第二十九話
「長い間、本当に済まなかった」
マナが目を覚まして最初に言われたのは、謝罪だった。
深々と頭を下げる村長を見て、マナは布団に入ったまま首を振る。
「いえ、良いんです。私が好きでしていたことですから」
「…ああ、そうだね。謝罪よりも感謝が先だったか…ありがとう」
「どういたしまして」
笑みを浮かべてそう答えるマナ。
それだけで、罪悪感を抱える村長は救われた気分になった。
「村の皆も君を心配していたよ。元気なったら、顔を見せてあげてくれ」
「はい」
「…皆と話したんだが、これからは本当に重い病気や酷い怪我の時だけ君を頼ろうと思う。何もかも君に甘えていては駄目だと彼に言われたからね」
村一つ滅ぼそうとした男を思い出し、村長は軽く身震いした。
彼のことは恐ろしいが、言っていることは全てが的外れと言う訳ではなかった。
特に、村がマナに依存してマナの負担になっていたことは事実だろう。
それを自覚した為、これからは変えていかなければならない。
「それにしても、彼は一体何者なんだい?」
村長は恐る恐るそう尋ねた。
少なくとも、最初に言っていたマナの従士には到底見えないからだ。
「えっと、それは…」
もう正直に答えた方が良いのか、と口をもごもごとさせるマナ。
村長も薄々はその正体に感付いているだろう。
意を決して、正直に話そうと口を開く。
「このクソガキ! 俺の仮面を返せ!」
その時、窓の外からそんな声が聞こえた。
「嫌だー! コレはもう私のだもーん!」
「すばしっこい奴め! 待てこら!」
「嫌だよー!」
窓の外で仲良く追いかけっこしているのは、セーレとリタだった。
子供故に怖い物知らずなリタの手にはセーレには仮面が握られ、予備の仮面を付けたセーレはそれを必死の形相で追いかけている。
セーレの恐ろしさを知っている村長の顔が瞬く間に青ざめる。
「悪魔をなめるなよ、クソガキ! 転移!」
「…? あれ、お面の人、どこに行ったのー?」
「貴様の後ろだ。くらえ! デビル・ナックル!」
「ぎにゃー!?」
ゴツン、と痛そうな音を発ててリタの頭に拳骨を落とすセーレ。
セーレは頭を抑えて涙目になっているリタから仮面を取り返す。
本気で泣かせない程度には手加減していたようだ。
「…彼は意外と子供好きなのかい?」
セーレの言葉は聞こえなかったことにして、村長はホッとしたように呟く。
子供の悪戯に付き合う程度には良識がありそうだ、と安堵したのだろう。
「誰彼構わず人を襲うような方ではないですよ。セーレは」
決して善人とは言えないが、そこは信頼している。
幼いリタと言い争うセーレの姿を眺め、マナは笑みを浮かべた。
「………」
聖都に帰る前に、マナはセーレを連れてある場所へ向かっていた。
そこは村の外れにある少し古いマナの家。
その裏にある、小さな墓だ。
「…墓は二つ、だな」
「ええ、父と妹です。母は私が小さい頃に村を出て行ってしまったから」
墓の前で祈りを捧げるマナはそう答えた。
マナの家族は悪魔に殺されたと言う。
同じ悪魔であるセーレがこの場にいることに思うところは無いのだろうか。
「セーレ。ありがとう」
「………はぁ?」
突然の礼に、セーレは訝し気な表情を浮かべた。
訳が分からない、と顔に書いてある。
「セーレに言われるまで、私は私の行動がどんな結果をもたらすか気付かなかった。ただ人に優しくすることで自分が満足するだけだった」
「………」
「だから、気付かせてくれて、ありがとう」
どこまでも自罰的で、どこまでも楽観的な娘だとセーレは呆れ果てた。
「貴様、悪意に鈍感過ぎるだろう。この俺が貴様の為に行動したと思っているのか?」
