毒が漏れて、クララの脳を溶かしていくような気分だった。
女の眼から目が離せない。
野心の強さを感じる目が黒く濁り、クララを射抜く。
「キャハハハ」
最期に悪童のような、笑い声を聞いた。




