第十二話
「あ、あなたは…?」
「ごめんね、少しだけ待ってて」
怪我した足を引き摺る少女に手を向けるマナ。
「洗礼の章…展開」
その手から淡い光が放たれた。
暖かい春の日差しのような光は、少女の傷口を包み込み、その傷を癒していく。
使徒や従士の使用する悪魔と戦う術、
『法術』の中でも最も基本的な物。
『癒やし』の力だ。
「立てる?」
「は、はい…」
魔物から庇いながら、マナは倒れていた少女の手を引いた。
少し離れた所にいる魔物はマナの放つ光を警戒しているのか、近付いてこない。
「この狼は私が何とかするから、君は先に逃げて」
「で、でも…」
「大丈夫。これでも私はケイナン教会の使徒だから」
安心させるように笑みを浮かべたマナに対し、少女は何故か表情を強張らせた。
「え、使徒、様…?」
驚いたようにマナの顔を見つめた後、浮かんだ考えを振り払うように頭を振った。
「…気を付けて、下さいね」
小さな声でそう呟き、少女は走り去った。
逃げる姿に反応した魔物が獲物を逃すまいと動き出す。
「行かせないよ!」
魔物の行く手を遮るように、マナは光の壁を展開する。
「――――ッ!」
それに気付かずに触れた魔物の足が焼け焦げ、魔物は言葉にならない悲鳴を上げた。
「洗礼の章は対人用の法術。人間の傷を癒し、人間が浴びた魔性を除去する」
本来は医療用の法術で、攻撃用ではないが、別の使い方も出来る。
魔物は魔性を浴びた獣。
魔性を除去してやれば、元の獣に戻るだろう。
(私が覚えている法術はコレしかないけど、コレで何とか…)
「が、あああああああ!」
魔物が絶叫する。
光の壁に触れた部分から焼け焦げ、黒い煙が上がる。
だが、止まらない。
全身を焼かれながらも、魔物は光の中を強引に突き進んでいる。
「何、で…」
獣であっても恐怖はある。
火を恐れ、痛みを恐れ、死を恐れる。
恐怖と言う物は全ての生命に平等に備わっている機能だ。
しかし、その常識に魔物は含まれない。
知性なき獣は何物も恐れない。
痛みも死も恐怖すらも、知らない。
ただ己の本能に従って、人間の魂を求める。
自ら火に飛び込む虫のように。
「ぐるァァァァァ!」
「ッ!」
咄嗟に身を屈めるマナ。
マナの血肉と魂を喰らおうと、大口を開けて飛び掛かる魔物。
その額に、一本のナイフが突き刺さった。
「大丈夫ですか、マナ様!」
「セシール…?」
慌ててマナの傍に駆け寄ってきたのは、ナイフを両手に握って武装したセシールと…
「…本当に死ぬまで治らねえな、その性格」
不機嫌そうに口元を歪めたセーレだった。
「セーレさん。セシールと一緒に助けに…?」
「言っておくが俺は何もしねえ。ほら、魔物が来たぞ」
ナイフの刺さった額から血を流しながら、魔物は再び大地を駆ける。
殺意の込められた目は、自身に傷を負わせたセシールに向けられていた。
「箱舟の章…展開」
ナイフに触れながらセシールは呟く。
銀色の文字がナイフに刻まれていき、その刃の輝きが増していく。
洗礼の章が対人用法術なら、箱舟の章は対物用法術。
武器に法力を込めることで強度を増したり、破魔の性質を付与したりする法術。
「悪魔相手には効果が薄いが、魔物程度なら…!」
両手合わせて四本のナイフを投擲するセシール。
知性なき獣は躱すことすらせず、全てのナイフをその身に受けた。
「滅びろ!」
セシールの声を合図に、魔物の身を貫いたナイフが光を放った。
身に打ち込まれた法力を浴びて、魔物の身体がボロボロと崩れていく。
最後に短い悲鳴を上げ、魔物は完全に消滅した。
「くはは、お見事。思っていたより強いじゃないか、従士」
「お前は…!」
からかうように言うセーレの胸倉を掴むセシール。
「何故、マナ様を見殺しにしようとした! 契約者じゃなかったのか!」
「見殺しにされる側の気分を味わえば、聖女様も少しは人間不信になると思ってな。この娘は人間を信用し過ぎている」
少しだけ声色を真剣な物に変えてセーレは言った。
胸倉を掴むセシールに自分から顔を近づける。
「それと勘違いするな。俺にとって人間なんてのは全て、ただの観察対象だ。コイツが死んだ所で、別の観察対象を探すだけだ」
