第二話
「五十年と三年ぶりか。このセーレを呼び出す愚かな人間が現れるのは」
それは、山羊に似た悪魔とは異なる、新たな悪魔だった。
山羊の悪魔よりはずっと人間に近い。
額に「avare」と刻まれた仮面を被った悪魔だ。
仮面に隠されているのは顔の上半分のみで、口元は露出している。
右耳にルビー、左耳にサファイアのピアスを付けており、靴も上等な革靴を履いていた。
セミロングの金髪を持ち、背は高いが、戦士には見えない体つきをしている。
身体には歴史を重ねた書物のように色褪せた焦げ茶色のローブを纏っている。
仮面で顔を隠しているが年齢は二十代前半くらいで、性別は男性のようだった。
「愚かな人間よ。我が主よ。望みは何だ? 剣か? 毒か? 薬か? どんな願いだろうと叶えてやるぞ」
口元を皮肉気に歪めて悪魔『セーレ』は告げる。
「んん? 貴様、よく見たら聖職者か? しかもこの場は教会か?」
周囲を見渡し、初めて気づいたようにセーレは呟く。
「ぷ、くくく、くははははは! 聖職者の娘が! 教会で悪魔を召喚する! おいおい、いつから教会はそこまで堕ちてしまったんだ? ははははは!」
可笑しくてたまらないと言いたげにセーレは腹を抱えて笑う。
それを見て状況が分からなかったマナも、段々と理解してきた。
目の前の男は悪魔であり、それを召喚したのは自分であることを。
「ぐるるるるる!」
セーレの笑い声に反応したのか、山羊の悪魔が吠えた。
遠吠えを聞き、セーレは訝し気な表情を浮かべる。
「何だ? シュトリの所の草食兵じゃねえか。名前は…バフォメットとか言ったか?」
「ぐるァァァ!」
バフォメットは狂ったように強靭な腕を振り上げる。
自身の胴ほどの太さを持つ腕を見上げながら、セーレは不快そうに口元を歪めた。
「躾がなってねえな」
パチン、とセーレは指を鳴らす。
瞬間、バフォメットの姿が跡形もなく消え去った。
「え…?」
マナは自分の目を疑う。
一瞬の出来事だった。
セーレが何か攻撃を放ったようには見えなかった。
それなのに、もうその空間には痕跡すら残っていない。
「さて、本題に入ろうか。察するに、貴様の願いはあの草食兵共からお前を守ることか?」
「そう、です…」
「―――よろしい。ならば、手を出せ。すぐにでも安全な所で送ってやろう」
「だ、駄目です! 私だけ逃げるなんて…!」
「ほう? それではどうする? この我に何を願う?」
薄々マナが何を言うのか理解しつつ、セーレは言葉を続ける。
マナは教会の外から聞こえる戦闘音に焦りながら、自分の願いを告げた。
「この町にいる悪魔を全て倒して下さい。それが私の願いです」
「…なるほど。それは何とも、聖職者らしい願いだ………どうやら悪魔に願いを叶えて貰うと言うことの意味が未だ分かっていないらしい」
呆れたようにセーレは両手を広げるジェスチャーをした。
「愚かなる我が契約者よ。コレは『売魂契約』だ。悪魔と人間の対等なビジネスだ。悪魔は無償で人に手を貸さない。当然ながら対価は貰う」
「魂を、売るってことですか?」
恐る恐るマナは呟いた。
悪魔は人の魂を喰らう。
それはこの世界に於いて、子供でも知っていることだった。
人間に近い容姿をしているが、セーレもバフォメットと何も変わらない。
魂を話術で奪うか、暴力で奪うかの違いでしかない。
「我はこれでも誠実で職務熱心な悪魔だ。故に等価交換を信条としている。この場から安全な場所に送るだけなら………そうだな。サービスしてもいい」
魂を失うと言うことは、命だけではなく死後の安息まで奪われると言うこと。
聖職者であるマナにとっては特に辛いことだろう。
「だが、この町にいる悪魔全てを殺すとなると少々値が張るぞ」
仮面をつけたセーレの顔がマナの方を向いた。
仮面の奥で青白い光が不気味に輝く。
「具体的には、魂一人分だ」
魂一つ。
言い換えれば、一人分の命。
この町を救う対価は、マナの命であるとセーレは告げた。
セーレの口元が愉悦に歪む。
年若い聖職者の苦悩に期待する。
「―――良かった」
しかし、セーレの期待を裏切り、マナの顔に浮かんだのは安堵の表情だった。
まるで不安が晴れたような笑みを浮かべている。
「『一人分』で良いのなら、私だけで事足りますね」
「……………は? 貴様、何を言っているんだ?」
心から安心したようなマナの言葉に、逆にセーレが表情を曇らせる。
訳が分からない。
この娘、死ぬことを一切恐れていないのか。
敬虔な聖職者の中には死をも恐れぬ殉教者がいるらしいが、それは長い人生と信仰の果てに得る物だ。
こんな若くて未熟な小娘が抱く信仰心ではない。
「その対価で構いません。お願いします」
「………」
(…ああ、そうか。コイツ、何か企んでやがるな?)
