第1話 異世界のご飯はおいしいですか?
ひゅっ、と息をのんで梨々は跳ね起きる。光は白々と、朝を迎えようとしている。
見ていたのは、二日前から続いている悪夢だ。
これで現実に見えたのが、15年暮らした自分の部屋であったなら、ただの悪夢ですませられたのに。
シュー……
カンカンカンカン……
梨々の目に入ったのは、淡い水色に小花の散った壁紙と、音を立てる鈍色の配管、小さなサイドテーブルに、白いカーテンの揺れる中くらいの出窓である。ホテルのように物がなく開放的な空間は、どこか寒々として見える。
もっとも、かつての自分の部屋だって、暖かみのあるわけではなかったけれども。
もう一度眠る気にもなれず、梨々は起き出して陶器の洗面器に水を入れる。顔をふくための布を用意しながら、ふと右手を見つめる。
ささくれもペンだこもない、新しく生やされた右手を。
二日前、梨々の右腕は切り落とされた。
それが突然だった理由も、そうしなければならなかった訳も、今の梨々は知っている。
だが、知っていることが納得できることとは言えない。
胸の中を押しつぶすような感覚は、あの時から梨々の中に巣くっている。
――別に 死んでもよかったのに
ノックの音が三回。
世話係のジェイが訪れたらしい。
「リリ様、起きていらっしゃるのですか?」
返事の代わりに梨々は扉を開ける。
黒のロングワンピースに白いエプロンをつけた、中背の女性がしゃんと立っている。
「おはようございます、ジェイさん」
「おはようございます。ジェイでよろしいんですよ、あなたはご当主のお客様なのですから」
言いながら、水をたたえた洗面器にジェイは顔をしかめる。彼女は梨々が自分で支度することをあまり好まない。
「洗顔するならお呼びください。水差しの水は飲むためのものですよ」
「ごめんなさい」
ジェイは肩をすくめてため息をつく。
世話役だからこれで済ませてくれているのだろう。自分の謝罪が余計に腹立ちを増すものらしいと、梨々は自覚している。
「お支度をいたしましょう。今日の朝食は食堂に来るようにとの当主様のご指示です」
「私、食べられない」
「珍しい食材が手に入ったので、リリ様にも試していただきたいそうですよ」
つまり人体実験か、と梨々は口に出さずにいる。
この世界で食事をとることは、梨々には大変苦行なのだ。
***
召喚、という概念は、世界を越えてあちこちに存在する。
たとえば、超常の力を与える悪魔や精霊を。
たとえば、世界を越えることで力を得る勇者や巫女を。
召喚という概念によって、未知なるものを引き出し力を得ることは、人の間で連綿と行われてきた。
しかし、その詳細は国により、世界により異なっている。
この世界では、召喚とは己に利するため、異世界の適度に弱い存在を拐かすものだった。
ひとつ眼の少女を召喚すれば、娼館の名物になる。
三対の腕を持つ子供を召喚すれば、雑用に追い立てることができる。
角をもつ四つ足の獣を召喚すれば、角を矯めて連れ回し、小金か名声でも稼げるだろう。
――そうして、飽きたら棄てればいい。
彼らは召喚オークションによって、この世界で命を買われた存在だから。
梨々もまた、この世界でオークションの舞台に召喚され、競り落とされた一人である。
ただでさえ安い値の付いていたところを、腕のない傷物だからと割り引いて購入されたらしい。
貨幣の重みで袋の底がとがるほどだったと、梨々は聞いている。
梨々の命は買われている。
そのことに何の感慨もわかないが、しかし購入者に対しては、どうしても抵抗が先立つのだ。
***
広い食堂の、長いテーブルの一席に着きながら、梨々はため息を押し殺している。
ただでさえ弱い食欲が、さらに引き下がっていくのを感じながらとる食事は、楽しみどころか味すら感じない。
この世界の食材は、梨々に対して残酷だった。
人々が当たり前に食べているものが、梨々には食べ物と思えないのだ。
口にした瞬間、粘膜中が痺れるもの。
歯にキシキシと、金属を噛んだような刺激が走るもの。
ゴムのような臭いと噛みごたえをするものもあれば、ぬるつきがひたすらに気持ち悪いものもある。
見た目は元の世界と大差ないだけに、毎度毎度そのような目に遭っていては、食欲が減退するのも無理はない。
異世界から召喚された生き物が、長生きしないとこの世界で言われるのは、こうした食事情もあるのかもしれない。
「おはよう、リリ」
「おはようございます、当主様」
栗色の髪の淑女にして当主であるベルーシャと挨拶を交わす。
「はよっす、リリ」
「おはようございます、ルカ様」
ベルーシャの隣、梨々の正面には少年の姿をした当主の剣、灰色髪のルカが座る。
そして彼の隣には、
「おっはよー」
「……」
「主、俺への挨拶は? なんで目をそらすの?!」
「シェルまた振られてやんの」
悲痛そうな表情を浮かべるのは、黒髪を房のように束ね、スーツに似た黒の上下をまとう青年。茶色がかったその瞳が淡い緑色をしていることを、梨々はよくよく知っている。
その姿を見る度に、胸の中が押しつぶされるような感覚が強くなることも。
この、シェルと呼ばれる青年の姿をした存在が、梨々の右腕を切り落とし、生やし、梨々自身を競り落とした。
そして、買った命を主と呼び、忠誠を捧げてくる。
一時しのぎの忠誠を。
「いや待て一瞬でも見たからまだマシ? むしろ進歩?」
「シェルうっさい、食事の前だぞ」
「ルカこそ言葉遣い気をつけろよ、家名が泣くぞ」
「俺は俺の自由にしゃべる許可を得てますぅー」
青年と少年が言い合う間にも、テーブルには朝食の数々が並べられていく。どれも食べる気になれない梨々がうつむいていると、目の前にスープの皿が置かれる。
まず気づくのは、かぎ慣れた匂い。
透明な汁に、象牙色のもやがゆらぐ。
店で食べる定食に、欠かさずついていたもの。
「お味噌汁……?」
「はるか西にある島国、ドゥーエからの交易品を使ったものよ。魚をゆでたスープに溶かして飲むと聞いたので、用意させてみたの」
うながされ、それぞれ匙をとって一口飲む。
干した魚からのうまみと、発酵食品のふくよかな塩味。
飲み慣れた出汁とは違うのに、たった二日離れただけなのに、少し懐かしい味がする。
「……おいしい」
つぶやきを耳にして、梨々は自分の口が動いていたことを悟る。
まあ、とベルーシャが華やいだ声を上げる。
「リリは、このスープなら食べられるのね」
「主、俺のも飲むっ?」
「口付けたもんやるな馬鹿」
盛り上がり、安堵する様子の周囲が、梨々には理解できない。
彼らには、自分を案じる理由がないはずなのに。
――昨日吐いて寝込んだのは、梨々の自業自得なのだから。