第三十三話
悲鳴を上げながら逃げていく人々。
逃げ遅れ、悪魔に叩き潰された者の死体。
その地獄の中心で、バフォメットは返り血に塗れた腕を振り上げていた。
「酷い…」
目の前の惨状にセシールは思わず呟く。
人の形を失った遺体に混じるぬいぐるみを見て、セシールは顔を悲痛に歪めた。
「この化物め! よくも…!」
「ぐるァァァァ!」
セシールの声に反応したのか、バフォメットは剛腕を振るう。
それは咄嗟に身を屈めたセシールの肩を掠め、地面を叩き割った。
「くっ…箱舟の章。第五節展開!」
バフォメットの足元に光の円が浮かび上がる。
そこから天へと伸びる光の糸が鳥籠のように、バフォメットを封じ込めた。
「対魔封印!」
「ぐるァ!」
封印されたバフォメットが光の檻を殴る。
閉じ込められた獣の如く何度も殴る付けるが、光の檻はびくともしなかった。
(前に見た時より力が落ちている? そうか、ここが聖都だから…)
聖都には法王による結界が張られている。
ただ聖都に入るだけでもダメージを受け、それを潜り抜けて侵入したとしても弱体化は避けられない。
「これなら…!」
セシールは腰のベルトから銀のナイフを引き抜く。
それに法力を込め、身動きの取れないバフォメットへと投擲した。
「ぐが…」
両手合わせて六本のナイフが狙い通り急所を穿ち、その命を刈り取る。
瞬く間に肉体が崩れたバフォメットは小さな断末魔を上げて消滅した。
「ふぅ…私一人でも、これくらい倒せるぞ。使徒コマンダンめ」
安堵の息を吐きつつ、セシールを周囲を見渡す。
無残な死体を丁重に埋葬したいところだが、今は騒動を収めるのが先だ。
「………」
後回しにすることを内心謝り、セシールは目を閉じて祈りを捧げる。
どうか、彼らの死後が穏やかでありますように。
「…?」
その時、目を閉じていたセシールの耳に物音が聞こえた。
積み重なった布の下から子供の足が見えている。
「まさか…!」
嫌な予感を感じたセシールの前で布が取り払われ、中から小さな少女が顔を出した。
「あ、えと…」
それはまだ、十三歳くらいの少女だった。
痩せた身体に無地の布の服を纏い、肩まで伸ばした髪には逆十字の髪留めをしている。
よく怪我をするのか、額や左足に包帯を巻いており、消毒液の臭いを漂わせている。
「…マナ様?」
「え?」
セシールは無意識の内に呟いていた。
その少女の蜂蜜色の髪や白い肌、穏やかそうな顔立ちがマナによく似ていたからだ。
「えと、私はマナさんって名前ではない、ですよ?」
「あ、すまない。知り合いに似ていたから」
控えめに少女が否定したことで、セシールは我に返った。
確かに雰囲気は似ているが、年齢が違い過ぎる。
他人の空似だ、と頭を振った。
「私はサロメって言います。お姉さんは?」
「私はセシール=トリステス。使徒の従士をしている」
「従士さんだったんですね。あの、さっきの悪魔もあなたが…?」
少し怯えた様子で辺りを見渡しながらサロメが言った。
「ああ、バフォメットはもういない………ところで、君はここで何を?」
セシールの質問に、サロメは表情を悲し気に歪めた。
「…姉さんとはぐれちゃったんです。探してたらあの悪魔が出てきてから、急いで隠れて…」
布の山を指差しながらサロメは呟く。
バフォメットは力は強いが知能は低い。
隠れたサロメを見つけることが出来なかったのだろう。
「………」
セシールは人の形を失った死体を一瞥した。
最早、それが男だったのか女だったのかすら分からない死体達だ。
あの中にサロメの姉がいるとは思いたくなかった。
「…分かった。これから私が君を安全な場所まで連れて行く。お姉さんもきっと見つける」
例え姉が死んでいたとしても、せめてこの少女だけは助けよう。
そう決意し、セシールはサロメの手を握った。
不安そうなサロメの眼がセシールの眼を見つめる。
「ありがとうございます」
「よし、そうと決まれば…」
「あ、待って下さい」
意気揚々と歩きだしたセシールをサロメは慌てて引き留めた。
何か忘れ物があるのか、と首を傾げてセシールは足を止める。
「もう少し屈んでください」
「…? こうか?」
「そう、それでいいです」
言われるままに身を屈めたセシールを腕を掴むサロメ。
布の服のポケットから真新しい包帯を取り出し、セシールの肩に巻き付けていく。
「怪我をしているみたいだったので…」
言われてセシールは初めて気付いた。
先程、バフォメットの拳が肩を掠めた際、傷を負っていたようだ。
服が破れ、僅かに血が滲んでいた肩の傷を手慣れた仕草でサロメは手当てする。
「慣れているみたいだな」
「ええ、私よく怪我をするので、包帯を巻くのは得意なのです」
言われてみれば確かにサロメはあちこちに包帯を巻いていた。
コレも自分で巻いているのだろうか。
「よし、綺麗に巻けました」
「ありがとう。どうも、こう言うことは苦手で」
マナの治癒法術に頼っているせいか、このような普通の手当てが疎かになりがちだった。
悪い癖だ、とセシールは反省する。
いつだってマナが傍に居るとは限らないのだ。
「さあ、行きましょうか」
「ああ、そうだな」
少し元気になったサロメに笑いながら、セシールは歩き出した。