仮面の奥からセーレの青白く光る眼がセシールを見ていた。
そこには何の感情もない。
まるで書類か何かを見ているような眼だった。
「お、お前は、悪魔だ」
「分かり切ったことを何度も言うんじゃねえよ」
薄く笑みを浮かべながらセーレはセシールの腕を振り払う。
ぼんやりとこちらを見ていたマナに顔を向けた。
「人間は平等に観察対象だが、俺は個人的に善人が嫌いでな」
「………」
「まあ、偽善者はもっと嫌いだが。ぷくく…」
堪え切れない笑みを零しながら、セーレはどこかを指差した。
その先は二人が馬車で向かっていた方角。
狼に襲われている少女を見捨てた人々が逃げ去った方向だった。
「特に皆を護る為だと口にして、ガキを見殺しにすることを正当化する偽善者とかな」
「…彼らに、何をしたんですか?」
「くははは! 俺は何もしてないぜ?」
我慢できなくなり、セーレは心底楽しそうに笑った。
家族を護る為、乗客を護る為、そんな綺麗事で人殺しを正当化する偽善者達の末路を嘲笑う。
「自分達が助かる為だけに他者を見殺しにして、必死で逃げた先にいるのは魔物の群れだ! ぷくく、くはははははは! 無念だなァ! どうせ死ぬなら最期に良いことすれば天国に行けたのになァ!」
「まさか、魔物は一体ではなく…!」
「おーおー、悲鳴が聞こえるぜ。絶望と悲愴の声が。コレはもう誰も助からねえな」
馬車にマナやセシールが残っていれば、何とかなったかもしれない。
しかし、二人は既に馬車を降りて、彼らはそれすら見捨てて逃げた。
セーレがセシールと共に馬車を降りたのは、その狙いがあったのかもしれない。
マナを助ける為ではなく、放っておいたら死ぬ偽善者達を見捨てる為に。
「貴様らも嬉しいだろう? 知らないとは言え、ガキを見捨てるような連中。自業自得と言うやつだ。胸がスカッとしねえか?」
「………」
上機嫌に笑うセーレの前に、マナは無言で立つ。
「セーレさん。私と契約して下さい」
「………聞き間違いか?」
ぴたり、と笑うのをやめてセーレは尋ねた。
口元が引き攣っている。
「まさかとは思うが、連中の為に俺の力を借りたいとか言うんじゃねえだろうな?」
「はい」
「…良く考えろよ。連中は貴様のことも見殺しにしたんだぞ? 貴様がガキを助ける為に魔物の前に転移したことを馬鹿な娘だと嗤った連中だぞ? それを助けると?」
「はい。その通りです」
「良いか、冷静に考えろ。魂が沢山あるから一個くらい良いやって思ってるだろ? 魂が百個あったとして内の一つを失うんだぞ? 例えるなら百年ある寿命が一年減るようなもの…」
「もう良いから! 早く!」
焦れたようにマナは困惑するセーレの腕を掴んだ。
仮面に隠れたセーレを顔を間近で見つめる。
「それともあなたは私に嘘をついたのですか! 契約者の願いを何でも叶えるんじゃなかったの!」
「ぐ、ぬぬ…! そこまで言うのなら! 貴様の願いを叶えよう、クソッタレ!」
パチン、と指を鳴らすと同時にセーレの姿が消えた。
馬車を襲っていたのは、五体の魔物だった。
一体でも一般人には十分脅威な魔物が五体。
それに囲まれた馬車の乗客達はパニックに陥ったが、すぐにそれは収まった。
魔物達の前に唐突に出現したセーレが一撃で全ての魔物を消し去ったからだ。
人間にとっては脅威でも、本物の悪魔には遠く及ばない魔物。
束になっても、セーレの敵ではなかった。
「…チッ」
感謝の言葉を言う乗客達をセーレは不機嫌そうに睨む。
マナのことは底抜けの善人だと思っていたが、まだまだ認識が甘かったようだ。
アレの精神は既に人の物ではない。
神の定めた法や秩序をそのまま体現したような。
善意が服を着て歩いているような善性の塊だ。
悪性の生命体であるセーレは吐き気がする。
「使徒、か。神の一部を継承した者とは良く言った物だ」
アレの精神構造は神に近い。
桁外れの魂の総量と言い、神から多くを引き継ぎ過ぎて精神が人間から神よりになっているのか。
(会ったことはないが、賢者カナンも人間とは違う精神を持っていたと聞くしな。やっぱり、敬虔な聖職者ってのは頭がおかしいな)
「はい、治りましたよ。他にも怪我をした方はいませんかー?」
「む…」
