第一話
かつて、この地には『賢者』がいた。
乱れた世を救うべく立ち上がった彼は世界を旅し、人々を救った。
彼は行く先々で自身の考えに共感した者を仲間に加え、救世の旅を続けた。
助けられた人々は彼らを『使徒』と称し、心から感謝した。
賢者の名は『カナン』
後に伝わる『カナンと十人の使徒』である。
「………」
とある町の教会に一人の修道女の姿があった。
ふわふわとした蜂蜜色のロングヘアーを黒の頭巾で抑えている少女。
年齢は十七、八歳と言った所で、虫も殺せないような柔和な表情を浮かべている。
服の上からも分かる魅力的なスタイルを持ち、ゆったりとした黒の修道服に身を包んでいる。
黒っぽい服装と対照的に、肌は陶器のように白く、傷一つない。
装飾品の類は着けていないが、肩からやや不似合いな革の鞄を提げている。
「すげー美人だよなぁ…後で声をかけてみようかな」
「やめとけやめとけ、ケイナン教会の使徒様だろう? 雲の上の存在じゃねえか」
教会の入り口から様子を伺う男二人が囁き合う。
眼を閉じて祈っている少女に聞こえないように声を抑えながら、話を続ける。
「でも、何で使徒様がこんな田舎に?」
「さあな。使徒様が派遣されたってことは、きっと悪魔関連だろうけど…」
「ま、まさか、この町のどっかに悪魔が…?」
不安そうな表情で男が呟いた時、熱心に祈っていた少女が立ち上がった。
蜂蜜色の髪を揺らし、ゆっくりと振り返る。
「安心して下さい。今回は調査に来ただけですので」
柔らかい笑みを浮かべて少女は言った。
まるで今までの話を聞いていたかのような言葉に、男達は慌てだす。
「す、すいません。聞こえていましたか…?」
「祈りの邪魔をしたみたいで…その…」
好奇心で覗いていた時とは一変して、青ざめた顔を浮かべる二人。
彼らにとって『使徒』とは雲の上の存在だ。
神の祝福を受けた彼女は天の使いと同義であり、その気になれば町人如きの命、簡単に摘み取れる。
彼らの恐怖に気付いたのか、少女は困ったような笑みを浮かべた。
「いえ、そんな邪魔だなんて…少し悩み事をしていただけですから」
「悩み事、ですか?」
「ふふふ…これでも、年頃の少女ですから悩み事くらいありますよ?」
意外そうに呟く男に少女は冗談めかして言った。
聖女のような可憐な笑みに、男の心がざわめく。
「え、えーと、その…すいません。失礼しました…!」
「あ、おい! 待てよ!」
気恥ずかしそうにしながら男二人は教会から去っていく。
それを不思議そうに眺めながら少女は肩から提げた鞄に触れる。
その中に入っていた本を一つ取って、表紙を眺めた。
「はぁ…」
悲し気にため息をつく少女。
教会の椅子に座る物憂げなその姿は、まるで一枚の絵画のようだった。
「マナ様!」
その時、教会の扉が荒っぽく開かれ、元気な少女の声が聞こえた。
「お待たせして申し訳ありません! ですが、任務は滞りなく終わりました」
息を荒げながら教会へ駈け込んできたのは。白銀の髪を持つ少女だった。
黒い修道服に身を包んでいるが、頭巾は着けず、長い銀髪はポニーテールに纏めている。
代わりに布地に革を縫い合わせ、鎧のように改造している。
腰には革のベルトを付け、数本のナイフを仕込むなど、聖職者と盗賊を足したような恰好だ。
体型はスレンダーで蜂蜜髪の少女に比べて、やや起伏に乏しい。
「セシール。結果はどうだった?」
蜂蜜髪の少女『マナ=グラース』は小首を傾げながら尋ねる。
「異常ありません。少量の魔性を感知しましたが、悪魔の類は確認できませんでした」
白銀髪の少女『セシール=トリステス』はハキハキと答えた。
その報告を聞き、マナは安心したように息を吐く。
先程は彼らを安心させるように言ったが、この町に悪魔が存在する可能性もあったのだ。
それが杞憂であったことにマナは心から安堵した。
「これでこの町での任務も終わりですね。すぐにでも聖都に…」
言いかけて、セシールはマナが握っている物に気付いた。
大事そうに握り締める本に視線を向ける。
「マナ様! まだそんな俗な本を捨てていなかったのですか!」
「俗な本って、これ面白いのよ? タイトルは『愛の戦争』って言うんだけど、アムールとマルルーって言う美人姉妹が一人の男を取り合って…」
「存しております! ええ、存しておりますとも! 以前、勧められた時に目を通しましたが、その時はあまりの内容に悪夢を見ました!」
恥ずかしさから顔を真っ赤にしてセシールは叫んだ。
愛の戦争とは、二人の美人姉妹が一人の男を取り合う恋愛小説だが、内容はかなりエグイ。
アムールとマルルーの二人があの手この手で既成事実を作ろうとする様は、同性であってもドン引く。
尊敬するマナに勧められて読んだ純情なセシールは生々しい内容に、二度と読まないと心に刻んだ。
これは最早、禁書である。
「…はぁ、続きが気になる。妹を出し抜いて旅行に出かけたアムールはどうなってしまうのかな。やっぱり友人から買ったあの薬を…」
「聞きたくない! 聞きたくないです!?」
耳を抑えてぶんぶんと首を振るセシール。
物憂げな表情の割に、口から出る言葉は俗に塗れていた。
聖女とは、案外俗な本を好む物らしい。
「とにかくもう帰りますよ! 今から戻れば日が落ちる前に聖都につく筈です!」
「あ、折角だから書店に寄ってもいい?」
「駄目です!」
グイグイとマナの背を押すセシール。
完全に怒った様子のセシールを宥めようと、マナは口を開く。
「アア。ココニモ、イタ」
その直前に、聞き覚えのない声を聞いた。
教会の外で待ち伏せるように立っていたのは、数名の美女。
同性であっても思わず目を背けたくなるような露出度の高い服を纏った娼婦達だ。
「ムスメ。ムスメ、ダ」
どこか違和感のある声を吐きながら、娼婦達は真っ直ぐ二人を見つめた。
(この人達…?)
