第40話 彼はその心をまだ知らない
潰れた蛙のようなシェルの体勢に、梨々は目を瞬かせ、土下座という言葉を思い出す。
詳細は異なるが、似たような姿勢はこの世界にもあるらしい。
「主、あの、本当に申し訳なく」
「何がですか?」
「すみませんでしたあ!」
寝台の上で座り直しつつ、梨々は突然の謝罪に首を傾げる。反対にシェルがいるのは床の上だ。足が痛くないのだろうか。
顔を上げてください、とひとまず言う。
「俺、寝てる間に主を抱き込んで……」
「私が主なのですから、あなたが必要なら叶える責務があるでしょう」
「俺が主に添い寝することはあっても、主が俺と一緒に寝台に上がるのはないんだよ! あっちゃダメなの!」
「同じことじゃ――」
「違うのっ!」
違うらしい。
ごめんなさい、と思わずつぶやくと、シェルが頭を抱えてさらに潰れる。
どうすればいいのか。むしろ、どうしろというのか。
ともかく顔を上げさせなければ、と梨々が寝台から降りようとしたところで、ノックの音がした。
『リリ、いるんだろ? シェルは起きてるか?』
「ルカ様、起きてますよ」
『じゃあ執務室に連れてきてくれ。できれば急ぎでな』
それだけ言って去っていったらしい。シェルが床から起きあがる。
どうやら、お茶のお誘いではないようだ。
***
梨々が拐かされた件について詳細を知りたい、というのが、呼び出したベルーシャの要望だ。
梨々がさらわれてから起きたことを話し、シェルがその背後でどう動いたかを語る。
そして、いよいよ梨々がシェルのナイフを拾うところにさしかかる。
「シェルさんの腕からナイフが跳ね落ちて、私、渡さなきゃってすごく思って、両手でナイフを掴みました。そうしたら突然、全然知らないところにいたんです」
三百六十度、頭上から足の下まで長方形の画面に囲まれた空間を、説明するのには骨が折れた。まずこの世界には、テレビも録画もないのである。三人の中でどのような光景が広がっているのか、梨々には自信が持てないまま話は進む。
「主がナイフを握った途端、魔力が爆発的に増えていった。同時に、何かが流れ出ていく感覚があったんだ。気づいたときには、主は虚ろな目でへたり込んでいて、腕の治った俺は何もかもを忘れていた」
「話を聞く限り、記憶が消えたってよりは、そっくりそのままどこかに移動した、と言った方が正しいんだろな。どうしてかはわかんねぇが……リリはその、エイゾウ? とやらでシェルの記憶を見たんだろ?」
「はい。どこにも映ってなかったけれど、どれからもシェルさんの声がしました。結婚式で泣いてたり、壷を見てたり、小さい子にお話をねだられたり」
「……何か恥ずかしい」
「ごめんなさい、見えてしまったから」
顔を覆うシェルと、悲痛な顔で落ち込む梨々の様子に、ベルーシャが咳払いする。
「ともかく、仕組みは不明だけれど記憶の移動が起こった、そのためにシェルは魔力が解放されて白色に戻った、ということね。……でも、どこにしろ八百年を越える記憶を引き受けて、何事もないものかしら」
「リリから直に聞いたんでなきゃ、まずないって俺でも思うさ。普通の人間は、自分の記憶すら維持できずに忘れていく。他人の、それも精霊の記憶を引き受けるなら、何千人分の概念容量がいることか――」
概念容量とは、魔力を用いたものを記録し引き出せる量のことである。人は記憶を、思考を、手慣れた魔法や技術を、概念容量いっぱいに覚え、溢れると忘れていく。
要はパソコンにおけるHDDのようなもので、特に魔術師は、この容量が大きいと有利だとされている。
しかし、どれほど優秀な魔術師でも、自分の記憶を全て維持している者は限られる。まして他人の記憶を引き受けることなど、可能かどうかも不明なものだ。
かつてドゥーエにいたという〈勇者〉に協力した魔術師ならば、あるいは伝説的な魔術師リーシャ・レグラントであれば、実験を試すくらいは可能だったかもしれない。それほどのことなのだ。
「まあ、ナイフが記憶を吸った余波で幻を見た、って可能性もあるからな」
「そうね、内に取り込んだと考えるよりは、幻覚の方が納得できる」
「そんなにすごいことなんですか?」
「あぁ、リリがどこも壊れてねぇのが不思議なくらいのことだ」
「記憶の話はそこまでにしよう、先が進まない」
そうして続きが語られたので、リリは空間の中で出会った女性について話しそびれた。
「〈食らうもの〉を呼び続ける〈陣〉がある限り、こちらは防戦一方になる。だから俺は、壁に刻まれた〈陣〉を壊して、残っていた〈食らうもの〉を殲滅した。――そして主を見て、これが『自分の主』だと知ったんだ」
「知った?」
「俺は、武器に宿ってからのことをみんな忘れていたから。ただ、自分が〈精霊武器〉であることと、『主』がいることはすぐに気づいたんだ。そして、武器を取り戻そうとして――」
「……リリの手の怪我はお前のせいか?」
言いよどむシェルにルカが切り出す。帰宅したとき、梨々の手には強くぶつけたような内出血があった。犯人のつけたものかと思っていたが。
「ああ、蹴り上げた」
「シェル……!」
「そして主を――」
「あのっ、私大丈夫ですから! ルカ様に治してもらいましたし!」
「怒らなきゃダメだよ、主。俺は悪いことをしたんだから」
シェルが低く苦笑う。私なんかいいんだと梨々は言い募りたいが、言葉が見つからない。
「ともかく、ナイフを取り戻して――突然主が言ったんだ。『〈至れ〉、〈天を引き裂く〉』って」
「その辺りはよく覚えてません……」
「言われた途端に記憶がどっと押し寄せて、黒髪になっていた。後は警邏隊が立て直す前に、主を背負って逃げてきたってわけ」
それが全てだよ、とシェルは締める。
状況を把握できたからと、ベルーシャは梨々とシェルに自分の部屋に戻るよう告げ、二人は執務室を出た。
「……主」
ふいに立ち止まり、シェルの手が梨々の手を取り上げる。指先から、細かな震えが伝わってくる。
「ごめんね、護れなくて。怖い目に遭わせて、痛いことして、酷いことして、治してあげられなくて――ずっと、謝れなくて」
ごめん、と青年の姿の精霊は肩を落とす。よほど落ち込んでいるのだろう、細身の体が儚く見える。
未遂とはいえ、この年若い主を殺しかけたことは、それほど彼にとって衝撃だったのだろう。
「シェルさん」
震える手を、梨々はきゅっと握る。
「また、お出かけに連れて行ってくれますか」
私は、あなたに思い出を作ってあげられるでしょうか。
そう訊ねる梨々に、目を見開いたシェルは、顔をくしゃりと歪めて
「当然じゃんか」
と告げた。