声の方を向くと、セーレが連れてきたマナが乗客の治療をしていた所だった。
魔物に攻撃された訳ではないが、逃げる馬車の中で怪我をした者もいたのだろう。
「ど、どうして君は私達を助けてくれるんだい?」
罪悪感に駆られたのか、治療を受けた乗客の一人が呟いた。
よく見れば、真っ先に御者に賛同した男だった。
「私達は、その…」
「…後悔しているのですか?」
セーレは特に怒った様子もなく、そう尋ねた。
男は暗い表情を浮かべて頷く。
「…ああ、そうだ。私ではあの子を助けられないのは変わらないが、助けようと考えもしなかったのは間違いだったと思っている」
マナとセシールに魔物と戦う力があると知っていれば、もっと簡単にあの少女を助けることが出来た。
それなのに、助けようと考えすらしなかったのだ。
「それなら、それで良いですよ。あの子もあなた方も皆、無事でしたし」
笑みを浮かべながらマナは言った。
「し、しかし、君は…」
「怪我は治せます。間違いは正せます。それで、良いじゃないですか」
それは本心からの言葉だった。
出会って間もない男にもそう確信できるほど、マナは心から笑っていた。
マナは誰一人恨んでいない。
馬鹿な娘だと、吐き捨てた男のことも少しも憎んでいない。
「…名前を、聞いてもいいかな?」
「マナです。マナ=グラース」
「マナ=グラース………いや、マナさん。本当に、ありがとうございました」
マナに向かって、男は深々と頭を下げる。
それを退屈そうにセーレは眺めていた。
「おいおい、百合娘みたいな目になってるじゃねえか。凄えな、新しい宗教作れそう」
高潔な精神は人を惹きつける。
特に信心深い者にとって、神の精神性は理想だ。
その者の様になりたい、と敬い慕うのは当然の結果だろう。
それがその者にとって幸福かどうかはまた別の問題だが…
「セーレさん。ありがとうございました」
「あ? 馬車はもう良いのか?」
セーレが視線を向ける先には、既に走り出した馬車があった。
「はい。ソレーユ村はもう近くらしいので」
「ここからは歩いていくことになったんだ」
警戒した目でセーレを睨みながら、セシールが言葉を続けた。
何か文句を言いそうになるセシールを抑え、マナは前に出る。
「セーレさんのお陰であの人達を助けることが出来ました」
「別に善意でやった訳じゃねえし、礼を言われてもな…」
「それでも、私では間に合いませんでした。本当にありが…」
ドスッとマナの言葉を遮るように、セーレは片手でマナの胸を貫いた。
続けてブチブチィと魂を引き千切る音が響き、セーレの腕が引き抜かれる。
パタン、とマナの身体が地面に倒れた。
「マナ様ー!?」
「だ、大丈夫。ちょっとびっくりしただけだから」
血相を変えて駆け寄るセシールにマナは安心させるように手を振る。
マナが無事であることを確認すると、セシールはすぐさまセーレの方へ向かった。
「もっと穏便に出来ないのか! 凄い音したぞ!」
「痛みは無い筈だ」
「そ、それでも急に胸に手を突っ込まれるのは心臓に悪いし、ドキドキするよ」
息を整えたマナはセーレの方を非難するように見る。
「次からは、優しくして下さいね」
顔を赤らめながらマナは妙なことを口走った。
セシールはギョッとして、今度はマナに駆け寄る。
「次なんてないですから! もっと! ご自愛! 下さい!」
「わ、分かったよ…」
心配のあまり涙すら浮かべて叫ぶセシールに、マナは渋々頷いた。
返事こそしているが、どうせまた同じような状況になればセーレに契約を迫るのだろう。
我欲は一切ないが、他人の為なら悪魔の力すら躊躇わずに使おうとする。
その代償に自分の魂が失われるとしても。
(…ふむ。悪魔の力を使うこと自体はそれほど忌避感を抱いていないようだ。自分の為ではなく、他人の為なら貪欲になる)
手元に出した羊皮紙にメモを取りながら、セーレはマナを観察していた。
(次からはそちらの方向でアプローチしてみるか? 何にせよ、作戦の練り直しだな)
羊皮紙を懐に仕舞い込み、セーレは口を開く。
「ご主人。俺はしばらく『家』に引きこもる。用があれば、呼び出せ」
一方的にそう言うと、セーレは返答を待たずに姿を消した。