「流石にそこまで楽観的じゃないよ。セーレが本気で村の皆を殺そうとしたのは分かっている」
「ほう? それを理解して何故俺に敵意も殺意も向けない? 俺は貴様の家族を殺した者と同じ、人類の敵である悪魔様だぞ?」
「だってセーレはもう、村の皆に手を出そうと考えていないでしょ?」
確信めいた表情でマナはそう告げた。
仮面の奥に隠れたセーレの眼を真剣な顔で見つめた。
「…何故、そう思う」
「段々あなたのことも分かってきたよ。セーレが殺そうとするのは、力に溺れて堕落した人だけ。真っ直ぐ前を向いて生きている人には絶対に手を出さない」
悪魔の力に溺れる者、使徒の力に溺れる者、そんな堕落した者の魂のみを奪おうとする。
罪人の魂を地獄へ連れ去る御伽噺の中の悪魔のように。
悪意に鈍感なマナ故に、やや好意的に解釈し過ぎだが、それはセーレの本質に近かった。
「ハッ、悪魔にまで慈悲を見せるとは、つくづくお人好しな聖女様だ。俺は単純に、欲深い魂の方が美味いから選んで喰ってるだけだっての」
「…初めて会った時に味には拘らないとか言ってなかった?」
「言ってねえ。つーか、さっきから何か普段より馴れ馴れしくないか?」
普段使っていた敬語が抜けていることに気付き、指摘するセーレ。
無自覚だったのか、マナは少しキョトンとした顔をしている。
「ま、別に喋り方なんてどうでもいいか………ん?」
セーレは何かに気付いたように、どこかへ視線を向けた。
何か納得したように一人頷き、マナへ背を向ける。
「どこに行くのですか?」
「トイレだ」
「トイレ? 悪魔なのに?」
首を傾げているマナを無視して、セーレはその場を立ち去った。
セーレは欲深い魂の方が美味いから善人の魂は喰わないと言ったが、それは確かに嘘だ。
だが、セーレが善人を殺さない理由は、決して人道的な理由ではない。
元々セーレは五百年の歴史の中で大勢の契約者から魂を奪い、十分に腹を満たしている。
悪魔は人間に比べて小食だ。
この先数年、魂を食べなかったとしても知性が劣化することは無いだろう。
要は殺さない理由があるのではなく、殺す理由が無いのだ。
セーレが人間に関わるのは、人間観察の為。
故に、未知の行動を取る善人は興味深い『観察対象』であり、逆に契約相手で見飽きた悪人はすぐに興味を失う。
「………」
長く生きた悪魔ほど、自分が喰う為に人を襲わない。
積極的に魂を喰おうとするのは、魔物や下級悪魔などの生まれたての悪魔だけだ。
「知性の低いガキほど食欲旺盛なんだよなぁ、カークリノラース」
セーレは知人に語り掛けるように、そう言った。
視線の先にいるのは、人ではない。
村長の連れていた黒い毛並みの犬『ノラース』だ。
「『グラシャ=ラボラス』って呼んだ方が良いか? なぁ?」
「ミ、ミハシラサマ…」
「『殺意』のグラシャ=ラボラス、久しぶりじゃねえか。貴様は確か、アンドラスの眷属だったか?」
気さくに笑うセーレに対し、ノラースは震えながら後退る。
悪魔にも階級や地位がある。
始まりの悪魔であるグリモアの七柱と、彼らに作られた元人間である下級悪魔では実力も生きた年月も違い過ぎる。
せいぜい数十年しか生きていない元人間のノラースは、怯えながらセーレの顔色を窺った。
「殺戮を好む獣だった貴様が変わる物だな。自分が直接殺すのではなく、人間同士を殺し合わせようとするなんてさ」
「ナ、ナンノハナシヲ、シテイルノ、デスカ?」
「貴様だろう? この村の人間を洗脳し、聖女様をただの道具と思い込ませるようにしたのは」
だらだらと冷や汗を流すノラースを冷たい視線で見下しながら、セーレは告げた。
