第5話 ほんの三日前までの話
暴力表現多数につき、トラウマのある方は自衛してください。
夕方、梨々の制服が返却された。
血の汚れは丁寧に落とされ、青年に切られたところは、使用人の誰かが繕ってくれたらしい。
客室の鏡の前、制服を体に当て、梨々は三日前までのことを思い返している。
***
梨々は生徒会の副会長をやっていた。
会長に立候補したのだが、投票で負けてしまったのだ。
結果を即教えるよう母親に言われていたので連絡したところ、その日の夕飯は百円玉ひとつだった。
――だってあんた、勝てなかったんでしょ。情けない。
生徒会の仕事は、ほとんど先生の指示に従って動いていく。
それでも委員会の取りまとめや朝礼の準備、行事の計画など忙しい日々が続く。
その中で梨々は、先日中間テストの成績が少し落ちてしまい、それを知った母親は鼻をひとつ鳴らした。
――あんたって本当馬鹿で阿呆。何もできやしない。
家庭科の時間のことだ。
休日の食事を描くように言われ、梨々は前の日に食べた菓子パンと牛丼を描いた。
それを見た教師に連絡されたらしい母親は、帰った途端怒鳴り上げた。
――このくそ忙しいのに、あんたが余計なことしたせいで馬鹿教師にさらに時間とられたじゃないの!
テストで九十七点を取れば、百点じゃないからと破かれる。
頑張って百点を取ってくれば、追加点も取れないなんてと詰られる。
九十点以下を取りでもしてしまえば、次の日の夕飯はないも同然だ。
母親がお金を置いていかないからである。
父親も母親も、怒りながら朝出ていき、皮肉りながら夜中に帰ってきて、ばたりと倒れて寝てしまう。
小学生の頃はまだ、保護者の便りなどと向き合っていたが、高学年になる頃にはすべての支度を梨々がしていた。必要なお金はお釣りをためるか、寝た後で財布から抜いた。
仕事というのは大変なのだと、両親は繰り返し繰り返し梨々に説き、子供は勉強だけで済むんだから家事をしろと言いつけた。
それは、梨々が幼い頃からずっとだったから。
失敗して体を叩かれるのも、借りた本を読んでいたら取り上げられるのも、突然首を絞める真似をされるのも、梨々にとって当たり前のことだった。
週末になると、父親と母親は酒を飲み、大きな声でがなり合う。
一晩きりだとか、デキ婚だとか、下手くそだとか、騙されただとか、耳に触れるだけでなぜか気持ち悪くなってくることを、飽きもせず言い合って派手な音を立てる。
そして、母親に勝てない父親は、部屋に引き上げる途中で梨々の部屋に来て言うのだ。
――お前ができたせいで俺の人生はめちゃくちゃだ。みんなお前と親父のせいだ。責任をとれ。
そして最近は、とっくりと梨々の全身を眺め回し、にたりと笑って去っていく。
よく見れば顔立ちが整っている方だというのに、梨々はその歪な表情しか思い浮かべることができないでいる。
――それが、梨々にとっての常識。当然の世界。
どこの家族もそうなのだろうと、梨々は素直に思っている。
子供は親の枷であり、邪魔者なのが『普通』なのだと。
外では猫なで声で大したことないと言い、家では大きな音を立てて歪んだ顔をしていた人たち。
梨々が異世界に召喚されることで、彼らの望み通り消えることで、両親は自由になれただろうか。
それとも、梨々がこうして生きている限り、解放はないのだろうか――
***
ノックの音が三回。
我に返って返答すれば、世話役のジェイが現れる。
「リリ様、夕食のお時間です」
「今行きます」
制服を椅子にかけ、梨々はジェイの後をついて行く。
漂う食べ物のいい匂いに、彼女は給食の時間を思い出す。
席に着くと、さっそく一皿目が運ばれてくる。
「天に住まいし王たる方、慈しみと恵みに感謝します」
ベルーシャが食前の祈りを捧げ、梨々は前菜のカナッペを手にする。
無言の梨々をおいて、他三人は会話を始める。
「シェル」
「んー?」
「あなたの行ったオークション、今日一斉検挙されたそうよ」
「うわ、危なかったな」
カナッペに使われた赤いソースは、トマトに似た味がする。
土台からドゥーエの食材を使っているのだろう、当たり前の食べ物の触感だ。
「だから馬鹿な真似するなって言ったんだよ。運が良かっただけだぞ」
「参加客も大勢検挙されたそうね。召喚された子は、当局が一手に預かって、元の世界に還す算段だそうだけど――こちらはあまり期待できないわ」
「しかし増えたよなあ、オークション潰し」
「呑気に言ってんじゃねえ、お前とリリがそうだったかもしれないんだぞ」
名を呼ばれ、梨々は顔を上げる。
キュウリに似た野菜のカナッペがおいしいが、そろそろお腹がいっぱいになりそうだ。
「直近のオークションに波及する可能性は高いわ、警戒は怠らないようにしてね」
「やっとできた主だ、大事にするよ」
「そーゆーこっちゃねーだろ……」
青年は片目をつぶって見せ、少年は顔を覆う。
梨々はそっと目をそらし、運ばれてきたスープをすする。
だから彼女は、青年が小さく傷ついた様子で、笑ったのに気づかなかった。