少しも恐怖を見せないマナの様子に、セーレは納得したように頷いた。
今までの契約者の中には、このようなタイプの人間もいた。
躊躇なく自分の魂を売り払い、清算の時になってそれを白紙に戻そうと企む狡猾な者達だ。
聖職者を呼んだり、傭兵を雇ったりして契約相手であるセーレを殺そうとした。
それらをあっさりと返り討ちし、絶望した契約者から魂を取り立てる快楽を思い出し、笑みを浮かべる。
「…よろしい、契約成立だ。今、その証を示そう」
そう言うと、セーレは上機嫌で教会から出ていった。
「ぐるァァァ!」
「この…!」
襲い掛かるバフォメットに向かってナイフを投擲するセシール。
ただのナイフでは、バフォメットの硬い皮膚を破ることは出来ないが、何事にも例外はある。
投擲されたナイフはバフォメットの弱い部分。
即ち、眼に突き刺さった。
「が、ああああァァァ!」
「ぐるるるる…!」
眼を潰された一体が悲鳴を上げるが、同時に別のバフォメットが接近してくる。
降り降ろされる腕を躱しながら、セシールは隙を見てナイフを投擲する。
敵を倒す為ではなく、少しでも戦闘を長引かせる為に、セシールは戦いを続けていた。
ここで足止めを続ける程に、マナの逃げる時間を稼ぐことが出来ると信じて。
たった数本のナイフで四体のバフォメットを相手し続ける。
しかし、そんな無茶が長続きする筈もなく、
「しまっ…!」
躱し損ねた蹴りを受け、倒れこむセシール。
ふらつく頭を持ち上げた時には、バフォメットの顔が目の前にあった。
「そこまでだ。バフォメット」
その時、セシールのすぐ近くから男の声が聞こえた。
セシールとバフォメットの間に立つように、唐突に出現した仮面の男。
「我はセーレ。我が契約者は貴様らの死を願った。故に貴様らは死ななければならない」
どこか芝居がかった口調で言い、セーレは目の前のバフォメットに手を翳した。
「端的に言えば、皆殺しだ。全力で抗え」
地面から青白い粒子が浮かび上がり、バフォメット達の身体が光に包まれる。
眩い光が風景を歪め、空間を捻じ曲げる。
ギギギ…と骨が軋む音を立てて、重なり合ったバフォメットが小さくなっていく。
見えない箱がゆっくりと潰れていくように、存在が縮小する。
「『圧縮』」
グチャリ、と致命的な音が聞こえた。
不可視の力で押し潰され、赤黒い塊が地面に転がる。
それが、バフォメット達の成れの果てだった。
「ぐ、ぐるァァァ!」
「お? 俺としたことが、一匹取り零していたか?」
青白い粒子から逃れ、辛うじて無事だった一体のバフォメットが吠える。
仲間を殺された敵を討つように容赦なく、セーレのいた場所を叩き潰す。
防ぐどころか、躱す余裕すらなくセーレの身体がバフォメットの腕の下に消える。
「どうした? そこに何か居たのか?」
「…ぐるッ!?」
背後から聞こえた声に、バフォメットは勢いよく振り返る。
いつの間に移動したのか、嘲笑を浮かべたセーレが無傷で立っていた。
「ぐるァ!」
バフォメットの持つ人間に似た腕がセーレの胴を掴む。
今度は絶対に逃がさない、とでも言いたげに両腕でセーレを握り締めた。
「くはっ、良くやった。そのまましっかり掴んでいろ!」
今度は青白い粒子がセーレの身体を包み込む。
それは当然、セーレを握り締めるバフォメットの両腕も光に包まれる。
「…決して離すなよ?」
バチッと何かが弾けるような音が聞こえた。
一瞬の光の後には、既にその場にセーレの姿はなく、
「ぐ、が、ああああァァァ!」
バフォメットの両腕も、肩から抉り取られていた。
「くははは! 悪い、俺の転移に巻き込んじまったな!」
(転移…? 今のが…?)
バフォメットを一方的に倒したセーレを見て、セシールは言葉を失う。
転移とは、空間を歪めて長距離を移動する術。
人間でも卓越した実力者なら使用することが出来る。
しかし、それは移動できる地点が限られており、回数制限もある。
どれだけ訓練を積んだ者でも、一日に一度や二度が限度。
発動にも長い時間が必要な移動手段。
それを、セーレは攻撃に転用している。
「我が名は『強欲』のセーレ! 狙った獲物は絶対に逃さねえんだよ!」
「グ…アァ…ナ、ナゼ、ミハシラサマ…!」
「ハッ、俺も仕事だからな。いや、同族を手にかけるのは心が痛むぜ」
抗議するようなバフォメットの視線を受けながら、セーレは指を鳴らす。
それだけでバフォメットの姿は完全に消失した。
全てのバフォメットを消し去ったことを確認し、セーレは警戒するセシールの方へ振り返る。
「それで、貴様は何者だ?」
「わ、私はセシール=トリステス。ケイナン教会の従士だ! お前こそ、何者だ…!」
セシールはナイフを数本握り締めながら、セーレを睨む。
「言葉を理解する程の知性を持つ悪魔が、どうしてこんな町に現れた!」
「…オーケー。誤解があるようだ。俺が来たんじゃない。俺は招かれたんだよ」
セーレは大袈裟に困ったようなジェスチャーをする。
その口元に堪え切れない愉悦を浮かべながら、話を続ける。
「そこの教会の入口に突っ立っている、間抜けな我が契約者様からな!」
セーレは指さした先には、驚いた表情を浮かべたマナが立っていた。