「マナ様、下がって下さい!」
マナを庇う様に前に出ながらセシールが叫ぶ。
セシールの眼は娼婦達が身に着けている首飾りに向いていた。
山羊の骨で出来た悪趣味な首飾りに。
「悪魔シュトリのシンボル…『悪魔崇拝者』です!」
「アア。シュトリ。シュトリサマ。ミハシラサマ…」
セシールの言葉に反応して、娼婦達は震えだす。
「サイアイ、ノ、アルジ………チカラ、ヲ」
カタカタと震える娼婦達の身体が膨張した。
皮を被るように、内側から何かが現れるように、娼婦の身体が弾ける。
「な…」
警戒してナイフを抜いたセシールが絶句する。
人の皮を脱ぎ捨てて現れたのは、二本足で立つ巨大な山羊。
黒い体毛に覆われた強靭な手足、捻じれた角を持つ怪物。
正真正銘の『悪魔』だ。
「人間が、悪魔に…? そんな、さっきまでは完全に人間だった筈…!」
「セシール! 危ない!」
マナの声が響くと同時に、悪魔の拳がセシールに襲い掛かった。
咄嗟にナイフを盾にするが、筋力が違う。
「あ、くっ…!」
弾き飛ばされ、教会の壁に叩きつけられるセシール。
痛みに呻く駆け寄ろうとするマナの前にも、別の悪魔が現れる。
「あ…」
不気味な瞳孔が横長の瞳がマナを射抜いた。
恐怖に竦むマナ目掛けて拳が振るわれる。
それは咄嗟に身を屈めたマナの肩を掠め、千切れた鞄が地面に転がった。
「マナ様、逃げて下さい!」
少し離れた所からセシールは叫んだ。
その近くには四体の悪魔が見える。
マナの前に居る者も合わせて五体。
二人で力を合わせても敵う相手ではない。
「でも…」
セシールを置いて逃げると言う考えは、一度も浮かばなかった。
使徒とは、人々を救う為に神から祝福を得た者だ。
友達一人救えなくては、何の為に神に選ばれたか分からない。
「『洗礼の章』…展開!」
発動するのは使徒に与えられた神の祝福。
人を癒し、魔を祓う力の一端。
『法術』と呼ばれる悪魔と戦う為の力だ。
マナの身体が光を放ち、肩を掠めた際に負った傷が回復していく。
「はぁ…はぁ…!」
震えそうになる身体を抑え、マナは悪魔を見つめる。
まともに悪魔と戦った経験は殆どない。
それでも、ここで戦う為に力を得たのだ。
そう決意し、護身用の短剣を取り出す。
悪魔が飛び掛かったのはそれと殆ど同時だった。
「ッ!」
予想よりも速い。
マナは向かってくる悪魔に合わせて短剣を突き出すことしか出来なかった。
黒い体毛に覆われた腕に、短剣が触れる。
パキン、とあまりにも呆気なく短剣の先が折れてしまった。
それに驚く余裕もなく、マナの身体に衝撃が走る。
軽いマナの身体は紙のように飛び、教会の中を転がっていく。
「痛ッ…」
傷はすぐに回復するが、痛みだけは消せない。
立ち上がった足が揺らぐ。
そんなマナの下へゆっくりと悪魔が近づいて来る。
(今度こそ…!)
「今の騒ぎは一体…?」
身構えたマナの耳に声が届く。
教会の奥から現れた、初老の神父。
状況を理解していない神父は首を傾げて、マナの顔を見ていた。
「ぐるァァァ!」
「駄目…!」
マナの制止の声より早く、悪魔は神父へ襲い掛かる。
キョトンとした表情で迫る悪魔を見る神父。
その首が、果実のように潰された。
「あ、あああああ…!」
凄惨な光景にマナの目の前が真っ暗になる。
救えた筈の命が失われたことに絶望する。
その隙を見逃す程、悪魔は慈悲深くなかった。
「ぐ…うううッ…!」
悪魔の蹴りがマナの腹部を貫く。
地面を転がるマナの身体から零れた血が、教会の床を汚した。
意識を失いそうな激痛に、マナの眼から涙が流れた。
戦うと決意をしていながら、手も足も出ない。
このままではセシールが、町の人々が襲われてしまうと理解しているのに何も出来ない。
使徒と呼ばれていながらマナはあまりにも無力だ。
(助け、て…)
朦朧とする意識でマナは祈った。
(私に差し出せる物なら、何だって、差し出します…だから、どうか…)
この祈りが神に届くことを必死に願う。
(皆を、助けて…)
瞬間、教会に床が青白い光を放った。
床を流れるマナの血が独りでに動き、一つの図形を描く。
円と文字を組み合わせた幾何学模様のそれは、魔法陣。
『悪魔を召喚する魔法陣』だった。
青白い雷が走り、魔法陣の中央に人影が浮かび上がる。
「―――『強欲』のセーレ。求めに応じて参上した」
聖女の祈りに応えたのは、神ではなく悪魔だった。