幾ら村人がマナに頼り過ぎてたとは言え、たった一年で堕落するのは流石に早すぎる。
それを加速させていたのが、ノラースだったのだ。
「村人共の依存度を高めた上で聖女様を殺すことで、拠り所を失った村人同士を殺し合わせるつもりだったんだろう?」
「ハ、ハイ…」
「ああ、気にすんな。村の人間を殺し合わせようとしたことに関しては割とどうでもいい。魔性を少量浴びた程度で洗脳されるアイツらが悪い」
へらへらとセーレは笑みを浮かべた。
気安い表情に、ノラースも安堵の息を吐く。
「だが、あの聖女を狙ったことは話が別だ」
セーレの言葉に、ノラースの身体が凍り付いた。
「貴様、俺の契約者の魂を喰おうとしたな?」
「チ、チガ…! シラナカッタ…!」
「知らなかった? 村に来てすぐに貴様は俺と会っているだろう。にも拘わらず、貴様は今も俺の契約者を涎を垂らして狙っていた」
墓参りをするマナを見つめる視線に気づいたから、セーレはここへ来た。
マナに宿る魂が余程魅力的に見えたのか、ノラースはセーレを出し抜いてでも魂を喰おうと機会を窺っていたのだ。
言い訳は出来ないと悟ったのか、ノラースは背から黒い翼を生やす。
「タベタイニンゲンヲ、タベテ、ナニガワルイ!」
抑えていた魔性を解放し、本来の姿に戻ったノラースはセーレへと襲い掛かる。
大口を開けて、ナイフのように鋭い牙をセーレに突き立てようとする。
「ドウシテ! ニンゲンノ、ミカタヲ、スル! コノ、ウラギリモノガ!」
「勘違いをするな。駄犬」
飛び掛かったノラースの頭部をセーレは片手で掴んだ。
「『アレ』は俺の契約者様だ! 俺の物だ! 俺の所有物に手を出す奴は、人間だろうと悪魔だろうと必ずぶっ殺す!」
セーレに掴まれたノラースの身体を青白い粒子が包んでいく。
「ガ、ア…アァ…」
「俺は強欲のセーレ様だからな! ただ、それだけの話だ『空間切断』」
青白い光が十字型にノラースの身体を走る。
無数の十字に切り刻まれたノラースは、断末魔すら残さずに細切れになった。
「ハッ、裏切り者か。初めから仲間のつもりもねえよ」
ブスブスと焦げた肉片を踏み締め、セーレは去っていった。
同じ頃、大聖堂にて走る影があった。
「ちょ、ちょっと待って、待って下さい! オズワルドさん!」
「退いてくれ」
急ぐオズワルドは法王の侍女である少女を押し退けて、扉を開ける。
本来なら法王の返事も待たずに入室することは不敬だが、今のオズワルドは冷静ではなかった。
顔には普段通りの仏頂面が浮かんでいるが、内心は荒波のように乱れていた。
「法王様! 使徒コマンダンの件についてお聞きしたいことが…」
「………オズワルド?」
強盗のように自室に押し掛けてきた者に気付き、法王ヴェラは驚いたように目を見開く。
ヴェラの恰好を見てオズワルドは固まり、ヴェラもまた固まった。
「ほ、法王様は、お着換え中ですって、言おうとした、のに…」
遅れてやってきた侍女がそう言った。
その言葉でヴェラは自身が下着姿だったことを思い出し、羞恥と怒りで顔を赤くした。
「れ、レディの部屋にノックもせずに入るんじゃありません!」
激怒するヴェラの指先から赤い光が放たれる。
それは石のように固まるオズワルドに直撃し、オズワルドを本当に石に変えた。
「きゃ、きゃあああああああ! オズワルドさんが! オズワルドさんが石になった!?」
「その石像は廊下にでも捨てなさい。着替えた後で戻してあげます」
そう言ってヴェラはオズワルドの手から落ちた書類を拾う。
「まあ、用件は予想がつきますが」
そこには、使徒コマンダンを『破門』にすると一言書いてあった。




